勉強しよう
そろそろ本格的に暑くなってきたある日。
今日もドニはいつものように勉強に勤しんでいた。
だが、近頃は文字や数字の書き取りだけではなく、タオーネの手が空いている際には簡単な計算や世界のことを教わっている。
今も薬の調合を終えたタオーネが古く変色した紙を机に広げ、ドニには想像もつかないような外のことを教えてくれていた。
「ドニ、此処に大きな三つの枠があるのがわかりますね?」
地図というらしい貴重な紙に描かれた不格好な形の枠を指差すタオーネにドニが頷く。
この地図というものは自分たちが暮らしているこの村からずっと遠いところはもちろん、世界の形がほとんど正確に記載されているのだということはさっき習った。
今いるこの村のことでさえよくわかっていないドニからしたら規模が大きすぎて想像もできないが、空高くから見下ろせば世界はこのように見えるらしい。
「この中で右にある枠が東大陸、左にあるのは西大陸、そして上にあるのが北大陸で魔大陸とも呼ばれています」
順に指差される枠を目で追うと、覚えのある単語がタオーネの口から発せられた。
確か彼が昔いた……と思い出すよりも早く、すぐに情報は補完される。
「この魔大陸は私が生まれ育った地ですね。他の大陸に比べて、物に含まれる魔素というものが濃く、魔物も強力なので、此処で暮らす者は何かしら抵抗する手段を持っています。この大陸に住むのは、ほとんど魔族です。厳しい土地なので、他の種族が好んで暮らすことは、ほとんどありません。……魔族がどんな種族なのかは、先日教えましたね? 覚えていますか?」
「……いろんな、見た目で……まじゅつが、じょうず……」
突然のタオーネの問いに焦りながらもなんとか答える。
この教師はよくドニ自身に発言させたがった。
最初は間違えて叱られることを恐れてうまく答えられなかったが、間違えてもいい、間違えたらまた覚え直せばいいと諭され、段々と回答することへの恐怖が薄れていった。
そうなると不思議なことに、前よりも早く物事を覚えられるようになった気がするのだ。
間違えたことは次こそきちんと答えられるようにならなければと思い、記憶に強く残った。
今回は正解だったようでタオーネが満足げに頷く。
「そうですね。魔族の多くは人族とは異なる容姿をしていて、同じ魔族でも見た目は様々です。私で言うと、肌の色や瞳、あとは鱗などでしょうか。他にも翼のある者や角が生えた者などもいます。そして他の種族よりも魔術の扱いに長けていることが多く、そうでない者も厳しい魔大陸で生き延びるために、体が丈夫であったりと、本当に色々な方がいらっしゃいます」
目の前に見本となる魔族がいるためか、ドニは魔族に関することは比較的早く覚えることができた。
今も復習を兼ねたタオーネの話を注意深く聞いている。
「私たちからすれば、鱗や翼などは髪や瞳の色の違いと変わりありません。ドニもどんな見かけの方がいらっしゃったとしても、姿かたちだけで判断してはいけませんよ」
タオーネの言うことをなんとなく理解し、頷く。
彼は時おり、勉強の合間に教訓のようなものをドニに伝えようとする。
きっと理解できていないことも多かろうが、それらがタオーネにとって大事なことだというのはわかった。
「さて、話が反れてしまいましたね。また地図に戻りますが、こちらの東大陸は私もあまり詳しくはありません。三つの国で成り立っており、そのうちの華ノ国は獣人族が多いと聞きます。他の二国、砂ノ国と火ノ国は謎が多く、ほとんど情報が外に出てこないようです。……獣人族のことは覚えていますか?」
「……あたまが、どうぶつで……からだも、毛がはえてて……力がつよかったり、足がはやかったり……?」
「正解です。よく覚えていましたね」
続けて正解だったようでほっと胸を撫で下ろす。
獣人族も奴隷商の主人が豚の獣人であったため、見たことがあったおかげかすぐに覚えられた。
力が強いといったところは見たことがないが、あの豚男は奴隷商の商人の中ではあまり怖いほうではなかったことは記憶に残っている。
そんなことを思い出しながら、ドニは次の教えを待った。
「そして最後に、今、私たちが暮らしているのがこの西大陸です。この村は大体この辺りでしょうか」
