杏奈ちゃんの悲劇
カランと最後の一玉が音を立てて穴に吸い込まれた瞬間、
「残…敗…。」
と呟いて、杏奈はパチンコ台に突っ伏した。夜も遅いというのに、パチンコ屋は会社帰りのサラリーマンや年配の女性たちで賑わっている。サラリーマンはともかく、ごく普通の家庭の主婦にしか見えないおば様たちがこんな時間まで一心不乱にパチンコを打っているのを、杏奈はいつも不思議に思う。ダンナはどうしたんだ?レンジでチンすればご飯が食べられるように、準備されているのだろうか?まあいい。そんなことより自分のことだ。今夜もやってしまった。ほんの少し…のはずだった。が、気がつけば金運アップのゴールドの財布からは紙幣が消えていた。今月の給料が出て3日目の三万円は痛手だ。あー、こんなことなら真面目に銀行に預けりゃよかった。これもいつものことだった。毎月パチンコ屋にお布施のように差し出している数万円をきちんと預金しておけば、今まで何度海外旅行に行けただろう。
杏奈は騒音まみれのパチンコ屋を出た。途端にブシュッとかわいくないくしゃみをした。ああ、やだやだ、今年も花粉の季節がやってきた。目も痒い。できるものなら眼球を取り出して、水の中で勢いよくバシャバシャ洗いたかった。が、社会人たるもの、もともとしっかりした顔立ちではあったが、身だしなみ程度の化粧はしているので、思わず目を擦りたくなるのをぐっと堪えた。
寂れた商店街を抜け、川沿いの道をてくてく20分近く歩いた住宅街に築三十五年の古いアパートがある。ここが杏奈の家だった。杏奈がドアを開けると、待ちかねたように猫が二匹、並んで杏奈を出迎える。
「はいはい、かあちゃんが帰ってきましたよっと。どいて、チャーシュー、あんた邪魔。」
チャーシューと呼ばれた白地に茶色のぶちの入った猫が杏奈の足に体を擦りつけるのを無視して、杏奈は部屋に上がった。もう一匹の全身が薄いベージュの猫は、餌用の皿の周りをうろうろしている。
「ごめんねぇ、メンマ。今ご飯あげるからね。」
杏奈はコートを脱ぐと、戸棚からエサ箱を取り出して、猫たちの皿に入れてやった。猫たちは脇目もふらず、餌を食べ始めた。 部屋の中が猫のトイレのせいで臭かった。帰ってくるとチャーシューとメンマに餌をやり、トイレを掃除するのが杏奈の日課だった。
さて、何を食べよう。時計は九時を過ぎている。あまり面倒なことはしたくない。とはいえ、冷蔵庫をあければ入っているのはビールと水とジュース、もやし三袋と豆腐三丁だった。別にダイエットしているわけではない。お菓子は食べたいだけ食べるが、食事となると一人ならなんでもよかった。インスタントラーメンや乾麺、パスタにソースといったものもある。とにかく安くて簡単ならそれでいいのだ。栄養はお昼に社食でしっかりとっていればそれでいい。
杏奈はもやしをさっと茹でると、ドレッシングをかけ、豆腐は皿にあけて鰹節とチューブの生姜を乗せて、醤油を一回りかけた。テーブルの上に並べると、ビールをあけ、ぐびぐびと音を立てて飲んだ。八口はいつもいける。それ以上はまだ成功したことがない。
今日もろくな1日ではなかった。というより、普通の1日のはずだったのだが、最後がいけなかった。毎日毎日、雨の日も風の日もせっせと会社に通い、帰りは音楽と玉がジャラジャラという音が自動ドアの開閉と共に聞こえてくるパチンコ屋の前を通らないとならない。いけない、いけない、と毎日、なるべくパチンコ屋のほうを見ないようにして、気持ちは小走りに通り過ぎるのである。でも給料日のすぐ後に、ちょっと余分に紙幣が財布に入っていると、ついふらふらぁと吸い寄せられてしまう。そして滅多にないラッキーな日を除いては『惨敗』するのだ。
幸か不幸か、杏奈は二十七歳にしてはおしゃれにも旅行にも興味がなかった。
毎日会社に通い、ご飯やお菓子を食べ、猫たちと生活していればそれで満足だった。恋人もいないし、欲しいと思ったことがなかった。が。それだけだった。そのうちあたしなんて、独居老人になって孤独死するんだろうなぁ、と杏奈はぼんやり考えた。川島杏奈さん、九十才、病死して一ヶ月後に発見されました、チーン。
川島杏奈なんて名前を聞いて、みんなどんな人を想像するだろう。杏奈は自分の名前が大嫌いだった。小さい頃は良かった。誰も何も言わなかったし、自分も杏奈ちゃんと呼ばれることになんの疑問も持たなかった。しかし中学生になり、自分の美醜が気になり出した頃、ふと思い立って姿見の前に立ってみた。太い眉、ぎょろりとした目、真一文字に結んだ意思の堅そうな口。あえていうなら、上野の西郷どんにそっくりだった。加えて、特に運動をしたわけではないが、首が短く、肩幅は広く、足はしっかりと地面に根付いていた。太っているのではなく、がっしりした体格、というのが正しい。三つ年上の兄、孝一も杏奈とそっくりだった。あの父親とあの母親の遺伝子を持ってすれば、結果はこうなることなんてわかっていていいはずだった。なのに杏奈ちゃんはないだろう。クラスにはアリスちゃんだのマリンちゃんだの、いろいろ可愛らしい名前の子が多かったから、杏奈という名前が突出して目立つわけではなかったが、本人と照らし合わせると、杏奈に限っては完全に名前負けしていた。現実を直視した時、杏奈はクラクラと眩暈がした。あ・ん・な。可愛い。名前は確かに可愛い。間違いなく可愛い。だがそれは可愛い外見の子が名乗って初めて本領を発揮する名前だった。
男子生徒からは陰で、まさしく西郷どんだの、隆盛だのと呼ばれていることを知るのにも、それほど時間はかからなかった。親友の奈津子が〈ついうっかり〉、「おはよ!た・か・も・り!」と言って、その場がさっと凍りついたのである。最初、杏奈は奈津子が誰に挨拶しているのかわからなかった。が、はっと自分の発言に気づいてあわあわしている奈津子の目は、間違いなく自分に向けられていた。ガーン、というよりは、やっぱり…と思いながら、杏奈は奈津子の斜め後ろの席に座った。そしてニィッと笑って、「誰が隆盛じゃあ〜。」と鞄を机の上に乱暴に置いた。奈津子はほっとした顔をして、「あはは、ごめんごめん、男子がそう呼んでるからさぁ、つい。」と無邪気に笑った。男子がそう呼んでるだあ?ますます悪いわ。杏奈はフンッと鼻を鳴らした。
いつの間にかチャーシューとメンマが食事を終えて、思い思いの場所で寛いでいる。杏奈は残りのビールを一息で飲み干すと、深いため息をついた。寝よ。考えたところで仕方ない。杏奈はテーブルを片付けると、風呂に入り、歯を磨いて布団を敷き、もそもそと掛け布団の下に潜り込んだ。待ってましたと、メンマが杏奈の足元で丸くなり、チャーシューはドスっと杏奈の胸の上に乗った。
「チャーシュー、重いから!」
杏奈が横を向いて寝ると、チャーシューは器用に体の向きを変え、やっぱり杏奈の幅広の体にずっしりと腰を下ろした。メンマは3.5キロ、チャーシューは4キロある。重い…。が、我慢しているうちに、アルコールが効いたのか、杏奈は五分とたたずに、大いびきをかいて、眠ってしまった。
翌朝、七時に三つの目覚まし時計と携帯が一斉に鳴り出した。杏奈は飛び起きて、大急ぎで全部のスイッチを切った。よかった、今日もサクッと起きられた。薄い壁で仕切られたアパートのどこかの部屋でもまだ目覚ましが鳴っていて、すぐに止まった。目覚ましが鳴るのが怖いというよりは、ご近所迷惑になって、最悪、怒鳴り込まれでもしたほうが怖いと思うと、ぱっと目が覚める。
顔を洗い、口をすすぐ。洗面台の鏡に映ったのは、寝起きなのにぎょろりとした目がらんらんとして見える、いつもの顔だった。元気そのものだ。チャーシューとメンマはとっくに起きていて、皿に餌を入れてやると、朝からわしわしと脇目もふらずに食べた。
冷凍庫から食パンを取り出し、トースターに放り込み、インスタントスープにお湯を注ぐ。焼きあがったパンにはマーガリンとブルーベリージャムをしっかり塗って、噛り付いた。毎朝同じメニューだ。たまにスープがコーンスープからほうれんスープになったり、ブルーベリージャムがマーマレードになったりする程度だ。
食べ終わると、食器をシンクに放り込み、歯を磨いて、化粧をする。といっても、もともとしっかりした顔立ちなので、ちょっと目の上にアイシャドウを入れ、口紅を塗るくらいだった。それ以上やるとおてもやんになってしまう。アイラインや流行りのつけまつげに挑戦したこともあったが、自分で自分の顔を見て吹き出してしまったので、それらは化粧ポーチの奥に封印してある。
「おはようございまぁす。」
朝の大混雑の電車通勤を、今日も無事に勝ち抜いて、杏奈は元気よく出社した。
「おはよう。」
みんながにこにこしながら、口々に挨拶する。
「杏奈ちゃん、今日ね、このデータ入力頼むわ。」
ひょろりとして、背の低い課長がファイルを持ってくる。
「わかりました。」
杏奈はファイルを受け取り、席に着くと、ラップトップを開いた。するとすぐに、隣の席の荒木信子が椅子のキャスターを滑らせて、杏奈の隣にやってきた。
