偶必遭逢
部屋はあいかわらず散らかったままの姿で俺を迎えてくれた。友達御一行がここへ来るともなると恥ずかしいという事もあって、とりあえずぱっと見で大丈夫そうだと判断できる程度に掃除をしておく事にした。……まぁ、既に空には見られてしまっているが。
十分ほどでひととおり掃除を終えたあと、俺は浴室に向かった。別にシャワーを浴びるわけじゃなくて、そこにはちょっとした秘密があるわけでして。
浴室の壁には古臭いタッチパネル式の液晶が付いていて、俺は運転と表示されている項目をタッチしながら、室内乾燥と表示されてる項目を二回、水温を上げる項目を三回タッチして運転項目から指を離す。
――――すると、居間の壁の中で、カチリカチリと無数の歯車が噛み合い連動する機械音が響き始める。歯車のような、物理的かつ直接的に作用する時の機械音は、いつ聞いたって男心をくすぐられるものだ。
音が止まった頃に居間に戻ると、ベッドの脇の壁に――壁であったはずの場所に、人間一人がぎりぎり入れるくらいの小さな縦長の入り口が出来ていた。それに驚くわけでもなく、慣れている俺の体はその〝秘密の入り口〟にするりと入り込む。
壁を伝いながら五メートルほどの細長い入り口を抜けると、そこには大きな部屋がひっそりと、けれど確かな存在感を放って腰を据えている。大きさは小学校の教室をひとまわり小さくしたってところ。壁際のスイッチに触れて電気をつけると、その全貌が煌々と照らし出される。
ずらりと外周に立ち並ぶ容姿様々な工作機械。そのどれもが旧式の液晶モニターを付属させ、所々に配置される無数のボタン達はいかにそれが精密なものかを示している。初見であれば、おまけに機械初心者から見れば、その立ち並ぶ機械達をアート作品か何かと勘違いする事だろう。無論、ここは美術館じゃない。
あらゆるものを、あらゆる要求を受託し、あらゆる数値制御を用い、あらゆる加工技術をもって、筋金入りの超高精度で生産する〝親御さん達〟。そして部屋の中央に設置されている巨大な円卓テーブルの上に並べられている無数の工具は、親御さんの手で成しえない部分を柔軟にお手伝いする〝子供達〟。
――――そして、ここの作業員でもあり、先生でもあるのが俺だ。俺がいなくては、ここにあるもの達はただの美しい金属の塊。その多くが全自動とはいえ、起動は必ず人間の手で行われる必要がある。
この秘密の空間は、地下都市開発が本格的になってきた時期に、俺と市長が秘密裏に造った空間だ。どうして秘密かって……そこはやっぱり男のロマンというか……こう、秘密基地みたいな? 所詮はそんな――ノリである。
市長は元々有名な科学者であり技術者。さらに俺は科学者の息子ときたもので、お互いにどこか似通った血が騒いだのだろう。都市開発中の特に難しく精密な技術を必要とするものはここで市長が造っていて、まだ小さかった俺もずっとそこで手伝っていた。勉強嫌いの俺には、せっかく造られた救済院にはあまり行かず、暇さえあればここで機械いじりをしていたという経緯があるのだ。
「…………さて、やりますか」
しばらくほったらかしていたゆえ、床にはナットやら歯車やらの細かい金属片が大散乱。そこで俺は小さな椅子を円卓の下から引っ張り出してその上に立ち、壁に付いている『緊急収集』と書かれている拳大の赤いボタンを押す。一見ヤバそうなボタンだがなんて事はない、ただの〝楽〟をするボタンだ。
ビー、ビー、という典型的な警報が鼓膜を刺激し、部屋にいくつかある赤い警告灯が瞬く。あとで空達がきたらやってみようか、なんてほくそ笑むこの状況は、今すぐ脱出しないと爆発するぞ的な雰囲気ばりばり。脱出の必要性はないが、血を見たくなければ床よりいくらか高い位置に避難する事が必須。
部屋の隅の床でブゥウウン、と呻るような低い音。その次の瞬間、床に散らばった金属片が風を切る音と共に、音の鳴る床へと向かって一直線に飛んでいく。椅子の足にもガタガタとぶつかっていくも、倒れるとまではいかず、やがて飛ぶ金属片はなくなった。
「うし、掃除完了!」
俺は椅子から降りて、隅の床に集まったネジとかを拾い始める。椅子の上に乗っていたのは、床に立ったままこの〝お掃除ボタン〟を押すと恐ろしい勢いで足に金属が飛んでくるからだ。既に俺は一度経験済みで、あの痛みは忘れようにも忘れられない。
