Episode6 掩体壕
「四福音書、現在は存在しない宗教の概念、四人の記者により書かれた宗教指導者の言行録と思われます」
スプリングの硬いベッドで目を覚ませば、視界には緩やかにカーブする白い壁が広がり、少し離れたところでシオンの声が聞こえた。どうやらアダチは、俺が寝ている間に浅瀬の哨戒兵と合流して掩体壕まで運んでくれたらしい。
思考を加速して体感速度を相対的に遅くする加速思考を使用すると、心拍数の上昇と筋力や脳の負荷が増して、身体機能が正常に戻るまで強い睡魔に襲われる。これがリスクであり、長寿命の遺伝子操作で常時、加速思考に襲われる患者が極度の自律神経失調症症状に陥る原因だ。
「心配なのはわかるけどイブキなら大丈夫だからさ、アダチさんもこっちに来て休みな」
「でも私が何もできなかったせいで、イブキさんには負担かけてしまいました」
「アダチさんに見つめられていたら、イブキもばつが悪くて起きられないよ」
声の主はウイリアム。アダチの救援要請に駆け付けてくれた哨戒兵は、彼とバディのデビッドだろう。軍歴も近い彼らとは、市街地で鉢合わせすれば一緒に酒を飲むし、兵舎でも賭けポーカーを興じる馬が合う戦友だった。
ウイリアムとは、キルビスとバディを組む前に僅かな期間だが組んだこともある。彼は加速思考を使用した俺の症状も心得ていれば、現状に然程驚いていないだろう。
「そんな奴のことはほっておいてさ、バベルの実習生は何人に来てるのよ。兵舎に戻ったら歓迎会を開いちゃうぜ」
「実習生は六人ですが、普段から付き合いがあるのは一人だけです」
「その一人は、女子だったりする?」
「ええ、まあ」
「よしッ! じゃあ戻ったら、その娘に声かけて歓迎会ね。友達にメールしておいて」
「は、はい」
無類の女好きは、キルビスと13番ゲートの哨戒兵で双璧をなす。負傷した俺を『そんな奴』呼ばわりで、さっそく合コンの約束を取り付けている。
「こいつ、まだ起きねえかな?」
デビッドが、俺に覆い被さって顔を覗き込んだ。図体がでかく寡黙な彼だが、けっして愛想のない男ではなかった。むしろ茶目っ気のある奴で、彼の言動には憎めないところがある。
「なんだ、目が開いてるじゃねえか」
油性ペンを手にしたデビッドは、顔にラクガキでもするつもりだったようで、目が合うと残念そうに言った。
ウイリアムは新兵を口説いており、デビッドは寝ている俺に悪戯しようとしている。油断も隙もない連中だ。
しかし、そうなると誰が俺の玩鞄でワード検索している。
「なんだ、イブキは狸寝入りか?」
「べつに寝たふりをしていたわけじゃない。目が覚めたばかりで、半分夢の中だったんだ」
俺がベッドで身体を返して頬杖をつくと、ウイリアムとデビッドがアダチと向き合って椅子に座っており、その向こう側にシオンが立っていた。アップルや彼らの玩鞄は、バンカー周囲の歩哨に出かけているようだ。
無精髭を撫で回していたウイリアムは、まだ寝ぼけている俺にシャツを投げて寄越した。アサルトスーツを脱がされて下着姿の俺は、受取ったシャツに袖を通すと、上体を起こして蒲鉾型のバンカーの室内を見渡した。あれから何時間経ったのか。クモに貫かれた腹の傷にはガムテープが貼られており、剥がしてみれば傷口が完全に塞がっていた。
「穴の空いたスーツの修復には、あと数時間かかる」
「そうか。ゲートに帰還するだけなら、修復を待つ必要はない」
「まあまあ慌てなさんな、司令部から交代が来るまでバンカーで待機命令が出てる。しかしスーツの修復ナノマシンより、刺された傷の回復の方が早いとは驚きだね」
ウイリアムは『イブキの不死身伝説は健在だ』と、俺をからかっているが、そこに侮蔑の感情がないのは明らかだ。
俺たちは戦場に作られたバンカーで、後任の兵隊が到着するまで周囲を警戒しつつ休息待機らしい。浅瀬に侵入した大型の人形一体を撃退したのだから、まずまずの戦果であり、ここで休ませてもらっても罰は当たらない。
それに――
「マタイ、現在は存在しない宗教の概念、宗教指導者の言行録である四福音書の記者の一人、または共観福音書の記者の一人と思われます」
シオンは誰に問われるでもなく、ワード検索の結果を呟いていた。
考えられるのは、あの少女が玩鞄をハッキングして、自分に関連するワードを検索している。なぜなら俺の意識が覚醒したとき、最初に耳にしたのが『四福音書』についてだった。
「イブキの玩鞄は、さっきから独り言が多いんだが、情報収集でもさせているのか」