そう言ってタオーネが指で円を描いて地図上の枠の左寄りのところを囲う。
家の中から村を眺めているときはとても広く感じるのに、こうやって見ると随分と小さく思える。
「西大陸も同じように三つの国があり、それぞれ王国、公国、帝国と呼ばれています。バナーレ村は王国の端のほうですね。どちらかと言えば帝国に近いでしょう」
タオーネに説明してもらうが、同じような単語がたくさん出てきてきちんと覚えられるか不安になる。
こういった似たような言葉を一気に覚えるのが、ドニは苦手だった。
しかし、それはタオーネもわかっているようで、心配ないといった顔で微笑まれる。
「すべてを一気に覚えるのは難しいので、とりあえずは、王国についてだけもう少し詳しく学んでみましょう。公国と帝国については、王国のことをきちんと覚えてからにしましょうね」
それならばドニの頭でもなんとかなるかもしれない。
少し安心して頷き、ふたたび話を聞く態勢をつくる。
「王国は一番偉い国王が住む王都を中心に、五つの領に分かれています。つまり、国王を頂点にして、その下に五つの貴族が連なり、それぞれに割り振られた領地、つまり土地やそこに住まう人々の統治を任されているのです。このバナーレ村はウォルトン領といって、ウォルトン家が管理する領に属しています。……此処までよろしいですか?」
正直、あまりよろしくない。
ドニには難しい言葉が多すぎてうまく理解できない。
嘘をつくわけにもいかず、目を泳がせると、タオーネが少し考えるような素振りを見せ、すぐに口を開いた。
「そうですね……王国で一番偉い人を国王と言って、その人が住む街を王都と言います。その街を真ん中にして他に五つの土地があるのですが、そのうちのひとつをウォルトンさんが持っているのでそこはウォルトン領、もしくはウォルトン地方と呼ぶのです。……今度はわかりましたか?」
先ほどよりも随分とわかりやすくなった説明に、今度はすぐに頷く。
きっと同じ内容を説明しているのだろうが、ドニにもわかりやすく言い換えられるタオーネはすごい。
そんな気持ちを込めて頷いたドニに安心したようで、タオーネは続きの説明に取り掛かった。
「そのウォルトン領の中にバナーレ村もあるので、ドニはいま王国のウォルトン地方バナーレ村に住んでいる、ということになるのですよ」
そう説明され、どこか遠くの、自分には関係のないものだと思っていた話が急に身近に感じられた。
ドニは自分に関係する事柄は関係ないものよりも覚えやすいのだということを、タオーネのもとで学び続けるうちに発見していた。
いま言われたことを声に出さず頭の中で復唱すると、やはりその情報が自身のものになったかのように感じられる。
だが、少し言葉が長く繋がっているので、忘れてしまうかもしれない。
そう思って何度も復唱を繰り返していると、ドニ専属の熱心な教師はまたしても質問を投げかけてきた。
「さて、ドニが住んでいるのは何処ですか?」
微笑みながら答えを待つタオーネにいつものことながらドニは緊張した。
間違えたところで叱られることはないとわかっていても、せっかく教えてもらったものを誤ってしまうのは心苦しいものである。
そうならないために、答える前に頭の中でさらに何度か単語の繋がりを繰り返し、確認した。
そしてそれを慎重に言葉へ変化させて、ゆっくりと声に乗せる。
「おうこくの、ウォ、ルトン……? ……ちほうの、バナーレ村……?」
区切りを挟みながら答えるが、いざ口に出してみるとなんだかまったく別のものに思えて不安になってきた。
恐る恐る最後まで答えを出し切るものの、やはり不安が勝って上目気味にタオーネを見る。
彼は間違いであっても穏やかな微笑みを絶やさないため、表情から合否を察するのは難しい。
その口から放たれる次の言葉を待つしかない。
そんな顔色を窺うようなドニの仕草に苦笑して、タオーネが軽く首を縦に振って正しい答えを告げる。
「正解です。よく答えられましたね。偉いですよ」
答え合わせの結果に安堵したが、すぐに落ち着かない気持ちになる。
タオーネは勉強中によくドニを褒める。
そんなに大したことをしたわけでもないだろうに褒められるのは、少し居心地が悪い。
けれど、それはけして嫌な気持ちでもなかった。
