暗地
俺と空の背後で硬く閉ざされたシャッターの音を最後に、人口的な音というものは、まるっきり消え去った。
もう耳に入ってくるのは……あらゆる人口音の消えた真の自然音のみだ。鼓膜が心躍る懐かしい風の音。渦巻く砂塵が砂上を駆ける微かな音。――――そして、何よりも確かな自分達の呼吸音。
十年ぶりに肺にした、地上の生の酸素。その久方ぶりの味に臆することなく、俺の肺は一度たりとも足を止めずに働いてくれる。……決して、おいしいとは言い難いが。少々粉っぽい。
振り返ると鈍い銀色のシャッターの傍らに、同じ色をした四角い箱があった。開ければそこに開閉ボタンがある。箱もシャッターもアシッドレインに耐えなくてはならないから、当然のごとくコートと同じプロビタス合金製だろう。
俺達が今出てきた地下都市は、元々病院の避難用シェルターから始まった。つまり今、俺と空が立っているこの場所には巨大な病院があったわけで。なぜ面影の欠片もないのかというと、地下都市開発における物資確保――つまりは、焼け残った病院やその周囲の建物というのは宝の山の他ならなかったから。極限の状態であれば、例えそれがどんなものでも使えると思った瞬間、即採用即戦力になったのだ。
だから、この周辺に残っていた瓦礫はその鉄骨からネジの一本まで全て、地下都市のどこかで今も誇らしく生きている。
『……………………』
しかし、言葉がすぐに出てこない。目の前の光景を改めてどう表現するべきか。
かろうじて見える空と陸の境界が、一本の起伏を表す線で区切られているだけ。その線が黒い空のパンと黒い陸のパンに挟まれている光景は、おぞましいダークなハンバーガーのようになっていた。
明るさは冬の早朝に似た不気味な薄暗さ。傍らにいる空の顔くらいはよく見える程度。雲が完全に太陽の光を遮っているわけではないらしく、細かな細かな矮小な光が、雲の分子の隙間を抜けてかろうじて、といった具合だ。ただしざっと確保出来る視界は五十メートル程度で、それ以降は濁った大気なのか砂が舞っているのか、ノイズのようで見えにくい。
気温は肌寒いな、とちょっと構えるくらいだが、それは時間帯が夜ではないからだろう。今の日本上空には間違いなくお天道様が覗いているはずだし。反対に、夜になればそれこそ砂漠のように氷点下になるのかもしれない。
風は時たま短い突風が吹くくらいで、あとは幽霊屋敷で流していそうな、気味の悪い冷たく緩やかで、背筋をぞろりと舐められるようなものが吹き続けていた。
地上には、のこのこと地下から這い出てきた二人の人間に対する歓迎の意というものは微塵たりとも見られなかった。やぁ、ようこそ、おかえり――それらと真反対の出ていけとこそは言わないが、完全なる無視といった雰囲気だ。
「今、あの日の事が頭に浮かんだよ」
目前の風景を、記憶の断片が紙芝居のようにスライドしながら上書きし、何枚も何枚も足早に脳裏を駆けていく。早送りだけど、その一枚一枚はものすごく鮮烈に印象を与えてくる。
「私もよ」
空は傍らで相変わらず表情を変えずに小さく頷いた。
「景色は全然違うのにな。なんで思い出すんだろう…………いや、景色はどうでもいいのか。〝ここはここ〟なんだから」
そう、人は脳で景色を記憶しているものだと思っていたが、どうもそれは違ったらしい。人は体で〝空間〟をきちんと覚えているのだ。来た事ないけど、なんか来た事あるような――それが意味するところは、きっとこういう事なのだろう。頭で覚えている限りは来た事がなくても、体は一度なり二度なり来た事があるのだ。
「…………よし、とりあえず探索隊の目印とやらを辿るか。何かヒントを見つけるには苦労しそうだけど。大丈夫か? 空」
