Orphan Wolf
多重階層世界には、宇宙の概念がありません。最下層である地球【租階層】、その空には上部階層の底部に映し出された偽の空があり、その上部階層にも20階層毎に偽の空があります。
卵の殻を破っても、破っても、そこは卵の中です。多重階層世界【卵の殻】の外に宇宙【世界】があるのか、主人公たち人類は何もわからないまま、上部階層を開拓して最上階【卵の殻の外】を目指しています。
人類は過去6億5千万年間、人形【ドーク】と呼ばれる敵と戦いながら、悪夢のような多重階層世界の最上階を目指しています。現在は98階層まで開拓、99階層の人形を倒せば、研究者から最上階と言われている100階層【ネプチューン】に到達するのですが……
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https://youtu.be/_BMPxlhR4IU
千切れた腕をガムテープで繋ぎ止めて、砕けた歯牙をプラスチックで再生する。抉れた肉塊を粘土で穴埋めすれば、骨はカーボンチューブに入れ替えた。そうして生体補修部品を継ぎ当てた身体は、三日で違和感が消えて繋ぎ目も見えなくなる。
「ようはさ、俺たち兵隊の身体は頭蓋内腔に収まる1.5㎏ほどの脳だけ守れば、あとは幾らでも替えが利くんだよ」
戦闘で失った眼球の代わりにゼラチンを流し込んでいるキルビスは、敵の刺突が数センチ上方だったら、替えが利かない脳を損傷するとわかっていたのだろうか。
俺とキルビスは数時間前、第玖玖游廓昇降階層で魂のない人形と交戦していたが、量子崩壊銃の蓄電弾倉の予備がなくなるのを見計らって撤退した。
ドークは蜘蛛のように地を這う多足歩行の者、人間のように立ち上がり銃や剣を構える者、壁や床と一体化した自動砲台のような者、その外見も役割も様々あるが、皆一様にして人間の顔を持ち合わせている。
フルフェイスを被る戦友の左眼を尖った爪で貫いたドークは、球体関節を襤褸切れで隠した『マネキン』と呼ばれる人型だった。幼い少女の顔をしたマネキンは、俺たちの注意を逸らすために人間に擬態しているつもりだろうが、未開の游郭昇降階層に一般人の先客がいるはずがない。
俺は負傷したキルビスの襟元を掴んで背後に引き倒すと、マネキンの腕を取って鳩尾を蹴り上げた。軽い身体を宙に浮かせた彼女は、低い天井に背中を強打して吐血する。
「うッ」
少女は苦悶の表情で短い呻き声を漏らしたが、俺は細腕を握ったまま容赦なく地面に叩きつけた。胸部から地面にバウンドした彼女は、俺から距離を取るために右腕を切り離して後方に飛び退る。
キルビスが電磁隔壁の向こうに敗走したのを確認した俺は、首を傾げて見送るマネキンの遠く背後で、多足歩行のドークが戦場に倒れた兵隊に伸し掛かり、大口を開けて捕食しているのを見た。
人形たちは、俺たち兵隊を貪り食う。その理由は解明されてないが、そうして体内に取り込んだ人間を有機素体に使って、連中は欠損した部位を補修したり、新たな仲間を増やしているらしい。俺たち人間は、人形にとって生体補修部品と同義だった。
その仮説が真実なら、俺たちは互いに身体を奪い合って殺し合いに興じていることになる。なぜなら俺たち兵隊に使われる生体補修部品は、ドークたちが行く手を阻む上部階層の技術を得て作られているからだ。生体補修部品は、最下の祖階層から第玖捌階層までに手にした未知の技術により開発されていた。
俺たち人間もドークも、身体を構成する部品を取り合って殺し合いを続けている。
「オマエハ、ゼロテノバラバ」
腕の千切れた少女のマネキンは、俺を追走して電磁隔壁を飛び越えた玩鞄に何やら問いかけたが、そいつは人間のなりをしているが荷物運びのロボットだ。お前たち人形と同じで、戦闘支援の玩鞄に魂はない。
そして人間を見れば見境なく襲ってくる人形たちだが、電磁隔壁で囲われた昇降階層を出れば追いかけてこない。安堵した俺はヘルメットを脱いで、左眼を失ったキルビスに肩を貸した。
今から数時間前の話だ。
