長い道のはじまり
久志とは幼馴染だ。家も隣通しだということで、幼いころの私たちは毎日のように遊んでいた。小中高と一緒で、久志との道が分かれちゃったのはお決まりのように大学の進学で、頭の良かった久志は東京の国立大学に進学をした。学部までは忘れちゃったけど、たぶん滅茶苦茶良いところだ。馬鹿な私だって知っているような大学なのだからやっぱり久志は凄かったんだなと思う。
思い返すと勉強どころかかくれんぼをやればすぐに私は見つかっちゃうし、トランプをやればかなわないし、テレビゲームだって私が何か月もかけてクリアしたソフトを二、三回プレイしただけでクリアしちゃうし、いろいろと出来が違っていた。でも気は小さくて、私が悔しくて、カっとなって、あれこれ文句をつけると、いつも黙っちゃったっけ。
私は短大にも落ちて、専門学校にも行きたくなくて、働きたくもなくて、半年ほどぶらぶらしたあとに、地元の企業に就職した。事務職とは名ばかりの雑用をやっていたら、なんか先輩が私を気に入ってくれたみたいで、付き合い始めて、彼が三十歳になったのを機に、けじめだなんだといって、結婚してくれと言ってきた。私も二十三になっちゃったけど、まだ結婚は早いかななんて思ったけど、でも周りは大学も卒業していいところに就職してよろしくやってるし、私も身を落ち着けるのもいいかななんて思っちゃったから受け入れた。
だから結婚準備で実家に帰って、ブランディング雑誌をめくっていると、チャイムが鳴って、その時うちに誰も居なくて、仕方なく私が出たら久志がそこに居てびっくりしちゃった。
「久しぶり」
なんて、照れくさそうに笑顔を浮かべてさ。なんだか変わってないな、なんて思ったけど、私が見たってわかる仕立てのいいスーツに、ブランド物のネクタイに、多分ウン十万はするようなこちらもブランド物(この前彼氏が欲しがっていたブランド)の腕時計をはめていたりして、やっぱり変わっているんだな。
「久しぶりね。どうしたのよ?」
「いやなに、たまたま通りかかったからさ」
「たまたまって」
私は笑ったしまった。なんの用事があったのやら、こんな片田舎に都会のエリート様の用事なんて思いつかないわ。でもハッとなって、隣の久志家を見た。まさかご家族にご不幸が……
すぐにそれを察したのか、久志は違うよ、といった。
「本当に用事があったんだ。それで、まあ、なんというか、夏帆は今時間はあるかな」
「そりゃまあ……」親は買い物に出かけてしばらく帰ってこないし、暇と言えば暇である。「暇だけど」
「じゃあさ、散歩にでも行かない」
「何よいきなり」
「何となくさ。学生に戻った気分で母校までぶらぶらするのも乙な物かなって」
「乙ねえ……」
確かに暇だし、それに、幼馴染とこうして顔をあわせていると何だかホッとするし、それにたまにはいいかなと思って、ちょっと時間を貰って支度をすると、玄関に鍵をかけて家を後にした。
ポニーテールにジャージ、ランニングシューズに薄化粧のラフな格好にした。いい機会だからバッチリウォーキングしてやると気合を入れた。高級スーツに身を包んだ久志とは対照的な姿のはずだ。
久志はポーっと私を見ている。「どうしたの?」と聞くと、「いいじゃん」と言ったっきり、先に歩き出した。
私の格好に気分でも害しちゃったのかなーなんて思って、回り込んで久志の顔を覗き込むと、顔を真っ赤にして目をそらしちゃって、何よ、なんて私も思って、えいえい、なんていじっていると、しまいには綺麗だよ、なんて言いだして、そんなこと言われたら、私まではずかしくなっちゃうじゃない。多分嘘じゃないかな、そうすることにする。
ずんずん大股で歩いてく久志(私に大股に感じるだけで久志にとっては普通に歩いているだけなんだろうけど)に軽く小走りについていく私。あらためて久志を見ると、こいつも随分と大きくなったものだと感心する。高校の時まで私の方が背が高かったのに、今では頭一つ久志の方が高い。それに肩幅だって。あんなに華奢だったのに、今ではスポーツマンのようにガッシリしている。久志は顔だって悪くは無いし、これだったらさぞモテるだろうななんて考えると、ちょっと複雑な感じ。私には何も関係ないのに。