「昨日、行ったの?あれ。」
と言って、右手をくいっと回す。
「行ったよぉ、もう最悪。」
信子はくすくす笑った。
「だから言ったじゃん。今日のお昼は奢ってよ。」
「あーあ、なんでのぶうこに、パチで負けたら奢らにゃならんのだ。」
「だって約束じゃん。」
杏奈は首を横に振った。
「はいはい、約束しましたよ。でもさ、勝ったならお祝いに奢るのはわかるけど、負けたら奢りっておかしくない?」
「勝った時にはあたしが杏奈ちゃんに奢ってるでしょ、社食以外で。」
「次はきっと勝ってやる。」
最後に信子に気づかれないように呟くと、杏奈は仕事を始めた。
杏奈は小さな商社に勤めていた。社員は百人にも満たないが、業績は悪くない。給料も一般的な金額が出ていたし、なんの不満もなかった。女性社員は三十人近い。ほぼみんなコネ入社だ。だが学歴は結構華々しいもので、当の杏奈もいわゆるお嬢様大学を卒業していた。しかし自分の名前同様、杏奈はこの大学を卒業したことをしくじった、と思っていた。この名前の大学の名前を出すと、まず間違いなくみんなが想像するのは、可憐で美人な才女だった。杏奈だって、自分が高校生の頃は、その学校はそういう人が行くものだと思っていた。しかし余裕しゃくしゃくで臨んだ本命大学は総て落ち、唯一、半分冗談で、高校でも一緒だった奈津子と受けたこの大学だけは受かってしまったのである。結局、中学から大学まで、奈津子と同じ学校に通ったわけだが、杏奈と違って奈津子はクラブに通ったり、合コンに行ったり、ボーイフレンドを作ったりと、学生生活を謳歌した。一方杏奈は、西郷どんのまま、それなりに友達を作った。他にすることもないので、もくもくと学校に通い、課題に取り組んで、成績優秀者として、ゼミ代表で、全校生徒の前で講演までする始末だった。
そして就職となった時、そのお嬢様大学から来る川島杏奈ちゃんは、会社ではちょっとした話題になっていた。きっと華奢な美人が来るに違いない、と。男性社員は浮き足立ち、女性社員は警戒した。杏奈は何も考えずに初出社したわけだが、入社式の日、全社員の前に並んだ新入社員たちに混じって杏奈は仁王立ちになっていた。会場はしんと静まり返り、式次第は順調に進んでいった。先輩社員達が品定めをするように、新入社員達を見つめていることは新人達にも痛いほどよくわかった。
式が進み、新入社員の紹介が始まった。人事部長がマイクの前に進み、ゴトゴトと音を立ててマイクの位置を合わせていたのを杏奈は今でもよく覚えている。あー、あー、とマイクのテストとも自分の声のテストともわからない声を出してから、部長は一人一人の出身校と名前を読み上げた。新人は七人で、そのうち女性は杏奈を入れて三人だった。一人はスレンダーで背の高い、可愛らしい感じの美人だった。もう一人は小太りの、地味な顔をした女の子だった。
「すみれ女子大学、篠山恋さん。」
恋、なんて可愛い名前、スレンダー美人にはギャップがあっていいじゃないか、と杏奈は思ったが、立ち上がってお辞儀をしたのは小太りの地味な顔をした子だった。
「アイリス女学院大学、川島杏奈さん。」
杏奈は立ち上がってお辞儀をした。すっとその場の空気が引いて行ったのを、杏奈は肌で感じた。
「陽光女子大学、荒木信子さん。」
スレンダー美人が立ち上がった。おおっ、と誰にも耳では聞こえない声が、みんなに聞こえていた。うわー、こっちのほうが恋ちゃんか杏奈ちゃんじゃね?と杏奈は思った。なんで自分が、よりによってアイリス女学院大学出身の杏奈ちゃんなんだよぉ、と思うと、穴に入りたかった。
仕事をするようになると、のんびりした恋はのんびりと仕事をし、良くも悪くも空気のような存在になった。女性社員はしっかりとして、物怖じしない杏奈を可愛がり、信子にはなかなか警戒心を解かなかった。逆に男性社員は信子に鼻の下を伸ばし、杏奈はここでもやはり西郷どんだった。けれども信子は可愛らしい美しさなど本人的には全く鼻にかけることもなく、テキパキ働いた。性格は温厚で、優しく、女性的だったが、仕事は別だった。このギャップが面白くて、杏奈は信子を、のぶうこと呼んだ。最初はみんな、信子にのぶうこなどと呼ぶのは恐れ多い、と荒木さんと普通に呼んでいたが、やがて、恋は恋ちゃん、杏奈は杏奈ちゃん、信子はのぶうこと呼ぶようになった。
「ねえ、杏奈ちゃん、のぶうこちゃん」
「ん?」
ある雨の日、昼食を終えると、女子トイレで恋が言った。
「明日の夜、ひま?」
「なんで?」
信子は丹念に付けまつ毛のチェックをしていた。もともと、地毛は長いのだが量が多くはないので、付けまつ毛を二枚重ねている。
「大学の友達に合コンに誘われたんだけど、誰かいないかって聞かれて…。」
「またぁ?」
杏奈は驚いて言った。
「すみれ女子って合コン好きだねぇ。またレイナちゃん?」
恋はこくんと頷いた。顎の肉が綺麗に二重になる。レイナは恋の大学時代の親友で、月にニ、三度は合コンの主催をしていた。信子とタイプは違うが、サバサバとした性格の美人だ。
「あー、あたし行く行くう。レイナちゃんのセッティングする合コンって、レベル高いじゃん。」
信子が手を挙げた。
「よかったぁ、のぶうこちゃんなら行ってくれると思った!ねえ、杏奈ちゃんは?」
杏奈は腕組みをして、うーんと唸った。
大人になればそれなりに付き合うことは必要だ。だから恋だけじゃなく、信子からの誘いも何度も受けてきた。例えそれが、自分にとってなんのメリットもないとしても、だ。たまに何をトチ狂ったのか、杏奈に連絡先を聞いてくる輩もいたが、実際に連絡があったことは一度もない。
「杏奈ちゃん、合コンなんて気軽に考えればいいんだよ。ただで飲み食いできるんだし。」
それが杏奈はあまり好きではなかった。自分でお金を払うなら、遠慮なく料理を注文し、お酒も飲める。いくら合コンとはいえ、他人様のお財布に頼りたくはないのである。
「杏奈ちゃあん。」
恋が猫なで声を出す。
「杏奈ちゃあん、一緒に行こ?」
信子まで猫なで声を出す。いつものことだが、そうなると断り辛い。
「…わかった。」
「杏奈ちゃあん!ああ、良かった。」
「だけど杏奈ちゃん、そろそろ新しい服買った方が良くない?いつもグレーのワンピースじゃん?」
信子がピンクのルージュを引きながら言った。
「それなんだけどねぇ、のぶうこみたいにスタイル良ければなんでも似合うんだろうけど、あたし、この体型じゃん。」
「思い込みだよぉ。意外と意外なものが似合っちゃったりするもんよ。店員さんに聞いてみたらいいじゃん。」
「訊かれた店員さんが可哀想だよ。」
「あはは、なに、それ?ねぇ、恋ちゃん。」
恋はのんびりとあぶらとり紙で皮脂をとり、ファンデーションを塗りながら笑った。
「そうだよ、杏奈ちゃん。たまにはピンクとか花柄とか、着てみたらいいのに。あたしだって、結構サイズ、見つかるんだから大丈夫だよ。」
サイズの問題じゃねーんだよ、と杏奈は心の中で毒づいた。ピンクに花柄だ?女西郷どんと呼ばれている自分にそんなものが似合うわけがない。花柄に囲まれているのは、棺桶の中の菊の花だけで十分だ。
翌日、信子は淡いベージュのニットから白い襟を出し、濃紺のシフォンのスカートに薄いピンクの春用コートで現れた。隙のない女の子ファッションだ。恋は髪をカーラーで綺麗に巻き、ピンクのニットに、小花が散ったスカートを上手にコーディネートして、最新のブランド物のバッグを持っていた。点と線で似顔絵が描けるほど地味な顔は、いつもより少し濃い化粧が施されていたが、やはりどうやってもこけしの域をでなかった。そして杏奈はというと、春、秋、冬はこれ一枚で通す一張羅のジャージ生地のグレーのワンピースだった。大事に大事に着てきたが、久しぶりに腕を通すと、さすがに少しくたびれてきたような気がした。
「あー、恋ー!」
駅前で真っ白なニットに黒いミニスカートを身にまとったレイナが大きく手を振っている。相変わらず華やかだなぁ、と杏奈は思った。レイナの隣には初めて見る同じくらいの年齢の女の子が立っている。少し痩せすぎなくらいすらっとして、長い茶色の髪をした美人だった。
「杏奈ちゃん、のぶうこちゃん、久しぶり!こっちは学生時代の友達の優子。今日はよろしくね。」
優子は花のようににっこりと笑った。香水でもつけているのか、ふんわりと柔らかないい香りがする。
「ゆうちゃん、久しぶりだねぇ。かわらないね。」
恋がにこにこして優子に話しかける。
「今日はよろしくお願いしますね、杏奈さん、信子さん。」
「杏奈とのぶうこでいいわよ、私達もゆうちゃんって呼ぶね。」
信子が茶目っ気たっぷりに答えると、優子は嬉しそうに笑った。するとレイナが背伸びをして辺りを見回した。
「おかしいなぁ、もう一人来るんだけど。」
「誰を呼んだの?」
恋が訊くとレイナがぱっと手を挙げた。
「来た来た!遅いぞ、樹里!」
杏奈はレイナが見た方向を見た。あれ?と思った。同類…?
