揺々心
彼の背中はなにか痛みを我慢するかのように震えていた。
あんなにも広く、力強かった背中が。
私はただ、その震えを止めたくて止めたくて――反射的に彼を抱きしめた。
そう、彼の事実が怖かったから。とても、怖かったから。私の震えを止めてくれたその彼が震えているのだから。
ありがとう。
彼にそう言われた。でも私にはお礼を言われるようなことをしたという実感がない。それにそんなことで彼の揺らぎが和らぐのかどうかもわからなかった。もとより彼がなにを感じているのかも定かじゃないのに。
けれど私の心は、そうすることが一番なのだと、強く私に言い聞かせた。私はただ自然とそれを受け入れただけ。
しばらくすると、彼の震えはぴたりと止まった。
もう大丈夫だとこちらを振り向いた彼は泣いてはいなかった。目の前で父親を失ったのと変わらないことだっていうのに。悲しいはずのことなのに。
そんな彼に、私は一瞬だけ過去の私を重ねてしまった。両親を失い、心にフタをしてしまった瞬間の私を。彼もあらゆる感情を閉ざしてしまった私みたいになってしまうのではないかって。
…………けれど、それはいわゆる……言葉の意味では杞憂というものだった。彼に限って、そんなことはなかった。
さぁ、〝生こう〟――――と。
彼の表情は今まで見たことのないくらいに、強く、眩しく輝いていた。太陽だって勝てるかわからないだろう。
でも、今の私には同じ明るさをもってして応じることはできなかった。
今はまだ、うん、と頷くだけで精一杯だった。
もちろん、生きて、いつか同じ笑顔を返せるように、と確かな希望を抱きながら。
◇
もう二度と使うことのないエレベーターを出た私達は、邪機――研究所に入る際に通った廊下を足早に戻っていく。どの時点で爆破されるのかは聞いていなかったから、急ぐにこしたことはない。
『…………?』
――と、その時、私達は薄暗い廊下の先に人影を見つけた。二人で走り寄って見てみると、そこにいたのはとてもとても見知っていた彼だった。
「古賀君……」
私の声に人影がもぞもぞと反応する。
「……よぉ、深谷。そろそろ来る頃だと思ってたぜ」
そこにいた古賀君はくぐもった声でそう言った。彼は廊下の壁を背にして座り込んでいて、顔を上げることなく、ただ体育座りのようにしてうずくまっている。どうしてこんな所にいるのかはわからないけれど、とにかく状況を伝えなくちゃいけない。ここはもう、無くなるって。
「あなたも、行きましょう。ここはもうすぐ――」
「いやいい」
状況を説明しようとしたのに、たった一言で遮られてしまった。
「…………え?」
「なに、話は他の部屋でずっと聞いてたさ。音声だけな。ボクはそれなりにこの施設の事を知ってるから。――ここを吹っ飛ばすんだろ?」
ばーん、と言いながら古賀君は大げさな仕草で両手を広げた。そうなることを知っているのになぜこんな所で座っているのだろうか?
「なら話は早いな。行こう、逃げなきゃ死ぬ。もうこれ以上は……」
優星は口ごもり、視線をちらりとエレベーターのある方角へ向ける。エレベーターはもう暗闇の向こう。けれど彼にはそこになにかが見えているのか、しばらくその闇を見つめていた。きっと、私達を救ってくれた人の姿があるに違いない。
――――その人は、私達に生きろと言った。私達には誰かを愛し、愛される権利があると言った。たとえ私達になにが欠けていようとも、私達は人間なのだと言った。
彼が私達に告げた言葉達は、今も頭の中で耳鳴りのように響いている。それらは未だ幽霊みたいにあやふやだった私にしっかりとした骨格を与え、不確かな存在をより確固たるものにする後押しをしてくれた。
もし、古賀君もそれらのメッセージを聞いていたっていうのなら、ここにいるという理由はなんら見当たらない。
「おまえ達には感謝しなきゃいけないな。真実を教えてくれたんだからさ。ま、せめてボクの質問に答えてから生けよ。ひとつ訊きたい事があるんだ。ひとつだけな」
べつに遺言じゃねえぞ、と付け足しててから、古賀君は足を崩してあぐらをかいて話し始める。
「ボクは今の今まで負の感情だけに縛られ続けてきたモノだ。底の無いあらゆる闇を背負って生きてきたモノだ。生きる希望も生きていく糧もなかったモノだ。誰もが嫌がって近づきたくもなかったモノだ。おまえらはそうは思わないかもしれねぇけど、昔はひどかったんだぜ。嫌がる人間はいっぱいいたし、第一他でもない両親がそうだったからな。まぁなんだ、愛される権利は持っていたけど、しょせんは〝権利にすぎなかった〟って事さ」
古賀君の放つ一言一言が、鋭い矢のようにして私の胸を射抜いていく。不幸なことに、彼はそういう運命を背負うことになってしまった人だった。