どうしていいのかわからず、毎回ただもじもじしてしまうのだが、この照れくささにも似た感覚は嫌いじゃなかった。
「次回もまた同じことを尋ねるので、できればきちんと覚えておいてくださいね。では、今日はこれで終わりにしましょう。お疲れさまでした」
そうしてる合間に勉強時間の終了を知らされ、軽く会釈するタオーネに倣って慌てて深々と頭を下げた。
そして、毎回お疲れさまと言われるが、実際はドニよりも教えているタオーネのほうが疲れるのではないかとぼんやりと思う。
ありがとうございましたくらいは返したほうがいいかとも考えたが、彼はすでに席を立ってお茶を淹れるためのお湯を沸かそうとしていた。
どうしようかと迷っていると、やかんを見下ろしていたタオーネがふと顔を上げて窓の外の様子に耳を澄ませた。
「……おや? ヘンリーくんがいらっしゃるようですね」
その言葉にドキリとして、同じように外に耳を傾けると、彼が言った通りバタバタと忙しない足音がこちらに向かってきている。
あのちょっぴり強引な友達宣言から、ヘンリーはこまめにドニの顔を見に訪れていた。
遊びに来たと言う割にはひとりでひとしきりしゃべって帰る、嵐のような彼を最初こそ怖がってはいたが、その勢いとは裏腹に害を加えるようなことは絶対にしないため、段々と慣れてきてはいる。
次から次へと話題が変わっていくため、そのすべてを理解することは相変わらず難しいが、今ではヘンリーのおしゃべりを聞いているのが面白いと感じるほどだ。
それでもドニからしたらいまだに急な来訪であり、慌てるものの、結局は何もできずに勝手口の扉が開かれた。
「せんせー! ドニー! こんにちはー!!」
「はい、こんにちは。今日もお元気そうで何よりです」
「へへーお邪魔しまーす! よっドニ!」
「……こ、こんにちは……」
元気よく家の中に飛び込んできたヘンリーに挨拶され、ドキドキしながら挨拶を返す。
いくら慣れてきていると言っても、まだまだ気の弱いドニは彼の勢いに押されてしまうのだ。
それでも挨拶を返せたことがよかったのか、ヘンリーは満足そうに笑って肩を寄せるようにしてドニの隣りへ居着き、机の上に広げたままの地図を覗き込んだ。
「今日は何の勉強してたんだ?」
「ちず……」
「へー。これが地図か。初めて見た!」
距離の近さにどぎまぎしてしまいながらも問われたことにきちんと答えられたドニを見上げ、ヘンリーが屈託なく笑う。
この少年が声の大きさの割に、体が小さいことをドニはつい最近気づいたばかりだ。
おそらくアーサーよりも背が低く、あまり近寄られると潰してしまいそうで緊張する。
「このへんだけなんか細かいやつばっかだな!」
ドニの心配を余所に、ヘンリーは地図の下のほうを指差して感想を述べた。
地図が貴重なものだとわかっているのか、直接は触らずに空中で止めた彼の人差し指が示す場所はさっきの授業では触れなかったところだ。
確かに彼が言う通り、枠とは言えないような細かい形の集まりのように見える。
ふたりで地図上を眺めていると、茶葉の準備をしていたタオーネが振り返ってその様子を確認し、そのまま解説を始めた。
「南……その地図だと下のほうはあまりよくわかっていないのですよ。私も詳しくないのですが、一説によると妖精族が暮らす楽園があるとも聞きますね。あくまで噂ですが」
妖精族と聞いてドニは少し前の授業を思い出した。
詳しくは学んでいないが、確か様々な姿をした種が存在しており、魔族と同じく魔術を得意とする者や手先の器用さを活かして鍛冶師などの職人を生業にする者もいると教わった気がする。
だが、それくらいしか記憶にないので、魔族や獣人族と何が明確に違うのかまではよくわかっていない。
対するヘンリーは妖精へある程度のイメージがあるらしく、目をきらきら輝かせてタオーネの話に食いついた。
「妖精かー。先生は見たことある?」
「そのあたりには出向いたことはありませんが、ドワーフなどはこの国でもちらほら見かけますし、エルフに会ったこともありますよ」
「えるふ?」
「妖精の中でも特に魔術などに優れた一族です。とても珍しい種族なので会えたら幸運と言えるかもしれません」
「へぇー。俺もいつか会ってみたいな!」
「ふふふ、会えるといいですね」