樹里と呼ばれた女の子は、ごつい体つきで、お世辞にも美人とは言えなかったが、ばっちりと化粧をし、ブルーのワンピースを着ていた。樹里ははあはあと息を切らしてみんなの輪に入ると、ニッと笑った。
「ごめーん、待たせちゃった?何着たらいいか迷ってたら遅くなっちゃった。」
「大丈夫。みんな今来たところだから。」
とレイナは言って、信子と杏奈を紹介した。樹里もすみれ女子の出身だった。
樹里は杏奈をじっと眺めた。口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。あ、こいつ、自分よりあたしの方が下だと踏んだな、と杏奈は感じた。が、どう見ても、女西郷どんとプロレスラーといった風情は否めなかった。
「ねぇ、今日の相手はどんな人たちなの?」
おしゃれなイタリアンのレストランで、六人は並んで座った。ずいぶん規模のでかい合コンだな、と杏奈は思った。これだけいるなら、自分は来なくてもいいじゃないか、と恋を恨めしくさえ思った。
「今日はね、いいよぉ。会社経営者とかエンジニアとかね。」
「いいね、あたし、経営者狙う!」
樹里がはしゃいで言うのをレイナは笑って見ている。
何が経営者じゃ。経営者なんて女に困るわけないじゃないか。わざわざ女子プロ選ぶか!杏奈は樹里と優子を見比べた。大きな鼻の穴で、この世の酸素をすべて吸い込んでしまいそうな樹里と、呼吸しているのかしていないのかさえよくわからないほどか細い優子では、動物園と植物園くらい違う。つまりカバと蝶くらい違うのだ。
そのうちにザワザワと人の気配がして、男性の集団が部屋に入ってきた。杏奈は思わず笑いそうになってしまった。チビ、デブ、ハゲ、ひょろひょろ、背ばかり高い男など、まるで男の見本市である。唯一、ハンサムな男がいたが、みんなに誘われるままに、一番奥のレイナの前に座った。杏奈の前にはほとんどない頭髪を無理矢理伸ばして頭皮に擦り付けている男が座った。樹里の前には木偶の坊のように背の高い男が座ったが、樹里はそんな男は目に入らないらしく、ハンサムな男にうっとりと見入っている。
「遅くなってすみませんでした。」
「いえ、いいんですよぉ。何飲みます?」
樹里が猫なで声を出す。みんな顔を見合わせると、チビが、
「ビールでいいんじゃないかな。」
と言った。誰も異議はなかったので、ビールが次々と運ばれてきた。一番年上らしいハゲが乾杯の音頭をとると、杏奈はぐびぐびとビールを飲んだ。誰のジョッキよりも一番少なくなっていた。
「じゃあ自己紹介ね。あたしから。澤口レイナでぇす。」
レイナが可愛らしくポーズをとって話し始めた。アラサーの最後の悪あがきだな、と杏奈は意地悪く思った。
料理が次々と運ばれてくると、恋と優子が甲斐甲斐しく取り分け、みんなに配った。信子は周囲の人を巻き込んで、楽しそうに談笑している。樹里は相変わらず、瞳をハートマークにして、ハンサムな男を見つめ、彼が何か話すたびに大袈裟に笑ったり、頷いたりした。目の前のハゲが、信子達の話の中に入っていたので、杏奈はなんの遠慮もなく、わしわしと料理を食べ、豪快にビールを飲んだ。みんながカクテルを飲もうとワインを飲もうと、杏奈には関係なかった。大好きなビールをここぞとばかりに飲むばかりだ。
「杏奈ちゃん、楽しんでる?」
言葉少ない杏奈を心配して、優子が声をかけてきたが、杏奈はうんうんと頷いた。
「楽しいよぉ。お料理おいしいし。」
「ならいいけど…。」
するとハゲが
「杏奈ちゃんって可愛い名前だねぇ。」
と初めて声をかけてきた。杏奈はにいっと精一杯の笑顔で
「ありがとうございますぅ、名前だけは褒められるんですよね。」
と答えた。気のせいか、相手が軽く後ずさりしたように感じた。
「藤森さん、杏奈ちゃんね、アイリス女学院なんですよ。しかも総代。」
恋が頬を赤らめながら言う。
「いや、総代じゃなくて、ゼミ代表。」
すると藤森と呼ばれたハゲは少し身を乗り出した。
「へぇ、アイリスなんだぁ。有名だよね。きっと可愛い子、いっぱいいるんでしょ?」
杏奈はなんとかにいっとした笑顔を顔面に張り付けたまま、くいくいと頷いた。
「多いですよぉ、アナウンサーなんかになる子もたくさんいるし。」
「そうだよねぇ、あのアナウンサーもアイリス出身だしなぁ。ねぇ、今度、杏奈ちゃん、合コン主催してくれない?」
お断りじゃ、と杏奈は思ったが、
「ま、そのうちに…。」
と言葉を濁した。するとハゲが、
「おーい、杏奈ちゃん、アイリス出身だってさぁ。今度、合コン、セッティングしてもらおうぜ。」
と、実に遠慮なく、大声で言った。
「なに?アイリスだと?」
「マジで?いいねぇ。」
男性達の視線が一斉に杏奈に注がれる。そこには樹里の、嫉妬心むき出しの鋭い視線も含まれていた。杏奈は恋を恨んだ。なぜここにアイリスを出してくる?
男が食いついてくるのはわかってるじゃんか!しかもそれは、杏奈の後ろにいるかわい子ちゃん達へであって、杏奈へではない。
「こ…ここにいるの、ほとんどすみれ女子だし、信子だって陽光女子ですよ。アイリスはそんなに…。」
「何言ってんのよ、アイリスったらお嬢様ってだけじゃなくて、頭も相当よくなきゃ入れないじゃない。杏奈ちゃんてば謙虚なんだから。」
レイナが明るく、ありがたくない援護射撃をしてくれる。ハンサムな男までが身を乗り出し、樹里の目が、なによ、このブスがぁ!と訴えてくる。ブスにブスってサイン送られても、痛くも痒くもないわ。杏奈にはアイリスという、みんながキラキラした目でありがたがる看板の方がよっぽど気が重かった。
「なぁ、席替えしようぜ。」
ひょろひょろが赤ら顔で立ち上がった。だいぶ酔っているらしい。男たちは信子、レイナ、優子の前をさりげなくいち早く抑え、あぶれると恋の前に座った。ハゲは樹里の前、ひょろひょろは杏奈の前に座った。正直、誰が座ろうと杏奈はどうでもよかった。みんななんだかありがたい肩書きを自己紹介していたが、それも聞いてはいなかった。だからひょろひょろが誰で、何をやっている人なのか、杏奈は興味がなかった。
「あのー、杏奈さんは恋さんと信子さんと同じ職場なんですよね。」
「はあ、そうですよ。」
「お二人はふだんどんな方なんですか?」
けっ、恋とのぶうこ狙いかい、と杏奈は思った。
「どんなって…普通。」
「普通?」
「そう、普通。」
他に答えようがない。二人とも至って普通のOLなのだ。
「えっと、なにさんだっけ?」
「佐藤ですけど…。」
「恋とのぶうこ、どっちが好み?」
佐藤は恥ずかしそうにほっぺたをかいた。
「ちょっと信子さんがいいかなぁって。」
「のぶうこかぁ。みんなそう言うのよね。たぶん、他にも狙ってるやついるんじゃない?」
「でしょうね。信子さん、きれいだから。」
「だねぇ。あたしが見ても、のぶうこ、きれいだと思うもん。」
佐藤は深いため息をついた。
「はぁ、僕、来年で三十なんですよぉ。そろそろ結婚したいんですよね。」
杏奈は六杯目のビールを店員に頼んだ。ほらほら、来たよきたよ、人生相談が。杏奈はぐるりと回りを見回した。コンパはレイナ、信子、優子、少しおいて、なんとか恋を中心に動いていた。ハゲはまったく樹里を無視して、みんなの輪に身を乗り出して、時々ひゃひゃひゃと下品に笑った。樹里は輪に入ることもなく、一人むっつりとワインを飲んでいる。最初のうちこそ自分が話の中心になろうと必死で盛り上げていたが、男たちの関心は美しい花たちの方へ自然に向けられていった。どんなに頑張ってみたところで、流されるのがオチだったし、自分が中心になれない以上、自分から輪の中に入っていくタイプではないらしい、と杏奈は分析した。
「僕は高望みなんてしてないんですよ。そりゃね、誰がいい?って聞かれたら信子さんって言いますけど、優しくて家庭的な女性なら誰だっていいんです。」
佐藤はぐちぐちと続けた。
「料理ができて、子供が好きで、そんな女性、世の中にはたくさんいるはずなのに、なんで僕はだめなんですかねぇ。ギャンブルはしないし、タバコは吸わないし、たまに飲みに行くくらいなのに。」
「つまんない男。」
「え?」
「つまんない男って言ったの。」
杏奈はビールをぐいぐいと飲んだ。
「男はみんな、女は優しくて家庭的で料理上手で子供が好きならいいって言うんだよ。で、女はみんな、誠実で真面目で理解ある男がいいって言うわけ。でもさ、結局は顔なんだよね。」
「はぁ…。」
「ここにいる男はみんな、のぶうこかレイナちゃんかゆうちゃん狙いでしょ。みんな美人だもん。でさ、女の子はあの人、なんだっけ。」
杏奈は目で、一番ハンサムな男を指した。
「ああ、宮本です。」
「そうそう、たぶんみんな、この中では宮本さんがいいって思ってる。きっと後で女だけになったら、みんな絶対そう言うね。」
「杏奈ちゃんも?」
「あたしは思わないよ。だってあたしが宮本さんステキー!きゃー!なんて言ったところで、宮本さんが振り向いてくれるわけないもん。」
「わかりませんよ、そんなこと。」
「わかるよ。だって自己紹介の時はみんなちゃんとその人を見てるけど、その後は誰もあたしのことなんて見ないよ。てかさぁ、なんて言えばいいかなぁ。」
杏奈はこりこりと首を鳴らした。
「不思議なんだよねぇ。たとえばさ、フェイスブックとかあるじゃん。」
ビールの泡はもう半分になっている。
「みんな自分の顔のどアップとか載せるじゃん。あれさ、何?」
「何って…。僕もたまにプロフィール写真変えたりしますけど。」
「あれってさぁ、自分の顔に自信がなきゃ、なかなかできないでしょ。」
「そうですか?そんなことないですよ。」
「いやいや無理無理。あたし、自分の顔のアップなんて絶対載せないね。誰が見て、喜ぶわけ?」
「杏奈ちゃんの友だちとか…。」
「あれさ、全然知らない人のフェイスブックにも出ちゃったりするわけじゃん。迷惑この上ない。あれがのぶうことかレイナちゃんなら、あら、綺麗な子ね、なんだけどねー。」
杏奈は少し酔いが回ってきたらしい、と自覚していた。
「佐藤さんが悪いって言ってるわけじゃないのよ。たださ、あ、この人かっこいい!とかってならないから、きっかけがないわけ。合コンなんて、見た目が1番重要なんだから、私たちみたいのは期待しちゃいけないの。」
「じゃあ、僕はどうしたらいいんでしょう?」
「無難にお見合いか、職場結婚だね。」
「職場結婚?」
「そ。毎日見てる顔だから、そのうちそんなの、どうでもよくなっちゃうわけ。よく言うでしょ、美人は三日で飽きるけど、そうじゃない場合は三日で慣れるって。男も同じ。仕事ばりばりやって、礼儀正しく紳士的だったら、それで大丈夫。」
「へぇ…。杏奈ちゃん、すごいなぁ。」
佐藤は感心したように言った。が、熱弁を振るったものの、杏奈は自分の頭の中がハテナマークで埋まっているのを感じていた。いいのか?これで。自分だって今の職場で人並みに仕事して人並みに人付き合いはしているが、告白なんてされたことはない。のぶうこは社内は勿論だが、仕事相手の会社の人から告白されることも珍しくない。恋でさえ、控えめな社内の男性に控えめに告白されることがある。あたしのどこが悪いんだ?