「いいや……なあウイリアム、戦場にいた正体不明の少女はどうした?」
「あの娘なら奥の営倉にぶち込んで拘束しているが、まるで電池の切れた玩具だな。目を見開いたまま、生きているんだか死んでいるんだか」
アダチは『あれから急に大人しくなりました』と、ウイリアムの説明を補足してくれた。ドークのように無差別に暴れていないのならば、一安心と言ったところだ。ただ、それが少女が同体と呼んだクモを破壊した影響だとしたら、やはり彼女はクモと同期していたドークと言うことになる。
「あの娘は、いったい何者なんだ」
「ウイリアムには、彼女がマネキンに見えるか?」
「俺には女子を辱める趣味がないんで、身体検査はアダチさんにお願いした。でも私見を言えば、普通の女子に見えるね」
俺が『アダチはどう思う?』と、少女を投獄前に身体検査した彼女に確認した。
「ドークだと思います」
「根拠は?」
「人型ドークのような外骨格が見られませんし、外見から人間の女性を疑うところがありませんでした。それにアップルで断層撮影もしましたが、彼女の体内に異物もなければ、生体補修もされていないオリジナルです」
「それでは人間だろう?」
「ええ……だから、あの子が普通の少女なら、アサルトスーツを着た私たちに匹敵する運動能力を有しているはずがないんです。前線基地の研究所で詳しく調べれば、人間じゃないと結論が出るのではないでしょうか」
外見やCT画像では、クモと同体だと言った少女を人間と疑う余地がない。しかし裸同然の恰好でキルビスのフルフェイスを指先で貫いたり、対戦車障害物の10メートルほどの高さを飛び降りて、アダチに襲いかかろうとしたり、確かに常人離れした運動能力と言わざるを得ない。
「俺はアダチさんの意見を否定するつもりはないんだけどさ、あの娘がイブキたちと交戦した記録がないんだよ」
「うん?」
「お前らがドークとかち合ってからの通話をモニターしたが、記録されていたのはイブキとクモがやりあっている会話だけだった。アダチさんの言うドラッヘン・ツェーネでの会話は、センターAIにも記録されてないんだわ」
ウイリアムの話では、俺がシオンを撤退させてから、アダチが対戦車障害物を押しのけてクモが現れたのを報告するまでの会話が、司令部のセンターAIに全く記録されていない。それどころか少女が俺に接触した瞬間から、クモとの交戦までのタイムラグもなかったらしい。
腕時計とバンカーの時計を見比べれば、俺の時計は5分ばかり進んでいた。アナログの腕時計は、兵舎の置き時計のようにネットに接続していないので、少女と会話した俺の体感時間と腕時計に時差がない。つまり5分間、世界は静止していたことになる。
「彼女と接触した時間が消失した……時間が止まっていたと言うべきかな」
ハッカーとの接触に続いて二度目の時間消失。
今度は第三者を巻き込んでおり、ローカルAIの通話記録やウイリアムたちの証言が残っていなくても、俺の妄想で片付けられる問題ではなかった。常識では考えられないが、少女との会話は静止した時間で行われている。
しかしアダチのうんざりした顔を見れば、俺が寝ている合間に彼らとの議論は出尽くしている様子だった。
「人間を人質にしたドークを見つけて、二人して気が動転したんじゃないか」
兵舎での出来事を思い出せば、シオンのローカルAIにも通信ログが残っておらず、反論しても水掛け論に決まっている。
「民間人が、どうやって戦場に入るんだ?」
ウイリアムたちは戦場で少女を見つけた俺たちが、ドークから人質を奪還したと決め付けている。しかし兵隊でもない彼女が、軍が厳重に管理しているゲートを使って戦場に潜入したとは思えない。
「ゲートは、戦場を全包囲してねえからな」
椅子の背もたれに腕を回したデビッドは、拘束している少女がゲートを迂回して、広大な游郭昇降階層の何処かから戦場に潜入したと考えたようだ。
戦場の外苑に足場を組んで守りを固めているのは、百あるゲート周辺と、そこから左右に数百㎞であり、その先に物理防壁がなく何者の残した電磁隔壁のみだった。
「前線基地には民間人の納入業者も出入りできるし、そいつらの中に、反戦主義や祖界主義の過激派を手引きする奴がいてもおかしくはねえ」
「では、彼女はテロリストか?」
「それはわかんねえ」
デビッドは首を竦めて、俺との会話を切り上げた。
少女がテログループに所属しており、ゲートを迂回して戦場に潜入した可能性はある。だとすれば、時間消失や彼女の力など説明のつかない現象も、テロリストたちが独自に得た未知の技術を応用しているのか。
