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ララバイ

作者: 空見タイガ

 小日向が日向ですやすやと眠っている。膝の上に弁当の包みを置いて眠っている。ベンチの背に身を預けすぎないように眠っている。正しい姿勢で安らかに眠っている。

「こひなた。もうすぐ昼休み、終わるよ」

 ぱちりと目が開いたと思えば、小日向は急いで立ち上がった。弁当箱は足元に転げ、彼女の肩や頭に乗っていた緑の葉がぱらぱらと落ちる。積もった葉を払って包みを拾った彼女は「なにこれ」と呟いた。「何光年たったらこんなに葉が積もるの」と呟いた。

「きみと一緒に食べていた子たちが飾っていた」

「いやだねぇ。いたずらしてそのまま帰っちゃうなんてさ。私が次の授業に遅刻しちゃったらどうしたんだろ」

「心配すると思うよ」

 顔を上げた小日向がニコッと笑った。それからおれの腕をちょいちょいと引っ張り、校舎に向かって歩き出した。

「木陰くんはやさしいんだね?」

 並んだ小日向の頭を見る。てっぺんに葉が突き刺さっている。

「偶然に通りかかっただけだから」

「どこで食べてたの」

「非常階段の陰」

 やわらかな風が吹いた。冷気も熱気も感じないぬるさで、小日向の髪に葉を深くまで押し込んでゆく。

「今度、わたしも一緒に食べていい?」

「いいけど。友だちはどうする」

「どうでもいい」

 しずかに手を伸ばして、小日向の髪に絡んだ葉をそっと引き抜く。

「なんかさ、人として当たり前の尊厳を認められていないんだよね。からかわれて当然みたいな。もう友だちじゃないよ、あんなの」

 つまんだ葉をくるくると回す。

「いつでも来ていいよ。待ってる」

 小日向はぱっと顔を明るくして、歩きながらくるくると回る。

「早く行けるよう、がんばって絶交するね」


 プールの塩素と生ゴミと草とごはんと柔軟剤のにおいがする。

 非常階段の陰、少し薄汚れた壁とコンクリートの直角におさまりながら、小日向とふたりでちょうちょを見ている。丸っこくて黄色い羽。名前は知らないが、モンシロチョウでないことは確かだ。蛾でないことも確かだ。こぽこぽとコップにスポーツドリンクを注いでいると「なんかそれ、不衛生な感じがしない?」と小日向が笑う。

「もとはペットボトルでしょ。そのままもっていけばいいのに」

「必要以上に持ち歩いて残してしまうほうが、結果的に不衛生になるよ」

「なるほどねぇ。そういうの、大事かもね? 通販でいちばん安いと思って買ったら、他の店はポイント還元がついてもっとお得だったみたいなことが起こるわけだし」

「体験談?」

 うっさい、と小日向は肘でおれを小突く。それから少しして肩と肩がぶつかった。すぐに離れ、しばらくして半袖と半袖が触れた。


 なぜか開かない踏切に、老人が駅に向かって怒声を浴びせている。

 十分に干したはずのシャツが汗を吸い込んで臭くなっているような気がする。小日向はすんすんとおれの肩あたりに鼻を近づけて首を横に振った。

「それより自分で干してるんだ。えらいんだね?」

「母さんが死んで、父さんは遅くまで働いているから。自分がやるしかないからやっているだけで、大したことじゃないよ」

「そうやって割り切れるだけで、大した人間じゃない?」

 やっと開いた踏切に、老人が駅に向かって怒声を浴びせている。

「大した人間じゃないよ。それよりこひなたのほうがすごいと思うよ」

「ええ、どこが?」

「言ってみただけ」

 小日向は鞄でおれの尻を叩いて「バカめ」と怒声を浴びせた。


 母はろくに食事も摂ることができず、元気に走り回ることはもちろん、綺麗な字を書くことも、思い通りの線を引くことも、好きなだけ咀嚼することも、寝返りをしすぎてベッドから落ちることも、姿見の前で踊ることもできずに、身体に刺さった管に視線を落としながら「死にたい」と呟いた。

