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木偶の坊と魔術師が家族になったら  作者: 小峯ゆたた
第1章 バナーレ村
6/58

友達になろう

 陽射しが強く、夏でもないというのに動くと汗が滲み出るような陽気の日。

 その日、タオーネは何やら大切な仕事があると言って、朝から出掛けていった。

 昼を過ぎた頃には帰ってくるらしく、ひとりで昼食をとることになるドニのために、燻製肉と野菜を挟んだパンを置いていってくれた。

 そのため、ドニ自身の生活はいつもとほとんど変わらず、今もタオーネに言われた通りに午前の勉強中である。

 今回は数字の書き取りだ。

 まだ大きい数はわからないし、計算もほとんどできないが、単語の書き取りに比べたら断然に覚えやすい。

 タオーネから教わるまでは日にちというものも知らなかったため、いくつの夜が過ぎたのか覚えてはいないが、この村に連れてこられてから随分と色々なことを学んでいる。

 それに安心して眠れる寝床や温かく美味しい食事に清潔な衣服など、以前のドニでは考えられないほどいい暮らしを与えてもらっている。


 しかし、ドニにはなぜタオーネがそこまでしてくれるのかわからなかった。

 自分は何の役にも立たない“でくのぼう”だ。

 物心がついた頃には既にそう教わり、何か失敗をすれば容赦なく殴られた。

 それが当たり前であったというのに、あの“まぞくのまじゅつし”には出会ってから一度も手をあげられたことがない。

 それどころか自分を“でくのぼう”と呼ばず、ドニという名を与えてくれたし、この前も忙しそうなタオーネのためにせめて皿を洗おうとして反対に割ってしまったというのに、彼は怒るどころか自分の不注意だと謝り、怯えるドニを優しく宥めてくれた。