「威吹、俺なら大丈夫だからベッドで寝てこいよ」
キルビスが医療テントのパイプ椅子で、居眠りしている俺を気遣って揺り起こした。そう言えば、交代勤務で上部階層に通じる昇降階層の戦場に出てから167時間経過しており、軍司令部が規定する勤務時間を47時間も過ぎている。
「ああ。兵舎に戻る」
「俺も視界が回復したら、そっちで寝るわ……ここのベッドは、クッションが良すぎて寝付けない」
俺は予備の蓄電弾倉を運ぶ玩鞄に、兵舎区画まで付いてくるように顎をしゃくる。
玩鞄は兵隊一人に一台支給されている戦場での荷物運び、持ち主の命令に絶対服従の戦闘支援ロボットだ。
俺の玩鞄『シオン』は荷物を背負ったり手に持ったりできる人型で、他に胴体部が大きなアタッシュケースになっている四足歩行の犬型もあるが、ともに人形と区別するために顔に相当する部分が、黒い長方形を横に倒した薄い箱になっている。
箱の中身は、玩鞄のセンターAI『マーキュリー』を管理する中央司令部のマザーコンピューターとの通信機器や、ローカルAI『ビーナス』の集積回路が組み込まれている。俺のシオンは全高155㎝で、その頭部に横50㎝縦19㎝の黒い板が乗っており、正面からは箱を被った子供に見える。
シオンが戦場で予備蓄電弾倉、換装用装備、応急生体補修部品を甲斐甲斐しく運ぶ姿は可愛らしく、軍には人型を支給してもらったが、人形との交戦が続くうちに、なぜ多くの兵隊が汎用性に劣る犬型を随行させているのかわかる。
「イブキ様、活動時間を大幅にオーバーしています。軍司令部より23時間後の作戦参加を取り消されました。兵舎での休息待機後、従軍都市の市街区画で休暇を満喫せよとのことです」
シオンは子供のような声で、司令部からの命令を読み上げる。
その声に癒やされていれば、今さら他の玩鞄と交換する必要もないのだが、人形と同じ球体関節の駆動部を見ると、戦場での出来事がフラッシュバックして気が重い。
「シオン、俺は少し横になるから充電済みの弾倉をもらっておけ」
「わかりました」
兵舎テントに戻った俺はアサルトスーツを脱いで入口脇のラックに吊るすと、下着姿でベッドに横になった。
次の作戦は不参加なので、戦友が兵舎に戻ったら市街地で旨い酒でも飲みたい。重い身体を担いで運んだのだから、あいつの奢りで飲ませてもらおう。
そんなことを考えながら目を閉じる。
第佰階層に通じる第玖玖游廓昇降階層の戦場で活動時間ギリキリまで戦って、負傷したキルビスを背負って野営地に引き返した俺は、電池が切れたように深い眠りについた。
「貴方は、ゼロテのバラバなの?」
何時間くらい寝ていただろうか。
時計を見れば5時間と6分ばかり経過しているのだが、ベッドの横に立って俺を見下ろすシオンに、起こしてくれと頼んだ覚えがなかった。
しかし玩鞄は、司令部からの『休息待機』との命令を解している。兵舎で過ごす待機時間を過ぎていれば、一声かけるくらいの気を効かせる機能はあった。気になるのは『お早うございます』でも『起きてください』でもなく、何かを問いかけるような台詞だったことだ。
「どうしたシオン。上からの連絡でもあったのか?」
シオンの頭部は、黒い板の左下にセンターAIとの通信を示す小さなランプが点滅しているだけで、カメラやスピーカーのような機器が外部に露出していない。そもそも玩鞄は熱探知や音波など様々な種類のセンサーで外界を認知していれば、カメラからの視覚情報が不要であり、俺に板の正面を向けていても何処を見ているのかわからない。
しかしシオンはこのとき、ベッドに上体を起こした俺の動きに合わせて顔を動かしており、まるで人間の動きを観察しているようだった。
「貴方は、ゼロテのバラバなの?」
「ゼロテのバラバなんてコードは知らない……シオン、暗号表と照合しろ」
軍司令官からは極秘命令が暗号で送られるときがあり、玩鞄が所有者の生体認証を確認すれば暗号内容が開示される。
