常識打刻
「なんかノリでやっちゃったけど……。彼を置いてきちゃってよかったのかな?」
優星は食堂を出た先の廊下を歩きながら、私の傍らで心配という類の素振りを見せる。自分達がやった行為は極めて非人道的だったのではないか、と。どうもノリというのは恐ろしいらしく、行為に対する参加人数が多ければ多いほど罪悪感は薄れてしまうというものらしい。
「いーのいーの。いつも通りだから」
スズが軽い調子で答えて、それに優星はなんて人達だと笑う。きっとハタケなら許してくれるだろう、なんて勝手な解釈をしている私達。それは果たしていいものか……。
私達は階段を降りて地下三階へと向った。その際、階段では私がスズの手を握る。昔はこうして私やこーすけ達が先導しないと、彼女はひとりで階段を昇り降りすることができなかった。今はひとりで大丈夫なのだけれど、昔の名残というのか、階段まで誰かとくると自然に片手が持ち上がるらしく、傍らにいる人はいつも同じ自然さをもってして握るだけ。恒例というものかな。
地下三階と四階は一般居住区であり、一般の人はだいたいこのフロアに自宅という名の自室がある。私も高等部を卒業したら、ここか四階の空いている部屋に移り住むことになる予定だ。とはいっても家具も景色もほぼ一様だし、些細な変更といえば食堂から少し離れるだけのこと。
ここでは日当たりが良いとか悪いとか、そんな日照問題なんてものはまるでない。決められた時刻に決められた光度で決められた角度を照らす、等間隔に設置されている人工灯というものは万全で無駄がないのだ。もちろん時刻によって明るさは変わるものの、ここでは四季折々の太陽の姿を目にすることはできない。だからもし本物の太陽を見ることがあったら、目がつぶれてしまうんじゃないかという話を私達はよくしていたっけ。
階段を降りるとすぐ右隣に三〇一号室があり、向かいに三〇二号室、隣に三〇三号室――といった具合で交互に延々と、フロア一周で三九九号室まで続いていく。そしてそのさらに外側に、やや部屋のサイズが大きい三〇一A、三〇二Aとアルファベットを付け足した部屋がある。こっちは家族向けみたいなもの。四階も基本的には同じ構造だ。
――思えば、病院の巨大地下シェルターから始めて、たった数年でよくこんなにも充実した施設を造れたものだと思う。私は建築技術についてはぜんぜんわからないけど、当時日本が世界一の座に就いていたということの理由が、この都市を見れば一目瞭然といったところなのだろう。
近年の日本では地下街の発展がものすごかったから、その技術がすぐに応用できたのが大きかったらしい。なんでも増え続ける人口に対し減り続ける自然が危険視され、住まいを地下に、という国家プロジェクトというものが発足していたのだ。つまり、どういう因果なのか、あるいは皮肉という言葉が相応しいのか、そのプロジェクトというのはこの通り功を奏したというわけで。
「着いたよ。ここだ」
三〇四号室の前に着き、優星が『奥凪』と苗字の書かれた扉のセンサーに人差し指で触れると、ピーという短い電子音と共にドアが静かに開いた。
「散らかってるけど入って入って」
招かれて私達は中へと入る。最後に優星が部屋に入るとドアが閉まり、電気が点く。部屋は小さいといっても四人の少年少女達が余裕で座れるくらいの広さはある。けれどここにハタケが追加で入るとなると、ちょっぴり厳しいものがあるかもしれない。スズの判断はまたしても正しかったのだ。
部屋に入るなりこーすけは部屋の一点に視線を集中させ固まって、スズといえば手探りでベッドを見つけ出しちょこんとそれに座った。
「あぁ、そこが俺の作業机だよ、幸助。汚いけど、そこに座ってると一番落ち着くんだ」
うおぉー、と幸助が声をあげる。机の中央には四角い銀色の箱が置いてあって、それを目にした彼が触れたいけど触れてはいけないといった感じで、銀色の箱にそっと手を添えようとする。私はすでに見たことのある代物だ。
「一際目を奪われる……これは、一体……なんですか?」
「それ、空にはもう見せたけど、俺の相棒の万能工具さ。俺の脳波を読み取って必要な工具になってくれるんだ。さっき話してた脳で操作の試作品ってとこかな。ま、〝退化の序章〟みたいなものだよ」
一見すると超未来的に見えるその工具を手に取って、優星はそれを退化の始まりだと告げた。けれどその言葉はどうやらこーすけの耳に入らなかったらしく、彼は全身を硬直させて石造みたいに固まっていた。
退化。優星が食堂で話していたのは、生きるということの手間をとことん省いていったら、いずれ人間は脳だけになってしまうのではないかということ。つまりそれは脳以外のものが不必要となり消失してしまい、もはや人間という生物扱いになるのかどうかだ。