 なぜ、役立たずの自分にそこまでしてくれるのか。

 その理由わけがわからないことが今は一番怖い。

 優しくされたら何かを返さなければならない。

 それなのに失敗ばかりする自分を見れば、いつかきっと見限られてしまう。


 あの暗くて恐ろしい奴隷市場で初めてタオーネに出会った時、ドニは彼の言葉に縋った。

 前の主人に置いていかれてしまったような存在だというのに生きたいと望んでしまった。

 だが、自分に新しい居場所ができるのなら、それは憂さ晴らしに殴られる人形役のようなものだと思っていた。

 鞭で打たれようが、首を絞められようが、それが自分に求められるものならば仕方がない。

 そう思ってこの村までついてきたというのに、実際はどうだ。

 タオーネは暴力を振るわないどころか、至って優しく接してくれるではないか。

 皿を割ってしまった際も、罰を与えられる恐怖よりあの優しいタオーネに見放されることが、何よりも恐ろしかった。

 優しくされればされるほど、ドニの恐怖は増していく。

 何かを返さなければと焦りばかりが募るのに、タオーネは何も求めてこない。

 唯一、勉強だけは日々の日課として課してくるが、それもタオーネのためではなく、ドニに必要なことだからと言う。

 そんなことを言われたら、ドニはもうどうしていいのかわからなくなる。


 何もできない自分がタオーネのそばにいてもいいのか。

 いくら優しい彼でも、無価値な自分にいつか愛想を尽いてしまうのでないか。

 そんな考えが頭の中をぐるぐるとまわる。

 しかし、どんなに考えたところで頭の悪い自分では答えがでない。

 ドニに残された選択は、せめて唯一課されている勉強をきちんと進めていくことだけだった。

 たとえそれがタオーネのためにはならないことであっても、言われたことはちゃんとやろう。

 そう考えて、ドニは今日も木箱に入れられた砂に指で数字を書く。

 これを覚えられたら少しは満足してもらえるかもしれない。

 ドニにとって勉強とは、タオーネのそばに自分を繋ぎとめるものであった。


 しばらく黙々と数字を書き続け、幾らか覚えてきた頃、ドニの腹からぐうーっと音が鳴った。

 そろそろ昼時なのだろう。

 時々は休憩を挟んだほうが物覚えがよくなるとタオーネが言っていたこともあり、ドニも段々と休憩することに抵抗がなくなってきていた。

 手を止めて木箱を机から退けると、ドニはすっかり砂まみれになった手を洗うため、台所の洗い場へ向かった。

 あらかじめ木の桶に用意された水で手を洗い、やはりあらかじめ用意されていた清潔な布巾に包まれたパンと濡れ布巾を持って食卓に戻る。

 そして、いつもタオーネがやっているように濡れ布巾で念入りに机を拭き、自分の椅子に座った。

 パンを包んでいる布巾を開いてひと息つくと、今度は左手で作った拳を右手で覆うように握り、魔族の形式による食前の祈りを真似てみる。

 いつもはタオーネが祈っているところを見ているだけだが、今回は彼がいないため、代わりにやってみようと思ったのだ。

 祈りの言葉もよくわからないし、もし間違っているやり方で彼の機嫌を損ねてしまったらと考えると怖いので、タオーネの前では決しておこなわないが。


「……ご、ごはんをくれて、ありがとう、ございます……」


 いつかタオーネが教えてくれた大まかな祈りの意味を簡単な言葉で呟いて、ドニはパンに噛りついた。

 ボロボロとパン屑がこぼれ、うまく力を加減できずに野菜が潰れてせっかく洗った手が汚れていくが、おいしい。

 タオーネが作ってくれるご飯はなんでもおいしい。

 毎日必ず出される健康にいいらしい豆の料理もころころと転がって食べにくいが、ドニは好きだった。

 口元と手をべたべたにしながら昼食を終わらせ、再び手を綺麗にしようと洗い場に向かう。

 木の椀で桶から水を汲み、汚れを落とすと、不器用なドニの手からこぼれた水でシャツが濡れてその色を変えていった。

 あらかた綺麗になったことを確かめて椀を持ったまま、ふぅとひと息つく。

 タオーネが帰ってくるにはもう少し時間がかかるようだ。

 残された時間も午前中と同じようにきちんと勉強して、手本を見ないで書けるようになろう。

 そう考えて、ふと何気なく、換気と光を取り込むために朝からずっと開かれている窓の外に向ける。


 すると、ひとりの少年と目があった。


「――――――ッ!?」


 心臓が跳ね上がり、息が詰まる。

 この子はだれ?いつから見られていた?なんの用だろう?

 そんなことが頭の中をしっちゃかめっちゃかに駆け巡り、体の動きがすべて停止する。

 固まったまま少年を凝視していると、その少年もドニのことを見つめ返し、何やら拮抗した状態となった。

 体中がバクバクと脈打っているように感じ、耳の中でキーンと音が鳴る。


 意志の強そうな青い瞳が真っ直ぐにドニを射抜き、そのあまりに弛みのない眼力は視線を逸らさせない強い力があった。

 目を逸らすこともその場から逃げ出すこともできず、ドニはただただ立ちすくむ。

 しばらく見つめ合い、お互いに相手がどう動くのか探り合ったが、先に動いたのは見知らぬ少年のほうだった。


「……あの、すみません」

「ひっ……あっ!」


 意を決したらしい少年に声をかけられ、緊張が最高潮に達したドニはつい力んでしまった。

 手に持ったままだった椀がミシミシと音を立てたと思ったらもう遅い。

 木でできた椀はドニの手の中で真っ二つに砕け、その片割れが床に落ちていく。

 破片はカランカランと場違いなまでに軽快な音を響かせて転がり、すぐに動かなくなった


「ああ……!」


 ドニは無残な欠片を目にして顔を青くさせた。

 つい先日、陶器の皿を割ってしまったばかりなのにまたやってしまった。

 こんなに頻繁に失敗を重ねたら、今度こそタオーネに見放されてしまうかもしれない。

 もし彼に捨てられたら自分に行く場などなく、今度こそ野垂れ死ぬだろう。

 先ほどまでの極度の緊張と自らの失敗に対する絶望を前に、ドニの目からぽろりと涙がこぼれた。

 それを見た少年がぎょっとしたような顔をして、慌てて窓から数歩ほど後ずさる。


「ごっごめん。嫌だったら近寄らないから」


 そう言って謝る少年の言葉をひどく混乱したドニの頭が理解するよりも早く、椀の欠片を拾い上げ、手に残った片割れにくっつけてみるが、もちろんそれは何の意味も為さずに椀は割れたままだ。