そう問いかけるも、空は風になびく髪を無意識な動作で横に流しながら、目前に広がる光景を食い入るように眺めていた。その髪の色は黒であるも、周囲の闇と決して溶け合う事なく、さらりと美しく華麗に踊っている。躍動している黒色はやはり輝きがまるで違う。生きている黒は本当に美しい……。
……そういえば、こうやって風になびく女性の髪を最後に見たのはいつだったか。なんせ地下では自然の風というものがなかったからだ。
――――だから、そう。見入ってしまう。思わず。彼女は――――空は、美しい……。可愛い? 違う、綺麗なんだ、彼女は。うん。
そんな彼女に出会った時、俺は直感的に思った事が二つあった。
ひとつは、彼女に美しい感情を添えてみたい、と思った事。彩る花こそないけれど、彼女は美しい花瓶のようだと比喩をした。なら、彼女の空っぽの花瓶に花を添える事が出来たら? もしそうする事が出来たなら、彼女はいったいどこまで美しくなるのだろうか、って。
それからもうひとつは、俺は彼女を前にどこかで見た事があるような、と思った事。事実、彼女の名前は初めて聞いたし、彼女も俺と初めての自己紹介を交わした。だから初めて会った事には違いないのだが……。
ただそれについてはすぐに、とりあえずは解決した。俺は彼女を〝夢の中で〟見ていたのだ。彼女が不気味に笑いながら、空機を操作している夢。しかも何の因果か知らないが、彼女も同じような夢を見ると言ってきたわけで、夢の謎の手がかりを探す一環として今ここにいるのだ。
――――とりあえずといったのは、夢以前にもっとずっとずっと昔に、実際にこの目で俺は彼女を見た事があるような気がしてたまらなかったからだ。まぁ見た事があるといっても、少なくともそれは十年以上も前だから、確信とは言えまいが……。
それに特に女の子の方は、高校生でたいてい〝化粧という名の他人に化ける魔術〟を取得し始める、と職場のずっと上の先輩方が口々にしていたからな……。んま、彼女に限っては今はしてないと思うし、むしろしなくたって充分すぎる。
しかし…………。いったいどこで彼女を見たのかな、俺は――――。
「……空?」
「――――ええ。ええ、大丈夫。行かなくちゃ、探しに」
もう一度名を呼ぶと、空はややあって決心したかのように頷いた。もちろん彼女に決心だなんて構えがあるのかどうかは分からない。でも彼女は地上に行かなくてはいけない、と自ら強く思ったという。
普段なら、誰かが行こうよと言えば着いて行くというような、決して自発的には行動しないという空。自らを受動的な機械みたいだと比喩していた空。だけど今回ばかりは、何がそうさせたのか分からないが、彼女の胸中に大きな変化が訪れたらしい。
自らが、なにかをしたい、と。そういう〝感情的な欲求〟が溢れてきた。つまり、彼女の花瓶には今、新たに一輪の花が添えられようとしているのだ。
「…………あぁ、行こう」
ただしこちらからの余計な詮索や手助けは無しだ。まずは出来る限り、自分から花を添えてもらわなくては。
俺はそう決めて一歩足を進める。ざざ、と踏みしめる音。わずかに沈む足。……あぁ、懐かしい砂の感覚だ。俺も砂場で遊んでいた時代があったな、なんてな。ただ俺の砂場での遊びは主に、遊具を分解し、また元に戻すといった、なんとも時代を先取りする高度なおままごとだったが。
「……ん? これか」
少しだけ前進したところで、既に探索隊が歩いたであろう獣道のような跡を見つけた。道幅は二人分くらいで、その両脇に蛍光色で派手に彩られた小さな旗が定期的に設置されていた。
この先にどんな景色が広がっているのか。想像がつくようでまるでつかない。ずっとこの質素な景色が続くのだろうか。あるいはただ暗くて近づかないと見えてこないだけか……。
獣道を歩きつつ、ふと俺は持ってきた鞄の中を漁った。ほどなくして掴んだのはケンさんにもらった簡易レーダーだ。
「それはなにが映るの?」