ふと前に生物の授業で聞いた話をなんとなく思い出す。それは人間の様々な機能は長い期間を経て進化したけど、これからは退化の道を進もうとしているということ。でもそれは確か〝退行的進化〟なんて呼ばれているらしく、退化と思われているも実はそれは進化ともいえる、とかだったかな……。ノートも取らないしテストもないから、なにもかもがうろ覚えだ。
「よし、お見せしよう。例えばそこの机にあるこれだ、こいつでネジを締めたい時、必要なのがプラスドライバーだとする。そしたらもう簡単だ、プラスドライバーの形を脳内妄想だ」
優星はとんとん、と指先でこめかみを突いて机からひとつの機械部品を片手に取り、少し目を閉じた後に万能工具を突付いた。すると突然、四角い箱に無数の細い亀裂が走り、銀色の金属みたいなものが手の平で水のように滑らかに動いて、あっという間に立派なプラスドライバーの形になった。そのまま彼はその新品そのもののドライバーでネジを締めた後、再び工具を突付いて元の四角い形に戻して見せた。
「おおおおおお!!」
部屋にこーすけの驚喜の声が響き、スズが顔をしかめて耳を塞ぐ。
「は、初めてこんなの見た……」
こーすけは信じられないとばかりに目をパチクリさせ、口は閉じることを忘れてしまったらしく、だらりと開け放されたまま。
「ま、実はこれまだ世に発表されてなかったんだ。同様の技術は世界中で研究されてたけど。父さんの研究のひとつだったんだ。まぁ万能といっても弱点は多いよ。磁性流体は周りに強力な磁気があると不具合を起こすし、金属の絶対量と硬度からの限界がある。あ、あと融点の問題で使えない場所もあるな」
「磁性流体ってことは、その合金ってもしかして……」
ごくりと唾を飲み込む音。幸助はまさかと優星の持つ万能工具にぐっと顔を近づける。
「ルルムーヴ合金。超元合金のひとつで四〇℃で液体に限りなく近づく」
「うげ、その液体金属を制御するプログラムなんて……さすが優二郎博士ですね。それに――」
こーすけは立て続けに感想を述べ、そのまま優星と高次元の会話を始めてしまった。専門用語が音速で飛び交う中、まったくもって追いついていけない私はベッドに座るスズの隣に腰掛ける。
「すごいね、あのこーすけと対等以上に話せる人がいたなんてさぁ。何語を喋ってるのかわかんないけどー」
信じられないとばかりにスズが言う。今まで幸助と同じレベルの会話が出来る人はあまりいなかったのだ。
「一応……日本語みたいね。こんなすごい人だったとは思わなかったわ」
「あはは、ただのいい男だと思ってた?」
スズはにぃ、と八重歯をむき出して質問をぶつけてくる。
「そうね」
私は会話に勤しむ優星に一度だけ視線を向けて、迷わずにそう答えた。それは考える間もなく、呼吸のようにして口に出た言葉だった。
「……え?」
予想外の返答だったのか、スズはその身を揺らして小さく驚く表情をした。それに、なぜ驚くの? と私の切り返し。
「だってくーちゃんってさ、わからない、とか、さぁ、とかしか言わないじゃん?」
どうやら普段は曖昧な返事する私が、今はっきりと即答したことにスズは驚いたらしい。
「ええ、まぁ」
無表情な受け答えではあるけど、それはいつも嘘偽りのないまったくの本音だった。私は嘘をつくのが苦手なのだ。
それは感情が乏しいからというわけでなくて、ただ単に幼い頃に両親に言われた、嘘は絶対についてはいけないという簡単な教えを頑なに守っているからだ。
なにもかも取り込んでしまえる幼少の頃、脳と身体と心に刻まれた私の中のひとつの常識。いくら心が小さく消失しかけ刻まれた常識が薄れようとも、他の場所に刻まれている限りは薄れた部分を必ず補完してくれる。
――そう、常識とは何年もの月日をかけて人間に打刻されるモノだから。たとえ心が消えようとも、私は常識においての判断をすることくらいはできる。今の私はいくら感情が乏しいといえども、ものの善悪くらいは常識の範囲で判断ができるのだ。
「ははーん、やっぱりね……」
スズは若干こーすけに押され気味になってきた優星をじぃっと見つめて顎に手を添える。
「……?」
いったいスズにはなにが見えているのだろうか。これだけは誰にもわからないことだ。けれど彼女は確かに常人には捉えられないものを視る力がある。現代の科学でも解明できないなにかを。
「感情ね、感情。ウン、難しいね、ココロって。くーちゃんがんばってよ?」
「……?」
スズはぶつぶつと呟いて私の背中を小さな拳でとんとんと叩いた。きょとんとしている私に、スズは耳元でもう一度語りかけてくる。
「んーほら、空ちゃんだってオンナノコなんだからさ? 手に入れようと本気で努力しないと手に入らない感情もあると思うよ? 特に努力しなきゃいけないのが――」
スズはそこでコホンと軽い咳払いをして、その先は自分で見つけてね、としか言ってくれなかった。特にどんな感情が多くの努力を必要とすると言うのだろう?
