遊びにいこう②
ヘンリーとっておきの釣り場は、橋を渡った先の、道から外れたところにあった。
鬱蒼と生い茂った木々の合間を抜け、少し歩くと開けた場所に出る。
そこには村の中を流れている小川が続いており、ヘンリーの話によると、この先にある簡素な造りの水門を通って村の外から流れこんでくるらしい。
つまり此処がこの村の中で一番きれいな水が流れている場所ということだそうだ。
木漏れ日にきらきらと反射する川面の眩しさに目を細め、そこに糸を垂らす。
魚をおびき寄せる餌の虫を糸の先に取り付けた針に引っ掛けているのだが、ドニの不器用な指が何度も針につつかれるのを見かねたヘンリーが代わりにつけてくれた。
それから何度か釣り竿を引き上げてみたが、そのたびに虫はいなくなっており、不思議に思って首を傾げる。
魚が餌だけ食べて逃げた後なのらしいが、喰らいつかれた感覚は何度か経験してもわからず、やはり釣りではなく単なる餌やりになってしまう。
それでもめげずにもう何度目かもわからないが、握っている竿が微かに動いたような気がして糸を引いた。
やはり餌だけなくなっている。
「ドニ、釣れたか?」
少し離れた位置で釣っていたヘンリーが釣果を確かめに戻ってきた。
彼のバケツに何匹かの魚が泳いでいるのが見える。
それを見てなおさらしょんぼりと肩を落として首を横に振ると、彼はドニの釣り針に視線を向けた。
「あちゃー竿を引くのがちょっと遅かったな! また餌つけてやるから貸してみろよ!」
促されるままに釣り竿を手渡し、ふたたび虫が取り付けられるのを眺める。
もう何匹の虫を無駄にしたことやら。
今度も餌だけ盗られてしまうだろうか。
「大丈夫だって! 最初はそんなもんだよ! 慣れたら魚が食いつく瞬間もわかるようになるさ」
釣りを始める前のやる気はどこへいったのか、すっかりしょげてしまったドニの様子にヘンリーが笑いながら励ましの言葉を掛ける。
彼の言う通りに続けていればそのうち一匹は釣れるかもしれない。
そう考え直してこくりと頷き、また川面に糸を投げ込むと、ヘンリーがそれを眺めてよしよしと頷いた。
それから彼はそろりと慎重な動きで川の中を覗き込んだ。
ドニが先ほど近付いて覗いた時にはたくさんの魚が悠々と泳ぎまわっていたため、きっと彼の目にもそれと同じような光景が映っているだろう。
その予想は正解だったようで、しばらく川を見つめていたヘンリーがぽつりと呟く。
「しっかしこんだけいたら手掴みでも捕れそうだよなー」
確かに魚は川のどこを見ても泳いでおり、手を突っ込むだけで捕まえられそうだった。
鈍臭いドニでは到底無理だろうが。
「ちょっと試してみるか!」
そう高らかに宣言したヘンリーにぎょっとするが、彼は既に少し離れた川べりへ皮靴を放り投げていた。
そしてそのままじゃぶじゃぶと足首を川水に浸していく。
慌てて釣り竿を置いて近寄るものの、どうしたらよいのかわからず、おろおろしてしまう。
「えっ……あ……あぶな……」
「へーきへーき! このへんは浅いし、ちょっと脚を浸すぐらいだから!」
なんとか静止の言葉を絞り出すが、当のヘンリーは陽気に笑い流してどんどん水の中を進んでいく。
そして、脛が隠れる程度の深さまで行くと、じっと立ち止まって川の中を見つめ始めた。
おそらく魚の動きを見ているのだろう。
「とりゃ!」
しばらくそうしていたと思ったら、突然、派手に水しぶきが上がった。
ヘンリーが水の中に勢いよく両腕を突っ込んだのだ。
急なことにビクッと驚いていると彼は何やら格闘し始めた。
少しの間、手こずるような様子を見せたが、それはすぐに終わり、満面の笑みでドニのほうを振り返った。
「ほら、ドニ! 捕れた!」
確かにその小さな手には一匹の魚が捕まっている。
びちびちと足掻くかのように暴れる魚を両手でしっかりと抑えて、自慢げに笑うヘンリーだったが、その脚は麻のズボンまですっかり濡れてしまっていた。
川の中に入るのは危ない思っているドニはそれを見て、困った顔で彼と魚を見比べる。
するとヘンリーは何が面白いのか声を上げて笑った。
