Episode1 実習生
ゼラチンで左眼を修復しているキルビスは、海賊のアイパッチのような黒い眼帯で兵舎テントに戻ってきた。傷病兵の彼には軍司令部から第玖捌階層の約3日間(5700時間)の休暇が与えられて上機嫌なのだが、ここが祖階層の地球なら240日間相当も相棒に戦線離脱される俺はどうなる。
戦場での任務は二人一組が原則であれば、俺には負傷したキルビスの交代要員が充てがわれる。期限付きのバティには、相棒を亡くした兵隊か、初陣の新兵と相場が決まっているので気が重い。相方を亡くした兵隊と3日間も組んで情が移れば離れがたくなるし、実戦経験のない新兵だったら、バックアップする俺の身が持たない。
「まあまあ、たった3日じゃないか」
「キルビスは良いよ。どうせ祖階層の3日間(72時間)で左眼が馴染めば、あとは長期休暇を満喫するんだからな」
生体補修部品は、祖階層の3日間で違和感や傷口が消えてしまう。だから第玖捌階層の3日間は、キルビスにとって手厚すぎる療養期間なのだが、司令部は傷病者に3日以上の休業補償するのが軍規なので仕方がない。
生体補修部品による療養期間ついて軍規は、療養期間を補償するものか、任地で過ごす休業を補償するものか、兵隊の加入する労働組合と司令部が協議した結果、労働組合の主張『任地で過ごす休暇を補償する』が採用されたのだから、組合員の俺に文句はない。
過酷な労働環境なのだから、休業補償が手厚いに越したことはなかった。
「お前もオーバーワークで、休暇をもらったんだろう? これから市街地に移動して酒でも飲もうぜ」
キルビスはジャケットを肩に羽織って、不貞腐れる俺を手招きした。システム区画の第玖捌階層には、上部階層に移動するための第玖玖游郭昇降階層の周辺に戦場で戦う大勢の兵隊がいて、俺たち兵隊の財布を当てにして一般人も集まって市街地『従軍都市』を作る。
ただ新天地と違ってホログラムの空がないシステム区画の市街地は、コンクリートの打ちっぱなしの高い天井にスクリーンを広げて、照明の調光で簡易的に昼夜を演出していた。また無機質なリノリウムの床には石畳が敷かれており、石造りの街並みが再現されている。
俺たちがバスで市街地に到着したとき、天幕にオレンジ色の照明が反射していた。従軍市民の作る市街地は、一日のサイクルを190時間に設定されている。これは第伍〇階層で発見した何者の残した未知の技術により、人間が一日のサイクルを190時間として寿命を8倍に伸ばしたからだ。また睡眠が30時間ほどしか必要ないため、天幕の昼夜設定時間は半々ではなく8:2である。
今は照明が暗くなっており、この市街地では夜と言うことだ。
俺とキルビスは馴染みのパブに徒歩で向かって、オープンデッキの席に着いてビールを注文した。周囲の客も軍服を着ていれば、見知った仲間も数人いる。
「お前さんは馬鹿だねえ。祖階層アースを基準に何でも換算するから、たった3日の別れが堪えられないんだよ。一日を24時間で生きてる連中と、俺たちの時間の概念が同じなわけがないよ」
俺は『時間感覚は同じだろう』と、ビールジョッキを片手に力説するキルビスに言い返した。しかし戦友の考えは多数派で、逐一祖階層の時間に置き換えて考えることに意味はない。そもそも俺は、地球と呼ばれる祖階層で暮らしたこともなければ行ったことすらない。
20階層毎に存在する陸地や海のある地殻は、何者が地球に暮らす人間に与えた偽情報の名残りで、0階層『アース』、20階層『マーズ』、40階層『ジュピター』、60階層『サターン』、80階層『ウラヌス』と、太陽系の惑星名が付けられた。それぞれ地殻の空であるホログラムに映し出される一日のサイクルは地殻毎に異なり、その法則は24時間をマーズ以降の地殻番号(X)で自乗して10のX-1の自乗を除算している。
