地上不詳
こーすけが最後のほうの一節らしい文章を読み終えると、騒がしい食堂内にもかかわらず、しん、とした空気が私達の周囲にだけ漂った。私に抱きつくスズの腕にわずかな力が入るのを感じる。
簡潔な内容の文章でも、私達はそれだけであの時の光景を思い出すことができてしまう。刹那の昼夜逆転だなんて、まさにそれ。白一色だったオセロの盤面が、次の一手で全部真っ黒になってしまったようなありえなさ。
なにが起こったのか、なにをどうすればいいのか、なにから始めていいのか、なにがどうなったらこういう事態に陥ってしまったのか。頭は真っ白に、目の前は真っ暗に。唯一わかっていたことといえば、どうしようもない、ということだけだった。
当時、その時の様子を懸命に伝えようと文章に書き起こした時点で、その科学者というのは優秀であることに違いなかった。あの時ばかりは大人ですらほとんどの人がパニックになっていたというのだから。
「あの時はびっくりしたもんなぁ。雲が焦げたパンみたいになってた。ホントに夜みたいだった。しかもずっと」
「あたしそれすら見れなかったよ。あの時は公園で遊んでてさぁ、突然目の前が光ってバーンって吹っ飛ばされちゃって、気付いたら目は開いててもなんにも見えないし、パパとママはいなくなっちゃったし。……それでこーすけ、その暗くなった原因ってなんなの? それのせいで地上で暮らせないんでしょ?」
私に抱き着いていたスズがこーすけに質問し、私から温もりが離れる。
「んー、原因は世界中で発生した大量の火災による煙っていうのが一般的要因。しかもそれのせいで地球の地上環境が変わってしまったとまで言われてるね。続き読むよ、《我々はとにかく、暗闇の中で生きていて動ける人を集めた。それから崩れてはいたもののかろうじて業火を逃れていた中央総合病院跡地に簡易的な避難所を造った。少なくとも地震なら数分前に予報が流れるはずだったが、それとは似てもつかぬ全くの異常事態だったので被害は甚大だった。まだ使えそうな医療品や器具を探している途中、私は病院の地下に建造されている巨大シェルターの入り口を発見した。幸いにも入口周辺に火は回っておらず、また瓦礫の類も見られなかった。シェルターに入ってみると、さすがというべきか、内部に損傷はいっさい見られなかった。これは助かったと私は被災者達を可能な限りここに集めて避難所の拠点とする事にした》」
「あぁ、なんかそんな感じの場所に連れてかれたのは覚えてるな。確か〝ここ〟がその病院の地下シェルターなんだろう? たった十年で凄い発展したよな、ここも。あの時は小さな非常用発電機と空調設備しかなかった空間が、こんな立派に都市として機能してる。技術ありきだが人間やればできるもんだな」
優星が言ったとおり、今の私達が住んでいる場所は、もともと災害用の地下シェルターだったのだ。今となっては膨大な地下水や地熱を利用した発電もできるし、簡単な動植物の育成による一日三食の食事もある。照明の機能も進化し、時間が朝になれば明るくなり、夜になれば暗くなる。薄明かりの中でひどい生活をしていた最初の数ヶ月では、今のような生活を予想していた人は誰一人としていなかっただろう。
地上とほぼ変わらない生活――――ただ、大きく変わったことと言えば、自然の代表選手達を目にすることができなくなったくらい、かな。見上げると雄大な太陽が――夜空に綺麗な星が――といった光景は目にすることができなくなり、春風に髪が踊るようなことも、広大な海で泳ぐこともできない。
今やどこへ行ったとしても、見上げれば配管やらが所狭しと張り巡らされている天井が腰を据えている。年中無休の人工物の中をみんなは生きているのだ。なんとも堅苦しい現状なのだろうけれど、それに文句をこぼす人は誰一人としていない。人々は口を揃えて、生きているからそれでいい、と言うのだ。
そしてなにより、あの日から十年も経った地下には、地上をまったく知らない子供達さえいる。私達の知っていることを彼らはほとんど知らないのだ。太陽の輝きを知らない、海の深さを知らない、木枯らしの音を知らない、空の広さを知らない。空に向かって建つ人々の住まいを見たことも、人々を乗せて飛び交う乗り物を目にしたこともない。多種多様であるはずの動物や昆虫は、片手で数えられるくらいの種類しか見たことがない。
――――それでも、彼らになにひとつ不自由はない。なにひとつとして地上のことを知らなくったって構わないのだ。彼らにとっては生まれた地下だけが全ての常識なのだから――――。