瞳を輝かせて見るからにわくわくした様子のヘンリーにタオーネが優しく言葉を返す。
そんなふたりのやり取りを聞いて、ドニはヘンリーは小さいのにとっても勇気があるんだなと感じた。
自分だったらよく知らないものは怖くて仕方ないから、会いたいなんてまず思わない。
だから、彼の天真爛漫さがドニにはなんだか眩しかった。
自分にはないものを持っているこの小さな少年への小さな憧れが、ドニの心に宿り始めているのだ。
それはまだ本当に小さく、緊張や怖気に隠れてしまっているが、確かに存在していた。
そんなことをぼんやりと感じていると、お盆にお茶を淹れたカップを乗せたタオーネがふたりのもとに戻ってきた。
「さて、お茶を淹れたので地図は片付けますよ。生憎おやつがありませんが、召し上がっていってください」
「あっそうだ! 俺、お土産持ってきたんだ! ほら!」
ヘンリーがそう叫び、タオーネが地図を片付けた後に何かを包んだハンカチが置かれる。
小さな手がその包みを開くと、中から赤い小粒の実のようなものが現れた。
持ってくる合間に少し潰れてしまったのか、ハンカチにはところどころ赤い染みがついている。
「キイチゴですね。わざわざありがとうございます」
「家の裏で採れたんだ! 本当は森の中にもっといっぱい生ってるとこがあるんだけど、父ちゃんが森に行くなって言うからこれっぽっちしかないけどさー」
感謝を述べてキイチゴを乗せるための皿を取りにいくタオーネの後姿に、ヘンリーがこのお土産に関する説明を続けた。
確かに彼が言うようにハンカチに包まれていたキイチゴは、三人で分けるには心許ない量しかないだろう。
それでもドニたちにお土産を持っていこうと考えた、食べることが大好きな食いしん坊である彼の気遣いはよくわかった。
それはタオーネも同じだったようで、優しげな微笑を湛えながら皿を手にして戻ってきた。
「いいえ、充分ですよ。お父様がおっしゃるように、今は少し森の中が落ち着かないので、絶対に入ってはいけません。ドニもわかりましたね?」
急に自分へ矛先が向いた注意にドニは慌てて何度も頭を縦に振る。
森に入るも何もこの家から出たこともない自分には関係のないことだ。
だが、タオーネがわざわざ注意するということはきっと本当に危ないのだろう。
何があっても絶対に近付かないという意思を込めて頷いた。
対するヘンリーはドニとは少し違うようで、慌てて困った様子でタオーネの言いつけを追究する。
「でもさ、森じゃなかったらいいんだろ、先生? 例えば村の中の川とかは危なくないよな? それも泳いだりしないで見てるだけなら……」
「ええ、村の中であれば危ないことをしないのなら大丈夫です」
ヘンリーの必死な質問にタオーネが穏やかに返答する。
すると、途端に安心したような顔をしてヘンリーはニコニコと笑った。
「よかったー! 父ちゃんがちょっと前に森で光虫を見かけたから、今夜あたりから村でも見れるんじゃないかって言ってたんだ! だから見に行こうって思っててさ!」
「そういえば、そろそろそんな季節になりますね」
無邪気にはしゃぐヘンリーの話を聞いて、タオーネが独り言のように相槌を打つ。
この場でドニだけが話についていけず、光虫ってなんだろうと首を傾げた。
だが、すぐにヘンリーが光虫を知らないドニの様子に気付いてくれたため、考える時間はそう長くはなかった。
「あっ光虫っていうのはな、夜になると光る虫で、夏にしか出てこないんだけどな、川の辺りとか毎年すっげぇ綺麗なんだ! ドニは見たことないのか?」
彼の言う通り、見たことがあるどころか聞いたことすらないので素直に頷く。
綺麗と聞いてほんの少し興味が湧くが、すぐに諦めた。
川の辺りということは家から離れなくてはならないし、夜に外に出るなんて暗くて余計に怖い。
ドニは夜の暗がりが大の苦手なのだ。
そんな自分が見れるわけがないと少しだけ残念に思いながら、踏ん切りをつける。
だが、ドニの諦めに反して、ヘンリーのどんぐり眼はやはりきらきらと輝いてドニを映していた。
そしてその顔の大きさの割に大きな口から、驚きの言葉が飛び出す。
「じゃあさ、今日の夜とか、一緒に見に行かねぇ?」
突飛な提案に思わずぎょっとしてヘンリーを見る。
この自分が、家を出て、夜の暗い中、外を歩く?