「さぁ、そろそろお開きにしますか。」
宮本が立ち上がった。
「二次会はカラオケでもどうかなぁ。」
「あ、あたし、行きますぅ!」
樹里が手を挙げた。宮本は見えないフリをして、他に手を挙げたほぼ全員に次の店の名前を告げた。ほぼ全員、というのは、杏奈以外全員ということだ。
「え、杏奈ちゃん行かないの?」
「せっかくなんだから行こうよう。」
レイナ達美女軍団がそう声をかけると、男性陣も追随するように杏奈を誘った。
しかし杏奈は猫が待っているから、と言って断った。チャーシューとメンマがお腹を空かしている。
ワイワイと賑やかに去っていく集団とは反対に、杏奈は一人、駅へと急いだ。電車を降りるとコンビニに入って、ペットボトルの水を買い、てくてくと歩いた。アパートの前に立ち止まり、じっと二階の自分の部屋を眺めた。周りの部屋はぽちぽちと温かい灯がついている。カンカンと音を立てて階段を駆け上がると、鍵を開けた。チャーシューが足にまとわりついてくる。
「ごめんねー、チャーシュー、メンマ。今、ご飯あげるからね。」
杏奈は荷物を置くと、皿に餌を入れた。チャーシューもメンマも勢いよく餌を食べ始めた。その姿を見ていると、杏奈は幸せな気分になった。時計は十一時に為ろうとしていた。今頃、みんなはカラオケ屋で楽しんでいるだろうか。恥ずかしそうに歌う恋の姿や、一昔前の流行りの歌を歌う信子のすがたが目に浮かぶ。佐藤もハゲも宮本も、ノリノリで歌っているかもしれない。
明日はまだ木曜日だ。杏奈はしっかり寝ないと、翌日は仕事中にうたた寝してしまうほどだ。みんなよくやるなぁと思った。杏奈は風呂に入ると、缶ビールを一本空けた。そして十二時前には布団に入った。
翌日、杏奈はいつも通り出社した。目が痒くて、鼻水がずるずる垂れてくる。花粉症め…。少し遅れて信子が出社してきた。
「おはよう。」
「おはよう。昨日、どうだった?」
コピーを取りながら杏奈が訊いた。
「まあねー。楽しかったわよ。でもあのメンツはないわよねー。」
「やっぱそうかぁ。あたしもそう思ったんだよね。」
「でもね。」
信子は楽しそうに杏奈の肩に手を置いた。
「聞いてよー。恋ちゃんがさ、宮本さんっていたじゃない?彼と帰り、同じ方向だからって一緒にタクシーで帰ってったの。怪しくない?」
へ?と杏奈は信子を見た。
「嘘、だって恋ちゃん、のぶうこといつも一緒にタクシーで帰るじゃん。」
「だからさぁ、怪しいって言ってるの。宮本さんちも近いのよ。でもだったらあたしも乗せてくれてもよくない?」
「だよねぇ。」
そこに恋がおはよう、と言って現れた。早速、信子が恋の周りをうろうろする。
「ねえねえ、昨日、どうだったのよぉ。」
「え?昨日って?」
心なしか恋の顔が赤い。
「行ったんじゃないの?宮本さんち。」
「い、いやだなぁ、行ってないよ。途中であたし、タクシー降りたし。」
「へぇ、そうなんだぁ。なぁんだ。つまんない。」
するときりっとした顔をして恋が言った。
「宮本さんがあたしの相手なんてするわけないでしょ。」
恋にしては強い言い方だった。
「あのね、宮本さんは優子がいいんだって。散々相談されたわ。」
「はぁ?なに、それ。」
信子は大袈裟に失望して見せた。
「杏奈ちゃんだって、佐藤さんと仲良くしてたじゃない。」
少し口を尖らせて、恋が言った。ぷぷっと杏奈は笑った。
「佐藤さん、のぶうこがいいって言ってたよ。」
「うそぉ!」
信子はけらけらと笑った。
「だってらあたし、あの人と一度も喋ってないよぉ。」
「美人は得なんだってばさ。」
「なに言ってんの?あたしは美人じゃないよ。マジで。」
という信子はやっぱりきれいだなぁと杏奈は思った。
ある日の会社の帰り、駅に向かっていると、人波の中に見覚えのある顔があった。樹里だ。杏奈は無視してそのまま歩いていこうとしたが、樹里の方が杏奈に気づいた。
「杏奈ちゃん、杏奈ちゃんだよね。」
杏奈は面倒臭いなぁと思った。しかし捕まってしまったものは仕方ない。
「樹里ちゃん?」
「そう、憶えててくれたんだ。」
「うん。」
樹里は辺りを見回すと、喫茶店に目を留めた。
「ねぇ、ちょっとお茶していかない?あたし、奢るから。」
「いいけど…おごらなくていいよ。」
杏奈の返事は聞かずに、樹里は杏奈の腕を掴むとずりずりと喫茶店に引きずって行った。
「いらっしゃいませ。」
気取った店員が二人をちらりと見ると、先立って歩いた。そして、店の一番奥まった席に二人を案内した。他に客はいなかった。
「なににする?」
「あたしはアイスラテ。」
「じゃああたしはアイスティーにするわ。」
杏奈はブシュッとくしゃみをして、鼻をかんだ。
「この前の合コン、つまんなかったね。」
樹里が口を開いた。
「まあ、あんなもんじゃない?」
「えー、だっておかしくない?みんなレイナか信子さんか優子狙いだったじゃん。」
「だってさぁ。」
言いかけて、杏奈は言葉を飲んだ。二人ともブスじゃん。本当はそう言いたかったが、樹里はたぶんそうは思っていない。
「なに?」
「うーん、たまたまみんな、ああいうのが好きだっただけでしょ。」
「はぁ、男って見る目ないよねー。レイナなんて未だにお母さんにお弁当作ってもらって、みんなには自分でつくってるなんて言ってさぁ。あたしなんて、料理はプロ級よ。」
へぇ、と杏奈は思った。
「じゃあ普段からちゃんとご飯作ってるの?」
「当たり前じゃない。男を捕まえるには、まず胃袋を掴め、よ。」
樹里は鼻の穴を膨らませて言った。が。男の胃袋を捕まえる前に、自宅に誘い込むチャンスだって掴めないじゃないかよ、と杏奈は思った。それと同時に、豆腐ともやしが並ぶだけの自分の食卓の寂しさを少し味気なく思ったが、自分は自分なのだからと開き直った。
「樹里ちゃんは結婚願望とかあるの?」
すると樹里は一瞬、ぽかんとした顔をした。
「やだ、何言ってるの、杏奈ちゃん。結婚願望なきゃ、合コンなんて行くわけないじゃない。杏奈ちゃんだって、そうでしょう?」
「あたしはないよ。一人で生きていけるもん。」
「マジで?それ、本気で言ってる?」
「うん。」
樹里は信じられないとばかりにちっこい目を見開いた。
「女は結婚よ。いい男に嫁いでナンボよ。」
「あたしは自分が食っていけるくらいの収入があって、猫と暮らせればそれでいいかな。」
「杏奈ちゃん、猫飼ってるの?かぁー!もう終わりね。」
杏奈はいささかむっとした。
「なんで猫飼ってると終わりなわけ?」
「ペットなんて飼ってるのは、寂しいからでしょ?その寂しさがペットで埋まってたら、そりゃ男なんていらないわ。寂しさを埋めてくれるのが男ってわけ。」
樹里の力説は力が入りすぎていて、店内に響いた。西郷どんとプロレスラーの恋愛談義は、店員たちの耳にも響いていたらしく、トレイで口元を隠して笑っている者や下を向いて肩を震わせている者もあった。
「ねぇ、聞いた?この前の合コンでイケメンが一人いたじゃない。」
「ああ、宮本さん。」
「そう。彼、最後に誰と帰ったと思う?恋よ、恋!あいつ、絶対にブス専でデブ専だわ。」
人のこと言えるかよ、と杏奈は思った。店員たちの集中力が、自分たちに注がれているのが手に取るようにわかった。
「恋ちゃんは可愛いよ。」
こけしみたいで、という言葉はとりあえず飲み込んだ。
「やだやだ、女って本当は可愛くないって思ってても、友達とかだと可愛いとか言っちゃうのよね。」
「樹里ちゃんはお付き合いとかしたことあるの?」
別にそんなことはどうでもよかったが、儀礼的に杏奈は訊いた。すると樹里はにやっと笑い、分厚い胸板を張った。
「すみれ女子にいたあたしが、そのへんの男とほいほい付き合うわけないじゃない。そんなに安売りしないわよ。」
「でもレイナちゃんやゆうちゃんだって、今まで恋人の一人や二人はいたでしょ?」
「あの二人はいいのよ。どうせ、つきあってるんじゃなくて、付き合ってやってる、くらいな感覚じゃん。飽きたらポイでしょ。でもあたしは一途だからね。」
うーん、と杏奈は心の中で唸った。どうしたらこんなに都合のい解釈ができるんだろう。この人、自分に絶対の自信があるんだろうな、と思わずにはいられなかった。
「杏奈ちゃんさぁ、可愛いんだからもったいないよ。この前の佐藤だっけ?お似合いだったよ。」
「は?」
佐藤って誰だっけ?と杏奈は一瞬、思いを巡らせた。ああ、あのつまんない男か、とたどり着くまで少しかかった。
「ないない、あの人はのぶうこ狙いだった。」
といいながらも、ついさっき、樹里は女同志、可愛くない友達にも可愛いと言ってしまうと言っていたことを思い出した。