「そう、知るにはもっと成長が必要ね。どうしたらいいかなんて、なんとなくしかわからないけれど……」
感情を取り戻すためにはなにをどう努力すればいいのかなんて、今の私にははっきりとわからない。けれど薄々気付いているとは思う。
それは途切れることなく流れる日々をみんなと一緒に過ごすこと――――。
ただそれだけで、間違いなく私の心は歩みを進めているのだから。少なくとも後退はない。明瞭な目的地なんて定めるのはとてもむずかしいところだけれど。
目的なんて理想だけで本来は叶わぬものなのかもしれない。心の完成よりも先に体が朽ちてしまう場合だってあるかもしれない。
それでも私は歩みを止めてはいけないのだと、いつも自分には言い聞かせている。もちろんこれからも歩みは一歩たりとも止めないつもりだ。
「うん、それできっとだいじょーぶ。あたしだってなんとなく生きてきてこうなっちゃったんだから」
そう言ってスズはだいぶへこたれてきた優星の方に視線を向けた。質疑応答の勢い止まることを知らないこーすけは、今や手の残像が見えるくらいの速さでお手製のメモ帳になにやら書き込んでいる。ひゅひゅひゅ、というかすかな風を切る音までが聞こえてくるレベルだ。速記というか印刷機に近いかも。
「なんか、こーすけってばもう夢が叶っちゃった感じだねー」
スズは眉をへの字にして肩をすくめた。そして私は――――夢。彼女の放ったひとつの単語が私の脳裏にとある光景を過ぎらせる。
「………………ゆ……め……」
思わず、私の口からこぼれでた。小さな小さな呟きだったと思うけれど、耳の良いスズは私の言葉をしっかりと聞き取っていた。
「夢? 夢がどうかしたの?」
私はすぐに答えなかった。ただ床を見つめて二択の思いをめぐらせた。
夢のことを言うべきか、言わないべきか。
ここで夢のことを言って、あわよくば手伝ってもらうのか、優星と二人だけで夢の謎を解くことに挑戦してみるのか。……いえ、それ以前に普通に考えたらまず信じてくれるのかさえも怪しい。ただでさえ夢は他人が確認できない不確定なものなのに。第三者にいきなり意見を求めても答えが返ってくるはずがない。
…………でも、このままなにも言わずに隠し続けるということは私にはきっとできない。私はそういうのは苦手だから。それに早く解決しないと、もしかしたら〝失ってしまう〟かもしれないのだから――――。
「優星」
私はしばらく黙り込んだ後、スズに答える前に優星の意見を訊くことにした。
「どうした?」
優星は一旦講義を止めて私達の方に振り返った。なんだい? とこーすけが眼鏡を持ち上げる。
「あのこと……。やっぱり言ったほうが」
あのことと言われるも、すぐにあぁ、彼は頷いてくれた。
「うーん、そうだな……。きっとこの人達なら言っても大丈夫だと思うけど」
スズとこーすけはいきなり何事かと完全に黙り込んでいた。それに私のいつもと違う様子に戸惑いを感じているのか、不審に曇ったらしい表情を浮かべている。
夢の内容が楽しい類の御伽噺だったのならば、すぐにでも話題に出せるだろう。でも私や優星の見る夢は空機や人の死が関係しているというもの。夢の話と言えども簡単に口にできるようなものではないのだ。
「なんだよ、空ちゃん。何か隠している事でもあるのかい? 教えてくれたって損はないだろう?」
こーすけに続いてそうだよ、とスズも賛同する。そう言われてしまえばもう私は隠し通せなくなった。
そして、私は事情を知らない二人に、ゆっくりと打ち明けた。
「…………私、夢を見るの」