「ほら、この画面に今映ってる小さな点が俺達、その後ろの大きな点が地下都市ってとこだな」
てのひらより小さいレーダーの緑の液晶には、周期的に回転する一本の線と、小さな赤い点が二つと大きな赤い点が一つ点滅している。この小さな丸がどうやら俺達の事のようで、大きな方は恐らく地下都市の事だろう。
このレーダーは、あの日以降の地上で生存者を探していた時に、ケンさんが使ってたというものだった。恐らく熱を感知しているのだろうが、俺にはこの構造は分からない。このレーダーが何人の命を救ったのかも、俺には分からない。
熱を感知するのであれば、よほどの事がない限り、赤い点はずっと二つだろう。だって丸い点が三つ以上現れたなら、それはこの地上にもう一人の人間がいるという事になってしまうも同然だからだ。それはそれで悪いわけじゃぁないけど。
「このままこの道に沿って進んでみよう。多分あそこにある高い起伏を越えなきゃだめかもしれないけど」
遥か先に小さな丘のような起伏の輪郭が見えた。そのふもとくらいまではかろうじて旗の姿が見えたが、それ以降は砂か大気のノイズで視認性がすこぶる悪い。
「しかしなぁ、俺としてはなんか……こう、軽い拍子抜けっていうのか。思ってたより住めそうな勢いじゃないか? ここ。寒さはいいとして、例の雨さえどうにかなればさ」
見上げても一面真っ黒でどれが雨雲だか分かりやしないから、コートで常に体を覆えるようにしておかなければならないが、それ以外は特に――どうといった事はない。雨さえ気をつければほんとにって感じだが。
「ええ」
同意なのか相槌なのか判断がつかないが、空はそう言った。
「耐腐食性に優れる屋根を作ってその下で暮らせばいけるんじゃないかな、わりと」
「簡単だったなら、私達はとっくにここに住んでいたかもしれないわね」
的確な返しに俺は思わず笑いそうになる。空はきちんと理解していた。こんな案で可能なら、とっくに地下都市の技術者達は作業を進めていたであろうって事を。そう簡単にはいかない理由がまだまだあるのだろう。
「ま、おっしゃるとおりで。しっかしどうにかして晴れないのかな、この雲は……」
見上げれば、そこには黒々とした雲が空一面を一定方向に流れている。まるで習字の授業後の手洗い場だ。こんなのが世界中を巡りまわっているとでも思うと、いったいどうしたらこんなにも環境を激変させられるのかと、ある種の感動すらも覚えるな……。
――と、どろどろと流れゆく雲の様子を細目で眺めていたその時――――
『――――!?』
突然、遥か遠くで光が奔った。空から真っ直ぐ地上に向かって降り注ぐ、〝光の柱〟が……!
「おぉ!? なんだ今の!?」
「あれは……?」
地上に天使が降りてきたみたいに、その一瞬はとても神々しかった。光が差した場所だけパッとカメラのフラッシュみたいに照らし出されて、また元の暗い景色に戻ったのだ。
「あ――雲の、切れ間か。なるほどな」
恐らくだが太陽光が雲の切れ間から射すこの現象は、歩いているうちに何度か繰り返された。次はどこに光が射すのだろう、とちょっとした観光気分。この現象を見逃すまいと、俺達は目を凝らしながら歩く事にした。
しばらく歩くとすぐ左で――。
それから次は右の遥か遠くで――。
そして――――
『っ……――!』
何度目かの光は、俺達の頭上へ強烈に降り注いだ。暗闇に目が慣れていた分、思わず体を屈めてしまう。目が眩んでしばらくの間はまばたきをしても、真っ白い光景だけが目に映る。
光が体に降り注いだ時間はたった二秒くらい。それでも体全体がとても温まった。体をまるっきり包み込むように、光の圧力というものを肌で感じられた。人工灯の硬い光とは全く違う、自然のふんわりとした温かさ。まさに太陽の抱擁。この光に抱かれて、俺達は育ってきたのだ。