「当時の最先端科学技術達のお陰ですね。さて続き、《我々は約二日間にわたってシェルターに滞在していたが、次々と地上から運ばれてくる怪我人や生存者を生かす為の空間や食料に限界を感じていた。このままでは我々はやがて死に絶えるであろう。そう同僚達と話し合っていた時、地上で生存者を探していた集団から鼓膜に突き刺さる悪報を受けた。どうやら地上では雨が降っているらしく、理由は不明だが信じられない事にその雨は『強酸性』の性質を持つという。雨が降っている間は生身じゃとても行動できないとの事である。事実、数人の同僚が皮膚の弱い箇所に火傷のようなものを負っていた。この報告を受けて我々は、今後地上での長期的な活動を断念せざるを得なかったと同時に、まだかろうじて息のあったかもしれない地上の被災者達に冥福を祈った》」
強酸性の雨。それが今もなお私達が地下で暮らしている原因でもあった。逆にその雨さえどうにかなれば、地上への展開が充分に可能かもしれないとの公表はされている。……ただ、今更――という意見も多くある。
「それは今も降ってるの?」
「先週探索隊が地上に出てたみたいだけど、やっぱり時々降ってるみたいだ。だから探索隊は鎧みたいなの着てるんじゃないかな」
地下都市では定期的に地上への探索隊が出ていて、雨に侵されていない資材や金属材料を探しているのだ。たまに無傷の品物が発見されたりすると、地下五階にある展示場に、まるでそれが古代の化石かなにかのように仰々しく飾られることもあったりする。
「あれがまた男のロマンなんだよなぁ……。それでまぁノートに書いてあったのはここまでかな。現物のノートは図書館で重要書籍扱いされててね、借りるの大変だったよ」
この地下都市にも図書館というものはある。その書籍のほとんどは地上から迅速に回収されたもので、綺麗な状態のものは崩れた建物の中にあったりして無事だったけれど、大半は雨にやられたり焦げたりしちゃってもいる。で、重要書籍なんてものはいろいろと許可を得ないと見られないものなのだけれど、そこは普段から素晴らしい優等生っぷりを発揮するこーすけだからこそ、といったところだろう。
「うー、それじゃあ話は一旦これくらいで……」
長々と話を聞かされたからか、少々疲れ気味なハタケが懇願する。私としては情報があればあるほど助かるけれど。
「うーんまぁこれくらいでいいか、一旦ここで終わりにしよう。既存の情報を言ったって変わらないから、スズの提案通り新しい情報を集めてもらうよ。これからみんなで分担して情報を集めよう」
「楽しくなってきたねー! あたしはなにを調べればいいの?」
足をパタパタとさせているスズを、こーすけは遊びじゃないんだぞ、とたしなめる。
「まず似たような夢を見る人がいるかどうかを調べないと。そしたら空ちゃんとスズは小学部とか近い年齢の人に話を聞きに行ってくれるかい?」
「ええ、わかったわ。学校は休みだから部屋を回れば?」
「そうだね、お願いするよ。多分みんな部屋で遊んでるだろうからさ」
「やったー!」
飛び跳ねて喜ぶスズはよく小学部の子の部屋に遊びに行く人で、彼女は子供達から非常に人気のあるお姉さん役なのだ。
「スズ、遊ぶんじゃなくてちゃんと調べてきておくれよ。空ちゃんは特に気になった部分があればどんな些細な事でもメモを頼む」
「了解」
任務は早々に決まり、私はメモ――何度も書いたり消したり出来るような代物と磁性ペンをこーすけから預かった。
「ハタケは先生が病院にいるかどうかお母さんに訊いてきてくれる? それから病院にいる人達から夢について聞いてくれ」
「おう、任せとけ」
「僕はまた図書館と知り合い伝いでいろいろな人から情報を。優星さんは……」
優星に割り当てる仕事が見つからないのか、こーすけは言葉に詰まった。資料をぺらぺらとめくりつつ探す彼に優星はじゃぁ質問だ、と手を挙げた。
「もしかして情報を集める為、あるいは情報を得た後に『暗地』に出るって事態はありえそうか?」
優星の問いにこーすけは目を丸くする。
「あ、暗地ですか!? んー……ない、とは言い切れませんけど……」
彼らの言う暗地とはつまり地上、強酸性の雨が降りしきる暗黒のセカイの呼称だ。地下と反するということで英語のアンチともかけているらしいけれど、誰が最初に考案したのかは知らない。
――――あれ……?