「あはは、そんな心配そうな顔するなよー。もう戻るから……って、うわ!?」
「ヘ、ヘンリー……!?」
魚を持ってふたたびじゃぶじゃぶと歩いて戻ってこようとしたヘンリーが足を滑らせたのか、盛大に水の中で転んだ。
先ほどよりもさらに大きな水しぶきが上がり、ヘンリーの姿が一瞬消える。
それを目の当たりにし、心臓が縮み上がり、反射的に呼びかける。
空中で舞った水の柱が崩れ、川に散っていくと彼の姿が現れた。
そこは川底が特に浅いところだったようで、尻を水に沈めて目をぱちくりさせている。
溺れてはいないようだが、怪我をしているかもしれない。
そう思ってハラハラと不安が湧きあがるが、要らぬ心配だったようだ。
次の瞬間には、けたけたと笑い始めた。
「あははははは! びしょ濡れだ! 母ちゃんに怒られるな、こりゃ!」
心配性のドニからしたら面白くもなんともないのだが、とりあえず怪我はなさそうでほっと息をつく。
ヘンリーはすぐに立ち上がってびっしょりと濡れてしまったシャツを絞った。
それからドニのもとへ戻ろうと数歩進んだところで、ハッと自由になった両手を見た。
せっかく手掴みで捕まえた魚を放り出してしまったようだ。
「あっ! 魚! 魚を逃がしちまった……って、え?」
逃した魚を探そうとしたのか周囲を見渡した慌しいヘンリーの動きが、ピタリと止まる。
不審に思って彼を見澄ますと、その驚愕したように見開かれた眼はある一点を凝視して離さないことに気付いた。
何やら嫌な予感を感じながら彼の視線を辿る。
それは一見、何もないように見えた。
しかし、よく目を凝らしてみると、確かに何かが、いる。
ヘンリーからそう離れていない川面。
明らかに水の流れがおかしい。
まるで、そこだけぐにゃぐにゃと蠢いているような……。
そこまで認識した次の瞬間のことだった。
水のようなものに包まれた魚が顔を出した。
まだ生きているようで逃げ出そうともがいたが、魚はすぐに水に似た何かに意思ある動きで捕えられ、絞め上げられる。
すると魚の体はおかしな方向に歪み、捻じ切れた。
ちぎれた魚は透明だが、確かに蠢いている何かによって引きずり込まれ、川の中へ消えた。
「スライムだ……なんで村の中にいるんだよ……」
その様子をドニと同じく終始見つめていたヘンリーがぽつりと呟く。
スライム。
世間知らずのドニでも知っている、一般的な魔物。
半透明な粘液状の体はぶにぶにしており、顔や脚などの区別はつかない。
よく見かけるやつらではあるが、此処は外れとはいえ村の中。
魔物がいるということ自体が異常事態だ。
「誰か、大人に知らせないと……」
珍しく動揺しているのか震える声で呟かれたヘンリーの言葉にハッと我に返る。
ヘンリーはいまだに脚を水に浸している。
スライムはまだ魚に夢中なようだが、もし気付かれて川の中で襲われては一大事だろう。
一刻も早くふたりでこの場を離れなければ……。
ドニは背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、渾身の勇気を振り絞ってヘンリーに呼びかけた。
「ヘンリー、早く、こっち……!」
「そ、そうだな……あいつが魚に夢中になってる間に上がらねぇとな……」
ドニの呼びかけに正気を取り戻したヘンリーが慎重に、そろそろと川べりへ歩を進め始める。
ハラハラとその様子を見守るドニもいてもたってもいられずに、無意識のうちにじりじりと彼のほうに近寄っていった。
靴が濡れて初めて川の中に足を踏み入れていることに気が付いたが、今はそれどころではない。
泣きそうになりながらも手を伸ばすと、緊張で顔を強張らせたヘンリーがぎこちなく笑顔をつくった。
きっとドニを安心させようとしたのだろう。
そんなヘンリーに応えるように精一杯、彼に向かって腕を伸ばした。
差し出されたドニの手を目指し、ヘンリーは焦りを押し殺しながら着実に岸に戻ってくる。
しかし、あと数歩で手が届く距離となったその瞬間。
スライムがこちらに気付いた。
ヘンリーの動きを察したらしいそいつは今まで取り込んでいた魚の死骸を投げ捨てるように吐き出すと、水の中で勢いをつけて川面を跳ねるようにして迫ってきた。