「そうなの?結構お似合いだったのになぁ。見る目のないオトコよね。そんな男、忘れちゃいな。」
いや、十分見る目があったからこそ、見た目西郷どん以外、自分が欠陥品であることを見抜いていたのに違いない。それよりも、なんだってあたしが佐藤さんに未練があることになってるんだ?杏奈はまたくしゃみをした。
「ま、なんだっていいわさ。そのうち恋ちゃんだってのぶうこだって、結婚して会社辞めるんだろうし、そうなったらあたしは総務部の女初の部長でも目指すから。」
杏奈はそう言って、カフェラテの氷をカラカラと回した。すると樹里が思いがけず強い調子で言った。
「まだ諦めちゃだめよ、杏奈ちゃん。きっと杏奈ちゃんの良さをわかってくれる男はどこかにいるから。」
フンッと鼻の穴が大きくなる。
あー、だからどこをどうしたらそういう発想になるのだろう。誰も結婚したいなんて言ってないし、世界のどこかで王子様が待っているなんて思ってない。すみれ女子ってそこまでおめでたいっけ?
杏奈はイライラしてきた。
「樹里ちゃんの理想の男ってどんなかんじ?」
「そりゃあ…。」
樹里の瞳が夢見る乙女になる。
「ハンサムでお金持ちで優しい人よ。あー、宮本さん、素敵だったなぁ。」
なんだよ、あんたも宮本さん狙いだったんかい、と杏奈はため息をついた。美女も大変だけど、ハンサムも面倒な時があるんだろうなぁ、と思うと、気の毒に思えた。宮本くらいハンサムなら、横に信子が並ぼうが、レイナが並ぼうが、優子が腕を組んでいようが、男たちはみんなへへー、と頭を下げるしかない。逆に美女軍団に宮本が彼氏ですと言われれば、さいでございますか、と言うしかない。面倒なのはフリーの美男美女だ。必ずしも美女だけ、あるいは美男だけが思いを寄せてくるわけではないのである。もしもあたしが宮本さんにロックオンなんてしちゃったら、宮本さんはどう思うだろう。言葉はどうあれ、究極のところでは、おいおい、勘弁してくれよ、だろう。
杏奈はズズッと音を立ててカフェラテを飲み干した。
「ハンサムじゃなくてもいいじゃん。」
「え?」
「見た目なんて、どうだっていいじゃん。お金はあったほうがいいけど、生活できればそれでいいな。優しいのが一番かなぁ、最悪、自分が働いて養えばいいわけだし。」
樹里は目を丸くした。
「杏奈ちゃん、そんなんでいいの?」
「うん。」
「欲がないなぁ。だめだよ、そんなんじゃ。だって考えてみい。結婚してさあ、子供出来た時、旦那がブサイクだったらブサイクな女の子が生まれちゃうんだよ。」
杏奈はぶっ飛んだ。というか、ぶっ飛ばされた気分になった。旦那がブサイクならブサイクな娘って…、あんた、息子の将来はどう考えてるわけ?喉まで出かかった言葉を必死で飲み込む。
「あーあ、杏奈ちゃんみたいな考え方できるなら、楽でいいよねぇ。」
プロレスラーがアイスティーを飲みながら、遠い目をした。おい!現実に戻ってこい!杏奈は願ったが、そんなことを願われているなんて、樹里には知る由もない。
杏奈は宮本と樹里が並んでいるところを想像した。かなり無理のある想像だった。真ん中に宮本に似た、はっきりした顔立ちの美しい少女が並ぶ。そして樹里の横には今すぐにでもリングに立てそうなゴツい男の子。グフグフと笑いがこみ上げそうになるのを杏奈は必死で堪えた。
「杏奈ちゃん?」
「あ、あの、うん、はは、あたし、物事はなるべく簡単に考えるようにしてるんだよね。うん。さて、あたし、そろそろ帰らなきゃ。」
「え?もう?良かったら焼肉でも行かない?」
や〜き〜に〜く〜!もう笑うしかなかった。杏奈は心の中で、大爆笑していた。顔はあくまでも、普段の杏奈ちゃんだった。
「ごめん、あたし、帰らなきゃ。」
「えー、デート?」
「まっさかぁ!ネコネコ!猫にご飯あげなきゃ。」
「猫なんて大丈夫でしょ?行こうよぉ、焼肉。」
「また今度ね。」
杏奈は伝票を掴んで立ち上がった。するとその手を樹里が力強くがしっと握った。お?伝票か?と思ったが違った。
「杏奈ちゃん、今度はアイリス女学院のツテで合コンやろう?レイナとか優子とかのぶうこちゃん無しで。女はあたしと杏奈ちゃんと恋。絶対ね。約束よ。」
樹里の目は真剣だった。でも杏奈にはそんなツテはない。もし合コンをやりたいなら、アイリスのミスコンで最後まで残っていた親友の奈津子にでも頼むしかないだろう。
「むーりー。あたし、ツテないもん。」
「そんなこと言わないでよ。」
樹里は唇を尖らせた。でもないものは仕方ない。
「またレイナちゃんにやってもらえばいいじゃん。」
どうせどこに行っても同じポジションなのよ、あたしたちは。杏奈は樹里を残して喫茶店を出た。
4月の半ばになると、杏奈の花粉症は少し良くなっていた。目のかゆみもだいぶ楽になっていたし、くしゃみも減ってきた。赤鼻の西郷どんが少し良くなっていた。
杏奈は少しウキウキしていた。昨日、ついふらりと入ったパチンコ屋で、連チャンして、久しぶりに懐が温かかったのだ。となれば、信子にランチは奢って貰える。何を奢ってもらおう。考えるだけで楽しかった。行列のできる洋食屋に、昼休みの少し前に走って行こうか。フレンチのランチコースも捨てがたい。そんなことを考えていると、信子が給湯室に入ってきた。
「なーんだ、こんな所でサボってたの?」
「へへー。ちょっとコーヒーでもと思ってさ。」
「ふーん、まあ、あたしもそうだけどね。でもさぁ、なんか嬉しそうじゃない?いいことあった?」
「うん。」
杏奈は右手をくいっと右に回した。
「あー!勝ったの?」
「あったりー!一万五千円勝ったぁ!」
「やったじゃん。悔しいけど、お昼、おごっちゃうよん。」
「やったぁ!」
すると、そこに恋が現れた。堂々と、というよりは、人目を気にして、するりと入ってきたという感じだった。
「あれ?どうしたの、恋ちゃん。」
「おはよ。あの…あのね、ちょっと二人に聞いてもらいたいことがあって…。」
深刻な顔をしたこけしってこんな顔になるんだ、と杏奈はぼんやりと思った。
「なによ、やばい話?」
信子が声のトーンを落として訊いた。恋はもじもじとしていたが、二人に耳を澄ますようにとジェスチャーした。杏奈と信子は、背の低い恋の口元に合わせて耳を傾けた。
「あのね、出来ちゃったの。」
杏奈と信子は顔を見合わせた。なんの話かわからなかった。
「なに?どゆこと?」
「だからぁ。」
恋は耳まで真っ赤にして、両手を丸めて言った。
「あたし、赤ちゃんができたの。」
「はぁ?」
杏奈はまだ理解できずにいたが、じわじわと恋の言葉が頭の中心に響いてきた。まるで深い泉の中から、妖精が金の斧でもなく、銀の斧でもなく、ピンクの斧を持って出てきたかと思った。
「え?ちょっと、待って、恋ぃ!赤ちゃんて、相手は誰?」
興奮を隠せずに信子が尋ねると、恋は消え入るような声で誰かの名前を言った。が、聞こえなかった。
「え?誰?」
「だからぁ!宮本さん!」
うぐっと口の中で変な声を出して、杏奈は黙った。信子も自分の耳が信じられないようだった。
「ごめんね。なんか言いづらくて…。」
「い、いや、謝らなくても…。」
「そ、そうだよ、良かったじゃない。」
自分たちの声がどこか遠くで響いていた。杏奈はまだ恋と宮本の仲を受け入れることができなかった。しかし恋は宮本の子供を身ごもっているのだ。この小さくてふっくらとした恋の体にはもう一つの命が存在している。
「ね、今日さ、夜、ご飯行かない?ここじゃ他の人に聞こえるかもしれないし。」
信子もまだ動揺を隠しきれないまま、それでも一番まともな提案をしてきた。
「そ、そうだね。恋ちゃんの体調さえよければ。」
恋はにっこり笑った。
「うん、あたしは大丈夫。ありがとう。ごめんね、急に。」
恋がくるりと身を翻して行ってしまうと、杏奈と信子は、どちらともなく大きなため息をついた。
「驚いたぁ。あの恋ちゃんが、よ。」
「う、うん。やられたぁ!」
「のぶうこ、今日、お昼寝いいわ。なんか何食べても味がわかんなさそう。」
「あたしもそう思う。また今度奢るから。」
二人はコーヒーを流しに捨てると、仕事に戻った。
その日、杏奈は仕事が手につかなかった。ランチタイムは社食で、いつものように信子と恋とでとった。そこでは恋のおめでたの話は一切出ず、杏奈はひたすらきつねそばを啜った。就職して、こんなに無気力になるのは初めてだった。夜が来るのが怖かった。
「杏奈ちゃーん、これコピー十部お願ーい。」
「うい。」