床の仕組みはいたって簡単だ。床の隅っこには強力な電磁石が埋め込まれていて、作動させると強力な磁気が発生して床に転がっている金属類を吸着するっていうもの。集まったら磁気を停止させて金属を回収。当然のごとく磁石に反応しない類の金属やらは手動で回収する事になる。最初はおバカな考えだと思っていたが、これがまた意外と重宝するもんで。まぁ、手間がかかるといえば、それは収集後のネジとかを規格別に分別する事くらい。ちなみに警報とかそういう大げさなのは俺の意向。やっぱやるなら本格的に手を抜かず、だ。
「ふぅ……。ここ最近ずっと一人だったからな、これからは楽しくなりそうだ」
俺は誰に話し掛けるのでもなく一人でぺちゃくちゃと喋っている。別におかしくなったわけじゃなくて、俺はいつも一人になると思ってる事を口に出す癖があるからだ。口に出す事でその意味の深さがより濃くなるから。心の中で笑うより口に出して笑った方がより楽しいから。心の中で悩むより口に出して悩んだ方が気持ちが楽だから。
…………さて、とにかく、この先なにが必要でなにが起こるのかは未知の未知だ。幸助が言う通り暗地に出る可能性だって少なからずあると思うし、それに関しては是非ともこの機会に――チャンスがあればだが、出てみたいとは思ってる。実のところ、俺は昔から地上に出てみたくて、去年くらいに探索隊に志願したのだが、どうも規定では成人以上じゃないとダメらしい。つまりハタチだ。まだ俺は十八歳で本来は救災院で暮らしているはずだが、色々自由にやりたい年頃でもあるので、一般居住区に一足早く住んでいるってだけの事。
しかし、暗地に出るとなると一番の問題はアシッドレインだ。不可解な事――もとより酸性雨という現象は一般的にありえるが、どうもそんなのは比じゃないレベルの雨が降る事があるという。その雨の水素イオン指数、つまりその雨のペーハー値は一から二の間、人間の胃酸と同じくらいの酸性を示しているというのだ。他にも原因があるが、これが主な理由となり、地上で安易に生活ができないから我々人間は地下に住処を構えたまで。降ってなきゃ今頃は地上で暮らしていた事だろう。
俺は椅子に腰を下ろし、円卓の上に散らばっていた古びた分厚いノート郡のなかの一冊を引っ張り出した。いつもものを創ろうとする時はまずこれを見て考えを浮かばせるのだ。
ノートを開くと、そこには今まで俺と市長が生み出してきた製品の製図や、計算式等がびっしりと書いてある。中には食堂にある大きな電光掲示板の巨大図面もあったし、都民それぞれが持つIDカードの製作記録もあった。
「あったあった。……まぁ、これじゃ動き辛いだろうな、そりゃ」
――――『耐酸性スーツ』。ノートをめくっていると、そんな製品に関する文書を見つけた。図面を見る限り、探索隊に志願可能な年齢が成人以上であるという事には頷ける。こんなものを着て移動するのは大人じゃないと厳しいだろう。それもやや筋肉質な。スーツと銘打ってるわりにはまるで鎧みたいで、総重量は十二キロとまで書いてある。主な素材は耐酸性に優れるプロビタス合金で、とりあえず全身を雨から守る事だけに特化したものらしい。当初は耐腐食性に優れたタイプの炭素繊維複合材を用いる予定だったが、なにぶん限られた施設ではそれが出来なかったのだ。
「いや、さすがにこれはやだな」
自分が着る事を想像してから即答し、俺はもしもの事態を考えて、暇つぶしがてらこれを改造、あるいは新作を提案してみる事にした。もっと見栄え良く、動きやすいものに。今の俺なら市長の脳みそを超えられるかもしれないし。第一これが完成したのは数年前の話であり、それ以降は改良の話など一切出ていなかった。もうこれでいいや、といった妥協があったのだろう。だがそれでは何も、進化しない。
俺はお手製の裏紙ノートの新しいページを開き、大量にストックがあるシャープペンシルを片手に思案する。間もなく浮かんだ案は、俺が今着ている作業服のようなものにしてみてはどうか、という事だった。なんたってわざわざカッコイイ鎧みたいにしなくても、耐酸性に優れる金属を、衣服のように加工してやればあるいは……。うん、この際ロマンは度外視しよう。
材料やら加工方法、加工可能な機械の条件等を確認しつつ、おでこを机にぴたっと張り付けながら考えを巡らす。机はいつだって頭を冷やしてくれる良きパートナーだ。たまに枕になる事もあるが。
パっと考えが浮かんでノートに書いて、また机に突っ伏する。この繰り返しは何回も続いた。いつもなら二、三回の突っ伏で画期的なアイディアが浮かぶのが俺の自慢だったのだが……。