そんなの無理だ、できっこない。
一瞬間でそういった考えが頭を駆け巡ったが、驚きすぎて言葉がでない。
おろおろと視線をあちこちに向けるが、視界に入るのは同じく驚いたように目を見開いたもののすぐに静かに傍観することを決め込んだらしいタオーネと、曇りない瞳で自身を見つめるヘンリーだけだった。
そんなふたりを見て余計に困り果てていると、ヘンリーがさらに最後のひと押しを実行した。
「妹は父ちゃんと見に行くって言ってるんだけど、俺はせっかく友達になったからさ、ドニと一緒に見たいと思ったんだ! ダメか?」
首を傾げてドニを見上げるヘンリーには、断られるという考えが微塵もないように思える。
ただでさえ、友達になったから、一緒に見たいからなんて言われてしまったら断りにくいというのに、この少年はドニが頷くという謎の確信を得ているように見えた。
つまり、ドニには頷く以外の選択肢が初めから用意されていないのである。
それでもやはり外に出るのは恐ろしく、ちょっぴり涙目になりながらタオーネに視線を向けると、大丈夫だというように小さく頷かれた。
何が大丈夫なのかまったくわからないが、そこでふとアーサーのことを思い出す。
彼はこの村を好きになってほしいと言っていた。
そして、ヘンリーと仲良くしてほしいとも。
思えばタオーネもアーサーも、ドニを安心させようと決して怖がることはないとずっと示してくれていた。
ヘンリーだってかなり強引ではあるが、こうしてわざわざドニを誘ってくれている。
こんなにもみんながドニのことを気にかけてくれているというのに、このまま家に閉じこもっていていいのだろうか。
そんな思いがドニの胸に灯ったが、恐怖心も変わらずそこにある。
しばらく葛藤し、タオーネを見上げ、それからヘンリーに視線を移す。
期待に満ちた目に見つめられると、やはり頷くほかは道がないことを再認識させられる。
外の世界に足を踏み出すことは恐ろしく、考えただけで胸が大きく音を鳴らし、この場から逃げ出したくなった。
それでもなんとか、本当に小さくではあるが、ドニはこくりと頷いた。
「おし! じゃ夜になったら迎えにくるな!」
望んだ答えが返ってきて、嬉しそうに笑うヘンリーがドニの手のひらにキイチゴを落とした。
大変なことになってしまったと半ば呆然としながら、促されるままにその小さな果実を口に入れる。
小さく愛らしい実は思っていたよりも酸っぱくて、身に沁みるようだった。
※※※※※※※※※※
日が暮れ始めた頃にヘンリーが夕食のために一度彼の家へ帰り、しばらくすると窓の外は煤を被せたかのような暗闇に染まった。
すっかり暗くなった外の様子を見て、ドニは顔を強張らせる。
もうすぐヘンリーが戻ってきたら、自分は外に出なくてはならない。
それもこんな真っ暗な中を歩くのだ。
自分の大きな図体が頼りなげにぐらぐらと揺れているように感じる。
緊張がドニの心も体も、すべてを支配しているようだった。
「ドニ、無理に外へ出なくてもいいのですよ。もし嫌なのでしたら、私からヘンリーくんにお断りしますからね」
心配そうなタオーネに力なく首を横に振る。
一度頷いてしまったことを今さら取りやめることはできない。
強引ではあったが、多少はドニ自身も納得の上で了承したところもあるのだ。
それに、彼のあの真っ直ぐで純粋な眼に背くことは、ドニにはできなかった。
とはいっても、ずっと心の奥深くまで根付いた恐怖心が急になくなることがあるわけがなく、ぶるぶると震える体を止めることもできない。
極刑を控えた罪人にも似た心情でその時がくるのを待つ。
しばらくすると、もはや聞き慣れた慌しい足音が近づいてきて、昼間と同じように勝手口の扉が開いた。
「こんばんはー! ドニー! 迎えに来たぞー!」
