瞬間女輝
ぞくにいう夕方。地下都市内の照明がやや落とされ、明るい白色の光から穏やかなオレンジ色に移り変わっていく時刻。母親達が走り回る子供達の手を引いて自室へ戻ろうと奮闘し始める時刻だ。
朝であれば、徐々に照明が明るくなっていき、その中を仕事が早番の人達が寝ぼけ眼をこすりつつ歩いている光景が目に付く。地下都市で活躍する照明はとてもうまくできていて、まるで地上と変わらぬ日差しのようだと錯覚さえ起こしてしまうくらいだ。
また深夜であれば照明系統は全て落とされて、各所で小さな機器類や非常灯やらがチカチカと光るくらいになる。そうすると今度は地上では体験できなかった一味違う〝夜景〟を目にすることができる。先生が言うにその光景は、昔に絶滅してしまったホタルという生物が夜に見せる光景と瓜二つらしい。
……あと、夜の探検ごっこは私も何度かみんなとやったっけ。危険な場所に行かないという条件付であれば、私達に門限というものはなかったのだ。
夕方のオレンジ色の光の中、私達は食堂へと向かった。食堂は常に開放されてはいるけれど、ちゃんと食事が取れるのは基本的に規定の時刻間だけ。朝昼晩の一日三食。ちなみに三時の『おやつ』の概念は、今はみんなの心のなかだけにある。
もちろん、緊急事態であれば食事の用意はしてくれる。その緊急事態とやらが週に二回ほど発生するのがハタケだ。なにをもってして緊急事態なのかはわからないけれど、彼に言わせれば〝腹が減ったら〟緊急事態らしい。もっとも、彼の緊急要請を毎度のごとく受理してくれるほどやわな食堂ではないけれど。
――と、いうわけで今日は比較的緩やかな緊急事態を対処するために、私達一向は早めの夕食にすることにした。どちらにせよ今日は早く寝たいところだったから、私にはちょうどよかった。
「よぅし、おいらの幸せな時間がやってきたぞ!」
そう言いながら食堂の先陣を切るのはハタケだ。一日三回も幸せな時間がくるとは。食事に関しては、私は単に〝必要なものとして〟くらいの認識しかない。いつか日に三回の約束された幸福を感じられるようになってくれるのだろうか……。
食堂はまだガラガラに空いていたから、私達一行はカウンターで食事をスムーズに受け取り、いつもの席へ落ち着いた。ちなみに私の今日の栄養ドリンクは『弱』だった。
「――で、先生の様子はどうだったの?」
ご飯を食べ始めるなり今日のお題がスズから発表された。食事時の話題のスタートは九割方彼女から始まる。もっとも、こーすけとハタケの話は大方スズに先導されて別の話題になってしまうし、私から話題が始まることはまず、ない。
「私と話し終わったあとにすぐ寝てしまったわ。あまり元気とはいえなかったけれど」
眠るように死ぬ、という言葉があるように。縁起でもないけれど先生の眠りの入り方はまさにそのようで、もう一度部屋に行って確かめなくちゃと思うくらいだった。
「へぇ! 空ちゃんあの先生と喋ったんだ? 勉強の話でもしたのかい?」
私の報告にまず反応したのはこーすけだった。
「ええ、少しだけ。勉強の話じゃないわ。ちょっと病気の話とかを」
「病気? なんだやっぱり先生は病気だったんじゃないか。で、それはどんな病気?」
「病名は聞いていないけれど、病気は治るって言ってたわ」
それだけ伝えるとみんなはパッと顔を明るくさせた。私もこう、嬉しそうに伝えられればよかったのだけれど、残念ながら淡々と語ることしかできない。嬉しいことなのに、自然に笑顔で喜べない。
病気は治ると先生は確かに言った。けれどそのあとに付け足した寿命はどうしようもないという言葉を伝えるべきなのか。先生はもう寿命による死を待つ身になってしまっているという事実を。
「――やぁ、早いね」
先生の寿命について話してみようかと思ったところに、ふと優星が現れた。
とりあえず、私は先生の話題はここまでにしておくことにした。あまり言いふらさないほうが先生のためになるかもしれないし。悪い話題は今はやめておくにこしたことはない。
「やっぽーゆーせー!」
もしゃもしゃとウサギのように野菜を頬張るスズに笑いかけてから、優星は空いていた私の隣に座った。ふと彼の食事の載ったトレイを覗くと、そこには見覚えのある小瓶が一本あった。
「優星、あなたそれは……」