「何年ぶりだろう……。本物の太陽光を体に浴びるなんてさ」
「十年前が最後よ。地下都市の光とは違ったわ」
どうやら空も硬い光と柔らかい光の違いを感じていたらしい。地下都市の人工灯には突き刺してくるような刺々しさがある。人はもうそれで満足しているが、人工灯で作物の栽培がなかなかうまくいかないのは、きっとこの違いがあるからなのだろう。自然はやはり自然を知っていて、自然じゃなければそう簡単には頷いてくれないのだ。
残念な事に、今のを最後に光の柱現象はめっきり現れなくなってしまった。きっと偶然にも雲の密度が低い部分が続いていたのだろう。
俺達はしばらく無言で探索隊の辿った道を歩き続けた。その道中、空と何度か会話を交わすのを試みたが、やはり彼女とのキャッチボールは一筋縄ではいかなかった。特に彼女からの超速ストレートの受け答えは何度かキャッチしそこねた次第で……。
もちろん、空が悪いなんて事はない。問題なんてゼロだ。彼女としては無言でも構わないのだろうけど、俺としてはやっぱりこう、女の子を横にして歩くとなると、話題は尽きない方がいいのかな、なんて勝手に焦ってたり。
「大丈夫か?」
しばらく歩くたびに決まって俺はそう尋ねた。なんせ訊かなければ空は自分でどうこう述べるような子ではないからだ。それも体がそこそこ冷えてきたからであって、もしどちらかの体調が悪くなるようなら即座に引き返すつもりだし。
「ええ、大丈夫」
だが俺の心配をよそに、決まって返事はこれだった。
しつこいって怒っていたらどうしよう、とまたもや悩む俺である……。ただし空は怒りの感情がないというし、俺にいたっては怒りそのものが生まれ付き欠落している人間だときたもんだが。
ただ空がさっきから俺の方に体をこれでもか、と寄せているのをちらっと見る限り、問題はないのだろうか。いやむしろここは俺もくっつくべきなのだろうか……?
そうこう考えているうちに、俺の体は冷たい風なぞ易々と撥ね退けるような温かさを帯びていた。…………あぁまったく、人間ってよく出来てるもんだな。
なんたって、ドキドキを燃料とする内燃機関が備わっているっていうんだから――――。
いやまぁ俺がおめでたい勘違い野郎なだけかもしれないが。
「――お、やっと丘のふもとが見えてきたな」
とまぁ、一人で勝手にどぎまぎしているうちに、地上に出た時から見えていた一際目立つ丘のふもとが見えてきた。それは近くで見るとちょっとした山のようで、近づくに連れて見える上空の景色が削られていく。
丘のふもとで今まで辿ってきた旗は途切れていた。そこから先はまだ誰も行った事がない、あるいは何かがあって先に進めないのか。とにかく探索隊が関与していないところになる。少なくとも今まで辿ってきた景色とあまり変わらない気がするが、この先だけは自分の目で確かめなきゃいけない。
「見上げるほど、ってくらいじゃないけど、行けるかな?」
しゃがみ込んで丘の砂を手ですくう。すると砂はサラサラと指の隙間から風に吹かれて宙へ散っていってしまった。ここの粒はかなり細かい。
「まるで砂丘みたいね」
空はてのひらに砂を乗せて、その感覚を懐かしむかのように指先でいじくっていた。
「足を取られそうだけど、高い所から見回すのはいい案だと思うな」
思い切って丘の傾斜に一歩足を踏み入れる。するとわずかに足が砂に沈み込んだ後、足は硬い部分に当たったのか、しっかりと踏み止まった。どうやら砂は硬い地盤の上に振りかかっているくらいのものらしい。
「お、大丈夫そうだな。下に硬い部分がある」
「これなら登れそうね」
二人で周囲を何度か足踏みして安全を確かめた後、俺は少しためらってから、空に右手を伸ばした。すると彼女はなにも言わずに、まるで植物の蔓のように俺の手にするりと絡めてきた。繊細で、力をこめれば折れてしまいそうな、その美しい手を。