「うわっ!?」
「ヘンリー!」
咄嗟に走り出したヘンリーだったが、予想よりもはるかに速いスライムに焦ったのかまた川の中で転んでしまう。
ドニは慌てて駆け寄るが、その隙をスライムが見逃すはずもなかった。
一等の力を込めて宙を跳ぶと、そのどろりとした質感の体を大きく広げ、ヘンリーを取り込もうと襲い掛かってきた。
「あぶなっ……!」
それは反射的な行動だったのかもしれない。
ドニは立ち上がろうともがくヘンリーの盾になるように立ちはだかり、襲いくるスライムから彼と自身を守ろうと腕を前に突き出した。
結果的にドニの腕に飛びかかることになったスライムは、即座にその体をドニに絡みつかせる。
左腕にひんやりとした、だがぬめりと不快な感触を感じたと思うが否や、スライムは渾身の力で腕を絞め上げてきた。
「うぐっ……!」
「ドニ!? 大丈夫か!?」
ギリギリと食い込み、そのまま切断されるかのような痛みに涙が滲み、思わず唇を噛みしめる。
ドニが身代わりとなったことを認識したヘンリーが飛び上がるように立ち上がり、動転しながらその腕を見た。
彼に返事をしたかったが、口を開くと恐怖が漏れ出して泣き叫んでしまいそうだった。
そうなったらヘンリーも泣いてしまう気がして、ドニはただ耐えることを選んだ。
痛みに耐えることには慣れているが、それでもとても平然とはしておれず、顔が苦痛に歪むのが自分でもわかった。
「あわわわ……なんとかしねぇと……!」
そんなドニを見て、おろおろと辺りを見まわしたヘンリーが川べりまで慌てて走っていく。
それからキョロキョロと何かを探し、すぐに目当てのものを見つけたのか拾うような仕草をして戻ってきた。
どうやら落ちていた枝を拾ってきたらしい。
その木の枝を振りかざすと、彼は大きな声でスライムを威嚇した。
「こらっお前! ドニから離れろ!!」
大声で脅かしながら枝でドニには当たらないようにスライムを何度も叩く。
だが、まったく気にならないのかスライムは変わらずにドニの腕を絞めつけている。
「離れろってば!!」
ヘンリーがより一層大きな声で叫び、力任せにもう一度スライムに枝を叩きつけた。
だが、そのぶよぶよとした体で衝撃を吸収しているのか、まったく効いていない。
それどころかドニの腕をじわじわと伝って、いまや左肩まで飲み込んでいる。
そのことに気付いたヘンリーが呆然とした顔でドニとスライムを見比べた。
「どうすりゃいいんだ……。ドニ、痛いか? ごめんなごめんな……」
「だ、だいじょぶ……うっ」
泣きだしそうな顔で謝るヘンリーを安心させようとなんとか答えようとするが、スライムの力が増したことにより、顔をしかめてしまう。
ギリギリと肉を絞るそいつはドニの肩から顔に体を広げようと波打っている。
どんどん大きくなっていくスライムにドニは恐怖した。
一体どこまで飲み込むつもりなのか。
このまま体をすべて飲み込まれてしまったら……。
「えーとえーと……とりあえず水から離れよう! こいつら水気を吸ってでかくなるんだ!」
恐怖のあまりぶるぶると震え始めたドニを見て、蒼い顔のヘンリーが焦りを顕にしながらも飲み込まれていない右手を引いて岸まで連れていってくれた。
痛みで足が重く感じるが、なんとか岸に上がる。
水から離れたせいかスライムの動きが少し鈍くなったような気もするが、それも気休め程度でしかない。
ドニは既に頬までどろりと不快な魔物に包まれてしまっていた。
鈍くなったとはいえ、今もじわじわと広がっていくスライムにヘンリーがさらに切羽詰まった顔になる。
それでも懸命にどうしたらよいのか考えているらしく、すぐにひとつの提案を思いついたようだ。
「それから、えーと……誰か呼んでくるから待ってろ! 絶対戻ってくるから!」
ヘンリーの提案にドニの心は不安に染まった。
こんな状態で誰もいない川べりにひとり取り残されるのは怖い。
そもそもこの村の中でヘンリーと離れてひとりになったことがないのだ。
怖いに決まっている。