「地上…………」
「ん、どうした、空?」
私は優星の言葉であることに気が付いた。もしかしたら暗地に出る必要性が出てくるかもしれない。
目を閉じると再び私の脳裏にあの光景が再生される。見たくはないけれど、繰り返し、繰り返し、映像が途切れ途切れに流れていく。――と、やはりその中で気になった点をひとつ見つけた。
私は空機を操作して人々を無差別に殺していた。けれど問題はその現場、流れる血にばかり意識がいっていたけれど、思い返せばあの光景は〝地下都市の中ではない〟。血が流れていたのは間違いなく〝地面〟だったのだ――――。
薄茶色の、少なくとも砂か泥か。一部に砕けた灰色の瓦礫が見えたかもしれない。少なくとも地下都市の中にはあのような場所は存在しないはず。だったらあの状況が起こりうる場所は地上だという可能性が大きい。
「私が見る夢は地上で起こっている出来事なのかもしれないの。地面が見えたから」
呟くと優星がすぐさまなにかに気付いたのか、鋭い視線で私を見据えてきた。
「…………そうだ、そうだよ! 俺も気が付かなかった。当たり前だ、地下都市での出来事なんかじゃない。だって俺は〝空〟を見たんだから」
空、というのは私じゃなくて雲が流れるあの大空のことを示しているのだろう。地下では見ることのできない光景を見たということは、やっぱり現場は地上での話となるわけで、そうともなれば夢のヒントは地上にある可能性が出てくる。なにしろ私は〝地上にいる彼ら〟を殺したのだから、まず彼らが地上に出る理由と出来事が必要になってくる。
「な、る、ほ、ど、なるほど……! 確かに二人の話からすると地上にヒントがあるって可能性は否定できませんね。……でも暗地となるとさすがに僕達だけじゃ厳しいですよ、優星さん」
こーすけはいつも物事を諦める時の表情を浮かべた。
「ん、それならやっぱり俺は外に出られる装備でも作っておくかな」
よし、と気合を入れる優星を見てこーすけは困惑したらしい表情を浮かべた。
「えっ? だって今の地下都市における最先端の装備をした探索隊ですらそう簡単に活動できないんですよ? あんまり関係のない事に関しては手伝ってくれるとは思えませんし……」
さすがに私も無理だと思った。けれど無理だと言うこーすけに、優星は肩をすくめてそれはどうかな、という仕草をしてさらりと言い放つ。
「幸助クン、君の言う最先端とはいったいいつの時代の話かな?」
……と。その言葉を聞いたこーすけの表情が、困惑したものからニヤリと、スズが悪いことを考える時の表情に似たものになっていった。
「さ、さ、さすがすぎます! でもどうやって? どこでそんな物を? どういう技術で? どこに工作機械が?」
「まぁまぁまぁ。本当は秘密なんだけど……ここだけの話でお願いするよ。実は俺の部屋の裏に秘密の工房があってね、そこで色々とまぁ。なんであるのかって話は後で」
「うっわー! そこって僕達でも入れますか!?」
くねくねとこーすけは海に漂う昆布のように体を揺らす。こうなってしまえばもう、いくらダメと言われても彼は乗り込む。こーすけとはそういう人だ。
「へぇー! あたしも行ってみたいなぁ」
意外にもスズが興味を示したのは、〝秘密の〟といった単語が付属されていたからだろう。なんでもかんでも秘密と付け足せばワクワクしてしまう、そんな法則があると以前耳にしたことがある。もちろん今の私には、そのワクワクがどんなものなのかを感じることはできないけれど。
「まぁ内緒にしてくれれば……」
『やった!!』
口を滑らせたのかどうかはわからないけれど、少なくとも優星が失敗を犯したということは明白だ。この人達が秘密を秘密にできるわけがないということを、この数年間の付き合いで私はよく知っている。
「よーし、それじゃ一旦解散! 集合はー……ある程度調べ終わったら優星さんの部屋とかでも!?」
結局、一番真面目だったこーすけが一番輝くことになった。
「あぁ分かった、俺はずっと部屋にいるから。三〇四号室だよ」
優星が観念したところで話はまとまり、みんなが席を立つ。そんな中、約一名だけ立ち上がろうとしない者がいた。
「あー……おいらデザートがまだだから先に行ってていいぞ」
直後、スズがハタケのお腹にパンチをぶちかました。