2番目の地殻マーズならば【24²÷10¹=57.6】で、一日のサイクルは57.6時間である。ここから一番近い80階層ウラヌスでは、一日796.3時間【24の5乗の10,000分の1】となっている。だからキルビスは、祖階層である地球の24時間を基準にして、時間の概念を固定する俺に『ナンセンス』だと言う。
「威吹みたいに24時間を基準にしているのは、一部の祖界主義者に騙されて、アースの空には本物の宇宙があると信じてる地球人くらいだよ。もしくはマーズやジュピターに暮らしている自然主義者の火星人と木星人かな……ナチュラリストの連中は長寿命の遺伝子操作を嫌っている」
地球には『祖界主義者』と呼ばれる一部の熱狂的な何者崇拝者がいて、上部階層に移住した人間との交流を断って、何者の作った偽りの世界に固執している。このため祖階層アースに暮らしている大勢の地球人は、多重階層世界の真実を知らずに、自分たちの見上げる空には無限の宇宙が広がっていると、今でも疑わないらしい。
また20階層マーズで暮らしている火星人や、40階層ジュピターの木星人には、遺伝子操作を嫌って地球人のように短命で生きるナチュラリストがいる。
俺は当然、祖界主義者でもナチュラリストでもない。
そもそも60階層サターン以降の上部階層の移住者または労働者には、長寿命の遺伝子操作が義務付けられているし、遺伝子操作された両親の子供は、生まれ持って一日のサイクルが190時間である。
長寿命の遺伝子操作技術が発見された第伍〇階層より上部階層では、50階層を境にして一日190時間との時間の概念が支配的だった。
「キルビスの言うとおり一日190時間だとしても、寝て起きれば完治する左眼の療養期間が、30日以上なのが納得出来ないね」
「軍の休業補償は、軍規で『生体補修部品が馴染むまで3日間以上を与えること』と決まっているんだ」
「俺を祖界主義者扱いしたくせに、都合よく因習にとらわれるんだな」
「いやいや、威吹には『祖界かぶれ』になるなと忠告しただけだよ。俺との別れを惜しむ気持ちは有難いけど、俺は短い人生を楽しみたいわけよ」
短い人生なのか。
キルビスが何歳か聞いたことはないが、俺たちの平均寿命は650歳。それも未知の技術による長寿命の遺伝子操作で、祖階層と同等に成長する肉体年齢は、死ぬまでピークを維持して老いることがない。脳細胞のアポトーシスさえ克服できれば不老不死も夢じゃないと、何処かの学者が言っているくらいだ。
そんな気の遠くなる長い時間をドークとの戦闘だけに費やすのに、辟易していると言うのならば同意する。
「そんなことより、バスでした夢の話の続きを聞かせろよ?」
キルビスは、俺の空いたグラスを見て指を鳴らした。
夢の話とは、俺の玩鞄シオンがドークを名乗るハッカーにハッキングされたことだ。玩鞄の不穏な言葉に目を覚ました俺が、会話を終えて時計を見ても1分も時間が経過してなかったのだから、あれは夢だと考えることにした。
もちろん俺の誤認も疑われたので、シオンには通信ログを確認させたし、司令部のセンターAI『マーキュリー』にも問い合わせた。
しかしシオンの通信ログには何も残っていなかったし、マーキュリーの回答も、玩鞄のローカルAI『ビーナス』とネット接続が遮断された事実はなかった。
したがってハッカーとの会話は、俺の妄想の産物なのだ。
「シオンをハッキングしたドークが言うには、多重階層の世界は二分法において無限に続くらしい」
「多重階層世界は、どう見ても人工建造物なんだから無限ってことはないだろう? どんな高いビルでも、登り詰めれば屋上に出る」
「二分法のパラドックスというのは、ゴールするにはゴールとスタートを等分した中間地点を通過しなければならないが、中間地点を通過したとき、ゴールと中間地点を等分した新たな中間地点を通過しなければならない。これを無限に繰り返せば、走者は限りなくゴールに近付けても、永遠にゴール出来ないと言う矛盾なんだ」
