追いかけっこ
空を駆け、足元に広がる美しい庭を見下ろす。
この城で働く多くの者たちの目に触れるその場所は城門とは反対側、つまりは魔王城の裏側に面していた。
城の表側、入口である城門から入って目に見える部分は石畳の道で区画割りされており、城の外観を邪魔せぬように背の高い木々などは植えられていない。
しかし、来者が目にすることが少ない城の裏側に関しては、現魔王シャルラハロートの意向により、表よりも自然の豊かさを尊重されている。
人工的な石畳は最小限に抑え、この土地ではまず夏にしか見かけないような芝生が大地を埋めていた。
季節の花々や果樹も植わっているその庭は魔王の膝元として恥ずかしくないようにキッチリと手入れされてはいるが、かえってのびのびとした雰囲気を感じさせる。
そんな緑溢れる庭の中、タオーネの眼下を真紅の髪をした幼い少年が駆けていく。
時おり追手を攪乱しようとしてか、繁みや木々の隙間など道から外れて潜り抜けていくが、頭上から見下ろしているタオーネには動向が丸わかりだ。
薔薇の花が咲き誇る頃ならばその髪は紅い花びらに紛れ込み、少しは身を隠してくれただろうが、まだ閉じた蕾であるがために今は少々目立ちすぎている。
つまるところ、この鬼ごっこはかくれんぼには発展しそうになかった。
タオーネは走り続けるシュトルツを追い抜かさぬように気をつけながら、これからどうするべきかを考えた。
冒険者時代に魔物を追いかけたときは魔術で石の壁や氷の床を作り出して動きを阻んだが、相手は王子だ。
怪我をさせてしまうのはまずい。
それに、この美しい庭園を傷めてしまうことも避けたかった。
頭の中で選択肢を吟味しながら視線をシュトルツの行く手へ向ける。
すると、その先にいくつもの植物を絡めたアーチがまるで洞窟の入口のように待ち構えているのが見えた。
鉄のアーチに纏わされた蔓状の植物は、これまで続いた薔薇とは少し種類が異なるのか、蕾が綻びかけている。
それを目にしたタオーネはふと思いつき、狙いを定めて魔力を操作し、対象へ注ぎ込んだ。
後ほど手入れは必要となるだろうが、石の壁で地形を変化させたり氷の絨毯で土を傷めつけたりするよりかはマシだろう。
「成長」
アーチに絡みついている蔓に行き渡った魔力を変質させると同時に呟く。
本来は必要ない詠唱だったが、言葉とともにそれまで風に揺れる程度であった蔓がメキメキと意思に沿って蠢き始めた。
お行儀よく人が通るのを待っていただけのその植物は今やタオーネの従魔と化して、その身を本来の何倍もの速度で成長させていく。
見慣れているはずの華麗な光景に異変が生じたことにシュトルツが気付いたときにはもう遅い。
見る者を喜ばせるためにある慎ましやかな蔓たちは、急成長を遂げた長くしなやかな自身らを複雑に絡ませ合い、獲物を捕まえる蜘蛛の巣のように大きな壁となって幼い王子の行く手を阻んだ。
「あっ!」
「鬼ごっこはもうお終いにしましょう、殿下」
突如現れた緑の壁に激突する前に足を止めて方向転換しようとしたシュトルツの逃げ道をなくすように、タオーネは彼の後ろへふわりと舞い降りた。
ところどころ薄紅色の花を咲かせつつある蔓薔薇のアーチと魔術師に、挟み撃ちするように退路を断たれた王子は見る見るうちに顔を赤く染め、その小さな体に怒りを溜め込んだ。
その怒りはすぐさま体から溢れ出し、彼は感情のままにその場で地団太を踏み、喚く。
「空を飛ぶなんてずるいぞ! 卑怯者!!」
「私はできることをやったまでなのですが……。それに、授業が始める前に逃走なさるのは卑怯ではないのでしょうか?」
「うるさい! 僕は卑怯者じゃないぞ! 卑怯なのはお前のほうだ!!」
卑怯者と罵られ、反射的に言い返してしまったが、それは案の定シュトルツの気分をさらに害するだけだった。
すぐ短気を起こす己の未熟さを内心で叱咤し、タオーネは瞬時に心を落ちつかせた。
相手はまだほんの小さな子どもだ。
自分はもういい年なのだから余裕をもって接せねばならない。
そうやって自身を制止ながら、喚き散らしたことでシュトルツの感情の波が幾分か落ち着くのを待って、タオーネは冷静にこの状況の原因へと触れた。
「シュトルツ殿下、お勉強はお嫌いですか?」
「嫌いだね! 僕はもう字だって読める。つまらない授業を受けている暇があるなら本を読んでいたほうがずっとマシさ!」
話を振られた王子は、ここぞとばかりに端から教師を馬鹿にする気持ちをありったけ込めたような考えを主張した。
その頭が痛くなりそうな主張の内容はともかく、なんだかんだ質問にはキッチリと答えているあたりは幼児らしい素直さが表れているのだろう。
この様子ならば初対面の時のような癇癪さえ起こさなければ、とりあえず会話はできそうだ。
