遊びにいこう①
あの美しい夜の世界を知った日から、ドニは少しずつ、友達のヘンリーに連れられて村の中を散策し始めた。
昼間の明るいバナーレ村は夜の暗闇と違い、のどかな活気に満ちている。
そんな村の中をふたりは澄んだ小川へ生き物観察をしに行ったり、季節の花を探しに藪の中を掻き分けたりと随分と練り歩いた。
何をするかはヘンリーがあらかじめ決めてきてドニはそれに従っているだけだったが、彼はちょっとした素敵なものを見つけるのが得意らしく、毎日が驚きと発見の連続だった。
ヘンリーが考えてくる散歩道でほかの人に出会うことはあまりないが、稀に遭遇することもある。
そんな時は相手とドニの間に入るようにしてヘンリーが先に大きな声で挨拶してくれるため、ドニは自分よりもはるかに小さい彼の後ろで小さく会釈するだけで済んだ。
相手も事前にドニのことを知らされているのか、優しげな眼差しを向けたり愛想よく挨拶を返してくれたりするくらいで、特に何も言及はしてこない。
村の中を走り回っている小さな子どもたちは口々にドニへ質問したが、年長であるヘンリーがすべてうまくかわしてくれている。
彼の幼い妹サラは普段から兄によく言い含められているのか、ドニにあれこれ訊いてくることはなく、はにかみながら「ドニ兄ちゃん」と呼んでくれるのが、なんだかこそばゆかった。
大人はほとんど反射的に怖がってしまうし、小さい子どもも何かの拍子で怪我をさせてしまいそうなのが怖くて近寄っていけないが、ドニは着実にバナーレ村に馴染んでいっていた。
そして、ふたりでの散歩が日課となり、ドニがあまりあれもこれもと手当たり次第に怖がることも減ってくると、ヘンリーは段々と遊びを散歩に組み込んできた。
例えば草むらで具合のいい葉っぱを見つけたら草笛を作って吹いてみたり、硬い殻を持った喧嘩っ早い虫を捕まえたら虫同士で戦わせてみたりといった感じである。
そんな友達との遊びの時間はドニの心にゆとりをもたらし、毎日いつヘンリーが誘いにやってくるか待ち遠しく思っていた。
そんなわけで今日もドニは今か今かと勝手口の扉が開くのを待っている。
近頃のドニの変化はタオーネから見ても喜ばしいことなのか、毎日心なしか晴れやかな顔で送り出してくれる彼も、さすがにそわそわと落ち着かないドニの様子に苦笑した。
「ドニはヘンリーくんと遊ぶことが本当に好きなのですね」
そう言われ、ドニは若干の気まずさからばつの悪い顔になる。
遊びに出かけることが増え、勉強に使える時間が減ったことにどうしても後ろめたさが残った。
そんなドニの気持ちを察したのか、タオーネがいつものように優しく諭してくる。
「ああ、そんな顔をしなくてもいいのですよ。勉強も大事ですが、遊ぶことも同じくらい大切ですから。たくさん遊んでください」
どうして遊ぶことが勉強と同じように大切なことのか、ドニにはよくわからないが、タオーネがそう言うなら本当なのだろう。
それでもやはり勉強を蔑ろにすることだけはないようにしようと考えながら頷く。
納得したようなドニの表情を見て微笑み、タオーネは窓の外を覗き込むような仕草をした。
「ほら、いらっしゃったようですよ。今日は一体、何をするのでしょうね」
タオーネが言った通り、耳を澄ませるといつも通り忙しない足音が聞こえた。
家の中からでもヘンリーがやってくるのはいつもわかる。
毎日変わることなく小走りで駆けてくる彼は猟師の息子らしくはなく、遠くからでも存在が丸わかりなのだ。
そんなわかりやすい音を聞きながら、少し待つとやっぱりヘンリーが勝手口から飛び込んできた。
「こんにちはー! ドニー! 遊びにいこう!」
今日も変わらず元気いっぱいな彼は、手に持った棒状の道具を掲げて笑う。
何やら棒には糸が取り付けられているらしく、ヘンリーが動くと緩く巻いてある糸もゆらゆらと揺れた。
見たことがない道具だが、一体何に使うのだろうか。
「ヘンリーくん、こんにちは。今日は釣りですか?」
「そうそう! ドニの分の釣り竿も作ったんだ! じゃ、ドニ、行こう!」
「うん」
ふたりの会話から今日は釣りというものをやるらしいと知り、ドニはこくんと頷いてタオーネを見上げた。