 せめて直せればと思ったのだが、これでは無理そうだ。

 今度こそ失望されるかもしれない。

 これから起こる未来を想像し、ドニは顔をくしゃくしゃにさせて呻いた。


「うう~……」

「驚かせて悪かったよ……というかいま片手で割ったよな……?」


 そんなドニの様子を見た少年が焦りを顕にしてさらに謝罪し、疑問を口にした。

 そこまで力があるようには見えないけど……と呟く少年を、ドニはようやく涙が張って潤んだ瞳で視界に捉える。

 声をかけてきたことにはひどく驚き、その拍子に椀を砕いてしまったが、この少年からは何も危害を加えられていない。

 ただドニがひとりで自滅したようなものだ。

 それなのに謝るこの少年にタオーネの姿が重なり、ドニは彼がそんなに怖いものではないかもしれないと直観した。

 それでもまだびくびくと不安げに見つめると、彼はぎこちなく微笑み、頬を掻いた。

 少年が動くたびにその金髪が太陽の光を反射して、きらきらと眩しい。


「あの、なんというか、本当にごめんな。母さんからはこれを勝手口のところに置いておけばいいって言われたんだけど、人がいたからつい覗いちゃって……」


 そう言って少年はずっと抱えていた籠をドニに見えるように持ち上げた。

 籠の中身は布巾に包まれていて何が入っているのかはわからない。


「これはちゃんと置いていくけど、お椀が割れたのは俺が君を驚かせたせいだし、タオーネ先生に謝りたいからここで待たせてもらってもいいかな」


 若干引き攣ったような堅い笑顔をつくり、おずおずと許可を求める少年をドニは困ったように見つめた。

 椀を割ってしまったことに関して、この少年は何も悪くないのだ。

 だけれどドニにはそのことをうまくタオーネに説明できるほどの技量がない。

 このままでは少年が叱られてしまうかもしれない。

 悪いことをしていないのだから何もわざわざ叱られることはない。

 しかし、やはりドニはそのことを目の前の彼に伝えるだけの言葉を持っていなかった。


 どうすればいいかわからずにただ困り果てていると、変わらずに外に立っている少年が籠を抱えていない片腕で己の額の汗を拭き、それを見てハッとする。

 今日は家の中でも動くとじんわりと汗ばむ程度には暑い。

 ましてや陽射しの強い日中に外で立っているのは本当につらいだろう。

 ドニはしばらく躊躇したが、心を決めて手に持っていた椀の欠片を台所に置き、そろそろと勝手口の扉を開いた。

 そして、少年が通れるように自身の大きな体をできるだけ壁に寄せて、控えめに視線を向けると、少年は目を丸くして戸惑うような様子を見せた。


「中に入ってもいいのか?」


 その問いにドニは微かに頷き、これ以上は小さくなりようがないほど身を縮こまらせて彼の邪魔にならないように気を配った。

 そんなドニの様子を見た少年が、そろりと慎重な仕草で家の中へ入り込み、ぎこちなく籠を食卓へ置くのを待って扉を閉める。

 しばらく揃って床を見つめ、お互いに気まずい空気を感じていたが、先にその空気を壊そうと口を開いたのはやはり少年のほうだった。


「その、ありがとな。今日は暑いから入れてくれて助かったよ」


 不器用にはにかむ少年にふたたび小さく頷き、ドニは控えめな視線で彼を見つめた。

 落ち着いて見てみると、自分の肩に届くかどうかという身長の彼はやはり最初に思っていたよりも怖くない気がする。

 背筋をピンと伸ばしたその姿は、どこか厳しさを感じさせるとしても暴力的には見えない。

 観察されていることに気付いたのか、居心地が悪そうに頬を掻く少年はやはり無言でいることに気まずさを感じるらしく、懸命に言葉を紡ぎ続けた。


「君がドニくんだろ? 俺はアーサーっていうんだ。父さんはこの村の騎士で、ニコラスっていうんだけど……知らないか。ドニくんは思ってたより大きいな。俺と同じくらいの年って聞いてたんだけど……。あっ俺は今年で十歳で、あと二年したら騎士になるための学校に行くんだ」