杏奈は立ち上がって、書類を受け取ると、コピーを取り始めた。ふと思い立って、キョロキョロとあたりを見回し、誰も見ていない隙を突いて、コピー機のガラス板に顔を押し付けてスイッチを入れた。ガーッと音がして、目を閉じていても眩しい光が顔面の下で弾ける。さっとその紙を折って、ポケットに入れると、できあがった書類のコピーを部長に渡した。
定時になって、殆どの女子社員は帰り支度を始めた。杏奈は自分の顔のコピーをそっとバッグに滑り込ませた。
「さて、行きますか。」
「どこ行く?」
「居酒屋ってわけにもいかないよね、タバコ吸ってる人もいるし。」
「ああ、あたし、いいとこ知ってるわ。」
会社から電車で二駅のところに、信子のお気に入りのタイ料理屋があった。
「辛いもん、大丈夫?」
「うん、大丈夫。」
「よかった。」
店内はアジアの雰囲気が漂っていて、お香の香りがした。三人はテーブル席についた。
信子と杏奈はビールを頼み、杏奈はマンゴージュースを注文した。
「で。」
信子が口火を切った。
「どこから話してもらいましょうかね。あんなイケメン、どうやってゲットしたのよ。」
恋は恥ずかしそうに、下を向いてもじもじした。
「あのね、合コンの日…。」
「はぁ?ご、合コンの日って…。」
「あたし、宮本さんと一緒に帰ったでしょ?宮本さん、優子の話ばっかりしてたの。でもあの日、宮本さん、すごく酔っ払ってて、タクシーの中であたしにもたれかかってきたの。そしたら、恋ちゃん、柔らかいねって…。」
杏奈はその時の光景が目に浮かぶような気がした。確かに、恋の体はぷよぷよして、さわり心地が抜群にいいのだ。酔っ払って、ふと直に触りたくなるのもわかる気がした。
「それで、恋の部屋に行ったってわけ?」
恋はこくんと頷いた。顎の下の肉が綺麗に二重になった。
「始めはね、コーヒーでもって言ったの。だけど宮本さん、そのまんま抱きついてきて…。」
とんだ策士じゃないかぁ!と許されるなら杏奈は机をバンバン叩きたかったが、代わりにビールをぐびぐびと飲んだ。
「その一回でできちゃったわけ?」
さらに信子が突っ込む。
「うん。」
「宮本さんはどう言ってるの?」
「産んで欲しいって。結婚しようって言ってる。」
「いいのぉ?そんな簡単に決めちゃって。」
「子供ができたってわかったのは先週なんだけど、この二ヶ月は宮本さん、毎週うちに泊まっていって、いつ子供ができてもおかしくないなって。」
杏奈はパパイヤのサラダをわしわしと食べた。辛い。このお店、本格的なんだ、とタイには行ったことはないが思った。
「恋ちゃん、ご両親は?」
杏奈が訊いた。
「両親には電話で話したよ。びっくりしてたけど、喜んでた。来週、宮本さんと挨拶に行くつもり。」
「ふーん。」
信子が手際よく料理を注文したため、次から次へと料理が出てくる。恋は殆ど手をつけなかったが、杏奈は一人、もりもり食べた。なんだか食べてないとやってられなかった。樹里がこの話を聞いたら、どう思うだろう。ん?樹里?
「ねぇ、この話知ってるの、あたしたちだけ?」
「今のところはね。でもお式もあるから、レイナ達にも連絡しないとね。」
杏奈はびびった。樹里に連絡なんてしたら、恋はなんて言われるんだろう。でもそれは恋の交友範囲の中の話だ。杏奈がどうこう言ったところで関係ないのだ。
「そうそう、それでね、二人に急で申し訳ないけど、お願いがあるの。来月にはお式をしたいから、出席してもらえない?」
急で申し訳ないって、あんたの妊娠のほうがよっぽど急だわ、と杏奈は思ったが、できるだけ明るくにいっと笑って頷いた。
「もちろん出席させてもらうよ。そうでしょ、のぶうこ。」
「ええ。喜んで。」
「じゃあ今日はお祝いだね。」
「ありがとう。」
杏奈はかぱかぱとビールを飲んだ。信子は恋に遠慮したのか、いつものように豪快には飲まなかった。
宮本さんと恋がねぇ〜。人生、どこでどうなるか、わかったもんじゃないわ。杏奈は嬉しいには嬉しかったが、何か複雑な気持ちだった。
酔いも回ってきた頃、ふと思いついて、杏奈はがさがさとバッグから紙を取り出した。
「なに?それ。」
「じゃーん!」
それは、杏奈がコピー機にべったりと顔をつけて撮った、杏奈の潰れた顔だった。信子がげらげらと笑い、その声が店に響いた。恋は笑っていいのか、そうでないのか、困った顔で笑いをかみ殺している。
「なに、これ。最高!」
「でしょ?あたしもこれ、気に入ってるんだ。」
信子は目に涙を溜めて笑っている。太い眉、半眼になったぎょろりとした目、べろりとめくれた唇。ピカソだってこんなに前衛的な芸術作品は思いつかないだろう。
「あたしね、この顔に産んでくれた親に感謝してる。だってこんな面白い顔、なかなかいないよ。」
「杏奈ちゃんは可愛いよ。」
恋がとうとう笑いを我慢しきれずに、にこにこしながら言った。
「ありがと。可愛いっていろんな意味があるもんね。ブサカワイイとかキモカワイイとかさ。」
「違うよ、なんかね、愛嬌があるの。みんな杏奈ちゃんのこと、好きよ。」
杏奈はわははと笑ってビールを飲んだ。
はぁ…。またやってしまった…。杏奈は深いため息をついた。パチンコのマシーンは容赦なく杏奈の大切な諭吉さん三枚を吸い取っていったのだ。本当は結婚式に出るためのワンピースを買う予定だったが、ついふらふらぁっとパチンコ屋に入ってしまったのである。あかん。資金調達せねば。
杏奈は携帯電話を取り出した。杏奈が携帯を使うことはほとんどない。たまにフェイスブックで数少ない友達の近況を見るくらいで、ラインもカカオトークもやっていなかった。
「もしもし、杏奈?」
「お母さん、元気?」
「こっちはみんな元気よう。なによ、あんた、ろくに連絡もしないで。」
だって普段は用事がないんだもん、と杏奈は思った。
「どうしたの、いい人でもできた?」
「あたしじゃない。会社の同僚がおめでた婚なんだよ。」
「あらー、いいわねぇ。杏奈も早くそんな話を聴かせてよ。」
けっ、だれがそんなことするかい。
「それで、つきましてはお母様。娘に援助していただけないでしょうか。」
「はぁ?あんた、ちゃんとお給料もらっているでしょ。」
「頂いてはおりますが、今月はちょっとピンチなんでございます。」
あぁ、細かい話はやめてくれ。
「困ったわね。こっちだってお父さんは定年だし、孝一は家、新築したばかりだし。」
「そこをなんとか…。」
「なんとかって言われても、ないものはないの。自分でなんとかしなさい。」
「お母さん!」
プツッと電話が切れた。我が母親ながら、実にあっさりした性格である。あかん、と今度は信子に電話をしたが、信子は出なかった。さて、どうしよう。
杏奈は家に帰ると、クローゼットの中を漁った。新しい服なんてしばらく買っていない。普段はチノパンに夏はTシャツ、他の時期ならトレーナーで済ましている。うーん。すると、中から淡いブルーのワンピースが出てきた。あれ?こんなのあったっけ?取り出してみて思い出した。前にネット通販で、珍しくサイズがぴったりだったので、こんな時が来た時に、と買っておいたのだ。クンクンと匂いを嗅ぐと、少し湿っぽい匂いがした。もそもそとトレーナーとチノパンを脱いで、ワンピースに袖を通してみる。
「うっ…ふん!」
お腹を凹ませれば、なんとか着れた。そのまま姿見の前に立ってみる。少しぱつんぱつんではあったが、見られないほどではない。しかし硬い髪の毛は柔らかな素材を肩の辺りで突き刺し、ふんわりとした袖からは二本の太い腕が、裾からは足がずどんと出ていた。はぁ…。杏奈は今日2度目のため息をついた。みっともない。自分の容姿からは、『女の子』という単語が出てこないのだ。もちろん、もう女の子、という年齢でもないが、女はいつまでたっても『女の子』でいたいのだ。似合わないなぁ…。杏奈はぽりぽりとほっぺたをかいた。でもないよりはマシだ。一度クリーニングに出せば十分着られる。靴とバッグは昔買ったものがある。あとはご祝儀を出せばいい。それだけなら、なんとか捻出できそうだった。
その時、信子から電話がかかってきた。
「ごめん、ちょっと取り込んでて。電話くれた?」
「あ、うん。でも大丈夫だった。」
「なに?それ」
信子が笑う。
「うん、恋のお式にね、着ていく服がなくて、のぶうこにお金借りようかなって思ったんだけど、前に買った服があってさ。」
「へぇ、どんな服?」
「薄いブルーのワンピース。袖と裾がヒラヒラしてて、ちょっと小さいし、あんまり似合わないんだけどね。」
「ちょっとダイエットしたら?あとはいいじゃん、別に。みんな何着てるかなんて、意外と見てないから。あたしも前に別の友達の結婚式で来たドレスで行っちゃう。」
「そうなんだ。」