遊びに出かけるのは此処のところ毎日のことではあるが、その都度で彼の許可を取らないとなんだか不安なため、確認は怠らない。
タオーネのほうも日課となっているこのやり取りに慣れているらしく、今日もいつもと変わらない微笑を湛えて頷いた。
「いってらっしゃい。暗くなる前に帰ってくるのですよ」
「うん」
許可が下りたことでほっとしたドニはヘンリーから自分の分らしい釣り竿と桶を受け取り、そろりと勝手口から身を乗り出した。
もう何度も外には出ているが、ついつい怖いものがないか確認してしまう。
これはもはや癖となっているため、仕方ないことなのだ。
幸い、今日も特に異常は見当たらないため、そのままそろそろと一歩を踏み出す。
そんなドニの様子を横目で確認しつつ、ヘンリーがニカッと笑って自身の胸を拳で軽く叩いた。
「俺に任せといてよ、先生! ちゃーんといつも通り送ってくからさ!」
「ふふ、頼もしいですね。それと、村から出てはいけませんからね」
「わかってまーす!」
元気よく返事をしたヘンリーに腕を引かれ、ドニは歩き出す。
数歩進んでチラッと家のほうを振り返ると、タオーネが小さく手を振り、家の中へ戻っていった。
それを見てなんとなく安堵し、前を向くとご機嫌なヘンリーの横顔が目に入る。
彼はいつも機嫌がよさそうではあるが、その様子は人の顔色を窺うことが多いドニにいつも安心感を与えていた。
しかし、それにしても今日のヘンリーはいつもに増して上機嫌な気がする。
一体どうしたのだろうかと疑問に思っていると、彼の口から弾みのついた言葉が飛び出した。
「今日は魚釣りするからな! この前いい場所、見つけたんだ!」
どうやら釣りとは魚を捕まえることらしい。
道理で食いしん坊なヘンリーがご機嫌になるわけだった。
魚ならドニも何度か食べたことがあるし、水の中で泳いでる姿もバナーレ村に来る前から見たことがある。
小骨がやっかいで少し苦手だが、タオーネが体にいいと言うので頑張って食べている。
「俺は魚が釣れたら持って帰って母ちゃんに料理してもらうけど、先生は魚捌けるのかな」
そう言われて今まで食べた魚たちの調理風景を思い出すが、食卓にあがるのは樽の中に入った塩漬けか紐に吊るされた干し魚ばかりで、タオーネが生の魚を捌いているのは見たことがない。
もしかしたら見たことがないだけで本当は捌けるのかもしれないが、どちらにせよドニにはわからないことだ。
困った顔をして返答に悩むと、快活な笑顔がそれを吹き飛ばす。
「まっ先生が捌けなかったら俺が捌いてやるよ! これでも猟師の息子だからな。魚も鳥も獣もそんな変わんねぇし大丈夫だろ!」
ヘンリーはそう言って笑っているのを聞きながら、ドニは水の中を泳ぐ魚と空を飛ぶ鳥とでは随分と違う気がすると思ったが、自分よりも色々と知っている彼のほうが正しいのかもしれないと考え直した。
それから、もしも魚を捕ることができて、その魚をタオーネにあげることができたら……と想像を膨らませる。
食料を調達すればもしかしたら喜んでもらえるかもしれない。
やっとタオーネの役に立てそうなことが見つかり、ドニは自身の胸が弾むのを感じた。
「だから美味しいやつ、たくさん釣って帰ろうな!」
「うん」
自分は鈍臭くて不器用だから、たくさん釣れるかはわからないけれど、頑張って一匹くらいは捕まえよう。
ヘンリーの言葉にそう決意して頷くと、ちょうど分かれ道が見えてきた。
ドニから見て右のほうの道の先にはぽつぽつと村人たちの住居が連なっており、左のほうの道には小川を渡るために掛けてある橋が見える。
魚を釣りに行くのだからきっと左の道を進むのだろうと考えたが、ヘンリーはなぜか分かれ道の手前で立ち止まり、ドニを見上げた。
どうしたのだろうと思う間もなく、彼はとある提案を口にする。
「あのさ、ちょっと寄り道になるけど、近くにアーサーの家があるから誘ってみていいか? もしかしたら忙しくなくなって遊べるかもしれねぇだろ?」
思いがけない相談にドニはきょとんとしながらもすぐに頷いた。
アーサーとは揚げパンをもらって以来、会っていないが、彼なら怖くないし一緒に遊べるならむしろ嬉しいくらいである。