だが、スライムはもう目元まで迫っていた。
このままでは頭をすべて飲み込まれるのもそう遅くはないだろう。
そうなる前に助けを求めなければ、痛みで動くことのできないドニはこのスライムの餌になってしまう。
それにヘンリーは絶対に戻ってくると言った。
彼はドニに嘘をつかない。
そう考えて恐怖で青褪めた唇を噛みしめ、こくりと頷く。
ドニが頷くのを見届け、ヘンリーはシャツの袖で零れそうになる涙を拭い、力強く頷き返した。
「すぐ戻ってくるからな! 頑張れドニ!!」
最後に力いっぱいの励ましをドニに贈り、彼は脱兎のごとく村の道を目指して駆けだした。
いつも以上に慌しい足音はすぐに遠退き、川べりが静まり返る。
あまりの静けさにスライムが肉を絞めつける音が聞こえてきそうだった。
やはり、ひとりは寂しく、恐ろしい。
それも今にも自分を殺そうとする不気味な魔物に憑りつかれているのだ。
怖くて怖くて仕方ない。
もしもこのまま死ぬまで助けがこなかったら……。
そう考えるとドニの瞳から我慢していた涙がぽろりと零れた。
しかし、スライムはその水気にも反応するようだった。
ドニの眼から零れ落ちる涙を求めてスライムが激しく蠢く。
慌てて目をぎゅっと閉じて涙が流れないようにするが、水気を得たスライムは止まらない。
真っ暗な視界の中、ドニは閉じた瞼までこの不快な魔物に覆われたことを感じ取った。
「ぐすっ……」
鼻や口はまだ無事なため、一回だけ鼻を鳴らしてその場に座り込む。
何も見えず、ただ痛みと恐怖に耐えるしかない。
身を縮め、じっとヘンリーの帰りを待つが、その間もスライムの静かな猛攻は続いていく。
左腕はあまりに強い力で絞めつけられ、痺れて痛みや感覚が遠退いていく。
同じく絞めつけられ始めた頭も段々と霞んでくるようだった。
ギチギチと骨まで絞られているかのような激しい痛みを感じながらも、それがどこか遠くのことのようにも感じる。
もしもヘンリーが間に合わなかったら、最期は自分もさっきの魚のように捻じ切られるのだろう。
ぼんやりと霞みがかった頭でそんなことを考える。
このまま死んでしまったら、ヘンリーは泣いてしまうかもしれない。
自分が死ぬことで誰かが泣くなんて思いもしなかったが、最後に見たヘンリーの様子だときっと泣いてしまうだろう。
そこまで虚ろな思考を繋ぎ合わせて考えた時、ふとドニの脳裏にタオーネの姿が浮かんだ。
あの優しい魔術師はドニが死んだらどうするだろうか。
いつも優しく穏やかで、こんな何もできない木偶の坊を家に置いておいてくれるタオーネ。
自分を失くした彼がどうなるか、ドニには想像もできない。
いつも冷静なタオーネのことだから、まさか泣くなんてことはないと思うが、少しだけ寂しい。
せめて一度でも彼の役に立ってから死にたかった。
そんな想いを抱きながら、ドニの意識は段々と薄らいでいく。
頭が痛くてぼーっとする。
なんだか眠くて仕方ない。
体に訴えられるままに意識を手放そうとしたその時。
「ドニくん!」
聞き覚えのある声がドニの耳に届いた。
これは誰の声だっただろうか。
ふわふわとまとまりのない頭で考えようとすると、幾つかの足音も聞こえることに気付いた。
一番大きくしっかりした足音がドニのそばまで駆け寄り、いつの間にか倒れ込んでいたドニの体を抱き起こす。
「意識はまだあるな? いま助けるから動くなよ……」
そんな言葉が聞こえたと思ったら、今まで絞めつけられていた箇所が急に暑い空気に触れた。
肌の上を粘液状のものがずるりと滑って落ちていく。
「……よし。もう大丈夫だ。よく耐えてたな。偉いぞ」
頭に纏わりついていたぶよぶよが払いのけられ、大きな手がドニの頭を撫でる。
どこか夢現なまま、ゆっくりと瞼を開くとひとりの男とスライムの亡骸のようなものが見えた。
どうやら自分は解放されたらしい。
まだぼんやりとする頭でそう理解して周囲を見まわすと、心配そうなアーサーと泣きそうな顔のヘンリーが視界に入った。
そこで自分をスライムから助け出してくれたらしい目の前の男が、アーサーの父親のニコラスであることを思い出す。