「現在、センターAIへのネット接続が遮断されています。ローカルストレージに該当するコードは存在しません。先程の戦闘中に傍受した発信者不明の音声データに、これらに関連するワードを確認しています。関連するワードを提示しますか?」
シオンの通信ランプが赤く点滅しており、センターAIとのネット接続が切れている。玩鞄と司令部に置かれたセンターAIの通信は、電波暗室でもない限り常時接続されているはずだ。玩鞄が自らネット接続を遮断したとすれば、物理的な故障かシステムエラーが疑わしい。
俺は枕の下に隠していた光子銃を取り出して、俺を見ているシオンに銃口を向ける。
玩鞄の行動制御は、階層を登ることで得た未知の技術を活用したセンターAIで行っており、如何なる破壊行動にも直接加担しない。それが可能ならば戦場で荷物運びなどさせずに、玩鞄にドークとの戦闘を任せられるのだが、センターAIは彼らに人間だけではなく、あらゆる有機物の破壊活動もさせなかった。
シオンたち玩鞄は本来、この何層にも積み重なる馬鹿げた世界を作った何者が、非戦闘用ロボットとして開発したものだろう。俺たち人間が、そいつらの遺産を戦闘時の荷物運びに利用しているだけだ。
ローカルAIにも当然、破壊を禁じるブラックボックスが存在する。しかし自己診断プログラムの領域まで壊れたなら、シオンの行動に致命的なエラーがあるかもしれない。
「シオン、関連するワードを提示しろ」
「はい。ゼロテ、現在は存在しない宗教の概念、ユダヤ教の熱心党の別称であるゼロテ派と思われます。バラバ、現在は存在しない宗教の概念、恩赦を受けて赦免されたゼロテ派の囚人の人名と思われます」
「シオン、発信者不明の音声データを聞かせろ」
「はい。56時間前、第99游廓昇降階層、発信者不明の音声データを再生します。『オマエハ、ゼロテノバラバ』『オマエハ、ゼロテノバラバ』以上です」
ギルビスの左眼を抉った少女の顔したドークは、電磁隔壁を飛び越えたシオンに何かを問いかけていた。玩鞄がドークの問いかけに応えて、俺にバラバなる人物なのか質問している。それも玩鞄が、センターAIとのネット接続を遮断した状況下でだ。
「シオン、音声コントロールに切替えて、ローカルAIを強制終了」
「はい。音声コントロールに切替えて、ローカルAIを強制終了します」
シオンは首を項垂れると、自律思考を放棄して単なる俺の命令に従うだけのロボットとして再起動したはずだった。
その玩鞄が再び黒い板を俺に向けると、ノイズ混じりの少女の声で話し始める。
「あなたは……イブキ……イブキは、ゼロテのバラバです」
「お前はシオンじゃない。いったい誰だ?」
「私に名前は……ない……貴方たちが……人形と呼ぶ端末の一部です。この子の身体は現在、私が制御しています」
「どこのハッカーか知らないが、たちの悪い悪戯は止めるんだな。ドークは電磁隔壁を突破出来ないし、単なる戦闘人形には玩鞄をハッキングする知性がない」
俺たち人間はドークとの接触を試みてきたが、停戦の呼びかけに応じることもなければ、まともな会話すら出来なかった。そもそも人形には、知性や思考を司る脳に相当する部位が存在しない。奴らは虫のように人間を殺すと決められた行動を繰り返すだけで、人間を殺すことに思想もなければ、人語を介した意思疎通が不可能だった。
つまりシオンがハッキングされたとしても、ドークの仕業であるわけがない。虫がすれ違いざまにコンピューターをハッキングするわけがなければ、人間の悪戯を疑って当然だ。
ひたすら進化の扉を開くために上部階層を目指している軍のやり方に、異を唱えるテロリストもいれば、軍内部にもドークとの戦闘に反対する勢力がある。そうした連中のハッカーが、玩鞄を通じて兵隊の俺に接触してきたと考えるのが妥当だろう。
「何が目的だ?」
「私はバラバに……この戦いの意味を問いたいのです」
ドークを名乗るハッカーは両手を広げると、玩鞄に銃口を向ける俺に『撃ちたければ撃て』と言った様子だ。シオンを破壊したところで、ハッカーの正体を探る手がかりを失うだけなので、俺は光子銃を下げると、彼女に向き合ってベッドに腰掛けた。
