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星空を望む夜空

 ――――ちょっと前、私は年配の精神科の先生にこんなことを教えてもらった。


 頭と心では役割が違う、と。


 感情を理解するものが脳で、表現をするのが心だという。

 脳は物理的に存在しているけど、心は人の目では視認できない。おまけにどこにあるのかさえわからない。それでも確かに存在するらしい。〝人間であるならば〟。

 脳が感情を感じ取ると、心はそれを表現しようとする。心は器。感情の置き場所とも言える。

 感情を留められる量は心の器の大きさで変わってしまう。もちろん器の大きさなんて人それぞれ。宇宙みたいに大きな人もいれば、お米粒みたいに小さな人もいるらしい。

 器が小さな人は激しい感情が表れようとすると、抑えきれず、耐え切れずに感情の許容量を超えて爆発してしまう。そうなってしまうと心には大きな傷跡が残ってしまうという。

 心の器についた傷は死ぬまで完全に治ることはない。あるいは死んでしまったあとにも残ってしまう。深く刻まれたまま、永遠に。

 その傷を癒すことができる人は、心の器の大きな人。その人は他人の傷の意味を自ら理解し、包容し、共感し、その傷を癒すことができるという。だけど自らの心にあまりにも多くの傷跡を受け取ってしまうと、結果、その人も永遠の傷を負うことになってしまう。結果、共倒れ。

 それでも人間は、互いの心を傷付けあって生きていく。たくましいのか、無様なのか。私にはわからない。

 そして心にあまりにも深すぎる傷を負ってしまった時、初めて人間は死というものに触れるという。

 本当の死というものは、体躯の朽ち果て、病による侵食、寿命からくるものではなく、〝失った〟時なんだ、と先生は言っていた。

 そう。死ぬということは、心を失った、まさにその時だというのだ。

 それを知った時、私はひとつの事実に気が付いてしまった。


 私は過去に一度、死んでいたのだ。


 ◇


 私の諸々の事情を打ち明けると、優星はゆっくりと視線を床に落とした。

「そうだったのか……。俺なんてたったひとつの感情が解らないっていうだけで、相当苦しんでるのに。それが全部だなんてまるで想像つかないな……」

 優星は目頭を押さえながら首を振る。もちろんこういった話は、常人が想像をすることはとてつもなく難しいだろう。なんせ当の本人ですらよくわからないのだから。

 苦しんでいる、と優星は言った。だけど私はその苦しみなんてものさえ感じない。マイナスの感情さえも、私には関係のないことだ。そういう点では、ある意味良いのかもしれない。

 決して苦しみは感じない。でもなんとなく〝嫌だ〟。それが今の不明瞭な私という人間の意識だった。

 私の心にはところどころ穴が開いている。その穴から感情が抜け落ちていってしまっているのかもしれない。隙間風だけがひゅうひゅうと通り抜けている。心が寒いという表現が生まれた理由を私はよく知っているつもりだ。

「でも今は友達のお陰で、少しずつ本当の私に戻っているような気がするの。毎日を人として生きる意味も見出せたし、私を思ってくれる人だっている」

 今の私は周りの小さな希望の光に支えられて生きている。少しずつ、少しずつ、私の心は光を取り込んでいる。

 もしこの光を失ってしまえば、今度こそ私の心は跡形もなく消滅してしまうだろう。器が消えてしまえば、私はまた人間をやめなくちゃならなくなる。

 またしても、色の存在しない透明で、無意味な空っぽの――機械へと。

「そうだな、それはいい事だ。それに今日は新しい友達ができたからな」

 果てしなく明るい笑顔を見せる優星を見て、私の身体は自然と熱を帯びる。なんだかまるでシャワーを浴びたあとみたい。

「――ええ、ありがとう」

 お礼を言って、私は布団をはいでベッドに腰掛ける。だいぶ寝たからか、私の身体はもう言うことを聞いてくれるようになっていた。

「――……? あの写真……」

 身を起こすと優星の部屋の一角に置かれていた机の上に、なにやらよくわからない機械みたいなものと一緒に、写真立てが置かれているのが目に入った。遠目でよく見えないけれど、写真には三人の人物が写っているのが見える。

「ん……あぁ、あれは家族の写真だよ。定番だろう、写真が置いてあるなんてさ。父親と母親と俺。まぁ両親は死んじゃったけどね、あの日に。あー、でも父親はどうかな、母親は目の前で見たけど父親はあの時仕事に行ってたから」