 少なくとも自身よりも頭ひとつ分は背が小さい彼、アーサーが同じような年齢だと聞いてドニは驚いたが、昔から体だけは大きいと罵られていたことを思い出す。

 今まで他の子どもたちと遊んだことがなく、そんなことを考えたこともなかったが、自分は本当に他の人よりも大きいのかもしれないとぼんやりと感じた。

 それはともかく、アーサーが一生懸命に話しているのだから、少しは返事をしたほうがいいだろう。

 そう思って声を出そうとするが、胸がまたバクバクと鳴り、普段まともに声を出さないせいか、喉の奥がきゅっと絞まる。

 それでもなんとか彼に応えようと無理やり言葉を捻り出した。


「……おれ、ドニ、です。……じゅっさいくらい……です」


 不慣れな言葉を繋げ、どうにか名前とタオーネから教わった自身の年齢を答える。

 すると、答えが返ってくるとは思っていなかったのだろう。

 アーサーは驚いたような顔をしてドニを見上げたが、すぐにほっと表情を弛ませた。


「そっか。じゃあ大体同い年だな、俺ら」


 先ほどとは違う、自然な笑みを湛えるアーサーにドニは頷く。

 居心地がいいとは言えないが、どこか緊張していた部屋の空気が少し和らいだ気がした。

 そのことに安堵し、扉から離れて食卓を挟んでアーサーの反対側の椅子に座ると、アーサーもそれに従って近くの椅子に座った。

 目の前に置かれた籠から香ばしい匂いがする。


「そうだ、よかったらこれ食べてよ。うちの母さんが作ったんだ」


 籠に掛けられていた布巾が取り払われると、食欲を刺激するこんがりした何かが現れた。

 そのうちのひとつを手渡され、恐る恐る受け取る。

 何やら触れた指にべたべたくっつき、甘い香りを発しているがこれはなんだろうか。

 普段食べているパンに似ている気もする。

 知らない食べ物を目の前にどうしたらいいかわからず、アーサーに視線を向けると食べてみるように促され、ドニは意を決してそれをかじってみた。


「どう? うまい?」


 心配そうに聞いてくるアーサーに思わず何度も頷く。

 それは柔らかいパンのようなもので、周りについているべたべたしたものはうっとりするほど甘く美味しかった。

 その美味さに慌ててふたくち目をかじり始めるドニを見て、アーサーが安心したというように頬杖をついて微笑ましげにその様子を眺める。

 どうやら彼はこの美味しいものを食べずにドニを見守るようだ。

 べたべたと汚れていく手と格闘しながら、黙々と食べ続けるドニとそれをただ静かに見守るアーサー。


 一時いっとき、穏やかな静寂がふたりの間に流れた。

 いまだに開いたままの窓から時おり聞こえてくる、家畜の鳴き声や太陽に熱された空気を運ぶ風の音が、どこか遠くに感じる。

 先ほどの気まずい沈黙とはまったく違う、柔らかさを含んだ静けさが、ふたりの緊張していた心を解していった。

 普段は人の視線を恐れるドニであったが、今のアーサーが纏う優しげな雰囲気にすっかり安心したようで、初めての甘味に夢中になっている。

 そんな時をしばらく過ごし、食べ進めるのが一等遅いドニがやっと食べ終える頃になってから、ようやくアーサーは口を開いた。


「多分それ、ドニくんのために作ったんだと思う。母さん、心配してたから」


 ちょうど最後の欠片をごくんと飲み込み、ドニは不思議そうに首を傾げた。

 この村に住み始めてから、こうしてアーサーに見つかるまでタオーネ以外の者には会ったことがなかった。

 もちろん彼の母親にも会ったことがなく、顔も知らない。

 それなのにドニの何を心配しているというのだろうか。


「ドニくんが村に来てもうひと月は経つだろ? なのに誰も君のことを見かけたことがないからさ、元気ないのかなって」


 頭の上に疑問符を浮かべたドニを見て、アーサーがわかりやすく彼の母親の心情を説明してくれた。

 つまり、顔も知らない自分のことを気遣ってくれたということらしい。

 それだけでなく、わざわざ自分のためにこんな美味しいものを用意してくれたのだ。

 ドニはその事実に衝撃を受けた。

 目障りだと疎まれることはあっても見ず知らずの人に心配されることなんて、今まで一度だってなかった。

 ずっと邪魔者扱いで、痛みや恐怖は日常だった。

 それなのに、どうしてこんな自分によくしてくれるのか。

 タオーネも、目の前のアーサーも、彼の母親も、なぜこんなに優しいのか。


 そんな疑問が頭の中をぐるぐるとまわり、胸のあたりがきゅっと締め付けられた気がしたが、同時になんだか暖かいものが胸にじんわりと広がるのをドニは感じていた。

 苦しいのに嫌じゃない、不思議な感覚だった。

 鼻の奥がつんとするけれど、涙は出ない。


「……外は怖い?」


 ぽつりと呟くようなアーサーの問いに、ドニはすぐに返事をすることができなかった。

 外は知らない人ばかりで何があるのかもわからない。

 確かに怖いと思う気持ちもあった。

 ドニは物心がついた頃には、既に前の主人に連れられて色々なものを見てきている。

 しかし、その色々なものに近付くことを主人から許されておらず、興味を示すだけでもひどく折檻された。

 そんなこともあり、いつしかドニは外の世界に目を向けることをやめたのだ。

 だが、自分を飼っていた主人がいなくなり、今はタオーネに連れられてこのバナーレ村にいる。

 前の主人とは異なり、タオーネはドニが外に興味を持っても虐げることはしない。

 むしろ、自身とは異なる不思議な瞳が嬉しそうに微笑みを湛えることにドニは気付いていた。

 タオーネに満足してもらえることは勉強だけではないのだと、薄々感じてはいたが、幼い頃より積み重ねられた恐怖と痛みの記憶がどうしてもドニの心を制していた。

 それでも、窓から聞こえてくる村人の暮らしや自然が織りなす音や、そこから見える僅かだが広い世界は微かに残っていた好奇心を刺激し、ドニは度々、家の中から窓の外を眺めた。