「『強』だな、強烈なヤツさ。はは、心配はいらないよ。仕事やってると週に二、三本は載せてくるからな、あの機械」
栄養ドリンクの話だ。つい先日私も『強』を飲むことになったけれど、あれは二度と飲みたくはない。
「明日の準備でもしてたんですか?」
「あぁ少し準備を済ませてきた。いやぁ驚いたよ、こんなほいほい準備が進むなんてさ」
優星は固形剤の刺さったフォークを器用に指で回しながら言う。まったく、彼の言う通りだった。暗地に行くことを決意してからこんなにも早く事が進むとは。まるでなにかに導かれているような錯覚すら覚えてしまう。問題が起こらないのはいいけれど、あまりにもうまくいきすぎてそれが問題視されるというのもまた不思議なところだ。
「手際が良い、って言うんですよ、優星さん。できるところからどんどんやっていかなきゃ」
「うん、まぁ効率を求めるのもいいが、そこだけを突き詰めていくととんでもない事になるぞ」
言って、優星はこーすけに一瞬だけ怖い顔真似をしてみせる。突き詰めていくとどんなことになってしまうのかは、今ばかりは誰も尋ねようとはしなかった。
「ねぇねぇ、物事がどんどん進むのはいいけど、優星とくーちゃんは平気なの? ほら、心の準備とかさっ」
スズは私と優星のことをきちんと心配してくれていた。けれどおかしなことに、改めて言われても私は大した構えというか、覚悟というか、そういう心配という類の感覚はまるでなかった。もとより私の〝感情不足〟がそうさせているのかもしれないけれど。
あなたは? と私が視線を優星に向けると、彼も同じだったらしく肩をすくめただけだった。
『特に』
それからややあって、私達は揃ってそう口にした。
『と、特にぃー!?』
ずさー、と大げさな仕草でずっこけるこーすけとスズ。それに頷いて答える私と優星。
「さすがだなぁ優星と空ちゃんは。まぁ心なんて常に準備してくれてるんだから、改めて構える必要なんてないんだからよう」
ハタケはいつの間にか持ってきていた〝コーヒー風味〟のお湯をすすりながらそんなことを口にする。彼が食後にあれを飲むと、ときたま詩人めいた発言をすることがあるのだ。ただいつもこーすけとスズはその『名言』をふぅんと受け流す。
「あ、いんちょーだ!」
不意にスズが持っていたフォークの先で私の後方を示した。今回のハタケの名言については考える間もなく振り返る。けれど目的の人物を探すのに私はそこそこ手間取った。なぜなら食堂の入り口は夕食を求めてやってきた人々でごった返していたからだ。
「よく見つけるな、スズちゃん。……いや、例のアレか?」
優星の問いにスズは頷くも、私はそこでひとつの疑問を感じた。確か彼女はいつも院長のオーラだけは見えないと言っていたからだ。
「スズ、院長のオーラが見えるように?」
「んーん、あいかわらず視えないけど、視えないから逆によく視えるの。ほら、周りの人が明るいけど、院長がいるところだけ空白みたいに。んー……明るすぎて眩んじゃうのかもっ」
なるほど、と周囲はそれに納得した。目は明るすぎても暗闇と同じくしてなにも見えなくなってしまうのだ。視界が真っ白か真っ黒かだけの違い。
「それってその人の性格みたいなのを表してるんだっけ?」
「うん、いまんトコそれが一番有力かなぁ。あたしもわかんないんだけどねっ。でも院長が明るすぎるってのはみんな納得でしょ?」
ぺろっと舌を出しながらそう答えて、スズは私の背後に辿り着いたらしい院長に手を振った。
「やぁ、おはよう!」
聞きなれた声が私の背後から聞こえる。もう一度振り向けば、そこには真っ白な白衣に身を包み、これでもかと白く光る歯と、これまたこれでもかと輝く笑顔を広げる人物――院長がいた。眩しすぎるというのは言わずもがな。周囲から手を振られて振り返すところはまるでアイドルよう。
私達がそれぞれ挨拶を返すと、院長はさて、と改まって視線を私と優星に交互に向けた。
「暗地への準備はバッチリかい? お二人さん」
『…………!?』
院長は明日のことを知っていた。
「暗地に誰かを送るという時には市長の他に私の許可も必要だからね」
それから院長は腰を屈めてコソコソ声でこう付け足した。それにみんなは黙ってこくりと頷く。
「それに優星はともかくだ、空ちゃんはまだ私の管理下だからね。気になるのは当然だよ」