「痣はできちまったようだが、ほかに痛むところはあるか?」
ニコラスに問われ、ドニはくらくらする頭を横に振った。
腕や肩はまだ痺れているし、意識もはっきりしているとは言い難いが、痛いところは特にない。
自分の体に目を向けると腕が青く変色していたが、それだけだ。
「よし。大量の水を含んだスライム相手に痣だけで済むとは、運が良かった」
どうやら自分は運がよかったらしい。
確かに死を覚悟したが、骨を折られることもなく、こうして生きている。
しかし、なんだか実感が湧かず、ぼーっと自分を囲む三人を見比べていると、顔をくしゃくしゃにしたヘンリーがドニの顔を覗き込んできた。
「ドニ、大丈夫か!? 俺のことかばってくれて本当ありがとな。ごめんな……」
彼のあまりの憔悴っぷりにドニはヘンリーらしくないよ、大丈夫だから元気を出してと言いたかったが、声がうまく出ずに微笑むだけとなる。
それを見たヘンリーはさらに顔をくしゃくしゃにしてぎこちなく微笑み返してくれた。
「とにかく、ふたりとも無事でよかったよ。……それにしてもこのスライムは何処から入ってきたんだ……?」
そんな重たい空気を払拭させるようにアーサーがふたりに安堵の言葉を掛け、それから顎を指で擦ってとある疑問を口にした。
確かにこのスライムが何処からきたのか、不思議である。
村の中に魔物が侵入することはあまりないことなのだ。
「それにこの辺りのスライムが人を襲うなんて滅多にないことなんだが……む?」
息子につられたのか、自身も指で顎を擦りながら思案したニコラスが何かを見つけたらしい。
彼が草むらを掻き分けるとすぐに村を囲う柵が見えた。
どうやらその一部分が壊れているようで、子どもひとりくらいなら楽々と潜れそうな穴が開いているのがドニの位置からもわかった。
「柵が壊されていたのか……すぐに修理しないとな。あと、他にも壊れそうなところがないか確認しなければ……ヘンリー」
柵を調べたニコラスはドニたちのほうを振り返り、ヘンリーを呼んだ。
ヘンリーが涙や土で少し汚れた顔を袖で拭ってニコラスを見上げる。
「お前はこういった場所に詳しいだろう? こういう普段は人が入らないようなところが怪しいんだ。案内してくれるか?」
「うん……わかったよ」
「よし。そうしたらアーサーはドニくんを家まで送り届けてやりなさい。大きな怪我はしていないようだが、一応タオーネさんに診てもらったほうがいい」
「はい」
ヘンリーが頷いたのを確認したニコラスがアーサーに指示する。
ようやく頭が鮮明になってきたドニは、自分が家に帰ることを察して、立ち上がった。
足元がおぼつかず、少しよろめくとアーサーがすかさず体を支えてくれた。
まだ多少ふらつくが、歩けそうだ。
それでもアーサーとヘンリーは心配らしく、特にヘンリーはドニがちょっとよろめいただけで泣きそうな顔をする。
自分は大丈夫だからそんな顔をしないでほしいと伝えたかったが、咄嗟には言葉が出てこない。
どうしようと考えを巡らせるよりも早く、ニコラスが戻ってきてドニの目線に合わせるように軽く腰を屈めた。
そのアーサーとよく似た意志の強そうな眼差しには、労りの色が浮かんでいる。
「ドニくん、今日は大変だったね。家でゆっくりと休むといい」
「……はい」
「うん。それじゃあ、先に失礼するよ」
小さく頷いて返事をすると、ニコラスは優しく微笑んで足早に歩き出した。
ヘンリーも何度か振り返ってドニを気にしながらニコラスに続く。
その瞳はやはり涙ぐんでいて、ドニは声を掛けられなかったことに罪悪感を覚えた。
せめて何か言えていたら、彼の心は少しは軽くなっただろうか。
胸の辺りがずっしりと重く感じる。
「じゃあ、行こうか。歩ける?」
「うん……」
しょんぼりと肩を落としたドニを気遣うように、アーサーが遠慮がちな声音で歩みを促した。
ひどく悲しい気持ちを胸に抱えたまま頷き、アーサーに支えられながらゆっくりと歩き出す。
ドニは一歩一歩踏み出すたびに、体ではなく心の痛みが増していくように感じながら、帰路についた。
川の流れる音がドニの物憂さに染み入るようだった。