なにもないから、なんでもいい――と。たとえそれが誰もが望まぬマイナスの感情だとしても、ゼロの私にとってはプラスになる――と。そう考えていた私を改めさせた人でもある。
そんな彼は、彼は私にいったいなにを問うと――――
「さぁ、答えろ、深谷! それでもボクは人間か!? 何ひとつ幸せを感じられないこのボクは人間なのか!? 誰にも愛されなかったボクは人間と言えるのか!?」
「…………!」
古賀君は急に立ち上がり、声を荒げて私にそう尋ねた。その衝撃に一度呼吸が止まって、けれど私はその隙に唯一にしてあたりまえの答えに行き着くことができた。本当に、考えるまでもない。
そう、たとえあらゆる負の感情に苦しめられていようとも、彼にはそれが〝渦巻く場所〟があるのだから――――。
これが彼にとっての答えになるかどうかはわからない。納得し満足してくれるかもわからない。言い返されるかもしれない。けれど、私が答えられるのはこれだけだ。
「ええ、そう。あなたは決してモノでも機械でもないわ。あなたは人間よ。心ある限り、夢を見れる限り」
口ごもることなくはっきりとそう伝えると、古賀君は壁に背を預けてずるずると座り込み、長く、深い溜息をついた。
「…………なら、いい。わりぃな、聞きたかったのはそれだけだ。おまえが言うのなら信じられる。これでやっと心おきなく〝生まれ変わる〟事ができるや」
「生まれ……変わる――?」
納得してくれたようだったけれど、それがまた不可解な言動に繋がった。
「あぁ、ボクの夢さ。人間ならそれができるって話を聞いたんだ、昔な」
それは一昔前まであったらしい宗教というものの考え方みたいだった。確か人間は死んだ後に別の人間として生まれ変わるといったふうな……。でも今の意識をもったまま生まれ変わるということは許されないという。だから残念ながらたとえ生まれ変わったとしても、彼は生まれ変わった自分を確認することはできないのだ。
それを知ったうえでの発言なのかはわからない。どちらにせよそれが彼の夢だというのなら、細かい矛盾はどうだってよくなる。だって夢は叶わぬものであったとしても構わないものなのだから。夢は見ることに意味があるのだから。叶えられるか否かなんてものは二の次なのだ。
「何度も何度も何度も生まれ変わっていれば、そのうち平凡な幸せを約束されるボクに出会えるかもしれない。笑って過ごせる毎日が訪れるかもしれない。そしたらボクは、ボクはそこできっと次の夢を見れるんだ」
古賀君は両手を左右に広げて、くっくっ、とひきつるように笑った。でもそれは機械の仕業なのだということは、本人含め私達もよく知っていたことだった。
機械的な仮初めの感情は、なまじ表現ができるようになるだけあって、彼の心にずっと負担を与えていたに違いない。にせものではなく、ほんものがほしい、というより強い餓えが彼の心を支配するようになっていたはずだから。目の前にあるというのに、決して自分では触れることのできないもどかしさというものが。
「生まれ変わるには死ななきゃいけない。だから死にたいって思った事は過去に何度もあったさ。だけどボクの負の感情はそれさえも抑え付けてきた。――死が、怖いからさ。〝自分だけ〟では絶対に死ぬ事は出来なかった。自殺の出来ない自殺願望者さ。だけど今回は死ねるチャンスなんだよ。夢を叶えるチャンスなんだよ」
古賀君は薄暗く照らされる天井をじっと見つめながら、口だけを動かしてそう語る。その瞳の中に映る電灯の光が妙に揺ら揺らとしていた。
死にたくても、自分では死ぬことができない。それはさっきの部屋で生かされていた脳と同じような意味合いを持つ。自分の感情の介入を許さないままに死ぬためには、自らが一歩を踏み出す必要のない原因が必要。――つまり、このままここに座っていることこそが、彼にとっての最高条件なのだ。
「心を豊かにするのに死ぬ必要はないはずよ。あなたもこれから一緒にみんなと過ごしていけば、今までのような生活じゃなくて。きっとみんなも歓迎してくれるわ」
そう、なにも死んでしまう必要はない。今からでも遅くはないはずだ。もちろん私のように長い年月がかかるかもしれない。みんなに迷惑をかけてしまうかもしれない。でもそれを乗り越えた証明として、今の私がいるのだから。
「いや、残念ながらそれは無理だ。それはあくまでも心にフタをしたっていう深谷だけの話。もともとあったのならこじあければそりゃ出てくるだろうさ。ゼロから始めるのとイチから始めるのには天と地の差がある。結局のところ先天的な欠感者が特定の感情を得るには相当の時間がかかるのさ。DNAの構造でも変えない限りはな。そうなってくるとどうだ? もうそんなのボクじゃないだろ? なら生まれ変わったって同じさ。むしろそっちの方が時間がかからない」
なにも、反論できなかった。私は私と彼の決定的な違いをきちんと理解していなかったのだ。似ているようで実は絶望的な違いがあるということを。