「管理下……ですか?」
「うむ。君、もとい君達は救済院の可愛い可愛い子供達なんだから。心配は有り余るほどにあるよ」
心配と言いながらもにっこりとした満面の笑みでそう言われて、私はあぁと納得した。
……そう、あと一年後にはもう救済院を出て一人で暮らさなければならない。もっとも寝たりするのは今でも一人だし、どこへ行こうと可能な範囲はこの地下都市に限られているから大きな違いはないけれど。
ただ地下都市の法律――柔らかくいえば規定では、男女問わず十八歳で成人となることになっている。つまり高等部を卒業したあとは、救済院の管理下を離れ、ひとりの成人として新しい部屋と仕事といった新しい生活スタイルが与えられるわけで。とにかく、成人するまでは院長が親代わりのようなものなのだ。
「院長は俺達を止めようとしないのか?」
優星が院長に負けないにっこり顔で尋ねる。
「止まる気が微塵でもあろうものなら止めるよ、優星。なに、私はね、心配でもあるがあまり君達を強制したくはないんだ。ただでさえ――あー……この窮屈な世界に縛られているんだから。それにいい機会じゃないか。私としては今しか出来ない事を精一杯体験して、それから成人になってもらって、もっともっと広く自由に生きていってもらいたいんだ」
そう語る院長に珍しくハタケが手を挙げる。
「でもよぅ、院長。おいら達はこの地下都市の中をほとんど知ってるから、成人してもあんまり変わんないんじゃないか?」
「そうだよそうだよ! あたし達この地下都市の隅々まで行ったコトあるしー?」
「まぁまぁ、それはごもっともだ。特に君達は大ベテランだからな、ははっ! だが広いっていうのはね、なにも物理的なお話だけじゃぁないんだよ」
攻撃を仕掛けるハタケとスズに院長は、人差し指を振りながら甘いね、と首を振る。
確かに私達は地下一階から五階の隅々までを踏破したつもりだった。普通は立ち入り禁止の発電所や環境維持装置のコントロールルーム、果ては端っこの端っこの地下の岩盤が見えるところまでも。――思い返すと私達は結構なワルだったのかもしれない。
「え、じゃぁ他にどんなことがあるっていうんですか、院長?」
「そいつは皆、あと一年ちょっと楽しみにしておきなさい」
笑顔の一蹴にみんなはなんだぁ、と落胆する。こうなってしまえばもう院長からなにかを聞きだすのは不可能。
「……さて、私は仕事があるからこれで。空ちゃん、優星、明日の朝は私が案内するよ。――――〝地上への入り口〟をね」
最後の言葉は食堂の騒がしさにのまれてしまってかろうじて聞き取れるくらいだった。地上への出口……ではなくて入り口。なるほど甘かった。私達はそんな所を冒険したことがない。
「わかりました。お願いします」
「あぁ、了解だよ」
私と優星がそれぞれ返事をすると、院長はそれじゃと白衣をひるがえして食堂の入り口へと戻っていった。どうやら私達と話すだけのために来てくれたらしい。
「……それじゃ、私は先に部屋へ戻るわ」
食事を終え、院長も戻ってひと段落したところで私は立ち上がる。明日は寝不足のまま行動するともなれば優星に迷惑をかけてしまうだろうから、今日は早めに寝ることに決めていたのだ。
「お、そうだな俺も戻るよ。もうちょっとだけ明日の支度があるし」
ぐっと背伸びをしながら優星も席を立つ。ええ、と不満があがるかと思ったけれど、みんなちゃんと明日のことをわかっていてくれて、食器は下げておくからーなんてこともスズが言ってくれた。
「寝れなかったらあたしが子守唄歌いにいってあげるからさー!」
スズの場合は歌い終わったら間違いなくトークの時間がやってきてしまうだろう。寝れるのはきっと日付が変わってからだ。
「おいらのお腹で寝てもいいぞぉ」
ぽわん、と揺らぐハタケのそれは間違いなく起きられなくなってしまうだろう。昔はよくお世話になったけれど……。
「僕は最新空間軌道工学でも読み聞かせてあげるよ。いやぁ最近ハマっちゃってさ。ラバーメタルメッシュチューブの将来性といったらもう凄かったん――」
少なくともこーすけが喋ってる間は私はずっと寝ていられるだろう。これに関しては安心だけれども――――どちらにせよ、みんなに迷惑はかけられない。