あの強い眼差しの少年が他の子どもと遊んでいるところを見たことはないが、ヘンリーとは昔からの友達らしいのでもしかしたら今日は一緒に遊べるかもしれない。
そう考えると胸がちょっとドキドキする。
自分のことを覚えているだろうかなど不安や緊張もあるが、それ以上にアーサーに会う楽しみが勝った。
「よし! そしたら行ってみるか!」
ドニの了承を得て、パッと一層明るい顔で笑ったヘンリーが川とは反対の右の道へ歩き出す。
ヘンリーに腕を引かれたまま、少し道なりに歩いていくと、ほかの家とは明らかに異なる家屋が現れた。
その家は今まで見たどの村人の家よりも綺麗に見えた。
造りは他の住居よりも少し広いくらいであまり変わりのない木造の家だが、ドニの目からも他のどの家とも違っているように感じられる。
屋根や壁には淡い色の蔦が這い、この村では珍しい広々とした庭を囲む、背の低い生垣には愛らしい薄紅や純白の花が咲き誇り、辺りに華やかな明るさを与えていた。
年季を感じさせる古い家だが、周りの自然とうまく調和し、馴染んでいる。
かといってただ自然のままに放置されているというわけでもなく、よく手入れされていることが窺えた。
此処がアーサーの家らしく、ヘンリーが慣れた様子で生垣が途切れたようになっている入口から入り込み、ドニもその後に続く。
すると、死角になっている辺りから空気を斬るような音が聞こえ、不安になるがヘンリーは構わずに進んでいく。
そのまま家屋の横へまわり込むと、アーサーはそこにいた。
真剣な面持ちで何やら剣のようなものを振るっているようだ。
それを目にした途端、ドニの脳裏に昔のことが過ぎって体を強張らせたが、すぐにそれが刃のついた剣ではなく、木で作られた棒のようなものだとわかり、ほっと息をつく。
ドニの前の飼い主は剣士だった。
それゆえ、ドニにとって剣とは恐怖の象徴であり、あの陰惨とした暗い日常を鮮明に思い出させるものである。
だが、これは剣ではなく、振るっているのもあの優しいアーサーだ。
何も怖がることはないと考え直し、暢気に手を振るヘンリーの後ろに続いた。
「おっいたいた。アーサー!」
「……ヘンリー? それにドニくんも……どうしたんだ?」
ヘンリーに声をかけられ、初めて気づいたらしいアーサーが驚いたような顔をして素振りを止めた。
此処は家屋の影となっているが、それでも彼の顔は汗にまみれ、服も濡れてところどころ色を変えている。
「これから釣りしに行くんだけど、お前も行かねぇ? いい場所見つけたんだよ!」
ヘンリーが気軽な調子で彼を誘う。
その後ろでドニはそわそわと浮足立つ気持ちを抑え、黙って返答を待った。
しかし、アーサーの表情は驚きから気まずそうなものに変わり、生真面目な眼差しには何かを躊躇するような色が浮かぶ。
それから少しの間、言いよどみ、視線を地面へ向けるアーサーの姿からは一種の苦悩のようなものが見えたような気がした。
「……悪い。忙しいから……」
「ふーん。なら仕方ねぇな! また誘うな!」
気詰まりな態度で返された返答を気にすることなく、ヘンリーがあっさり引き下がる。
ドニとしてはアーサーの様子が気になるところではあったが、本人が忙しいと言うのならばそうなのだろうと考え、神妙な顔でふたりのやり取りを聞いた。
遊べないのは残念だが、仕方ない。
今日はいつもと同じようにふたりで遊ぶことになるようだ。
そう解釈し、ヘンリーが動くのを待ったが、彼がアーサーに別れを告げる前に横の窓から誰かがひょっこりと顔を覗かせ、ぎくりとする。
突如、窓から姿を現したのはアーサーと同じ青い瞳を持つ、整った顔の男だった。
背丈はタオーネと同じ程度だが、体の厚みがひとまわりは違う。
窓から見える範囲だけでもよく鍛えられていることがわかるたくましい大人の男だ。
そんな男が窓から上半身を乗り出し、三人の子どもを見まわしている。
突然のことに瞬時に緊張したドニだったが、凝視されていることに気付いた男にニッと笑いかけられて敵意がないことを悟った。
男はそのままアーサーへ視線を向けて口を開く。
「行ってきてもいいんだぞ、アーサー」