思わず意識してしまう俺に対し、一切のためらいのない彼女にはどきりとしてしまう。それはある種の感情の有無からくるのだろうけど、俺からすれば積極的なようでどうも……。
「……だいぶ冷えてるじゃないか」
空の手はひんやりとしてしまっていた。いやむしろ俺が熱いのか。熱力学の第二法則に従って、俺の手の熱が空の手にどんどん奪われていく。
「もう大丈夫。優星の手、温かいから」
言いながら空はぎゅっと手に力をこめた。その力強さは逆にこっちの手が折られそうなほどだった。彼女は直感的な感覚を言ったのだろうけど、俺にはその言葉がとてつもなく嬉しかった。
「……それじゃぁもう離すなよ。もうこの先は何があるのか、何が起こるのか、何が待っているのか、誰もが知らない未知の道だから」
ぎゅっと手を握り返し、俺達は一歩ずつ確実に丘を登り始めた。
丘の傾斜はきつい坂道程度はあって、やや滑る砂と相まってなかなかに苦労した。ただそれでもリズムを崩さずに少しずつ確実に進んでいけば、足が止まるような事はなかった。
五分ほどかけてようやく丘の頂上付近に辿り着くと、そこで突然不思議な音が聞こえ始めた。一歩進むごとに、ぱきり、ぱきり、とまるで薄い氷に罅が入るような音が聞こえてきたのだ。
「……足元から聞こえるわ」
と、俺の手を握ったまま空が腰を屈めた瞬間――――
「あ――――」
「うぉっ!?」
パリィイイイン、と余韻を残す〝ガラスの割れるような音〟が聞こえたかと思うと、俺の手ががくんと下向きに引っ張られた。――空が、〝落ちた〟…………!
「っ……離すな!」
俺はかろうじて斜面に踏み止まっていた。手を繋いでいなかったらと思うと――――。
状況は見えた。突然、一辺が一メートルくらいの四角い穴が、砂丘の斜面にぽっかりと口を開け、その穴に空は体ごと落っこちてしまったのだ。
今この手を離したら、落ちるという事だけはまず分かった。下は底が見えない。真っ暗闇で地獄まで落ちてしまいそうだ。奈落の底、と言えばいいのだろうか。
「っく……どうしてこんな所に穴が……! しっかり、手を離すな!」
とにかく空を引き上げねば、と思うも無理な体勢に俺の体が悲鳴をあげる。ここは斜面だからふんばりが効かない。俺が力を抜いた瞬間、二人は共に下へと落ちてしまうだろう。
「ぅっ……」
俺の足が砂を穴に押し出してしまい、降りかかる砂に空が咳き込む。それでも彼女は自由な右手をなんとか持ち上げて、穴のふちに指をかけてくれた。すると幾分か足の滑りが止まった。
「い、いけるか? よし、せーのっ!」
思いっきり力をこめ、それでも滑らないように出来るだけ腰を低くして、引き上げる。そしてようやくどうにか這い上がる事には成功したが、それで無事脱出、というわけにはいかなかった。立ち上がって穴から離れた瞬間、またしても罅の入る音が聞こえ始めたわけで……。
「はぁっ……はぁっ……。あぁ……映画でよく見るぞ、このシーンは……!」
「ええ……っ……。ただの丘じゃないみたい。どっちへ?」
俺は遠心力で頭蓋骨から飛び出しそうなくらいに脳をフル回転させた。さっきの音は間違いなく〝ガラス〟の音だ。周囲からも響いてくるともなれば、一面ガラス張りの何かの可能性――――
「――――…………? まさか……なら――上だ、登り切るぞ!」
俺はひとつの仮定を脳内で立ち上げ、それで合っていてくれと心から願いながら判断を下す。
今の立ち位置からすると、丘の頂上付近まで登り切ってしまった方が断然にいい。それに、背後全体から罅の入る音が聞こえてきたときたもんだから上へ向かうのは当然だ。
また穴に落ちてはかなわないと、呼吸を整えながら確実に一歩一歩足元を確認しながら早足で進む。幸いな事に登るに連れて傾斜がきつくなるという事はなかった。傾斜はずっと同じ比率。〝自然にしてはおかしい〟くらいに。