 外は怖い。

 だけど、興味がないと言えば嘘になる。

 そんな矛盾した思いの衝突から、ドニはアーサーの問いに答えることができずにいた。


「怖いなら無理に出ることもないと思うけど……この村の人はいい人たちばかりだから大丈夫だよ。俺の父さんはこの村が好きで騎士になってからわざわざ戻ってきたんだけど、俺も将来はそうしたいって思ってる。俺もこの村が好きだからさ」


 ドニの気持ちを察したのか、アーサーが答えを待たずに話を続けた。

 その言葉の節々からは村への想いが感じられ、本当にこの村を大切に思っているのだということがドニにもわかった。

 こんなに好かれるこの村はよほどいいところなのかもしれない。

そう思わせるほど、語るアーサーの瞳は真っ直ぐで、なんだか眩しかった。


「だから、会ったばかりでちょっとおかしいかもしれないけど……ドニくんにもこの村のことを好きになってもらえたら嬉しいよ」


 照れくさそうにそう締めくくったアーサーが、より一層、優しく微笑む。

 目の前のこの少年は、ドニがバナーレ村を好きになることが嬉しいと言う。

 それを聞いて、そんなことで人に喜んでもらえるのだとドニは目を丸くした。

 まだ好きかどうかはわからないけれど、アーサーにこれだけのことを言わせるこの村は少なくとも彼にとってはやっぱりいいところなのだろう。

 そして、ドニの目を見て、この村を好きになってくれると嬉しいと言うアーサーもきっといい人だ。

 そんなことを考えると、目元と口元が自然と和らぎ、気が付いたらアーサーに微笑み返していた。


 しばらくふたりで微笑み合い、和やかでどこか照れくさい雰囲気に包まれていると、遠くのほうから足音が聞こえてきた。

 足音は段々と家に近付いてきている。


「先生、帰ってきたみたいだな」


 そういえばそろそろ帰ってくる頃だ。

 ドニはアーサーの言葉に頷いて、扉のほうへ視線を向けてタオーネの帰宅を待った。

 近付いてきた足音が勝手口の前で止まり、扉が開く。


「ただいま戻りました。……おや?」

「お邪魔してます、先生」


 タオーネが家に入ってくるのとほぼ同時にアーサーが椅子から立ち上がり、礼儀正しく挨拶した。

 家の中にアーサーがいることに驚いたらしいタオーネがドニの姿を確認し、さらにその特徴的な目を丸くする。

 今さらながら、アーサーを勝手に家にあげたのはまずかったかもしれないと思い、ドニが思わず身を竦めた次の瞬間。


「先生? 誰か来てたのか?」


 タオーネの背後から知らない子どもの声が聞こえ、ドニはびくりと体を強張らせた。

 緊張した状態でタオーネの後ろに目を向けると、彼の腰の辺りからひょっこりと活発そうな少年の顔が覗いた。

 知らない顔にドニは臆し、さっと視線を逸らすと、同じように表情を強張らせたアーサーが視界に入る。


「ヘンリー……」

「あれっアーサーじゃん」


 どうやらふたりは知り合いらしい。

 ヘンリーと呼ばれた少年は、アーサーの姿を見て驚いたような声をあげた。

 対するアーサーはどこか気まずそうで、ヘンリーを前に緊張しているようだった。


「お前……なんで此処に……」

「俺は先生の荷物持ちだよ。見回りついでに薬草を摘みすぎたって言うから運ぶの手伝ったんだ。そういうお前はどうしたんだよ?」


 うわ言のように質問を溢したアーサーに、両手で抱えている薬草が山盛りになった籠を見えるように持ち上げ、ヘンリーが反対に問い返す。


「いや……誰かいると思って家の中を覗いたらドニくんを驚かせちゃって……。その拍子にお椀が割れちゃったから先生に謝ろうと思って待たせてもらってたんだ。先生、すみませんでした」