「父さん」
よく通る声音で話しかけてきたこの男はどうやらアーサーの父親らしい。
確かに髪の色や目元がふたりともそっくりだ。
その父親に遊びにいくことを勧められ、アーサーは困惑したような顔でまた言いよどんでしまった。
そんな彼の様子に自分たちとは遊びたくないのだろうかと少し心配になる。
だが、ヘンリーはまったく気にしていないようで、元気よく笑顔でアーサーの父親に向かって手を上げた。
「ニコラスさん、こんちは!」
「よお、ヘンリー。後ろの君はドニくんだな? アーサーから聞いてるよ」
いきなり自身に矛先が向いたことに驚いて、ビクッと体を跳ねらせ、慌てて挨拶代わりに会釈する。
まさかアーサーが自分の話をしているとは思ってもみなかったのでそのことにも驚いたが、それよりも彼の父親がさらに話を振ってこないかという心配がドニの考えを占めた。
だがその心配は不要だったようで、ニコラスは居心地悪そうにしているアーサーのほうへ向き直った。
「ほら、せっかく友達が誘いにきてくれたんだ。たまには息抜きがてら遊んで来たらどうだ?」
「……まだ、やることがあるから」
「騎士学校に入るのはまだ二年先だぞ? 今からそんな根を詰めて勉強やら鍛錬やらしなくてもいいと思うが……」
「……でも、決めたことはちゃんとやらないと」
息子を遊びにいかせたいらしいニコラスの勧めにもアーサーの首は縦に振られることはなく、そのおとなしい態度からも意志の強さが感じられる。
アーサーは父親がまた口を開くよりも早く彼から視線を外し、話を打ち切った。
それからドニとヘンリーのほうに体を向け、小さく頭を下げて謝る。
「だから、今日は行けないんだ。ごめんな」
「わかった! また今度な!」
「……ん。また今度」
終始気まずそうな態度のアーサーに対して、ヘンリーはおおらかに笑って誘いの断りを聞き入れた。
そのことに少しは安堵したのかアーサーがホッと息をついて今度はドニのほうを向き、なんだか思いきれないような顔で微笑まれる。
「ドニくんも、またな」
「う、うん」
咄嗟に頷くことしかできなかったが、アーサーが気分を害した様子はないのでそれは問題なさそうだ。
ただ彼の何かを我慢するような、すっきりとしない表情が気になった。
どうしたのか聞いたほうがいいかもしれないと思いながらも、そんな勇気もそれに必要な言葉も持っているはずもなく、ただまごまごするだけとなる。
こういう時に何もできない自分が情けない。
「よーし、そしたら行くぞ! ドニ!」
「あっ……うん」
自己嫌悪に陥りそうになっているところをヘンリーに声をかけられ、慌てて既に来た道を戻り始める彼の後ろに続いた。
そしてそっと振り返ってみると、アーサーが小さく手を振ってくれたのでドニも手を振り返し、生垣に囲まれた庭から出ていく。
当初の目的である釣りのために川のほうへ歩いていくが、なんだか足取りが重い。
アーサーと遊べないことは仕方のないことだからいいとしても、やはり何か悩んでいそうな様子が気になってしまう。
そんなドニの気持ちを察したのか、ヘンリーが陽気な調子で明るく笑った。
「アーサーはいつも忙しそうなんだよなー。まっ何かあったら言ってくるだろうし大丈夫だろ! だからそんな顔すんなって」
「……うん」
「でも、いっぱい釣れたらアーサーにも分けてやろうか」
「! うん」
それでも浮かない顔をしているドニを見て、少し考えるような素振りをしてからヘンリーは手に持っていたバケツを軽く持ち上げて、名案を示してくれた。
揚げパンのお礼もしていないし、そのお礼も兼ねて魚を届けたら、もしかしたら少しでもアーサーが元気になってくれるかもしれない。
そう考えると胸に使命感のようなものが燃え出すのを感じた。
タオーネとアーサーに喜んでもらえるように最低でも二匹は捕まえなければ。
途端にやる気になったドニを見て、ヘンリーは満足げに笑った。
「んじゃ、張り切って釣らねぇとな! 今日の釣り場は魚がいっぱいいたからきっと大漁間違いなしだ!」
ヘンリーの言葉に心なしかいつもより力強く頷き、ドニはその釣り場を目指して彼の後ろについていった。