「あとは髪型で誤魔化しちゃうかな。カーラー巻いて、ちょっと留めておけばなんとかなるわ。」
杏奈は、自分の姿を改めて見た。髪型を変えるといっても、セミロングのおかっぱ頭はどうにもなりそうもなかった。きっと信子のことだ、ちょっとしたことで、すんごくゴージャスになるんだろう。美人でスタイルがいいって、やっぱりいい。
「ねぇ、のぶうこ。ご祝儀、いくら包む?」
「三万でいいんじゃない?普通、そんなもんでしょ。」
杏奈はホッとした。五万じゃなくてよかった。
「わかった。ありがとね。」
そう言って電話を切ると、杏奈はもう一度、鏡の前で、今度は横から自分の体を見てみた。腕や足は今更どうなるものでもない。問題の大部分を占めているのは、その立派な腹だった。ぐっと力を入れれば多少余裕はできるが、ちょっと油断すると、見事に三段腹になる。
「ダイエット…かぁ。」
世の中で、ダイエットから一番遠くに逃げ延びていたはずの自分が、自主的に過酷な世界に近づいていくとは夢にも思わなかった。母親がお金さえ援助してくれれば、今の自分の体格に合った服が買えたのだ。お母さーん!と杏奈は心の中で、目一杯の怨みを込めて叫んだ。
とうとう、その日はやってきた。横浜の山の上のチャペルは多くの人で賑わっていた。杏奈は淡いブルーのワンピースに、ベージュのバッグと、揃いのハイヒールで、ひょこひょこ歩いて信子の姿を探していた。信子はレイナと優子と話していた。
「のぶうこ!」
「あ、杏奈ちゃん、こっちこっち。」
レイナと優子に会うのは、あの合コン以来だった。信子は黒のドレスにたっぷりとしたパールのアクセサリーとコサージュを付け、髪は巻いて、パールのクリップで緩く留めていた。レイナは淡いグリーンのワンピースに大きなコサージュ、髪は美容院でセットしてきたのだろう、美しい夜会巻きになっている。優子は艶やかな着物姿だった。うわぁ、と杏奈は思った。男ども、よく見ろよこの美女たちを!杏奈はこんなに綺麗な人たちが自分の友達であることを誇らしく思った。実際、会場にいる誰しもが、三人を眩しそうに見ている。が、ふと我に帰ると、自分の不恰好さが恥ずかしくなった。自分なりに精一杯の格好はしてきたが、どうやっても自分は女装した西郷どんなのだ。
「杏奈ちゃん、久しぶりぃ。」
優子に話しかけられると、くらくらした。なんて綺麗なんだろう。まるでお人形さんだ。優子が日本人形ならレイナはフランス人形、信子はバービーだった。
「あら、杏奈ちゃん、それでしょ、電話で話してた服。よく似合ってるじゃない。」
信子がそう言うと、杏奈は余計惨めな気分になった。がんばってダイエットはした。服は少し余裕をもって着られた。まあいいじゃないか。いくらがんばったって、あたしはあたしなんだ。
「レイナー!」
聞き覚えのある声に振り返ると、人の波をかき分けて、ドスドスと樹里が走ってきた。杏奈は再びくらぁっとした。それはレイナ達に感じたのとは違う種類の目眩だった。蛍光に近いどピンクのひらひらのドレスに、髪は高く盛り、チークはオカメインコのようにまあるくオレンジに塗られていた。ひどい…。これはひどい。素材の悪さは自分とどっこいどっこいだと思ったが、それを更に悪い方向に際立たせるなんて、樹里でなければできないだろう。
「ごめーん、お洋服が決まらなくて遅くなっちゃった。」
前にも聞いたな、と杏奈は思った。心なしか信子も顔が引きつっている。レイナと優子は慣れているのか、ニコニコとしている。
「大丈夫。時間までまだ余裕があるから。」
「あーよかったぁ。」
杏奈は樹里の頭の先から足の先まで、相手に気づかれないように何度も眺めた。何度見ても、悪趣味のかたまりだった。これだったら自分の方がマシだ、と杏奈は思った。少なくとも、自分を正しく認識できるだけの分別は持っている。よかった…。もしも樹里が普通の格好をしてきたら、きっと目くそ鼻くそレベルの戦いだったに違いない。今日はあたしの勝ちだー!杏奈は少し気持ちが軽くなった。
参列者が教会に集められ、式が始まった。気がつくと、例の合コンに出席していた男たちも参列していた。
厳かにオルガンが結婚行進曲を奏でる。後ろのドアが開いて、真っ白なウェディングドレスに身を包んだ恋が、父親と一礼した。父親は恋のように背の低い男だったが、ひょろりとして、恋の半分くらいの幅しかなかった。
一歩、また一歩と二人は歩みを進める。この一週間、恋は結婚式のために会社を休んでいたが、ゆったりとしたドレスのせいか、ますますふっくらとしたようだった。お腹はドレスに隠れて、少し大きくなってはいたが、妊娠していると言われなければわからなかった。
祭壇の前で、恋の手は白いタキシードを着た宮本に託された。タキシードを着ると端整な宮本の顔はもっと凛々しく見えた。全員が起立して賛美歌を歌うと、神父が二人の愛の誓いの儀式を粛々と進める。杏奈はじっと、ある瞬間がくるのを待っていた。
「それでは、誓いのキスを。」
きた!杏奈は前に並ぶ人達の間から、祭壇を見た。恋の顔を覆うベールが上げられる。少し見づらかったが、緊張した恋の横顔が見えた。惜しい、もうちょっとなのに。宮本は新婦の晴れ姿に目を細め、優しく恋のおでこにキスをした。
なんだよ、そこかい。別に唇にキスするところを見たかったわけではないが、それはそれでがっかりした。
神父が二人の結婚が成立したことを宣言し、二人は結婚証明書にサインした。そして再度全員が起立して、賛美歌を歌った。杏奈は賛美歌は知らなかったが、おたまじゃくしは読めたので、たどたどしくはあったが一緒に歌った。さあ、いよいよだ。杏奈はわくわくして、バージンロードを見つめた。新郎新婦が一礼して、顔をあげた。あらー、と杏奈は思った。綺麗なこけし。福々としてはいるものの、点と線で似顔絵が描けるほど淡々とした恋の顔は、プロ仕様の素敵なこけしに仕上がっていた。長い付けまつげを付け、ほんのりと頬をピンク色にし、淡いピンクのルージュを引いていた。正直、杏奈は少しがっかりした。プロの手にかかっても、素地は変わらない。二人はそんな杏奈の胸のうちを知ることもなく、杏奈の横を通り過ぎた。
「ブーケトスやるよぉ!」
「独身の女性の方は、前に出てくださぁい!」
教会の前では新婦となった恋が、宮本と何か楽しそうに話している姿があった。
「杏奈ちゃん、ほら、行くよ!」
信子が杏奈の腕を引っ張った。杏奈は気が重かった。結婚する気もないのに、間違ってそんなものを受け取ってしまった日にはどんな顔をすればいいのだろう。
気がつくと、杏奈の左側にはレイナと樹里がいた。優子は着物だから、遠慮したようだった。
階段の下には十人ほどの若い女性が集まり、わいわいと賑やかだった。ブーケを取る気満々な女性がほとんどだった。信子やレイナでさえ、目を輝かせてその時を待っている。
「ねぇねぇ、誰が取ると思う?」
「あたし、まだ一回も取ったことないんだよね。」
二人がそう話していると、樹里が鼻の穴を膨らまして入ってきた。
「あたしは四つとったことあるよ。だけど全然ご利益ないの。」
そりゃそうだろうよ、と杏奈は思った。
自分のところにブーケが来たら、そのままバレーボールの要領で、樹里の顔にアタックしてやろうか、とも思った。
「あ、始まるよ。」
「あたし、絶対取るからね。」
樹里は構えて見せた。
階段の上で、恋が背を向ける。両手に持ったブーケが恋の手を離れ、宙を舞った。わぁっと歓声が上がる。え?と杏奈は思った。え?え?え?ブーケが自分に向かって真っ直ぐ飛んでくる。杏奈は両手を広げた。すると、横からピンクの塊がゆっくりとフェードインしてきて、杏奈の目の前は真っ暗になった。その塊は微かな衝撃を受けた直後に、杏奈の上から降ってきた。どすん、と強くて重たい塊だった。杏奈は思わず、尻もちをついた。ずしっと塊も落ちてくる。
「いったぁい!」
杏奈の上に倒れこんでいたのは樹里だった。ブーケをしっかり握りしめ、苦痛に顔を歪めている。
「いて…。」
杏奈が言うと、樹里は慌てて立ち上がった。杏奈は顔とお尻がひどく痛んだが、なるべくみんなに気づかれないように、平然と立ち上がった。
「ごめーん、大丈夫?」
大して心配もしていないように、樹里が言った。
「うん、なんともない。」
「杏奈ちゃん、怪我してない?」
優子や信子、レイナは心から心配しているようだった。
「大丈夫だよ。」
「よかった、びっくりしたよぉ。」
1番びっくりしたのはあたしだ、と杏奈は思った。樹里はブーケを取って、満足そうに笑いながら、周囲の人達に自慢していた。そこまでして欲しいのかよ。まさか横っとびに飛びついてくるなんて、思いもしなかった。ブーケがありゃ、人間幸せになれるのか?バカらしい。そういえば、ブーケを何個もドライフラワーにして飾ってる女がいたな、と杏奈は思った。
