一番伝えたいことを書かないススメ
某幼女向けアニメのステマ(?)を含みます。
なろうを読んでいてちょくちょく見かけるのが、作者さんの「このシーンを書きたくて連載を始めた」という後書きだ。比較的よくある動機なのだろう。作者さんの素顔がほんのり垣間見えるようで、読者としても楽しい。
それはそれで良いのだが、この「一番書きたかったシーン」というキーワード、これで連想するものがいくつかある。連想ゲームのようなものだが、ちょっとそれらについて書きたいと思う。
一つは半ば伝説めいた、映像業界に伝わる逸話だ。
とある若手監督が、自作の映画の編集作業をしていた。映画には決められた尺があり、それより一コマでも長いと納品できない。完成させるには、不要なカットを切り捨てなければならない。
すでに全体に鋏が入り、もうどこにも切るところがないという状況になっても、まだワンシーンほども尺が余っていた。ここからワンシーン切る? 無理だ――とその若手監督は頭を抱えていた。
そこに通りかかった巨匠監督。話を聞いた巨匠は若手にこう尋ねた。
「君がこの映画で一番撮りたかったシーンは何処?」
「ここです」
「そこを全部切りなさい」
「( ゜д゜)」
複数人から聞いた事があるので、それなりに知られた逸話らしい。が、実話かどうかは不明だ。しかし、語り伝えるだけの価値があるから語り伝えられている話ではある。
そこからさらに連想したのは、とある脚本家の講演で聞いた話だ。
「テーマは直接書いてはいけない」
「愛はテーマにならない」
そんなことを言っていた。後者は彼の持論らしく、「どこにも愛のない物語はありえないから、愛だけではテーマとして成立しない」という論旨だった。なるほどなぁ、と思ったものである。
さて、問題は前者だ。
テーマを書くなとはどういう意味か。
そして、なぜ巨匠は一番撮りたかったシーンをカットしろとアドバイスしたのか。
要するに、「それは受け手に任せろ」ということなのだ。
たとえば、友情をテーマにした小説を書くとしよう。
友情の大切さを読者に伝えたいという動機で作品を書く。しかし、登場人物に「友情は大事だぞ!」とか「友達は大切に!」とか作中で叫ばせてはいけない。
その作品を読んだあと、読者の胸の中に「ああ、友情っていいなぁ」という想いが自然に湧き上がる、そうでなければならないのだ。テーマは作者が直接作品に書くのではなく、読者が自らの心の中に描くものなのだ。
映画のエピソードもほぼ同じことを伝えていると考えて良い。巨匠がカットしろと言ったシーンがどんな内容だったのかは伝えられていないが、一番撮りたかったシーンである以上、一番観客に伝えたかった部分だったのだろう。それは別の表現をすれば、一番くどいシーンとも言える。若手監督の我意が一番詰め込まれたシーン、それをむき出しにする愚を巨匠は諌めたのである。
一番伝えたいことは直接描写せず、受け手に想起させる。
これが、作劇の極意――らしい。
好例を一つ挙げたい。小説ではなく映画の一例であるのが申し訳ないが、これが連想した三つ目だ。
タイトルは明記しないが、幼女向けアニメ、プリティーでキュアキュアなシリーズの四年目。その劇場版だ。あれはもうウン年前……いや、考えるまい。
若干ネタバレになるが、主人公たちは鏡の世界に迷い込み、そこで自分たちの鏡像のような少女たちと戦うことになる。
しかし、生まれたばかりの鏡像の少女には欠けているものがある。戦いの中で鏡の少女はそれに気付き、差し伸べられた主人公の手を取り、欠けていたものを埋め……しかし彼女は最終的に消えてしまう。大団円というにはちょっぴり哀しく切ない物語。そんな映画だった。名作である。
幼女向けのアニメである。子供にわかりやすく、むしろテーマは明確に語られている。みんながいるから強くなれる。笑顔になれる。ストレートに描写されている。
しかしそれでも、制作側は幼女たちの心にだけ浮かぶものを期待することを忘れていない。
ラストシーン。
友達になれたはずの消えてしまった少女を想い、主人公は水晶の柱の前に佇んでいる。この水晶は、消えてしまった少女のルーツだ。仲間が呼びに来て、主人公はその場を立ち去る。
ラストカット、水晶柱にゆっくりとカメラが寄っていく。フレーム内にキャラクターはいない背景オンリー。つまり、今水晶と向き合っているのは観客である幼女だ。先程までの主人公に代わって、幼女はじっと水晶を見つめることとなる。ゆっくりと、ゆっくりとカメラはトラックアップする。
観客としては、ここでなにかの応答が欲しいのだ。消えてしまった少女の残滓が、なにか語りかけて欲しいのだ。
たとえば、水晶の表面がキラリと光るとか、少女の面影がオーバーラップするとか。
しかし、光らない。面影も浮かばない。ただただ、静かにカメラは寄っていく。淋しげなインストロメンタルが終わり、おなじみの軽快なエンディングのイントロが流れ出しても、まだカメラは無言の水晶を写し続け――ついにそのままエンディングに突入して映画は終わる。
おわかりだろうか。
少女の面影は、この映画を見てくれた幼女のまぶたの裏に浮かんでいたのだ。
確信がある。この映画が一番幼女たちに伝えたかったものは、まさにその面影なのだ。消えてしまった少女の笑顔を思い起こしてね、と、間違いなくスタッフは、監督は、それを幼女たちに期待している。遠くへ行ってしまった誰かを愛おしむ想い、それが湧き上がることを期待している。だから描写しない。正しく、それを心の中に描いたのである。
これは、安易な演出に頼らないというような技術的な話ではなく、作品を作る上での姿勢の話である。筆者はここに「子供のためのものだからこそ最高のものを」という製作スタッフの心意気と、深い深い愛情を見た。この作品を見て育つ幼女たちは幸せだろうな、と思ったものである。繰り返すが、名作である。
まあ、「一番書きたかったもの」と「一番伝えたかったもの」はまた別だ。殊更にテーマを意識して書かれた作品ばかりでもない。なろう界ではあまり参考にはならないかも知れない。
それでもこの作劇の奥義、心に留めておいて損はないと思う。実践は難しいけどね……。
筆者は黄色が好きです。