「思考実験か……聞いたことはあるけど、この先も上部階層が無限に続く可能性があっても、現実として無限のわけがない。理論上の走者が中間地点を無限に通過する可能性があっても、現実の走者は足を止めなければ目標のゴールテープを切る」
「俺だってわかっている。100階層にあるだろう新天地ネプチューンをゴールとするなら、人間は何度も中間地点を設定してきた。でも第佰階層の空にも宇宙がなく、また第佰壱游郭昇降階層があったら? そうした漠然とした不安で、辻褄の合わない夢を見たんだろう」
「威吹が夢だとする根拠は、会話が始まる時間と終わった時間が同じだったから?」
「ああ。ハッカーとの会話は、シオンのローカルAIにも司令部のセンターAIにも記録されてなかった」
キルビスは『夢なんてそんなもんか』と、ウエイトレスが運んできたビールジョッキと引換えに、彼の玩鞄サンディに自分の銀行口座からの支払いを命じた。
「キルビス様は療養期間なので、飲酒を控えるように司令部より通知が来ています」
「あ、ああ……サンディ。これは戦場で命を救ってくれた威吹に奢る酒代だと、司令部のマーキュリーに報告しておいてくれよ」
「わかりました」
キルビスの玩鞄サンディは四足の犬型で、胴体部がアタッシュケースのように開いて予備蓄電弾倉などの輸送が出来る。機能的には人型のシオン同様に、玩鞄サンディは戦場での荷物運び、司令部との通信、先程のように店での支払いなど情報端末として利用できる。
犬型は両手が使える汎用性の高い人型に比べると、運用の幅が狭いものの、安定した四足歩行で悪路でも確実に所有者を追尾してくる。安定性の点では、犬型の玩鞄に軍配があがる。
「イブキ様も、お酒を飲みすぎないでください」
「シオン、ありがとう」
「どういたしまして」
体調を気遣うシオンの黒い板を撫でた俺は、黒いワンピースの裾を照れくさそうに握る彼女の仕草が、はにかんで見えて愛嬌があり可愛いと思う。
同じ玩鞄でも人型のローカルAIの方が柔軟性が育つのは、人間同士のようなコミュニケーションが取りやすいからだろうか。
そんなことを考えながら、足元にいるサンディの背中を撫でるキルビスを見ていると、まるで本物の犬と飼い主のような関係性だと思う。
「今の話を夢だと否定するには、いくつかの論理的な矛盾があります」
俺と背中合わせの椅子に座っていた女が立ち上がり、ハッカーとの会話が夢じゃないと否定しているようだ。他人の会話に勝手に聞き耳を立てておいて、それを頭ごなしに否定するとは、ずいぶんと厚顔無恥な出歯亀だ。
「夢の話に矛盾があっても、他人のあんたに指摘されたくないね」
「いいえ。私はキルビスさんの交代要員なので、イブキさんとは他人じゃありません」
「うん?」
俺が振り向けば、士官候補生の白い制服を着た少女が立っていた。キルビスの交代要員だと名乗った年端のいかない少女は、指揮官養成学校『バベル』の女生徒らしい。
「あ、ごめん。彼女に威吹を紹介するように頼まれたので、ここで待ち合わせしてたんだよ。自分の相棒がどんな奴か、俺から聞きたかったそうだ」
キルビスは後頭部を掻きあげながら、居丈高な態度の少女に席を引いて頭を下げた。彼女は80階層ウラヌスにある指揮官養成学校戦術学科の士官候補生で、卒業後の司令部勤務を前にして戦場に派遣されてきた実習生だった。
「どうも、イブキさんのバディになるアダチと申します。キルビスさんが到着後、私の玩鞄アップルに連絡してくださると言うので、挨拶が遅れてしまいました」
「だから謝っているじゃないか。酒の席で、あんまり責めるなよ」
アダチの背後には、シオンより背の高い人型の玩鞄が立っている。軍服を着てライオットシールドを手にした玩鞄がアップルだとすれば、戦場で遠距離攻撃から所有者を守る噂の新型玩鞄なのだろう。司令部が実習生に新型玩鞄を支給したのは、彼女の戦果より生還を期待している証拠だ。