やはり昼間と変わらない笑顔のヘンリーが夜の暗闇にも負けそうにない大きな声で挨拶する。
ドニと同じように彼を待っていたタオーネが椅子から立ち上がって、指先をそっとドニの肩に添えた。
そのことに驚いてびくりと体が跳ねると、余計にバクバクと全身が脈打っているかのような感覚が強まった。
体すべてがひとつの心臓になってしまったように感じる。
「こんばんは、ヘンリーくん。今日はドニをよろしくお願いしますね」
「任せといてよ、先生!」
ふたりが何やら話しているが、緊張が最高潮に達したドニの頭にはその中身が入ってこない。
思わず俯いてしまうと、視界の端に日焼けした小さな手が入り込んできた。
視線だけでそれをたどってみるとにっこり笑った白い歯が目に映る。
「ドニ、行こう!」
手を差し出すヘンリーに促され、がくがくと震える足で立ち上がったが、なかなか一歩が踏み出せない。
しばらく躊躇してその場に踏み止まり、やがてぐっと腹に力を入れて一歩前進した。
そして、もう一歩、さらに一歩と床を踏みしめ、どうにかヘンリーのもとまでたどり着く。
しかし、ドニのなけなしの勇気はそこまで行きつくと途端に萎み始めた。
扉の向こうは暗く、足元はヘンリーが持参したランタンによってほのかに照らされているが、それもなんだか心許ない。
毎日のように家の中から見慣れた風景であるはずなのに、今は闇がすべてを覆い隠し、まったくの別世界のように感じる。
足を踏み出したら最後、吸い込まれ、自分ですら溶けて交わってしまいそうな夜の色にドニは完全に縮み上がってしまっていた。
依然変わらずに震え続ける足で立ち竦んでいると、小さな手にぎゅっと力強く右手を握られ、ハッとしてヘンリーを見る。
「暗くて危ないからな! 手を繋いでれば安心だろ? うちの妹も手を繋いでると暗いとこも怖くなくなるんだ!」
そう言って笑う彼にはドニの手は大きすぎたのか、握りやすい位置を探して試行錯誤を繰り返す。
温かい手が忙しなくあちこちに動いているのを感じると、不思議と高まっていた緊張や恐怖が落ち着いてきた。
それらが完全に消えたわけではないが、体の震えは段々と小さくなり、ぐるぐるとまわっていた頭の中も静まっていく。
そして、ヘンリーがようやく満足いく握り方を探し当てた頃にはドニも多少の平常心を取り戻していた。
わくわくとした笑顔のままドニを待つヘンリーを見下ろして、もう一度タオーネを見上げると、また小さく頷かれた。
その顔は心配そうであったが、ドニが小さく頷き返すと少し安心したようで、いつものように柔らかく微笑まれる。
「いってらっしゃい。お気を付けて」
「……いって、きます」
タオーネに後押しされ、意を決して勝手口から一歩を踏み出す。
その瞬間、胸が破裂しそうな感覚に襲われたが、右手に感じているぬくもりがドニの平静を保った。
深く息をついて周囲を見渡す。
辺りは静けさと暗がりに包まれており、ヘンリーのもじゃもじゃした黒髪と日焼けした肌は闇に溶け込んでしまいそうだったが、ランタンの灯りがそれを防いでいた。
潰してしまうのが怖くて握り返せはしないが、右手はずっと力強く繋がれている。
すぐ近くにヘンリーの存在を感じられることに少しの安心感が生まれ、もう一歩、足を前に出す。
やはり外はどこまでも影だけが続いているが、ただそれだけだ。
怖いものや危ないものが近づいてくる気配はない。
毎晩襲ってくる暗闇にひとりで耐えていた昔とは違って、今は隣りに友達がいる。
ひとりじゃないということを自覚すると、あれだけ怖かった夜が思っていたよりも恐ろしいものではないとさえ思えた。
そしてさらに何歩かゆっくりと歩を進めていき、ひと息つく。
「大丈夫か? 先生にも来てもらったほうがいい?」
足を止めたドニを心配したのか、珍しく此処まで静かに見守っていたヘンリーが小声で語り掛けてきた。
