急逆反転世界
《どうした、優星。珍しいじゃないか工房からなんて》
久しく聞く高硬度の金属みたいなきりっと妥協の許さない声が、工房の壁に設置されている通信機のスピーカーから聞こえてきた。同時に空達に声を出さないでとのジェスチャーをしておく。念の為。
「ケンさんども、久しぶり。ちょっと訊きたい事があってさ、今時間大丈夫?」
俺がケンさんと呼ぶ通信機の向こうの彼は、この地下都市の市長である人物、須堂研吾だ。院長と並び、俺がこの地下都市で暮らすようになった当初からの知り合いである。
ケンさんは都市内での大きな物事の最終決定権を持っていて、狭き地下都市いえども個人ではまず話す機会がないような人物といえばそうだろう。証拠として俺のすぐ隣で眼鏡をかけた少年が手で口を押さえて飛び跳ねている。……というか会いたいという人物の方が珍しいが。
《しばらくは大丈夫だが、何だ?》
気を張ってないと心を切り開かれてしまいそうな、メスのような鋭さをもった探るような声に、俺は慎重に言葉を選ぶ。もちろん普段は気さくに話しているのだが、久しくかつ工房からの連絡ともなれば、多少なりとも警戒するのは当たり前だろう。
「あ、いやちょっと気になった事があってさ。……えっと、この地下都市以外にも地下都市が存在するのかっていう話なんだけど。その、もしあるなら交流とかさ」
いきなりこの質問でいいのかと幸助にちらりと視線を向けると、彼は黙って激しく頷きならお願いしますと口パクで意思表示をした。まぁこれについては俺も気になるところだ。
《…………ふむ、相変わらず単刀直入だな。無論、あるとも。それも無数にあるだろう》
さて単刀直入なのは果たしてどちらか。この人は今、ためらいもなく平然と――――え……?
「そ、そんなさっぱり断言していいのか?」
《他の都市と交流したいと思っているのは私とて同じだ。だが暗地はまだ不明な点も多く、探索隊もそうそう毎日のように出向かせる訳にはいかない。それに以前私が直接行くと言ったら秘書にこっ酷く怒られたよ》
苦々しく静かな笑い声を上げるケンさん。それくらい行きたいという気持ちはあるのだろうけど、立場上そうも言ってられないらしい。しかし彼の発言を撤回できる秘書というのもまた……。
「なら例えばだけど、俺が暗地に出るとか、他の地下都市に行きたいとか言ったらケンさんは止めるかい? そりゃ規定上ではダメってなってるけどさ」
冗談交じりの声色で尋ねてみると、通信機はしばらく無音になった。それもそうだろう、突拍子もない俺の発言に向こうでは盛大に首を傾げてるに違いない。それに俺と空が見る謎の夢の手がかりを探しに行くとは言いにくいものがある。大人からすれば、そんなのは馬鹿馬鹿しいと一蹴されてしまう可能性だってあるんだし。
長い長い、数分には値するであろう三十秒程度の沈黙ののち、通信機からは最初に流れてきたのは短い溜息のようなものだった。
《……いいや、止めはしない。立ち止まってて我々に何が得られよう。それに止めたところで優星、君が大人しく言う事を聞くと? そうであれば君が偽物であるかもしれないと私は疑うよ》
しょうがないとばかりに肩をすくめる様子が声から分かる。なんともはや、俺の発言を本気と受け取ってくれたらしい。
「よくお分かりで。躊躇するならやっちまえ、これが俺の性格だからね」
意地悪く笑って次の返答を待つ。
《そうだ、それでこそ優二郎の息子だ。ここだけの話になるが……二十歳になる前に暗地に出てはならないという規律を作ったのは確かに市長である私だ。故に君も探索隊志望で何度も門前払いを食らっている事だろう。しかしだ、優星。君は何故、私がそのような年齢になる以前に暗地へ出る事を禁じたと思うかね?》
「ん、そりゃアシッドレインとか危険な現象に対する危機回避能力の問題なんじゃないのか? あとはまぁ、あのスーツを着なきゃいけないっていう身体的問題かな」
特に悩む事なく答えるも、違う、と一言で否定されてしまった。これ以外に理由があるというのだろうか? すぐには思いつかない。
《それは二の次の問題だ。優星、私が一番危惧しているのは〝精神的〟な問題だ。栄華を極め究極に近い平和のなかで生きていたあの頃の光景が、今や筆舌にし難い程に無残な闇へと変貌している。果たしてその光景を見て、私の住んでいたセカイは〝こういうもの〟だったと自分自身に嘘がつけるかね? あの日、一切の予兆なくして終わりを迎えた世界。常識が急転した世界。光と闇が逆転した世界。なにもかもが反転した世界。全てがあらぬ方向へと転じたあの日を今一度その眼で再認する事が如何に酷な事か――――》
