Episode12 操り人形
アダチはシオンをハッキングしてきたハッカーが何者ならば、ドラマルクの仮説を受け容れて時間消失が有り得ると納得したようだ。しかし時間消失と玩鞄のハッキングは通常、不可能とされている現象なので、俺が夢だったと割り切ることに不合理はない。どうして彼女は初めて会ったとき、夢だと割り切っていた俺に『論理的な矛盾があります』と食って掛かってきたのか。
アダチは、そもそもドラマルクの仮説を聞くまで、上部階層の時間が遅れると考えていなかったはずだ。だから彼女は別の切り口から、俺の考えを否定したことになる。
「イブキ先輩の加速思考の症状は、戦地入りする前から聞いていました。ハッカーとの会話が加速思考で行われていれば、接触していた時間が間延びしてもおかしくありません」
俺はスラム街の図書館から兵舎に戻るとき、今までの疑問をアダチにぶつけてみた。彼女はドラマルクとの会話で、ハッカーが何者の可能性を指摘されるまで、加速思考での会話だと思っていたらしい。
「相手が加速思考だと、コミュニケーション速度が同調する傾向にある。ただ、それはVR空間など思考ネットワークを媒介した場合だ」
「バベルでは両者が加速思考の場合、情報が瞬時に伝達する症例を見ています。それにイブキさんが会話したのがシオンなら、会話はVRのブリーフィングルームで行われたかもしれないでしょう?」
VR空間での思考ネットワークならば、加速思考で瞬時に会話が成立するかもしれない。物理的な会話ではない思考ネットワークならば、単純な情報伝達が瞬時に可能である。
アダチは俺とキルビスの会話を立ち聞きしていただけで、ハッキングされた状況を把握していなかった。彼女は、時間消失がシオンを通じたVR空間の出来事と誤解していたようだ。
「俺は寝起きでヘルメットを着けていなかったし、裸眼だったからARの出来事ですらなかった」
「私自身が体験した今となっては、そういう次元の問題ではないと理解しています。カノンをドラッヘン・ツェーネで見かけてから、クモに襲われるまでの時間消失は加速思考で説明が出来ません」
俺が掩体壕で寝ている間、アダチはウイリアムとデビッドに時間消失を説明していた。彼らには人質を取った人形と交戦して気が動転したと思われてしまったが、時間消失に立ち会った彼女は現実だと実感したらしい。
「いくつかと言っていたんだから、他にも夢を否定する理由があるだろう?」
「ええ、まあハッキングでなければ、マーキュリーとビーナスのネットワークを切断しなくても通信ログが残りません……でも今更って感じですよね」
「光学通信の通信ログは記録されないが、室内には俺とシオンしかいなかった」
「ハッキングに見せかけるために、相手が部屋に隠れていたと考えたんです」
「診療所のモニカには報告しなかったが、あれはハッキングで間違いない。カノンは何者のネットワークを利用して、他の玩鞄を遠隔操作できる……できたと言うべきかな」
アダチはハッキングではなく、玩鞄を経由した単なるネットワーク通信だと考えていた。戦場以外では軍司令部の玩鞄によるプライベートの盗聴が禁止されており、お互いにフルフェイスを被って玩鞄が視界にさえいれば、光学通信で記録を残さず会話が出来る。
彼女の言うとおり加速思考を使ったVR空間での会話、ハッキングではなくシオンを経由した単なる光学通信であれば、夢ではなかったとの理屈が通る。
加速思考を使ったネットワーク通信ならば、状況を再現することが出来るからだ。
「だって本当に玩鞄がハッキングされていたなら、センターAIを経由しなければ不可能です。ローカルAIは基本、マーキュリーとの通信が落ちれば起動しません」
「時間消失が、シオンがハッキングされた後だったとしたら?」
「それではビーナスが、オンラインでハッキングされたことになります。イブキ先輩は、軍司令部の管理下にあるマーキュリーにセキュリティホールがあると思います?」
「マーキュリーは玩鞄のAIだけではなく、この世界の通信インフラの要だ。まかり間違っても、セキュリティに不備はないだろう」
「だから私は、玩鞄のハッキングじゃなくて光学通信だったと考えたんです」
俺は『システムにはバックドアがある』と、カノンはセキュリティを突破したのではなく、予めシステムに設けられたバックドアがあると考えた。
感受性パロット症候群の患者が、何者の精神波動ネットワークから知識を得られるのならば、ハッキングが足跡を残さない正規ルートで行われた可能性が高い。もちろんバックドアを仕掛けたのは、未知の技術である精神波動ネットワークを残した何者である。