どうしてなのか、なにかモヤモヤと晴れない気持ちが、俺のいつものクリアな思考を阻害しているようだった。いい考えが思いついても、そのモヤモヤがそれ以上の発展を拒む。続かずに道が途中で途切れてしまう。
「ふぅ……なんだろ、考えが進まないな」
苛立ち――は、まるで感じない。そもそも怒りという感情が俺には恐らくないわけで、怒りの伴う類の感情は、俺の心からはさっぱり生まれないのだ。……というかそれ以前にどういう感じなのかすらさっぱり解らない。
「ん……」
気晴らしに立ち上がって背伸びをしてみる。俺の背骨は下から順番にパキパキと音色を奏で、骨ひとつひとつが弾けるような、あのなんともいえない開放感を味わう。それから深く息を吸ってもう一度、姿勢を正して椅子に座り直す。モヤモヤの原因があるのならば、先にそいつを見つけてみようじゃないか…………って――――
「………………あぁ」
なんだ、ひとつ、大きな出来事があったじゃないか。
「空、か」
気が付くと俺はあの子の名前を呟いていた。仕事の手伝いで来てくれた、一人の不思議な女の子の事だ。
目を閉じると彼女の顔が頭に浮かび上がる。そしてその無感情で空虚な瞳がこちらをじっと見据えてくる。笑いもせず、怒りもせず、ただ一点だけを見つめる何色にも染まらぬ無色。だがそれはある種の機械的美しさともいえよう。――いや、それ以前に彼女は、この……恐らくだが、健全極まりない十八歳の男子から見て、純粋に美しいのだ。
しかしながら、俺が見た彼女の唯一の感情的表情は、夢の中で見た恐ろしく不気味な笑顔だけ。あの笑顔だけは二度と見たくないし、俺が見たいのは彼女の本当の笑顔……なんだと思う。いつ見れるのか俺にはさっぱり分からないけど、いつか見れるような気がする。いや、見なきゃいけない気がする。でも、どうやって……?
…………そして、これは空と初めて出会った時にも感じたが、俺は以前彼女をどこかで見た事があるような気がしてたまらなかった。夢の中の話ではない、現実の世界で。――――昔、幼いながらも好意を寄せていた子に似ていたからだろうか。十年も前とはいえ、その子らしき面影は少なからずどこかに残っているような気がするのだ。
毎日いろいろな場所で、その愛くるしい笑顔をスプリンクラーのごとく振りまいていた、どこかの学年のどこかのクラスの女の子。もしかしたら、空はその子なのだろうか。その笑顔や振る舞いは未だに忘れていないから、笑ってくれさえすれば、その子なのか違う子なのかを判断出来るかもしれない。そう、笑ってさえくれれば――――。
なんならどこの小学校に通ってたか聞いてしまえばいいのかもしれない。…………いや、でもそいつは何だか外道な気がする。……いやいや、何を考えてるんだ、俺は。
「ははっ、恋でもしちゃってるのかな、俺は」
へらへらと笑ってそう呟くと、頭の中のモヤモヤはたちどころに吹き飛んだ。このうえない快晴が、俺の脳内に舞い戻ってきた。やっぱ原因はこれだったのか。
喜怒哀楽。その怒がない俺は、文字通り喜んで、悲しんで、幸福を感じて、幸せに生きてきた。それは今もそう。ある種の感情が抜けているのは生まれつきだからしょうがない。感じてみたいとの思いも少なからずあるが、よくよく考えたら怒りなんてなくてもいい感情なのかもしれない。だって今まで生きてきて、特に困った事はなかったからだ。
――――けれどそんな俺の一方で、感情を失ったあの少女――空は、俺と違って生まれつき感情がなかったわけじゃないと言った。喜んで、悲しんで、怒って、笑って、幸福の中を生きていたのに、それが突然全て消えてなくなるなんて、いったいどんな気持ちなんだろう。いや、失ってしまったものに対して生まれるはずの感情それそのものを失ってしまったんだ、彼女は。
そんな空を、俺は助けてあげないといけないと思った。不思議な夢を見るという事、感じられない感情があるという事、といった俺との不可解な共通点を持つ少女。それも同時期に夢を見始めて、そのあとすぐに出会ったという謎の因果。かっこよく言えば、それは運命や偶然や奇跡ってやつかもしれない。だが数学に深く携わる人ほどそれらの言葉は使わないときたものだ。なにしろ前者三語は全て、〝確率〟の一言で置き換えられてしまうのからだ。まぁ、運命を重んじてやろうなんて思ってる俺はまだまだ二流である。
空との出会いが神様の気まぐれにせよ、数式が示す結果にせよ、この先に何が待ち受けているのかどうかは、今の俺にはまだワカラナイ――――。