狭い住宅街を抜け、土手まで出る。午前の光に散らされて、川面は針をまき散らしたように輝いている。土手には菜の花が咲き乱れ、蝶がひらひら飛んでいる。春なのだ。
ここまでくるとさすがに私も疲れてきて、少しは歩調を緩めてもらおうと黙ったままの久志に声をかけた。
「久志の勤めているところって大きな銀行でしょ。そんな所でもこんな田舎に用事があるのね」
「ああ、用事に職場は関係ないからね」
「でも今日は平日じゃない」
「だから休んだ、無断でね」
「そんなことして平気なの?」
「どうだろう。まあ、評価には確実に響くだろうね」
「どうだろうって……それが一番大事じゃない! 今からだって戻った方がいいわよ、午後には間に合うもの。絶対そうしなさいよ」
「それは価値観の問題だよ。出世が一番の人間もいれば、それいがいの物が一番の人間もいる。遠藤周作さんの言葉を借りれば、生活と人生はそれぞれ違う、どちらに重きを置くかさ」
「そんな訳の分からないこと言わないでよ。ね、戻ろう。子供じゃないんだから」
「いや、僕は子供さ、その方が都合が良かったりするんだ」
「ねえ、馬鹿なこと言わないでよ!」
「馬鹿じゃないさ」
隣町との境の橋までやってきた。渡って少し行けば高校時代の母校がある。ここからでも住宅街から顔を飛び出した学校の時計がうかがえる。
そこまで来ると久志は足を止めた。くるっと振り向いて、「好きなんだ」と言った。いきなりの言葉に私も面喰っちゃって、あわあわしていると、また久志はくるっと振り向いて歩き出す。仕方がないので私もついていく。
「ね、ねえ、好きってどういうこと?」
彼の大きな背中に向かって私は言う。
「好きなんだ」
「だからなにが好きなのよ」
「君以外に何が好きなんだよ」
返事に困っていると、久志はどんどん先に行っちゃう。だから私も小走りに久志のあとをついていく。
「ねえ、私結婚するって知ってる?」
「知ってるよ」
「結婚式に来てくれる?」
「どうかな」
「来るって言ってよ」
「行きたくないっていったら?」
「でも来てよ、私たち幼馴染じゃない」
「だからだよ」
「……ねえ、こんなの間違ってるよ……そりゃそう言ってくれるのは嬉しいけど、だけどね」
久志はいきなり足を止め振り向くと、私にキスをした。本当は駄目なのに、震える彼の唇を思うと無下はに離せなくて。どれくらいしていただろう。たぶん数秒だけど、私には数分間にも思えた。不器用なキス、純粋なキス、こんなキスは久しぶりにした。
何事もなかったように歩き出す。
「こんなのおかしいよ……駄目だよ……」
「僕にはこれしかないんだ」
「でも、私は……」
「僕は君が好きなんだよ」
「そんなこと言われたって……今さらそんなこと言われたって……」
結局橋も渡らずそのままある続け、土手の終点のまで来てしまった。
「もっと早く言ってくれれば私だって考えたんだよ」
「意気地がなかったんだ」
「だからって今さらこんなことされても困る」
「困るのは百も承知さ」
「自分勝手すぎるわよ」
「分かってる」
「こんなのキチガイ沙汰よ」
「それも分かってる」
「だって私、婚約者がいるのよ」
「だからさ。今やらなければ一生後悔すると分かっていることを、学生時代のように何もやらずに過ごすなんて、そんなことは二度とやりたくないんだよ」
「もっと早く言ってくれればこんなことにはならなかったのに……でも、やっぱりダメよ。私はもう婚約したの。その人と一緒になるの」
久志はまた私にキスをした。
「これでも駄目かな」
「ダメ……だよ」
その後、私たちは家まで戻ってきた。
「それじゃ」
久志はそれだけ言って私から離れていく。その時私は思った。彼が振り返り、私の名前を呼んだら、きっと私は彼のもとへ駆け出すだろうと。
その通り、久志は振り返り私の名を呼んだ。
私はためらわず、久志のもとへ走った。