私には生まれつきあらゆる感情の基盤というものがあった。古賀君は特定の感情以外それがなく、優星は特定の感情だけそれがない。先天的と後天的とはそういう意味だった。もとからなかった基盤からつくりだすというのは、生まれ変わったほうが早いと思うほどにまで時間が必要だというのだ。
「……だから、いいんだ。誘いはありがたいけど。ボクの人生くらい、ボクに決めさせろ。ボクの夢くらい、ボクに叶えさせろ」
『………………』
ずん、と心に鉄の塊を落とされたかのような衝撃と痛みが奔る。おまけにその鉄は炎でずっと熱せられていたかのように熱くて、私の心で息を潜めていた小さな感情が、その鉄に焼かれて霧散してしまいそうだった。
「……わかったわ、あなたの邪魔はしない」
胸の痛みを堪えたまま私はそう答えた。……いえ、答えなくちゃいけなかった。
「そうしてくれると助かるね。あぁ……それと、あんたの親父さんにもお礼を言っておかなくちゃな。ボクに機会をくれたんだ。あと終始こんなふてくされた態度で悪かったな。でも許してくれ、これが今のボクだから」
「気にする必要はないさ。俺に怒りの感情があればこうはならなかったかもしれないけどな。これもまた運命ってやつか」
優星は肩をすくめて曇りない笑顔でそう答える。そんな彼も先天的な欠感者のひとりで、怒りを感じることを許されなかった人物だった。
「……運命、ね。先生が苦手だったヤツか。どうやらボクはそれに救われたようだけどな」
――――運命。それは数字では決してはかれない物語。もしくは、運命とは人間の心そのものなのかもしれない。
「――さ、それじゃ行ってくれ、おまえ達は生きろ。おまえ達が死んじまったらボクはおまえの親父さんの夢を壊す事になるんだから。誰かの夢を壊す事なんて、死んでもしたくねぇからな」
足元から促され、私と優星は顔を見合わせた。そして互いの表情を読み取る間もなく、すぐに私達は短い頷きを交わす。死を覚悟した人の意志を止めることは不可能だと、私達はついさっき体験したばかりだったから。
さようならは告げない。私達は無言のまま、彼を越えて出口の方へと向かうことにする。彼に背中を向けたら、もう二度と、振り返ることは許されない――――。
「みたに、そら」
去り際の私の背に名前が呟かれる。
けれど、歩き続ける。早く声の聞こえない所まで行かなくちゃ。
「ありがとう」
「……っ」
一瞬、足に鎖が絡みつく。果てしない、果てしない質量を持った言葉に。言葉が放つ重力に、私の体が引き戻されそうになってしまう。
「――――いいえ。また、会いましょう」
足にぐっと力を入れて、見えない鎖を引きちぎって、歯を食いしばって大きく息を吸って。私は振り向かずに短い挨拶を告げた。振り向いてしまったら、今度こそ優星と二人で無理矢理にでも彼を連れて行ってしまいそうだったから。
……でもそれでは彼のチャンスを潰してしまうことになってしまう。彼の夢を壊してしまうことになる。私達にそんな権利はない。人に人を殺す権利がないのと同じ。彼の夢を壊すということは、彼のことを殺すことの他ならないのだから。
なぜだろう、なぜだろう、なぜだろう?
きっと、彼とのお別れが私の心をまた成長させたのだろう。胸が、さっき機械に締め付けられた時よりもずっとずっと痛い。なにかが破裂してしまいそうで、物理的に押さえていないと今にも溢れてしまいそう。
新たな感情が私の心を支配し、並ならぬ勢いで全体をくまなく犯していく。心はまるで荒波に揉まれているかのように揺れに揺れている。
感情を色で喩えるのなら、深い深い深海の色。けれどそれは決して冷たいものではなく、逆に痛みを感じるくらいの圧力と熱がある。そう、まるで表面温度の高い惑星の輝きのよう。
冷えた手先を急にお湯に浸けた時のような、じぃん、とした痛みが胸の奥で徐々に強くなっていく。同時に体の方にも異常が現れる。呼吸の感覚が短くなって、鼻の奥ではずきりと熱を帯びた痛みが暴れて。
あぁ――――これが、悲しい…………? だとしたら、なんて、なんて苦しい感情――――
彼はこんな苦しみと一緒に生きてきたのだろうか?
彼は日々どうやってこれに耐えていたのだろうか?
彼がそれに耐える日が終わる時がくるのだろうか?
もう、彼には会えないからそれらの答えを知ることはできない。だからそれはまた今度、どこかで会ったときにでも聞くことにしようと私は決めた。そう思い続けることでしか、今の私の足は動かない。
「……っ…………?」
ふと、頬に一筋。なにか熱いものが流れていくのを感じた。それは顎の曲線に沿って滑っていって、妙なくすぐったさを最後に消え失せる。
…………あぁ、これが――本当の。
足は止まるというのに、それは止めどなく私の心を湿らせていく――――――