停戦を主張する反戦主義者がドークとの意思疎通を図ろうと、某かの細工を施した彼女を戦場を送り込んだ。その方法がわからなくても、何者の残した未知の技術を使えば不可能ではない気がした。眉唾だが、軍司令部もドークと接触するために超能力研究に着手しているとの噂もある。
少女がテロリストだと考えれば、得心に至らなくても一応の納得がいく話だった。
「どちらにしても、ただの人間ではなさそうだ」
「俺に幼女趣味はないが、なかなか魅せられる娘ではある。あの娘は、あと5年もしたら美人になるぜ」
ウイリアムは『過激派とは嘆かわしい限りだ』と、顔を手で覆っているが、お前の緊張感のない言動の方が嘆かわしい。
少女がドークとの接触に成功したテロリストならば、帰還後に憲兵隊に引渡す必要がある。時間消失と、俺をバラバなる罪人とする理由を聞き出すならば、今をおいて他にはなさそうだ。
俺は一瞬、アダチを連れて尋問に行こうとしたが、これまでの経緯から、少女との会話で時間消失が起きるかもしれない。だから、証人としてウイリアムに声をかけた。
「ウイリアム、彼女と話したいから付き合ってくれ」
「拷問はなし子ちゃんで」
「当たり前だ」
アダチは席を立つと、自分の胸に手を当てた。
「イブキさん、私は?」
「アダチは、そのままデビッドと周囲を警戒していろ」
「私だって彼女には聞きたいことが……准尉待遇の命令でも駄目ですか」
「現場では、先輩が上官なんだろう」
「う、うう……わかりましたあ」
アダチは頬を膨らませて不貞腐れているが、正体不明の少女が拘束衣を破って襲ってくるかもしれない。新兵を尋問に突き合わせるのは、危険だとの判断もあった。
その点、アサルトスーツのフロントファスナーを上げて、量子崩壊銃を構えてついてくるウイリアムは、捕虜の扱いも心得ている。憲兵隊にも所属していた彼には、テロリストとの対人戦闘や尋問の経験もあった。普段はチャラチャラしているが、ただの女好きじゃない。
「お前は信じないだろうが、あの少女にマーキュリーやビーナスの記録が改ざんできるなら、俺との会話に秘匿性の高い情報があったと思うんだ」
「あの娘は、司令部に聞かれたくない情報を持っている。だからって、わざわざ時を止める必要はないぜ」
「時間を静止するのは手段で、目的は他にあるって話だ」
そうまでして俺に接触してきた少女だが、シオンから得た言語や知識では説明しきれない、もどかしさのようなものを感じた。
彼女が独房からシオンをハッキングしているなら、自己紹介するくらいの心積もりがあると思う。
「イブキ、あまり期待するなよ」
ウイリアムはバンカーの突き当り、営倉の電子ロックを解除しながら呟いた。そう言えば、俺にクモを倒された少女は茫然自失だった。
拘束衣に着せられていた少女は、電気の消えた暗い部屋の壁に背もたれており、扉から射し込む明かりの中に、生白い左腕を真っ直ぐ伸ばしている。攻撃の意思は感じられないが、後ろ手に捕縛していた白い拘束衣は引き千切られいた。
逃亡の恐れがあると思った俺は、背後にいたウイリアムを扉の外に押し戻して施錠するように言った。
「片腕で、上手く拘束が出来てなかったのか? いや、あれは強引に引き千切ってやがるな」
「有機ガラス樹脂の合成繊維が、オリジナルの肉体で千切れると思わない……自分の腕を平気で千切る奴だから、薬剤で肉体の潜在能力を引き出しているのかもしれない」
「薬物依存者かよ」
暗闇に目が馴れると、暗順応した視界に気怠い目で左腕を伸ばす少女の姿が映った。ウイリアムの言っていたとおり、生気を失った視線は死人のようで、手のひらを上に伸ばした腕も何かをねだるでもなかった。
しばらく見ていると、何度か瞬きした彼女が立ち上がって、背の高い俺を見上げている。俺に近付こうと足を踏み出すのだが、壁に繋がれた足枷と首輪が邪魔をして前に歩けなかった。
「イブキ、今のうちにそこを出ろ」
「もう少し様子を見よう」
監視窓から覗いていたウイリアムが、不穏な空気を察して扉を解錠したものの、俺は手で制して部屋に残った。なぜなら立ち上がった少女は、口元に微かに笑みを浮かべている。初めて見せる柔和な表情に、血の通った人間の温もりを感じた。
「イブキ様、おはようございます。お身体の具合はいかがですか」
俺の体調を気遣う少女の口調は、彼女がハッキングしていたシオンのようだった。