 写真を眺めながら、優星は小さく肩を竦めた。

「……でも俺は両親を殺したアレらにはなんの怒りも浮かばないんだ。それが何よりも〝悔しい〟。俺が憎いのはアレよりもまず自分自身なんだ。はは、変な話だよなぁ」

 写真を見つめながら、優星は自分のことが憎いと口にする。

 怒りという感情が欠けているという優星。怒りの対象を知っていても、それに対して怒ることができない。きっとそれはとてつもなくもどかしいものなのだろう。

 それに、私と違って優星には悲しみという感情がある。そう考えると、悲しみに暮れている人なんかは、私のことを羨ましがったりするのだろうか、と考えてもみたり。

「ごめんなさい」

 私は形式的に、謝る。

「いやいやいや、謝るようなことはしてないさ。なんせ過ぎた話だし、どちらかと言えば俺は未来(さき)を考える方の人間だから。……えっと、空のご両親は?」

「私も同じよ。意識が戻った時には二人とも死んでいたわ。二人とも私に殺されたの」

 優星は私が最後に言った言葉に首を傾げた。自分でもちょっとひねくれた言い方をしたものだ、と思った。

「それってどういう事?」

 眉をひそめて床の上から私を見上げる優星は、きっと私が両親を殺してしまったと勘違いをしてしまっているのだろう。もちろんそんなわけがない。

「名前」

 私は通じるかどうかわからなかったけれど、そう答えた。

 両親は私に空と名付け、皮肉にもその空に殺されたのだ。いきなりやってきて、両親の命を奪ったあの黒い空。

「……あっ、なるほど。でもいい名前だよ。名前には必ず深い意味と愛情が込められてる。そうだろう? 自分が愛するものに殺されたのなら、それはそれで本望だ」

「そう。そうだといいけれど。お父さんも、お母さんも、空が好きだったから。あの空のように広い心を、たくさんの表情を、と私に名前を付けてくれたの」

 私も空がとても好きだった。一日中見ていても飽きないあの無限の変化。だから自分の名前も大好きだった。

 もっとも今は名前とは似ても似つかない人間になってしまったけれど。

「いい由来だね。俺は親父が名前をつけてくれたかな。あの夜空の輝きを手伝う星のように、他人の為に優しく生きろってね。ほら、夜空って星がなきゃ真っ暗でつまらないだろう?」

 そうね、と答えると、優星はそうさ、と答えた。それから彼は俺は人に優しくしてるのかな、なんて付け足して笑っていた。まったくもってその通りだと私は思う。

「………………よし、じゃぁせっかくだ」

 優星は言葉を切って立ち上がる。途端に今度は私が見上げなければならなくなった。

「俺が〝空の星〟になってみようかな」

 そんなことを優星は天井に向かって呟いた。

「星って?」 

 すぐ訊き返す。よく意味が解らなかった。

「うん、そうだな。君が今、輝きを持っていない夜空だっていうなら――――」

 首を傾げて促すと、優星はベッドに腰掛けている私の両肩をいきなりがっしりと掴んできた。思わずがくん、と視界が下がる。

「…………?」

 優星はとてつもなく大きく見えた。遥か上空から真っ直ぐに、見上げる私の瞳を覗き込んでくる。

 私はふと思う。今私が見ている光景は、幼い頃に父親に抱っこされる瞬間の風景と似ていた。私にまっとうな感情があったのならば、盛大ににやけていたに違いない。

「俺は……俺は、君を助けたい。同じ夢を見るっていうのは、やっぱりこれは意味のある出会いなんだ、きっと。だから二人で解決しなきゃ、夢の謎を」

「……夢の、謎……」

「それに、合わせて君の心の成長も手助けしたい。話を聞いたら……その、なんか――やっぱり君には〝感情が必要〟だ、うん」

 必要、だけれど。そう簡単には得られるようなものではない。

「でも、どこにあるかなんて――」

「分からない。分からないなら探すんだ。探さなきゃ見つからないだろう?」

 優星は断固として言い放つ。

「もちろんそれは……危険な事なのかもしれない。でも今がやるべきタイミングだと俺は思うんだ。先延ばしにはしたくない」

 夢の謎を探るなんて、夢の内容からしてとても危険な可能性もあるはずだ。それを承知のうえで優星は一緒に謎を解決してくれると言う。

「それにお互いの目的は一緒だろう? 同じ目的地に辿り着きたいなら協力すべきだ。夢と感情が関連してるかどうかは知らないけど。少なくともその二つの点が互いに共通してるんだから」

 確かにこのままなにも行動を起こさないというのなら、あの夢を見る毎日が待っているに違いない。でもそんな日々ですら、夢に壊されてしまうかもしれないのだ。それならば早く対処するに限るといえばそうなる。

「真実を知ることができれば、もう二度とあの夢を見なくて済むのかもしれないわね。それは大変かもしれないけれど、それでもあなたは手伝ってくれるの? 優星」

「あぁ、もちろんさ。そりゃ絶対とは言い切れないけど……。よし、そうと決まればまずは必要な情報収集でも――」

 優星はようやく私の肩から手を離した。少し痛かったけれど、痛みが強ければ強いほど、彼の思いが強いということなのかもしれない。だとしたらそんなもの私はいくらでも我慢できる。

「――あ、ご、ごめん……なんか急に熱くなっちゃって」

「いいえ、平気よ」

 そう私が答えた瞬間、優星の方から妙に気の抜ける音が聞こえてきた。その音は私でもすぐに意味が解った。――万国共通だ。

「そういや俺、お昼食べてなかったな……。こいつは台無しだ」

 優星はなんとも判断のし難い表情でお腹を睨みつけたあと、肩を竦めて私に向かって眩しい笑顔をしてみせた。

 その笑顔に私は、夕飯ね、と真顔で返すと同時にふと思う。

 私が彼と同じような輝きをもった笑顔になれる日がくるのは、もしかしたらそう遠くないのかもしれないって。

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