 動揺しながらも律儀に説明し、タオーネにもきちんと謝罪するアーサーを見て、今までただ固まっていたドニはハッとした。

 結局、何も悪くないアーサーに謝らせてしまった。

 その罪悪感にさらに身を縮こまらせ、視線を床に向ける。

 先ほどまでの穏やかな気持ちが嘘のように跡形もなく消え、罪の意識が心を苛み、アーサーとタオーネの顔をまともに見ることができない。

 彼にだけ謝らせて自身の落ち度を語らずに黙っている自分に、アーサーは呆れているだろうか。

 何度目かもわからない失敗が発覚し、それだけでなく人に罪を被らせたことがわかったら、タオーネも今度こそは怒って自分を見捨てるだろうか。

 ドニは罰を言い渡される罪人のように、ただじっと耳だけを澄ませてふたりの様子を聞き入った。


「大丈夫ですよ。むしろ、わざわざありがとうございます。まだ外は暑いですし、少し休まれていってください」

「いえ、帰ってやることもあるので失礼します。それは母が作った揚げパンなんですけど、よかったら召し上がってください」

「道理でいい匂いがすると思いました。ありがたくいただきますね。お母様にもありがとうございますとお伝えください」

「わかりました」


 ふたりのやり取りからは自分への怒りや呆れなどは感じられなかったが、それでもドニは重大な秘密を抱えているという意識によって、どうしても顔を上げられずに頭上で交わされる言葉を聞いていた。