「では通信ログの件は?」
「俺とシオンだけが停止した時間にいたのなら、ウラヌスのセンターAIが通信の途絶を認識できなくても不思議じゃない。時間が止まっている間は、センターAIもローカルAIも通信不能だと認識が出来ないからな」
俺は『ドラマルクの言葉を信じるなら』と、アダチが誤解しないように付け加えた。俺と接触してきたハッカーが、限りなく時間の静止した上部階層にいる何者だとするドラマルクの仮説は間違っている気がした。
アダチはドラマルクの仮説に同意しているので、自分の意見を引っ込めてしまった。彼の仮説を聞いた俺も当然、接触してきた正体不明のハッカーが、何者だと同意していると思っていたようだ。
「でもハッカーが、何者でなければ誰なんですか。カノンはあのとき、ドークと同調していたんでしょう?」
「俺は、会話の内容からクモだったと思う」
「知性のないドークが、カノンにハッキングを命令したんですか……そんなの信じられません」
俺は首を横に振る。
俺だって、白痴のドークにハッキングなんて高度な概念が存在するとは考えていない。シオンをハッキングしたのは、カノンの意思だったと思う。彼女はクモや玩鞄と同調しているが、自我がないとは言っていないし、そうは思わない。少女の魂が他者と混ざり合い不可分だとすれば、同時にクモの魂も彼女と不可分だったはずだ。
顕在化したクモの潜在意識には、彼女も存在している。ただ、それを別々に切り分けられなかっただけだ。
「カノンが巫女だとすれば、クモを破壊するまで彼女自身もクモだった。人間に上部階層を侵略する意図を聞いてきたのは、昇降機を守る人形だとしたら辻褄が合う」
「人間が新天地を侵略ですか……游郭昇降階層を離れないドークの立場なら、私たちは侵略者なんでしょう。でも人間に呼びかけに応じなかった彼らが、なんでカノンを使って先輩に問いかけてきたんですか?」
「クモは手足のようにカノンも自分の一部だったので、彼女を利用したとは考えていないだろうな」
「え?」
人間は当初から、問答無用にドークを破壊していたわけじゃない。あらゆる手段を用いて停戦を呼びかけており、戦場に人型のマネキンが現れたときは、あちらにも人間と意思疎通や交流の意図があると思われた。
結局はオメン、クモ、マネキンと会敵する連中の容姿が変わっても、彼らとは対話ができず億年単位で戦争状態が継続されている。敵に感情や理性を司る器官がなければ、昇降機の守護者は人殺しをプログラムされたキラーマシーンで知性がない。それが定説であればアダチの言うとおり、俺と接触してきたクモの背後には知性を持った何者がいる。
しかし再び戦場で会ったカノンは、自分の行動に第三者の介入がないと言っていた。つまりクモと同期していた少女は、クモの意思に従って俺に問いかけたことになる。あるいは、自分をドークと信じる彼女の意思かもしれない。
「モニカが口にした『巫女』を検索してみれば、カノンはスピリチュアル・コンダクターらしい。精神波動を指揮する者、または乗客を導く添乗員。この場合は、後者の意味だと思う」
「先輩は、巫女がドークや玩鞄の代弁者にもなると言うんですか」
「カノンの人間に向けた殺意や疑問は、何者の意思だと思わないね。クモの言動を通訳したのが彼女だとしても、それが何者の意思だったとは限らない」
「先輩とクモの接触をお膳立てしたカノンには、自我があると考えているんですね」
「その領域を他者と共有しているだけで、カノンの介在がなければ人殺しの道具は葛藤しない。彼女が介在したから、クモの疑問が俺たちに見えるように顕在化した。ただ――」
俺は言葉尻を濁すと、町外れのバス停に停まったバスに乗り込んだ。市街地を離れたバスの乗客は俺たちだけだったが、アダチは話の続きを聞こうと三方シートに詰めて座る。座席に座らない玩鞄とカノンは、俺と彼女を見下ろすように吊り革に掴まっていた。
これは俺の穿った見方だが、目の前に立つ少女の中には確立したアイデンティティが存在しており、それを顕在化する方法を模索している。だから言葉を持たないドークと同調しつつも、シオンをハッキングして通訳を試みた。
俺が話していたのはクモだったが、俺との仲立ちを買って出たのは少女の意思であり、そこに何者の命令や意思はない。なぜなら少女は、四福音書に規定された行動に制限がないと言った。俺が彼女に自我があると確信したのは、この一言だけであり、俺と接触してきたのが何者だったと言う、ドラマルクの仮説に頷けない点だ。
「俺との接触がカノンの意思だったのか、クモの意思だったのか。どちらにしても、今の彼女からは聞き出しようがない」