そのことにちょっとびっくりしながら首を横に振って、提案を断る。
まだ胸はドキドキと鳴っていて、タオーネがきてくれたらとても頼もしいに違いない。
だが、事前に彼を誘わなかったということは、ヘンリーは自分とふたりだけで行きたいと思っているのだとドニは解釈していた。
その気持ちを無碍にはできないと断ったが、それも思っていたよりも自分の心に余裕があるからこそできることだ。
この夜道の中でドニの頼りは己よりもうんと小さなヘンリーだけだったが、暗闇を進むには充分なほど彼は頼もしく見えた。
「そっか! 光虫が集まるところはそんなに遠くないからゆっくり行こうぜ!」
ドニが大丈夫そうだとわかった途端に大きな声で話し始めるヘンリーに手を引かれ、ふたたび歩み始める。
後ろではきっと心配しているタオーネがまだ扉を閉めずに見守っているのだろうが、此処で振り返ってしまうとせっかく復活した勇気がまた萎んでしまいそうで、ドニは自身の足元だけを見つめて歩き続けた。
しばらく歩きやすいようにある程度は整えられている道をゆっくりと進んでいくと、ヘンリーが何気なしに呟いた。
「今日は雲が少ないから星がよく見えるなー」
その言葉にずっと地面を見下ろしていたドニがちらりと空を見上げる。
すると、恐ろしげな黒一色に染まっていると思われた空でたくさんの星が瞬いているのが視界いっぱいに映し出された。
まるで今にも降り注いできそうな星空をドニは思わず口を開けたまま見入ってしまう。
こんなにも多くの星が煌めいている空は初めてのような気がする。
そもそも夜はうずくまって恐怖をやり過ごすだけの時間だったため、こうやって空をまじまじと眺めたことがなかった。
今まで目にしたことのなかった美しさへの驚きが、ドニの胸の奥深くまで染み入っていく。
しばしの間、星に見惚れていると、ドニに倣って同じように空を見上げていたヘンリーが暢気そうな声を上げた。
「星って白砂糖みたいで美味そうだよなぁ。食ったら甘いかな」
いつも何かしら食べているヘンリーらしい物言いが、星空によって自然と解されていっていたドニの心をさらに和ませる。
砂糖ならドニも何度か口にしたことがあった。
貴重なものらしく、タオーネが大切に温かいお茶やミルクに入れて飲ませてくれたのだ。
前に食べた蜂蜜を絡めた揚げパンとはまた違う、癖のない甘さにうっとりしたのが随分と昔のことに思える。
そんなことを思い出していると、あの甘美な味わいが甦ってきて食欲を刺激した。
言い出しっぺのヘンリーもそれは同じらしく、今にも涎を垂らしそうな顔でふにゃりと笑っている。
「ドニも甘いの好きだよなー」
「……うん」
「甘いのは美味いよなー。幸せだよなー」
「……うん……」
幸せというものがどういったものなのか、いまいちよくわからなかったが、とりあえず頷いておいた。
甘いものは好きであったし、こうしてヘンリーの他愛ないおしゃべりを聞いているのもドニは好きだった。
タオーネも同じ家で生活しているので、ドニを話し相手にすることはもちろんあるのだが、彼はおそらくもともと口数が多いほうでない。
そのため、根っからのおしゃべりらしいヘンリーの話はドニにはなんだか新鮮に思えた。
自分に話しかけたところでうまく返せるわけもないのに、それでも語り掛けてくる彼は変わっているなとも思うが。
「だよなー。 あっそこの角を曲がったら見えてくるぞ」
話の流れを切ってそう言われ、指差された方向に目を向けると、古い小屋のようなものが目に入った。
暗闇の中にたたずむ小屋は、一瞬忘れていた夜への恐怖心を呼び起こしそうで、ドニは慌ててヘンリーへ半歩ほど近寄る。
そのことを気にする様子もないヘンリーに手を引かれ、小屋の前を通過していく。