 そのやり取りで気付いたが、そう言えばアーサーにお菓子のお礼も伝えられていない。

 ドニは自身の肩にのしかかったものが、さらに重くなったように感じた。


「お前、まだ遊べないのか?」


 そんなドニとは正反対に、陽気な性根が表れているようなのんびりとした調子でヘンリーがふたたびアーサーに質問する。

 アーサーがなぜか滲ませている気まずそうな雰囲気は気にも留めていないようだ。


「……まだしばらく忙しいから」

「ふーん。じゃ、仕方ねぇな! また今度遊ぼうぜ!」

「ああ……」


 アーサーの歯切れの悪い物言いにもやはり気にしていないのか、ヘンリーはあっさり引き下がった。

 相変わらず居心地が悪そうではあるが、安堵したように息を吐いたアーサーの視線がドニのほうを向く。

 その気配にドニの胸がドキリと跳ね上がり、思わず拳を握る。


「……お前、あまりいつもの調子で騒ぐなよ。ドニくんがびっくりしちゃうだろ。お前はただでさえ声がでかいんだから」


 アーサーの言葉にドニは思わず顔を上げた。

 どうやら彼には俯いて身を竦めている自分の姿がヘンリーの声に怯えているように見えたらしい。

 それは違う。

 いや、それもあるけれど、主な理由はそれとは別であって、ヘンリーが悪いわけではないのだ。

 本当は今ここで罪を認めてタオーネとアーサーに謝らなくてはいけないのに、その勇気が出せずに、結果的に誤魔化してしまっている自分が情けないからなんだ。

 そう言いたかったが、やはり声は出ず、より一層の自己嫌悪に息が詰まるだけだった。


「そうか? わかった、気をつける!」

「わかってないだろ……」


 そんなドニの気持ちは伝わるはずもなく、ふたりの間で話は完結してしまった。

 ヘンリー自身はまったく気にしていないようで、笑顔のまま大きな声で宣言をする。

 そんな彼の様子に溜息をついて、アーサーは項垂れるドニの顔を覗き込み、また不器用そうな笑顔をつくった。


「こいつ、うるさいし食い意地は張ってるけど、悪いやつじゃないからよかったら仲良くしてやってくれな」


 言葉の意味を半分も理解しないまま反射的に頷き、ぎこちなく無理やり微笑み返す。

 それを見たアーサーももう一度、口元に微笑をつくって応えてから、タオーネのほうへ体を向き直して軽く会釈した。


「それじゃ、先生。お邪魔しました」

「はい。またいつでも遊びにきてくださいね」

「ありがとうございます。ドニくんもまたな」

「……うん。……ばいばい」


 せめて挨拶だけでも返そうと小さく手を振って声を絞り出すと、タオーネが僅かに目を見開いた。

 まずいことをしてしまったかと不安になったが、アーサーも手を振り返してくれたので間違いではなさそうだ。

 ほんの少しの安堵を抱いて彼が勝手口から出ていくのを見送る。

 アーサーが家から去り、扉越しに聞こえる足音が遠ざかってから、タオーネがぽつりと呟いた。


「……アーサーくんはそんなに忙しいのですか?」

「よくわかんねぇけど忙しいから遊べないんだってよ!」

「そうですか……」


 快活だが不明瞭なヘンリーの答えに何やら考え込むような間を空けてから、タオーネがふとドニに視線をずらす。

 その視線につい身構えてしまうと、彼は瞬時に優しげな微笑で口元を飾った。


「ドニ、お留守番お疲れさまでした。お椀を割ってしまったとのことですが、怪我はありませんでしたか?」


 タオーネからの問いにまた暗い気持ちがにじり寄ってくるのを感じながら、ドニは小さく頷いた。

 木の椀を割ってしまっただけなので怪我はしていない。

 しかし、タオーネが怒りを見せず、むしろ心配してくれるその優しさに罪の意識で痛む心をさらにちくちくと刺激する。

 そんなドニの心模様なんてもちろん知らないタオーネはさらに追い打ちをかけてきた。


「アーサーくんを家にあげてくださったのですね。彼は誠実で優しかったでしょう?」


 タオーネの言う通り、アーサーは優しかった。

 怯えるドニに優しく声を掛け、微笑みを向け、そして自らありもしない罪を被ってくれた。

 自分よりも体の小さい彼の優しさを思い出すと、胸に柔らかなぬくもりが宿るが、それと同時に良心がズキリと痛む。

 あまりの痛みに、気が付いたらドニの口は勝手に開いていた。


「あの、ちがくて」

「ドニ?」


 言葉を放ってから自分が何を言おうとしているのかを考え、躊躇する。

 もしも、本当のことをタオーネに話して嫌われてしまったら、きっと今よりもずっと胸が痛くなって死んでしまうかもしれない。

 ドニは服の胸のあたりをぎゅっと握りしめて唇を噛んだ。

 だが、すぐにアーサーの姿を思い出して、言葉を探す。

 此処で黙ってやり過ごしてしまったら、胸に刺さった棘はもっと痛くなってくることをドニは知っていた。

 そして、アーサーの優しさに少しでも応えなければならないということもドニは無意識ではあったが感じていたのであった。


「……ほ、ほんとはあの人、わるくなくて。おれが、わっちゃったから、その」


 からからに渇いた喉から探し出した言葉を捻り出し、何とかタオーネに伝えようと足りない頭を精一杯に使う。

 出てくるのはまとまりのない単語を粗末に繋げたものばかりだが、それでもドニは懸命に喋った。

 しかし、すぐに自身の気持ちを表す言葉を見失い、しばらく唇だけを動かして終いに口を噤む。

 バクバクと鼓動する心臓の音がやけに大きく響いた。

 話すこともできなくなり、ドニはただタオーネの反応を受け入れようと手を服から離し、拳を握りしめた。


 タオーネが歩み寄ってきてびくっと体が跳ねるが、体に力を込めて逃げ出したい衝動に耐える。

 しかし、そんなドニの気持ちとは裏腹に、床に膝をついてドニの目を覗き込んできたタオーネは先ほどよりも柔らかで暖かな顔をしていた。


「大丈夫ですよ。ちゃんとわかっていますから。でも、今回のこれは事故なんです。誰も悪くないんですよ」


 タオーネが落ち着いた語調で言い聞かせるように語り掛けてくる。

 誰も悪くない。

 その言葉にドニの体の力が抜ける。

 アーサーはもちろん、自分も悪くないらしい。

 椀は割れてしまったけれど、悪くない。

 つまり、椀が割れたのは仕方のないことだったということか。


「わるくない……」

「ええ。アーサーくんも、ドニも、悪くないです。だから大丈夫」


 自分に言い聞かせるように呟くと、タオーネもさらに根気よく諭してくる。

 彼の葡萄酒のような深い色合いの瞳は人よりも感情が読み取りにくいが、今はそこに負の感情は見当たらず、ただ眉を寄せたドニの姿が映っていた。

 それを見て、今回の失敗は仕方がないことであってタオーネは怒っても呆れてもいないのだということを理解し、細く息を吐きだす。

 ドニが言っていることを理解したと判断したタオーネが立ち上がると、その後ろで静かにしていたヘンリーの姿が目に入った。

 何やら目を輝かせてドニを見つめている。


「お前……いいやつだなぁ」


 すぐ視線を逸らそうとしたが、それよりも早くヘンリーが思いがけないことを言い、ぎょっとして反対に目を合わせてしまった。

 いいやつ? 誰が?

 言っていることがわからずに困惑するものの、そんなドニに構わずにヘンリーはさらに突拍子のないことを提案してきた。


「俺、お前のこと好きだ! 友達になろうぜ!」


 こんなことを言われたらドニの容量の少ない頭は大混乱だ。

 今まで好きだと言われたこともなければ友達なんてものもいなかった。

 どちらも自分には関わり合いのないものだと思っていた。

 それなのに目の前のこの少年はまるで簡単なことのように言ってくれる。

 こんな経験がないドニはすっかり狼狽えてしまい、信じられないものを見る目をヘンリーに向けたまま、ふたたび固まってしまった。

 ヘンリーはそんなドニの様子には気づいていないのか、構わずにしゃべり続けている。


「俺はヘンリーって言うんだ! 猟師の息子で、妹もいるんだぜ。俺は今年で十歳で妹はまだ六つなんだ。先生から聞いたけどお前も十歳くらいなんだろ? この村だと同じくらいのやつがアーサーしかいなくてさー。あっここん家の隣りのシェリィも同い年だけど、あいつは女だから一緒に遊ばねぇんだ! 誘ってもつんつんしてて遊んでくれねぇんだよ。つまんねぇよなー」