「杏奈ちゃん、ごめんね。樹里、結婚焦ってて。」
そっとレイナが言った。
「あれ?杏奈ちゃん、なんか顔、腫れてきたよ。」
信子が杏奈の顔を覗き込んで言った。触ってみると、うっすらと腫れている。あちゃーと杏奈は思った。さっき、樹里と衝突した時に打った場所だった。
披露宴は、結婚式の数倍の人が集まった。杏奈達は同じテーブルで、なぜか杏奈の席は樹里の隣だった。
「ねえねえ。」
樹里が杏奈の席に自分の椅子を寄せた。
「ちょっとお。宮本さんと恋ができてたなんて、知ってたぁ?」
「知らなかったよ。赤ちゃんができたって聞くまでは。」
「やるよねー、恋。おとなしそうな顔してさあ。」
樹里は鼻の穴を膨らまして、少し怒ったように言った。
「あたしも聞いた時には驚いたわよ。あの合コンの日にそんなことになってたなんて、裏切られた気分よ。」
あの時、あんたが宮本さんと一緒に帰ったって、そんなことにはならなかったし、第一、宮本さんはあんたとは帰らなかったよ、と杏奈は腫れた頬を触りながら思った。
「あーあ、恋のどこがよかったんだろう。あたしだって負けてないのに。」
「負けたとか負けてないじゃないんじゃない?縁でしょ、こういうのは。」
「縁もあるけど、テクニックよ。下心があるのは男だけじゃないからねー。」
それは否めないかもしれない、と杏奈は思った。酔った勢いとはいえ、深夜に男を自宅に上げれば、そうなっても文句は言えないだろう。
「樹里ちゃんも、テクニックってあるの?」
大して興味はなかったが、訊いてみた。すると樹里は分厚い胸板を反らせた。
「狙いを決めたら、じっとその人の目を見つめるのよ。何度も目が合っているうちに、相手も気にし始めるわけ。」
その自信たっぷりな言い方に、杏奈は思わず吹き出した。
「な、なによ。」
「だ、だって。」
その顔に見つめられるなんて、メデューサに睨まれるようなもんじゃないか。間違っても目を合わせたくはない、と言いたくなるのを杏奈は必死で堪えた。
「それ、成功してないんでしょう?」
樹里は言い当てられて、慌てたように手を振った。
「そんなことない!ちゃんと成功するよ。」
「それなら今頃は彼氏いるはずじゃん。合コンの時、宮本さん見てたの、あたし知ってるよ。」
「違う違う、あたし宮本さんなんてタイプじゃないもん。」
「わかったわかった。」
杏奈は笑いながら、ビールを飲んだ。
カナリアイエローのドレスを着た恋と宮本は高砂に座り、次々と訪れる友人達と談笑したり、写真を撮っている。こう見ると、なかなかお似合いの二人だな、と杏奈は思った。生まれるのはどんな赤ちゃんだろう。恋にそっくりの女の子が生まれるといいのに、と杏奈は思った。
「杏奈ちゃん、のぶうこちゃん、私たちも恋のとこ行こう!」
レイナが立ち上がる。
「そうね、今、ちょうど空いてるし、あたし達も花嫁さんと写真撮ってもらわなきゃ。」
優子も立ち上がる。五人はぞろぞろと高砂まで歩いて行った。恋は嬉しそうに笑った。
「恋ー、綺麗だよ。」
「本当、ドレスも素敵ね。」
「ありがとう。みんなもとってもきれい。来てくれて嬉しいわ。」
みんながわいわいと話している中、恋が杏奈の腕をつついた。
「ねぇ、さっき、ブーケトスの時、大丈夫だった?」
杏奈は頬を触った。うっすらと腫れているが、少し赤くなっている程度だ。
「大丈夫大丈夫。ちょっとびっくりしたけどね。」
「樹里ちゃん、いっつもそうなの。ブーケトスキャッチャーって呼ばれてるの。」
ブッと杏奈は吹き出した。ブーケトスキャッチャー。なんて素晴らしいネーミングだ。それならあんな目にあったところで文句は言えない。
「杏奈ちゃん?」
「いや、なんかさ、樹里ちゃんって可愛いね。」
ぱあっと恋の顔が明るくなった。
「でしょ?あたし、樹里ちゃんのことも杏奈ちゃんと同じくらい好きよ。」
杏奈はわははと笑った。みんな一生懸命なのだ。形やアプローチの仕方は違うけど、みんな何かにむけて、自分のベストを尽くしているのだ。ブーケだって、その象徴みたいなもので、樹里だって幸せになりたくて必死なのだ。
「はい、皆さん、並んでくださぁい。」
カメラマンが手を挙げる。杏奈は恋のすぐ後ろに立った。隣は樹里だった。
「はい、行きまーす。はい、チーズ!」
杏奈は満面の笑みを浮かべた。にいっと歯をむき出しにして、高砂にしっかり足を踏ん張って笑った。みんなが幸せだった。
数日後、ハネムーンから帰ってきた恋が出社した。ハワイ土産だと言って、おなじみのマカダミアナッツのチョコレートをみんなに配った。杏奈と信子には髪留めが添えられていた。同時に、封筒に入った写真も配られた。
「宮本さぁん。」
信子がふざけて呼ぶと、恋は耳まで真っ赤になって、信子を叩いた。
「どうですか、新婚さんは。」
杏奈はコーヒーに砂糖とミルクをたっぷりと入れて、かき混ぜながら訊いた。
「楽しいよぉ。朝起きると彼が隣に寝ていて、夜になると彼が帰ってきて、あたしが作ったご飯、一緒に食べて。」
「あー、想像できない。あたし、結婚に向いてないかもー。」
「のぶうこちゃんは大丈夫だよぉ。お料理も上手だし、尽くすタイプだもん。」
「そうかなぁ。でもブーケも取り損なったし、まだまだ結婚は先だね。」
「わかんないよお、あたしみたいに急に結婚が決まるなんてこともあるんだし。」
ブーケトスキャッチャー。思い出して、杏奈はブクブクブクと笑った。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない。」
杏奈はコーヒーを飲んで、カップを洗った。
その晩、家に帰ると杏奈はいつものようにチャーシューとメンマに餌をやり、自分は買ってきた牛丼を食べた。生卵とお新香付きだ。一気に食べてしまうと、恋にもらったチョコレートを開けた。いつも気になるのだが、どうしてハワイ土産はチョコレートなんだろう。杏奈はハワイどころか海外に行ったことがないので、海外のお土産事情というものがわかっていなかった。二つ食べて、蓋を閉めた。それから髪留めをバッグから取り出した。それは可愛らしい花束のような形をしていた。杏奈の髪は髪留めが必要なほど長くはなかったが、せっかく頂いたのだから、会社の机の引き出しにいれておいて、時々使えばいい、と杏奈は思った。
ハワイかぁ…。杏奈はゴロンと床に寝転がった。メンマが足先に擦りついてくる。ハワイの美しい海と夕暮れ。空は鮮やかなオレンジ色に違いない。砂浜を歩く宮本と恋。やっぱり宮本の相手は恋なんだなぁ、と杏奈は思った。隣が信子であってもレイナや優子であってもいけない。たぶん、美男美女で絵にはなるけど、何か違う。樹里?ないない。それは間違ってもない。やっぱり恋だ。不思議なもので、最初は不釣り合いなカップルだと思っていたが、披露宴で高砂に座っていた二人を見たときに、ピンと来た。運命ってあるんだ、と。
ゴロゴロしていると、バッグから封筒が出ているのに気がついた。そうそう、写真があったっけ。杏奈はほふく前進してバッグに手を伸ばすと、封筒を取り出した。開けてみると、二十枚くらいの写真が入っていた。一体いつの間に撮ったのだろう?ほとんどの写真の中で、杏奈は食べているか飲んでいた。自分で笑ってしまうほど惚けた写真もあった。最後に集合写真が出てきた。杏奈はゆっくりとその写真を眺めた。真ん中で恋と宮本
がにっこりと笑っている。そのすぐ上に、自分の顔と樹里の顔が並んでいた。気のせいか顔面の面積が、二人だけみんなよりふたまわり大きく見えた。信子もレイナも優子も、みんなモデルのように綺麗に笑って立っている。杏奈は何度もみんなと、自分と樹里の顔を見比べた。ブーッと笑った。あははは。杏奈は声をあげて笑った。涙が出るくらい笑った。
ひとしきり笑うと、棚からアルバムを出した。就職してから使っているアルバムには半分も写真が入っていなかった。
杏奈は一枚一枚、ゆっくりと写真をアルバムには収めた。一枚、また一枚と思い出が増えていく。最後に集合写真を収めた。
杏奈は満足すると、始めからアルバムを眺めた。ガチガチになった入社式の写真。研修で行った熱海での写真。誰がいつ撮ったのか覚えのない、社内で信子と恋とのスリーショット。年に一度の社内旅行。もう会うことのない人達との合コンの写真。この五年間がつぎはぎのようにアルバムに収められている。
川島杏奈、二十七歳。あだ名は女西郷どん。杏奈はゆっくりとアルバムを閉じると棚に戻した。