正面を見ればもうそこには丘の頂上――つまり俺の予想があっていれば、そこは〝ビルの角〟だ――――
「怪我は?」
とりあえず窓のないであろうビルの角手前で落ち着く。そこに辿り着いてもなお、俺達は絶対に手を放さなかったし、互いに吐く白い息が混ざり合うほどに近くにいた。
「大丈夫、どこも怪我してないわ。あなたは?」
「よかった、俺も大丈夫だ。それよりやっぱり……この丘の正体が判った」
「正……体?」
「あぁ、建物、つまりビルだ。斜めに倒れてるビルの上に砂が被って、丘みたいになってたんだ。それなら角度が一定なのも頷けるし、さっきの穴が窓のひとつだったって事も納得がいく。俺達が立っているここは、ビルの側面なんだ」
足元の砂をいくらか払ってみると、すぐにガラスが見えてきた。頂上付近の砂は風に飛ばされやすいのだろう。表面は砂で削られて濁っていて傷だらけだが、透明の輝きはまだ失われていない。もちろんその向こう側は暗黒がぽっかりと口を開けているのだが。
俺達が歩いてきた部分は既に罅が入るかなんかして脆くなっていたのだろう。戻ろうとすれば間違いなく割れる。しっかし危ない所を歩いてきたもんだな……。
「どこのビルだろ。崩れてないところを見ると頑丈だし、相当でかいからなぁ」
なんのビルだかは知らないけれど、俺達の住んでいた街の建物がこうも形を残してくれているともなると、嬉しくも誇らしくもある。大半はあの邪機の無差別砲撃のようなもので木っ端微塵にされたはずだったが……。
まぁ正直な話、たった十年だ。あいにくと建築は専門外だが、いかに酸の雨が降ろうとも、十年かそこらでここまで屈強な建造物を完全に溶かすなんて事は出来ないはずだ。攻撃と火災に曝されてない部分はもっと残っていてもなんら不思議じゃぁない。
――――だとすれば、この途方もない砂漠の下には、まだ街の残骸が大量に残っているのかもしれない…………?
そう淡い希望を抱きながらふと背後を振り返ると、遥か眼下に探索隊の残していた旗が小さく見えた。何階建てのビルの何階部分辺りから登って来たのかは判断つかないが、意外と高さはあったようだ。
「よし、どうする? どっちが先に向こうを見る?」
あともう二、三歩進めばビルの丘の向こう側が見える。このお山の向こう側にはいったいどんな景色が広がっているんだろう、か。
「私はどちらでも。またなにもない景色が広がっているかもしれないけれど」
イエスかノーではない。どちらでもという完璧な中間を、けれど誰よりもはっきりと言う空。そして付け足した言葉は皮肉でもなんでもなく、彼女が本当に純粋に偽りなく思った事だ。
「ははは、やめてくれよ。まぁ多分そうなると思うけど……。じゃぁ同時にしようか。目をつぶって」
目を閉じたまま空と肩を寄せ合って正面を向く。さっきの一件で冷や汗こそかいたものの、お互いの体は相当に温まっていた。そして手は自然、より力強く握った。
小さく二歩ばかり進んで止まる。これ以上は進めない。次の一歩は間違いなく急降下コースだからだ。恐らくビルの屋上という名の急坂があるはずだから。
空気を読んでくれたのか、風が凪ぐ。するともう聞こえてくるのは互いの呼吸音のみ。
この先にまた無の光景が広がっていたなら、それはまたそれだ。夢の謎に関するヒントがひとつでもあってくれれば、ここまで来た甲斐はあるが。
無駄に動悸が速くなる。何もないかもしれないからこそ、困った事に期待というものは爆発的に加速していく。さっきとは違った回転数で、またしても心という名の内燃機関が唸りをあげる。
「それじゃぁ――――せーのっ!」
一呼吸ののち意を決し、俺達は同時に顔を上げ、その目をゆっくりと開いた――――――
『……………………!!』