 ぺらぺらと一気にしゃべられ、咄嗟に話を聞く態勢をつくるが、頭が追いついていかない。

 彼が何を言っているのか考えているのに気が付くと次の話題に移っているのだ。

 どうしたらいいのかわからず、結局は黙ってヘンリーの話が終わるのを待つしかなくなり、ドニは目を泳がせた。

 しかし、それは杞憂に終わり、ドニが困っていることに気付いたらしいヘンリーがしゃべるのをピタリとやめて首を傾げた。


「……ん? 俺のこと怖いか?」


 明るい調子のまま聞いてくるヘンリーにぎくしゃくしながら首を横に振る。

 本当のところは声も大きいし、こちらの様子を気にせずにしゃべり続けるため、ドニからしたら怖いのだが。

 それでも怖くないとあえて否定したのはアーサーが仲良くしてやってくれと言っていたからだ。

 それにわざわざこんな自分と友達になりたいと言ってくれるこの小さな少年が悪いものとは思えないのだ。

 首を横に振ったドニを見て、ヘンリーは満面の笑みを浮かべた。


「じゃ友達になろうぜ。アーサーもしばらく遊べないし暇なんだよー」

「……ともだち……」

「おう! 友達だ!」


 ニコニコと笑うヘンリーを前にほんの少しだけ躊躇する。

 ドニは友達というものがどんなものなのかよく知らない。

 けれど、このやり取りを静かに見守っているタオーネが嬉しそうな顔をしているから、きっといいことなのだろう。

 そう考えてドニは恐る恐るではあるが、こくりと頷いた。


「よし、俺とドニは今から友達だ! よろしくな!」


 ドニが頷いたことがそんなに嬉しいのか高らかに宣言したヘンリーに右手を触れられ、驚く。

 思わず手を引っ込めようとするが、ヘンリーの両手でがっちりと捕まえられてしまった。


「握手だよ。手を握ってよろしくの挨拶をするんだ。ほら、よろしく!」

「……よ、よろしく……」


 握られた手をぶんぶん振りまわされて冷や汗をかきながら、言われるがままに挨拶を返す。

 右手を掴んでいるヘンリーの両手は思っていたよりも小さく、力を込めれば潰れてしまいそうで、ドニは右手が力まないように精一杯に注意した。

 勢いに押されてしまった形ではあるが、これで友達になったということらしい。

 ドニが力なくヘンリーの腕に振りまわされ続けていると、それまで見守るだけに留まっていたタオーネが珍しく朗らかに笑った。


「せっかくお友達になったことですし、荷物持ちのお礼も兼ねて、一緒におやつにしましょうか。先ほど頂いた揚げパンがあるので、私はお茶を淹れますね」

「やったー! 俺、アーサーの母ちゃんの揚げパン大好きなんだ!」


 タオーネの魅力的な提案に喜びを顕にしたヘンリーがドニの右手から手を離し、両手をそのまま頭上へ掲げた。

 手を解放されたことでほっと人心地つくが、アーサーがくれた揚げパンとやらを既にひとつ食べてしまったことを思い出し、ドニは顔を曇らせた。

 だが、ふたたび罪悪感に囚われる前に今度こそきちんとその場で伝えなければ。


「あ……ひとつ、食べちゃった……」

「おや、もう頂いていたのですね。美味しかったでしょう? もうひとつくらいは食べられそうですか?」


 おずおずと申告するとタオーネはあっさりと受け入れ、反対にもっと食べられるかと訊いてきた。

 どうやらいくつか食べてしまっても問題ないらしい。

 ドニは満腹ではなかったので、頷いてまだ食べられることを伝えた。


「そしたらお皿は三つ出しましょうね。ドニとヘンリーくんは座って待っていてください」

「わーい! おやつだおやつだー!」


 言われた通りに椅子にきちんと座り直すと、ヘンリーも心底楽しそうにぴょんぴょんと跳ねて同じように席に着く。

 席に座ってからも鼻歌を歌ったりそわそわと落ち着きなさげにしているヘンリーは確かに騒がしいが、やはり悪い子には見えない。

 むしろ臆病なドニの目にも無邪気で裏表がないように見えた。

 多少強引ではあるが、きっと怖いことはしないだろうと考え、今日という忙しい日を過ごしたドニはそれ以降の思考を止めた。

 色んなことがありすぎて心も体も少し重く感じる。

 今はこの甘くて美味しい揚げパンだけを堪能しよう。

 そう決めてドニは浮足立っている友達と共にタオーネが淹れているお茶と揚げパンを待ちわびたのであった。


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