「カノンが自分の言葉で語れるようになれば、その点を問うことが可能なんですよね」
「クモを破壊した後、カノンは存在証明のためにシオンを使ってワード検索をしていた。顕在化していたのがクモの自我でも、潜在意識の彼女が手助けしていた証拠だ」
「そのとおりですね。カノンが人間として肉体の主導権を取り戻せれば、これまでの出来事を説明してくれますね」
アダチは『でも先輩』と、声を低くして俺の注意を引いた。
「その四福音書を書いたのが何者だったら、やっぱりカノンの行動は何者に操られていることになりませんか。ドラマルクさんの仮説は、大きく間違っていないと思います」
何者の残した偽の概念こそ唯一無二の真理としている何者崇拝者や、世界をあるがままに受け容れるナチュラリストの連中も、行動規範には何者が直接介在していない。カノンが『私とアレの心は、信仰をもって神に帰依しています』と言っていたが、ドラマルクの仮説では何者と神が同義である。
カノンには自我があるものの、それは何者の意思に他ならない。四福音書が行動規範で、それを書いたのが何者だとすれば、アダチの言い分に理がある。
「私は、ここで失礼します」
「今日は、買い物に付き合ってもらって悪かったな」
「いいえ。私の買い物もありましたので……でも次の休暇は、この埋め合わせをしてくださいね」
アダチは兵舎手前のバス停で降りるとき、アップルに持たせた荷物から手頃な箱を受取った。
「これは、私からカノンにプレゼントします」
「うん?」
「スタンガンの首輪は、町中で目立っていました。だから、これは首を隠すスカーフです」
カノンはシオンに同期しており、モニカの説明では俺とシオンのエンゲージメントがある限り、彼女が逃走を企てることはない。専門医を自称する心療内科医と、戦場統括官のコーラス少将が太鼓判を押していれば、彼女が逃走したところで俺の責任はない。
それでも深夜に寝首を掻かれるのは御免だから、スタンガン付きの首輪を外さなかった。無表情でキルビスの左眼を抉った光景が、頭にちらついて気が許せない。
「俺は気が利かないから、こうした気遣いは助かる」
アダチは『本当ですよ』と、悪戯に笑ってバスのステップを駆け下りる。俺が横目に車窓を眺めれば、アップルを小走りに追いかける彼女が振り返り、はにかんだまま会釈した。
俺は箱からオレンジ色のスカーフを取り出すと、カノンの首輪が見えないように巻いてやる。アダチの言うとおり、首輪をした黒いワンピースの少女を連れ歩いたのは、奴隷じゃあるまいし配慮がなさ過ぎた。
カノンは横に立っているシオンと首元を見比べていたので、アダチの座っていた座席に座らせる。いくら少女が玩鞄と同期していても、その役割が玩鞄と同じでも人間だ。
「イブキ様、玩鞄の座席使用はマナー違反です」
「カノンは人間で、鞄や荷物じゃないんだ」
「私は人間では――」
「カノンは、俺と同じ特異な存在だ。いつまでも、シオンの行動を真似する必要はない」
「私は、シオンの真似をしているわけではありません。イブキ様は、手や脚を別個体と認識しませんよね」
カノンが、無意識に口走った台詞には聞き覚えがある。クモと同体だと言った少女が、俺に聞かせた例え話と同じだった。台詞の同一性は、彼女に自我が芽生えている証拠ではないのか。
少女は生まれたままのオリジナルの肉体を持ちながら、心と身体が乖離している。彼女の心は何者の残したネットワークに囚われているが、消滅したわけじゃない。
「俺は紛い物の身体になってから、常に人間を演じている。この手も脚も離人感覚が激しくて、俺の本質は死んだ俺の身体を操る傀儡師じゃないかと不安になる。俺は手や脚だけじゃなく、全身が別物だと認識しているよ」
「イブキ様、それが人間?」
「自分の手や脚を感じられるカノンは、離人感に悩む俺なんかより人間らしい」
俺が膝に置いた手を上に向けると、カノンは冷たい手で覆い隠して握りしめる。玩鞄は所有者が不安や動揺を口にしたとき、慰めるようにプログラムされているのだろうか。
それとも――
「カノン、今は理解できなくて良い。これからは、俺の思考や言動をトレースして人間になるんだ」
「命令ですか」
「ああ。人間を演じているうちに、自分は人間なんだと自覚する。操り人形だって人間を演じていれば、いつか傀儡師を必要としなくなる。子供の俺に出来たことが、お前に出来ない道理はない」
カノンは俺の手を握りながら、しばらく首を傾げて悩んでいる。シオンたち玩鞄のローカルAIも人間を演じていれば、言葉の意味を理解するのに手間取っている様子だった。





