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夢帰結

 彼は生まれて初めて我が子に嘘を吐いた。嘘を吐く学者ほど意味の無い者はいない、と常に掲げていた信念を、つい今しがた〝我が子の為〟に破却した。

 しかしながらも何故かすっきりとした不可思議な罪悪感に揉まれつつ、彼は右腕にかかる白衣をまくる。

 腕の内側には内出血と言うよりかは、腐りかけたという表現の方が正しいであろう青黒い痣がある。ここに打たれ続けていた薬は微量なるも少なからず人体に対し有害であるのは明白であり、今はまだ無事なものの自身の寿命はもう目前に迫っているという事は、彼自身が一番よく解っていた。ここ数ヶ月治る気配を見せない体中の蒼白や、時折襲い来る心臓の痛み。それらは間違いなく死を予兆させるものの他ならない。

 実際、遠隔操作での研究所の破壊など簡単に出来る事だった。息子達と脱出して、それから死までの僅かな時間を息子や他の人々と過ごす事は可能だった。あわよくば治療により確かな延命を保障されるかもしれない。――しかし、それでも心の内ではどうしても強い抵抗感があった。

 彼の心に渦巻く抵抗の内訳の最たるものは、やはり責任であった。一流の科学者――奥凪優二郎は、常に鉛のように重い責任と併走する日々を送っていた人物だ。彼の研究する人工知能やその他関連技術は世界中の至る所で用いられていた。だがそれは晴々しい功績であると同時に、ひとたび問題が起これば重篤な影響を及ぼす類の技術でもあった。

 故に優二郎持ち前の責任感は、今回の件についても働いた。洗脳されていたとはいえ、事態の無視を断固として許せなかったのだ。失われたものはどんな代償を払ったとしても取り戻せるようなものではない。だが放置しておけばこれから更に失われていくのは目に見えている。

 たとえ我が子と二度と会う事が出来なくなろうとも、己の身が灰燼となろうとも、それは必ず成し遂げなければならない事。自我によって己に課された最期の仕事。

 ともなれば息子の姿を一目見れたのは僥倖であった。そしてまさにそれこそが原動力となりて、今の優二郎を突き動かしていた。我が子の幸せを願うのが親の夢であるのならば、叶えるのにこの命捧ぐ事など容易い事だ。

「どうやら心配するまでもなかったようだな、母さんや。あの子は立派に生きていたよ。おまけにあんなに綺麗な子まで連れて、ね。まるで〝美しい花瓶〟のようだったよ。……はて、あの子昔どこかで一度見たような。面影が残っている……授業参観だったかなぁ……懐かしい」

 思いを巡らせ笑って呟いて、優二郎はもう二度と開く事のないエレベーターを背に、足取りも軽く部屋へと戻った。

「……ん?」

 部屋では先程から意識を失っていた慈雄が目を覚ましていた。しかし水槽の中で立ち昇る泡の音だけが相変わらず不気味に響いているだけで、それ以外の目立った音は何も聞こえない。反抗のひとつやふたつあってもいいところではあったのだが。

「止めなくていいのかい、慈雄。私はこれからここを爆破するが」

 優二郎は仰向けに横たわり動こうとしない慈雄に近づき、とんでもない事を穏やかに告げる。そして凄惨なる映像が流れていたディスプレイを操作し、宣言通りその中央に残り時刻を表示させた。

 実のところ爆破解体に必要なプログラムや構造は、洗脳初期段階である意識介入の甘い時点で既に、優二郎が意図的に組み込んでいたものであった。これも慈雄が彼に仕事を任せた事による結果である。つまるところ、あらゆる事態を想定していた奥凪優二郎もまた、極めて優秀な人物と言えよう。

「………………涙とは何だ、奥凪優二郎」

 慈雄はただそう問うた。その質問を、優二郎は爆破を止める意思はないものだと受け取る。そしてあえて彼の方を見なかった。

「涙? 涙腺から分泌され――」

「涙とは何だ」

 繰り返し問う慈雄に幼子の姿を重ねてしまって優二郎は微笑む。

「……はは、そうだなぁ。悲しい時とか、嬉しい時とか、感情が昂ぶった時に流れる事がある。しかしこればっかりはね、実は科学で証明されていないんだよ。人間ってのは不思議でね、宇宙の生まれを知る事が出来ても、何故感情的な涙が流れるかを知らない。どんなに雄大な天文学的数値を扱えても、身近に常日頃起こっている我々の事が、ワカラナイのだよ」

 人類は既に、数多の数式を以てして宇宙の起源と終焉の証明を終えようと迫っていた。まして慈雄にいたっては、地球外生命体との接触から、理論上不可能とされてきた時空航行にさえも肉薄した。

 ――――だというのに、彼らは自分達に対してどこまでも無知だった。自身らの心はいつだって未知の惑星よりもずっとずっと未知なのだ。

「そうか。私はただの馬鹿者だったという事だな」

「それも他に類を見ない程の、ね。無論それは私もだ。人工知能なぞ、その最たるものだったよ」

 減りゆく時刻を夕方の景色のように呆けて眺めながら、優二郎は自身の過去を省みる。一時期の彼はプログラムという式の羅列を、限りなく人間の思考に近付けようと躍起になっていた。世間の倫理はひとまず置いておき、〝完全を不完全〟に近付けるべく日々研究に明け暮れたものだった。

