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表裏懸隔

 ――――確かに彼は、笑ったのかもしれない。


 ◇


 高鳴る鼓動。無意識に上がる頬に釣られて持ち上がる口角。呼吸をすれば空気はいつもの味と違う。よりしっくりと肺の奥深くにまで馴染み、酸素はまるで麻薬のように理性の天秤を揺蕩(ようとう)させる――――。

 笑うという事の定義を()(つま)むとすれば、彼の〝表情は〟紛れもなくそれに近いものであった。しかし彼の内心を(うかが)う限りは、〝(わら)った〟という言葉が至当であったかもしれない。その言葉の存在が示すように、『わらう』とは一概にひとくくりに出来ないのだ。

 他愛もない会話の中に幸福を見つけ、笑う。己が欲の器に道楽を注ぎ満たし、笑う。ただ純粋に愛し、笑う。それが普通であるはずなのに、彼は生まれてから今に至るまで、ただの一度もそんな感情(コト)を心に刻む事はなかった。

 彼は生まれつき感情が欠けていた――否、一生涯かけて会得出来るはずの感情(モノ)が限られていたのだ。数億人に一人……いや、数万、数千、数百、あるいは気が付かないだけで、実は誰もがそうなのかもしれない。怪我とも言えず、病気とも言えない、感情の欠如という人間の不具合。

 自身に不具合が生じているのだと自覚している彼は、ついさっき笑えた事に確かな希望のようなものを感じ取っていた。今まで闇しか注がれなかった器に、一滴の光が滴下されようとしているのだ。

 ――――そう、たとえそれが〝カタチだけの笑み〟だと解っていても。今はそれで充分だった。可能性を自覚出来る限り、まだ生きてみる価値はあるのかもしれない。

 笑っているのに、笑っていない。そんな単純明快な表裏懸隔(パラドックス)に、彼の心はまだ嗤う事しか出来ない――――――


 ◇


「…………指令通りにやったぞ」

 誰に言うのでもなく、少年は薄暗い自室のベッドの上で呟く。あれだけ言ってやったのだ。恐らく先程の二人はもう二度と自分に関わろうとしない事だろう。

「ご苦労さま」

 だが突如、この場にはいないはずの男の声が響いた。その言葉こそは丁寧であるも、声色には一切の労わりの色が見られない。それはどこか数世代前のアンドロイドの声調に酷似しているような、形式的なものに過ぎなかった。

「あれくらい、簡単な誘導だ」

 少年はただ静かにかぶりを振った。

「そうか。君には近いうちに例の二人と会ってもらう事になる」

 壁に埋め込まれている通信機からする声に、少年は理解の首肯を示す。その件こそが、彼が待ち望んでいる〝本当の〟『わらう』に値するかもしれない出来事であった。

「アノ実験、か。やっと…………」

「データは揃いつつある。残るはその回収のみだ」

 目標に近付いている事を確認した少年は、躊躇(ためら)いがちに顔を上げ、虚無な白塗りの壁を凝視する。

「――十年間も待った」

 胃の底から搾り出すようなその声色が、彼の過ごしてきた十年間がいかに苦しいものだったかを物語る。だが凝縮された苦悩が纏わり付いたその一言は、姿の見えない男には届かなかった。

「データの収集には時間が要る」

 同情の欠片もない予想通りの返答に、少年は短く息を吐く。

「……で、これでボクは……ボクは本当に人間になれるのか?」

 それは既に解決しているであろう不可思議な問い。何しろ誰がどう見たとしても、少年が紛れもない人間であるという事は明白なのだから。あるいは彼は人間のカタチをした人ならざるモノなのかもしれないが。

「安心したまえ。苦しんでいるのは君だけではない。そして何よりもこの私自身がそれを一番望み、叶えようとする者だ」

 男は少年の問いに明らかな意義を見出し、そして他でもない自身こそが、その問いの答えを導く者であると言う。

 少年は頷き、近く叶うであろう希望に嘆息した。それは珍しく、負の感情が一切関わらないため息だった。

「では仕上げを君に頼もう。回収の前に、〝あの子〟に恐怖を抱かせるのだ。あわよくば今宵、そのデータを以てして完成となる」

 それでは、と男の声が別れを告げ、それを最後に通信機が再び鳴る事はなかった。

「――――あぁ……ボクは悲しい、ボクは恐ろしい……! いいぜ深谷、こんな感情でも欲しいっていうなら、ボクがいくらでも思い出させてやるよ――――!」

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