「キルビスさんは負傷していると聞きましたが、そうは見えません。ですが貴方が負傷したおかげで、希望するイブキさんとの実習に配属されたので文句はありません」
ショートボブの髪を手で耳にかけたアダチは、少し吊り上がった大きな目で俺の顔を覗き込んだ。
「お、威吹! こんなピチピチの可愛子ちゃんが、お前との実習を希望してたんだってさ。アダチちゃんと、戦場や兵舎でいちゃいちゃ出来るなんて羨ましいなあ」
「キルビス、こんな見た目でも彼女の中身は300歳のクソババアかもしれない。顔や身体も、オリジナルか疑わしい」
「年増でも、美容整形でも良いじゃないか。この世の女は所詮、ロリババアの整形美人しかいないんだぜ。何にせよ、こんな綺麗なアダチちゃんに指名されるなんて羨ましい」
アダチが指揮官養成学校バベルの生徒で、戦場が未体験の実習生であれば見た目通りの年齢なのだろう。それに稚さが残る容姿がオリジナルなのも、整形された既製品にはないパーソナリティを感じればわかる。
軍司令部のあるウラヌス出身の天王星人ならば、両親は司令部勤務の制服組、現場の兵隊に物怖じしない鼻っ柱の強さも、そんなエリート家庭に育った令嬢ゆえの天性だろう。
しかし他人の家に土足で上がるような言動に、俺だって嫌味の一つも返したい。
「な、何を言うんですか!? 私は見た目どおり標準時間で十八歳です! 美容整形もしてません。疑うなら認識票を提示しましょうか」
「いやあ、威吹はアダチちゃんをからかっただけだよ」
「そうだ」
「失礼な人たちですね」
祖階層一日24時間で計算して十八歳なら、キルビスの言っていた一日190時間で換算すれば、アダチは二歳半の赤ん坊だ。しかし彼女の華奢でスレンダーでありながら、それでも女性らしく発育したボディラインを見れば、俺には二歳半の赤ん坊とは思えない。
そんなことを口にすれば、また『祖界かぶれ』と言われそうだ。
「べつに、イブキさんの容姿に惚れこんだわけでもありません」
「では、俺との実習を希望した理由は?」
「ええ。私の卒業論文のテーマは、全身を生体補修部品で強化したサイボーグの実戦投入なんです。イブキさんは幼い頃の事故で、脳以外の全身が生体補修部品で構成されたと伺っています。負傷部位以外の生体補修は法律で禁止されていますし、全身に補修が必要な負傷兵が帰還することも滅多にありません。つまりイブキさんは、私の研究テーマに必須なユニークなのです」
「俺をサンプルに戦場での戦いぶりを観察したい……どちらが失礼な奴なんだ」
「いいえ。イブキさんは、サンプルではなくユニークです」
「俺は特異な見本、被験体には変わりない」
アダチは『そうですか?』と、悪びれずに答える。
戦術学科の彼女は、サイボーグ計画を推進して膠着する戦況を打破出来ると本気で考えている。だから不慮の事故とはいえ、合法的に全身を紛い物に置き換えた俺の身体に異なるい感情があっても、けっして興味本位の色眼鏡で見ていないらしい。
でも考えてほしいのは、触覚が麻痺して痛覚を失った紛い物の肉体、味覚がなくアルコールによる酩酊しか味わうことが出来ない脳、人間としての感受性を失った紛い物の身体で、人間らしさを演じて生きるのは想像を絶する苦悩がある。
俺の身体は未知の技術の結晶であり、人間を演じている人間ではない何かだと考えていた。
「イブキ先輩、よろしくお願いします」
「ようこそ地獄へ」
俺は差し出されたアダチの手を力強く握り返した。
全身が紛い物の俺は疎外感の中で、人間としての拠り所を戦場に見出している。相棒となる無神経な少女は、そんな俺の心に土足で踏み入ってきた。
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