 思えばしかしそれは、研究当初――否、人間と同じモノを創り出せるという可能性を僅かでも見出した瞬間に破綻していたのだ。

 人間は無限を動力として。一方で機械は有限を動力として。有限をいくら重ねどう組み合わせたとて無限が顕現するはずはない。

 無理など百も万も兆も承知。だがそれでも何か方法はないかとあらゆる手を尽くす。それが科学者(かれら)目的(ほんのう)であり、永遠の夢でもあった。

「…………では、私はこれから少し眠る」

「眠る?」

 予期していなかった回答に優二郎は思わず振り向く。


「――――夢を、見たい」


 微かな声で呟かれたそれは、情緒の垣間見えるどこまでも人間味に溢れる希望だった。

「そうか、あの子にヒントを教えてもらったか」

 ふと優二郎は先程出会った少女の事を思い出す。成る程やはり慈雄の〝心を抉じ開けた〟のは彼女だったか、と。

「慈雄」

 瞼を閉じ意識も閉ざしゆく慈雄を優二郎が引き戻す。

「何だ」

 瞼を閉じたまま、抑揚が無いままに。

「――良い夢を」

 一呼吸挟んだのちに、優二郎は心の底からそう言った。

 慈雄は何も応えない。

 ただ、優二郎は見た。返答の代わりに、どこか笑っているかのようにも見える慈雄の横顔を。それは十年以上も行動を共にしてきた優二郎が初めて見た自然の笑顔だった。

 やがて慈雄は、息を引き取るかのような自然さで、深い、深い眠りについた。運良くレム睡眠にでも入ってしまえば、爆破後に体を引き裂かれる刹那の痛みさえ感じる間もなく逝けるだろう。

 ――――はたと、優二郎は思う。事の顛末において最も不幸な役割を担ったのは、慈雄の実験の為に犠牲になった人達ではなかったのかもしれない、と。

 この世の誰よりも不幸だった人物は、他でもない耶永瀬慈雄という人間だったのではないだろうか、と。

 のちに地下都市へ戻ったあの子らが人々に慈雄の事を話すだろう。あの子らはそうは思わなくとも、事実を知った人々は口々に彼の事を狂った科学者だと罵る事だろう。世代を越えてまで彼は糾弾され続ける事だろう。

 ただ唯一、優二郎はそれが気の毒でたまらなかった。無論、慈雄が行った所業は到底見過ごせるようなものではない。だがそれを踏まえてなお、彼は同情した。

 優二朗は少女と同じように仮定する。仮に私が同じ境遇に立たされていたとしたら、私は数億の人類の抹殺を躊躇っただろうか? 感情を手に入れるのにそれしか方法が無いと結論が出たのならば、その結論を破棄出来ただろうか?

「……いいや、どんな方法であれ私は躊躇わなかっただろう。ただね慈雄、私なら君よりもっともっと効率の良い、もっともっと安全な方法を考えていただろうな」

 そう言って優二郎はにんまりと意地悪く笑う。だがそれは決して皮肉などではなく、科学者という彼らが日常的に用いる常套句の他ならなかった。

 今回の顛末は、慈雄が元より頭脳明晰の道を歩んでいたからこそ起きてしまった事態とも言えた。知り過ぎたからこそ、本質に至る事が出来なかったのだ。

 ――――彼は、感情が欲しかった。ただ、それだけの事。おもちゃが欲しいとねだる幼児と何が違おう。いや、違うとすればそれはただ喚き散らすのではなく、論理的思考を以てして挑んだという事だけか。

 果てに、自身の研究により感情を失ってしまった一人の少女の言葉で、慈雄はようやく全てを悟った。少女の言葉は、ありとあらゆる文献を覆し、ありとあらゆる実験を無意味なものとし、彼の心に唯一真の答えを示したのだ。

 そこで、慈雄は彼女の日々(けんきゅう)が示した方法を、自ら試してみようと思い至った。十数年間を経て、ようやく一歩、研究が進んだのである。それは飛躍でもあり、結論でもあった。

 ――――故に、彼はこれから『夢』を見に逝く。

 例えそれが決して叶わぬものだとしても、叶わぬものを見る事に意味がある。その夢を抱くそのチカラこそが人の心を成長させ、人に感情を芽生えさせるかもしれないというのだ。

 まったく、科学者が聞いて呆れる。ただの一桁たりとも数字が絡まぬ事象など、この宇宙のいったいどこを探せば見つかるというのだろうか。

 空という名の少女と慈雄の出会い。それは唯一、彼が最も信じぬ類であるあらゆる数式の通用しない、運命というものからのささやかな恵投(けいとう)だったのかもしれない。

「しかし参ったな、どうも」

 優二郎は液晶に映る典型的な形で減りゆく残り時間を見据え、一人寡黙に嘆息する。奇しくも自身で設定していた時間は思いのほか長すぎたのだ。

 彼はもしこのような状況に陥った際、一人郷愁や懐古に浸る余裕をと。それと科学者特有の遊び心からか、起動から爆破までの時間をかなりとっていた。

 それもまた運命というものなのか。果たしてそれは功を奏し、余った時間は息子達の脱出の時間に充てられた。恐らく今頃は逃げろと伝えておいた古賀少年を見つけ出して機内から脱出し、三人で皆の待つ楽園へと向かっている事だろう。

 しかしながらいざこのような状況に出くわしてみると、本来の予定であった懐古というものは一向に進まなかった。進むのはゼロに向かう時刻の数値だけである。

 そこで優二郎は爆破時刻まで、既に寝息を立てている慈雄と同じく、夢でも見てみようかと思い至った。彼は洗脳による強制睡眠を強要されていた為、ここ十年間は夢というものを見る機会がなかったのだ。

「さて……」

 優二郎は冷たい無機質な床に横たわり、目を閉じる。いつも見る暗い瞼の裏に、今こそは希望に満ちた光が見えると信じて――――

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