「祖階層で誕生した人間は……弐拾、肆拾、陸拾、捌拾の伍つの地殻に到達しました。人間は十分な資源と土地を手にしてなお……なぜ第玖玖游廓昇降階層の上層、第佰階層の地殻をほしがるの?」
「そんなこと現場の俺に聞かれても、軍上層部の考えなんてわかるわけないだろう。兵隊は目の前の敵を倒して、6つ目の新天地を占領するのが仕事なんだよ」
「游廓昇降階層での戦闘は半永久的に続くわ……少なくとも人間が祖階層から、システム区画の第玖捌階層に……到達するまで陸億伍仟万年を費やしている」
99番目の游廓昇降階層でのドークとの戦闘は、俺が生まれる前から続いていれば、死ぬまでに終わらないかもしれない。人間が20階層毎に現れる新天地を求めている限り、ドークとの戦闘は終わらない。そんなことはわかっているのだが、半永久的と言うのが引っかかる。
どんな事柄にも終わりはあるし、6番目の新天地となる第佰階層の空には、ホログラムではない太陽や月、星が瞬く宇宙があると言われている。
そこから更に上部階層に続く、第佰壱游廓昇降階層がなければの話だ。
「ただ今じゃないってだけで、いつか終わりはくる」
「多重階層の世界は二分法において……無限だと定義されているわ」
「二分法とはなんだ」
「貴方たち人間が上層階層に行くほど……時間は……限りなく静止します。アキレスは、前を走る亀に永遠に追いつけない」
「ああ、運動のパラドックスのことか」
解釈は様々できるが、光より早く広がる宇宙を無限と考えるならば、辿り着けない空間を無限と定義できる。こいつは人間が第佰階層に到達しても、それより早く上部階層が広がり半永久的に追いつけないと言っているのだろう。それが本当ならば最上階には、この馬鹿げた世界を作り続けている何者がいる。
いや、違うな。
それではハッカーが、わざわざ二分法を持ち出して説明した意味がわからない。そもそも宇宙を引き合いにしたが、この世界の外側に太陽や月、星が瞬く宇宙が存在しない可能性もある。宇宙は、何者が作り出した偽りの概念かもしれないのだ。
「人間は『地球』と呼んでいる祖階層で……壱日を弐拾肆時間で暮らしていたわ……それが第玖捌階層では壱日が壱仟玖佰拾時間、次の地殻では時間の概念が、地殻数の自乗の拾万分の壱に修正されます」
「上に行けば行くほどドークとの戦争も長期化すれば、前の表面積より拡大する地殻の開発にも時間がかかる。世代交代のスパンが緩やかな方が、人間にとっては有難いだろう?」
「多重階層世界は……狭量にして無限……人間は半永久的に……生きることになる」
「わかった。楽しいお喋りは終わりにして、なぜ俺にそんな話を聞かせたのか。その真意を聞かせてもらおうか?」
ハッカーは『恩赦を与えるべきはバラバ』と、すっかり廃れちまった宗教概念に登場する囚人の名前を呼んだ。人間が誕生した地球が如何様物の世界だと気付いた瞬間、人間は祖階層から上部階層を目指したときから、信仰というペテンも捨て去った。
なぜなら多重階層世界を作ったのは神様ではなく、確かに存在する何者だと周知されたからだ。
「戦っても終わりは来ない。そうやって最前線で戦う兵隊を懐柔して、反戦思想を蔓延させるのが目的なのか」
首を横に振ったハッカーは『また、いずれ』と呟いて、シオンを解放したようだ。俺の玩鞄は駆動系を弛緩して、糸の切れた操り人形のように床にへたり込んだ。
反戦活動家にしては説教臭くない演説で、なかなか興味深い話だったものの、どれくらいの時間を無駄話に費やしたのか。ベッドに仰向けに倒れた俺が時計を見れば、ベッドに横になって5時間と6分ばかり経過していた。
「こいつは驚いたな……玩鞄が人形にハッキングされるなんて、俺の想像力も大したものだ」
シオンがハッキングされてから今まで、時計の針が一秒も経過していなかった。時計に壊れた様子はない。合理的に考えるならば、ハッカーとの会話は夢だったことになる。
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