「ありがとう。でも大丈夫、ひとりで寝ることはできるから」
多分、という言葉は飲み込んで。
「はは、羨ましいなぁ空は」
「あ、なぁに? 優星もやってほしいの? 甘えん坊さんだねぇ、歌ってあげよっかー?」
にやりと不敵に笑うスズに優星はたじろぐ。
「いやいや、俺は最新空間軌道工学の方を選ぶさ」
「え!? 本当ですか!? 優星さん!」
「冗談冗談……。それこそ本当に寝れないよ」
残念そうに肩を落とすこーすけの背中を優星はまた今度な、とぽんぽん叩く。
「それじゃ、おやすみなさい」
「またな」
『おやすみー!』
いただきますの声が溢れている中、周囲の視線が集まるほど場違いな三人の声に送られて、私と優星は混雑する人波を抜けて食堂を後にした。
夕食を求めて賑わい始めてきた廊下を抜け、私と優星は階段の所まで来てそこで一旦立ち止まった。彼の部屋は地下三階だからここで別れなくてはいけないのだ。
階段を下りる間際、優星はしばらく床に視線を落としてから、ややあって口を開いた。
「――夢は……見るかもしれない。見たくはないけど、明日の事を考えるなら見ておいて損はないって、今日に限ってはそう思うけど。空、君はどう思う?」
優星はあくまでも明るい表情で尋ねてくる。普段は見たくもないものだけれど、夢の謎を解くためのヒントを探しにいくともなるともう一度よく見てみるべきだ。見たくもない細かいところに気を配ってみる必要がある。それに…………。
「夢がまた変わるかもしれないわ。だから今日は……もし夢を見たら、よく見ておかなくちゃ」
「そうだな、うん。あぁ……俺はみんなみたいに君に何かしてあげられるわけでもないからさ、無理はするなよって言うくらいしか」
「そんなことはないわ」
気が付けば私はなぜか即答していた。しかも言葉を続けようとまでしている。
「…………あなたがいるだけで私は――」
――〝充分〟、という言葉は自分でも聞き取れないような小ささで最後に付け足した。声が小さくなる理由もなぜだかわからなかった。けれどはっきりと言ってはいけない、と私の喉元は判断して音量を下げてくれたらしい。
「…………え?」
多分、優星は最初最後を含めて全部聞き取れなかったのであろう。ぽかんと口をあけている表情を私なりに分析するとだけれど。
「ん……まぁ……それじゃ、えっと……おやすみ」
なぜか妙にぎこちない様子で優星は早口に言った。
なぜか妙に動悸がする私はそれにおやすみと返すはずが――
「――待って、優星」
そそくさと階段を下りていこうとする優星を私はなぜか引き止めた。もう用事はないはずなのに、口が、勝手に……。
「どうした?」
振り向く彼を私はなぜか直視できなかった。急に頭の中が真っ白に。灰色の壁に視線を逃がしてしまうし、なにを言ったらいいのかさっぱりだ。なんでもないと言うのは失礼だし……。
「……その」
口ごもる私を不審がるわけでもなく、優星は急に小さく笑った。その謎の微笑みに私はようやく彼の顔を見れた。すると、そこで私は言いたい言葉がぱっと脳裏に浮かび上がった。
「わかってる、これだろう?」
……ええ、きっと私が言いたかったのはそれ。なぜか私は彼がこれから言うことを知っていた。
『――――良い夢を』
恒例になりつつある挨拶を揃って同時に交わすと、優星は私に背を向けて階段を足早に下っていく。近くで見る時はとても大きくて広い背中。それが徐々に小さくなっていく光景は……なぜだろう、嫌な感じがした。
優星の姿が見えなくなったあと、私はなぜか頬が少しだけ緩んでいるのに気が付いた。ふと触ってみると、私の頬はいつもより少し温かかった。……きっと、食後のせいだろう。私はそう仮定しつつ自分の部屋に戻ることにした。
私は廊下を歩きながらひとり冷静に考える。さっき、たった数分の中で、私は〝なぜ〟と何度思ったことだろうか。その〝なぜか〟は今まで幾度となく感じてきた理由の見つけにくい疑問達だった。…………でも、これは決して悪いことじゃない。
この〝なぜか〟はとても大切なものだっていうことは、私はちゃんと知っているから。そう、とても、とても、とても。
だって、その理由が解った時というのは、私の心がひとつ成長する時なのだから。
私にひとつの感情が芽生える、その瞬間だっていうのだから――――