怖気づく自分を押し殺し、これ以上の恐れを抱かないために視線をふたたび地面の土に戻して、絶対に小屋のほうを見ない。
神経が高ぶり、手が汗で濡れるのを感じたが、ヘンリーはやっぱり気にせずに手を握り続けてくれた。
そうしている間に小屋の横を曲がって歩んでいき、その恐ろしげな建物を完全に過ぎ去ったと思うと、ヘンリーが足を止めた。
「ほら、ドニ。見てみろよ」
一段と明るくなった声に促され、恐る恐る顔を上げる。
すると、素晴らしい光景がドニの瞳に映った。
「わ……!」
思わず声を上げて感嘆する。
それは先ほど言葉を忘れて眺めた星空にも劣らない、息を呑むような光景だった。
光虫と呼ばれた虫は確かに暗闇の中で光を放ち、辺りをほんのり照らしている。
あまり強くはない、緑掛かった柔らかな光の粒たちが瞬き、川べりを妖しくも美しい世界へと染め上げ、ドニを魅了した。
光虫たちは突然の訪問者たちに驚くことなく、ささやかに、だが力強く光り続ける。
「へへへ、綺麗だろー?」
「きれい……」
自慢げなヘンリーに緩やかな頷きを返し、ドニは吐息とともに光虫たちへの称賛を零した。
星の煌めきとはまた違う、生きているものの存在をすぐそばに感じられるこの光はドニの心を優しく包みながらも、深い深い奥のところから揺り動かすような衝動を与えていた。
「しばらく此処に座って見てようぜ」
「うん」
半ば惚けた状態で促されるままに腰を下ろし、光虫たちの輝きを見入る。
立ったまま眺めていた時と違い、座って見上げる形になると、光虫だけではなく、満天の夜空もともに視界に収めることができるようになった。
異なるふたつの光の小世界は重なり合って混じり合い、見事な調和を披露してみせた。
空高くでは大小様々な星が咲き乱れ、光虫たちがふたりのそばで躍る。
そんなうっとりと溜息をついてしまいそうな世界に入り込み、静寂になりきってそれらを見守っていると、隣りに腰かけたヘンリーが小さく笑ってささやいた。
「ドニと一緒に見れてよかったよ。もしかしたら断られるかなって思ってたんだ」
ドニは突然打ち明けられた事実に驚いて、ヘンリーを見た。
いつでも迷いなく突き進んでいるように見えたこの少年も、自分と同じように迷い、考えることがあるのだ。
そうと知ると、不思議なことにヘンリーへの印象が大きく変わる。
強引で天真爛漫だと思っていた少年が、実は勇気と優しさを兼ね備えた思慮深い人間であることを知り、そんな彼が友達になってくれたのだとドニは改めて嬉しく思った。
ふたりはどこか照れくさそうに微笑みあう。
「俺さ、この村の中なら色んなとこ知ってるからさ、また一緒に遊んでくれよな。村の綺麗なとこ、全部お前に教えてやるからさ」
ヘンリーはそう言って今度はいつもの彼らしい笑顔を浮かべた。
この光景のほかにも美しいところがこの村にあると聞き、ドニの胸が期待で弾む。
今日は初めてバナーレ村を歩き、夜空の美しさや光虫、そしてヘンリーのことを知ったが、それはきっと外の世界のほんの一部でしかない。
まだまだ知らないことがあると考えると、やはり外は怖い。
だが、こうやって臆病でいつも縮こまっていたドニを連れ出して、恐ろしいものばかりだと思っていた夜の世界にも、綺麗で尊いものもあるのだと教えてくれたヘンリーとなら、きっとまた一緒に歩けるとドニは感じていた。
そんな想いも込めてゆっくりと、力強く頷くと、彼は本当に嬉しそうに笑った。
「じゃ、これは俺とドニの約束だな。楽しみにしておけよー」
「……うん」
満天の星空の下で約束を交わしたふたりを、光虫が祝福するように飛び交った。
ドニはじんわりと胸に広がるぬくもりを感じながら、その様子を眺める。
心を通わせた友達と一緒に見ると、この夜の光景がより一等美しく思えるのだった。