ケンさんの苦い口調からするに、あの輝かしい世界の中を闊歩していた人間が、今現在の地上の光景を見てしまった時のショックは相当のものらしい。実例があったかどうかは知らないが、恐らく探索隊の誰かが精神的異常をきたしてしまったのかもしれない。
カメラその他の動画像を撮影するという機器そのものが、運悪く地下都市には存在しない為、探索隊が目にした地上というものの様子が知れるのは、隊員の声と隊員が描くイラストだけ。この地下都市は一見ハイテクに見えるも、それは〝無事だった〟ものを修理改造したものの流用であって、なんだかんだで最終的にはアナログなのだ。
「…………なるほど。地上の光景を見た事のない人が今の地上を見たとすると、それは初めて見た景色としてそこそこの感想と共にありのままに受け入れられる。〝未知のもの〟だからな。そうでなくともその人達はとても幼いから体力的な問題が引っかかるから、どっちにしろ地上へは出せないという事、か」
《そういう訳だ。つまりそれなりに成熟した、その目で捉えたものに退かず慄かず受け入れる精神が必要であると私は考えている。……もちろん君ともなれば問題なかろうと思うが。〝感情の制御〟が不能というわけでもないだろう。もとい未知に対する貪欲さが人一倍強い君なら》
感情という単語に思わず身を硬くする。……彼女は、今の言葉をどう捉えたのだろうか。あるいは、彼女だからこそ、もしかしたら最適であるというのだろうか?
「思春期の類は青春とともに〝地上に置いてきた〟よ。だから心配は要らないさ。抑えられるものは抑えられるし、見たものを安易に拒絶する事もないよ。未知の惑星に置いてかれたって生きていける自身はあるさ」
そう言って自嘲気味に笑ってみせると、通信機の向こうで鼻で笑われた……。でもこいつばっかしは嘘偽りじゃない。確かに今は今で楽しいし生きるのになんの不自由もない。辛い事だってそんなにない。それでも、それでも当初予定していた俺の青春とは程遠い。
俺の青春は、いつか〝地上で味わいたい〟とこなんだけどなぁ…………。
《しかし優星、ひとつ訊いておくが、何故突然にも他の地下都市へ行こうと思い至った? 理由によっては前言撤回の可能性もあるが》
一番訊かれると面倒だと思っていた質問に、思わずうっ、と口ごもる。ここで夢の話云々を語るわけにもいかないし、どちらかといえば非科学的なものは好まない性質の人だし。困ったな……。
「あーいや……うん、そろそろちょっと退屈でさ。どうにかして外の世界をこの目で見てみたいと思っただけさ。地下は飽きたんだ、うん」
門前払い覚悟のとりあえずの嘘。
《…………そうか、言いたくなければまぁそれもいいが。悪い事は考えていないだろうな?》
俺は嘘をなんなく見破られ、姿の見えない探るような声にまたしてもたじろぐ。どうも俺は嘘というものが苦手だ。顔と声に目立ちたがり屋のごとく出てくるからたちが悪い……。
「まさか、誰にも迷惑はかけないだろうし、むしろ〝好都合〟かもね?」
一応そう濁しておいたが、これもまたなんなく看破される事だろう。
《好都合? ふむ、そうか。しかし急な提案だが――良い機会でもある。偶然か必然か、実は私も地上へのまともな進出を近い視野に入れていたところでね。出せる限りの情報は提供しよう。……そうだな、こちらの仕事もひと段落だ、後ほど工房に行く》
「えっ……あ、あぁ、分かった。待ってる」
反射的に返事をしてしまったが、よくよく考えたらここに来るって……。いやまぁ想定内ではあるが……。
「ゆ、優星さん、これから市長がここに来るんですか!?」
通信を切った瞬間、幸助の息せき切った声が飛ぶ。
「やっぱやばかった?」
「いえ、僕達はまだいいんですが、あなたと市長の秘密なのでしょう? ここは。そこに見知らぬ人がこんなにもってさすがに……」
言われてみれば確かにここは俺と市長の秘密の工房だ。しっかしよく考えてみれば秘密にしておく理由なぞ…………ない、か? それに――――
「この事は秘密にしてくれって君達に言ったって、無駄だろう?」
にんまりと尋ねると、にんまりがふたつ投げ返されてきた。
「――――さ、とにかくこれから忙しくなりそうだ。ケンさんがくれば何かしらの進展があるはずだし」