 非常階段の陰、少し薄汚れた壁とコンクリートの直角におさまりながら、小日向の頭は膝におさまっている。

「上履きも下履きも運動靴もなくなる日より不幸な日ってあるのかなぁ」

 アスファルトをぽんぽんと叩く小日向の靴下は少し黒ずんでいる。

「生活指導の先生か体育教師に伝えてみたら」

 顔を上げた小日向がニコッと笑った。

「そこで担任とか保険医とかじゃなくて、怖そうな先生をチョイスするとこがいいよね」

「すべての悩みは絞めることで解決するから」

「ほんとうかねぇ」

「ほんとうのほんとうのほんとうにつらくなったら言ってくれ。結果的に力になるよ」

 小日向の頭をぽんぽんと叩くおれの手は少し黒ずんでいる。


 しっぽは引きちぎれているし、耳も引きちぎれている。肉球も引きちぎれているし、ひげも引きちぎれている。引きずった跡がアスファルトに残っている。赤い痕が残っている。しかし、安らかに眠っている。

 図書室前にある掲示物のなかに、小日向の描いたポスターとポップが飾られている。丸っこくて二足歩行の猫。名前は知らないが、ふつうの猫でないことは確かだ。人間の手に負える猫でないことも確かだ。

「な、なんか黙って見られると恥ずかしいよ?」

「かわいい、ね、こ、だね」

「猫なのは疑問の余地なくない?」

「小学生のとき、いちばん好きだった先生がこう言っていたんだ。自分の思う幸福の形を押しつけないで、相手の幸福を尊重してやれって。おれもそう思うんだよ」

「そうなんだ、そうなんだ?」

「猫もそうなんだと思うよ」

 はじめに肩と肩がぶつかって、次に肘と肘がぶつかり、最後に脇腹に肘がささった。

 

 母は次第に顔色が悪くなり、目が悪くなり、機嫌が悪くなり、頭が悪くなり、手足が悪くなり、何もかもが悪くなっていった。しかし母の実家も父も金には困っておらず、病院もベッドには困っておらず、最新の医療は人を生きながらえさせることに困っておらず、母の身体に針と管が刺さった。

 ゲームセンターの帰り道、でたらめに歩いた帰り道、公園で衰弱している猫を見つけた。しっぽは引きちぎれているし、耳も引きちぎれている。肉球も引きちぎれているし、ひげも引きちぎれている。引きずった跡が砂に残っている。赤い痕が残っている。しかし、まだ生きている。

 服が汚れることもいとわずに小日向は猫を抱えて走っていった。どこに向かうんだと追いかけながら聞いてみれば「わからない」と小日向は猫を抱えて走っていった。「獣医なんて偶然に出会えるものじゃないよ」「わからないよ」小日向は猫を抱えて走っていった。

 偶然に出会った獣医の手厚い治療を受け、猫の原型をわずかにとどめた猫はかすかに身体をふるわせ、精一杯に呼吸をしている。

 動物病院の帰り道、でたらめに歩いた帰り道、公園でふたりブランコに乗る。足がべったりと地についている。かつて、あの頃にブランコを全力で楽しまなければならなかったのだ。

「なんで、あんなひどいことをするんだろうね? どうして平気で傷つけられるんだろう。痛いことをしているって、わかるはずだよね。わかんないのかなあ。わかんないのかな」

 猫の原型をわずかにとどめている猫のぬいぐるみが、小日向の鞄にぶら下がって揺れている。

「本当に、可哀想だよ」

「そうだよ……あんな、ひどい」

「あんなにぼろぼろになっても、まだ生きなければならないなんて」

 目が合った。

「ずっと苦しむ。後遺症を引きずって歩く。呼吸するだけで傷が痛む。みなは義務でなんとなく延命させるけど、なんであんなひどいことをするんだろうと思うよ」

 母は安らかに眠った。

 たくさんの猫も安らかに眠っていった。

 小日向は次第に顔色が悪くなり、体調が歩くなり、出席率が悪くなり、成績が悪くなり、これからもっと何もかもが悪くなってゆくだろう。

「木陰くんは理性的なんだね?」

 小日向の頭をぽんぽんと叩くおれの手は少し黒ずんでいる。ぐずぐずと泣く小日向を一刻も早く眠らせるために、やさしく、単調なリズムでくりかえし言い聞かせる。

 こひなた、ほんとうのほんとうのほんとうにつらくなったら言ってくれ。すべての悩みは絞めることで解決するから。結果的に力になるよ。

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