朗らかに言った俺に影響されたのかわからないが、幸助とスズちゃんはワクワクに顔を光らせた。……が、やっぱり空はそんな俺達を静かに見つめているだけで、表情に変化は、ない。
――――共感が出来ない。それが彼女にどれほどの苦痛をもたらすのかは、俺には解らない。いや、彼女は明確な苦痛こそ感じないと言っていた。そういうのを本来感じるはずの心の無反応さ、虚無さがただ純粋に嫌だと言っていた。それは感情的な嫌悪ではなくて、本能的な拒絶だった。
これだけは本当に他者が理解できない状況だ。それに苦しみや悲しみを感じないならそれはとても素晴らしい事じゃないか、と普通は言うだろうし羨ましがるだろう。挙句の果てにはどうやったらそんな人間になれるのだろうか、などと彼女に詰め寄るはずだ。
しかし彼女は負の感情を抱く事をさえも含めて、そんな事を言う人間の心を羨ましがって――――違う、〝本能的に欲して〟いる。それこそ人が生きる為に酸素を求めるような自然さで。
それなのに、それなのに彼女の本能は未だに満たされてはいない。〝感情の呼吸〟ができないままでいる。もちろんそんなのが続けばいつか窒息して死んでしまうに決まっているだろう。そんなの彼女は望まないだろうし、俺だって、嫌だ。
空の心は、どうやったら息を吹き返してくれるのか。その為に俺は彼女にいったい何をしてやれるっていうのか。今回の夢騒動が良い方向に傾けばいいのだが……。
「なんか本格的になってきたねー!」
スズちゃんの声が思考を寸断する。
「うーん……もう僕はおなか一杯だよ」
幸助は溜息をつくも、それは恐らく満足の意だろう。羨ましい事に彼は嬉しさに疲れているといった感じだ。
「ん? なら俺がいただいちゃいますか」
しかし俺は幸助のそれを食べ物に対する満腹なのだとわざと受け取って、机の上にまだ三つ置いてあるおにぎりにさっと手を伸ばす。けどそれは流星のごとく割り込んできた彼の手によって阻まれた。
「いやいやいや優星さん、その意味で言ったわけじゃないですよ! これは持ってきた僕が責任をもって一粒残らず食します」
「はは、冗談さ。しかし三つ余りか……」
ま、ここは大人の対応ってヤツか。俺は我慢するべきだなこれは……。
「こーすけって意外と食い意地はってるねー」
椅子に腰掛けて足をぱたぱたさせながらスズちゃんがそんな事を言う。
「む……言ったな、それじゃその通りということでスズの分ももらっておこうかな」
意地悪くにやけながら幸助は机の上のおにぎりに魔の手を伸ばす。
「なにぃ? あたしとやる気ぃ?」
対してスズちゃんは例の必殺技の姿勢を構え、幸助より遥かに背が小さいながらも下から彼を威圧する。なんか妙に背筋の毛が逆立つような……。
「じ、冗談だって。ほら食べていいよ」
幸助は言いながら上部のアルミホイルだけを取らずにスズちゃんの手に握らせる。あぁあぁ……。
「よろしい!」
意気揚々とおにぎりを受け取ったスズちゃんは、きちんと確認せずにすぐさまそのウサギのような小さな口でぱくりとかじる。刹那――目に見えていた悲劇。
「――うびえぇ…………! こーすけぇえ! ゆるさん!」
スズちゃんはおにぎりをテーブルの上に放り投げ、その小柄な少女にしては立派過ぎる構えをとる。それを見た幸助のざまぁみろといった表情は一変、恐怖一色へと染まった。――本当に、人間の表情はよく変わるものだ。
「う、っわ、っわ!」
幸助は放たれるスズちゃんの拳の乱打を情けない感じでかわすも、その動きがまるで見えているかのように彼女の拳は彼の体を掠めていく。この動きで目が見えてないというのは本当に恐れ入る……。
そして数秒に及ぶ攻防の末、うっ、と断末魔の呻き声が響き渡る。それにお見事と笑いながら称賛の拍手を送ってみる俺。
「参ったか!」
「う……参りまし……た……。それはスズ様に差し上げます…………」
幸助は腹を押さえながら工房の床に膝をがっくりと着いた。さながらボクシングの敗者といったところか。そんな彼を眺めつつ俺は堂々と、そして何事もなかったかのようにテーブルに残っていた二個目のおにぎりをちょうだいする事にする。敗者には無用だな、うん。
一方、戦いを先程から黙って傍観していた空は今までの光景にまるで興味を感じていなかったらしく、ただ椅子に座って床で呻く幸助を観察していた。まぁ、結果はいつも同じだからだろう。
――――で、よくよく見ると、彼女の手にもしっかりと二個目のおにぎりが握られていたとさ。