タオーネは少なすぎる情報から取っ掛かりを見出し、穏やかな微笑を湛えて話の舵を切った。
「殿下は本を読まれるのですね。普段はどういったものをお読みになるのですか?」
「……別に。城の書庫には面白いものは少ないし、母さまが小さい頃に読んでいたという御伽噺とか伝承とか……」
「おや、でしたら『魔大陸の英雄譚』などはお読みになられましたか?」
渋々といった調子で返答されたシュトルツの言葉に、思わず素の自分に返ってさらに質問を重ねた。
幼い頃から自他ともに認める本の虫であるタオーネは、過去に読書を通じて幾度も意見を交し合った彼の母シャルラハロートの手持ちの書物に関する記憶を掘り出したのだった。
異なる趣味のふたりが唯一共通した本の題名を口にすると、王子は面食らった顔になった。
「え……読んだけど……あのくすんだ赤紫の表紙の本だろ」
「はい、それです。あれは私も幼い頃から愛読していましたが、魔王さまもお好きでしたからね。思えばあの本で親睦を深めたのでした。殿下は読んだ中でどの伝承を面白く感じられましたか?」
「…………鉄壁のメルクマール」
「ああ、古の人魔大戦にて魔王の盾となった英雄ですね。彼の壮絶な生きざまに私もよく感動したものでした。色々と諸説はありますが、彼の血筋は現在の魔王軍隊長ドライ・ヴェヒター殿の家系に繋がっているという話もありますね」
「そうなのか? ドライがメルクマールの子孫なのか?」
自分が知っている情報を何気なく口にしてみると、王子は憧れの英雄と知った顔に繋がりがあることに年相応の驚いたような顔をした。
密かにおや、と思ったときには、勢い余って話に食いついてしまったことを自覚したのか、気まずげなむっつりとした表情に変わってしまっていたが。
それでもこの話題は掴みとして間違っていないようだ。
そこでタオーネはあくまでさりげない態度で会話を続けることにした。
「ええ。あくまで、ひとつの仮説ではありますが。冒険者時代に各地で買い求めた書物の中にそういった話がありました」
「……お前、英雄が好きだなんて、案外子どもっぽいんだな」
「子どもの頃から続く唯一の趣味ですので……。ほかにも魔大陸以外の英雄に関する書物なども持っていますが……お読みになりますか?」
調子を取り戻そうとするものの、先ほどまでの勢いをすっかりなくしてしまったシュトルツの言葉をサラリと流し、取っ掛かりを広げようと模索してみる。
すると彼は警戒するように押し黙り、しかし、興味はあるのかタオーネに向かって探るような視線を投げかけた。
そんな視線にも特に反応は示さずに返答を待ちながら、偶然にも親子揃って同じ本が会話のきっかけになっていることになんだか感慨深いものを感じていると、それまで黙って何かを考えていたシュトルツが口を開いた。
「……そういうものの中にも、お前が調べてわかったことがあるのか?」
「そうですね。すべてではありませんが、それなりに調べて知っていることは多いと思います」
「ふぅん……」
質問に答えると、シュトルツは何やら物欲しそうな表情で目線を地面へ移した。
やはり興味はあるようだが、“根性なしで卑怯者の気に喰わない魔術師”を相手に気安くしてもいいものか判断しかねているといった様子だ。
しかし、おそらくはもうひと押しだろう。
タオーネはあえて謙虚な姿勢で控えめに、けれど親切心を顕にして、魅力的な提案を口にした。
「もし、よろしければ私が詳しくお話しましょうか? 中には一冊の本にまとめられていない伝承などもございますので、私の口頭でよろしかったらお話致しますよ」
好きなものについて自分の知らない話を詳しく聴けるという心を惹かれる提案を前に、王子は一瞬、期待に満ちた瞳を魔術師に向けた。
だが、やはりすぐに警戒心が呼び戻されたのか、今度は疑惑の眼差しで睨みつけられる。
この真紅の王子さまはまるで野良猫のようだ。
彼は垂れ気味の眼を精いっぱい鋭くして、遥か頭上にある陰気そうな魔術師の顔を睨めつけて唸るように抱いている不信をそのまま言葉にした。
「……そうやって勉強させるつもりだろ」
「とんでもない。勉学というものは嫌々やって身につくものでもありませんから……。殿下がお望みしないなら、ひとまず勉強は後回しに致しましょう」
「後回しってことは、結局やらせるんじゃないか」
「それは言葉のあやのようなものです。一応これでも教育係に任命されておりますので、言葉の上だけでも勉強すると申しておかねば首が飛びますから……」
シュトルツの鋭い指摘に、おどけるように肩を竦め、タオーネは飄々と答えた。
らしくもなくふざけた調子ではあるけれど、その言葉は本当のことであった。
魔王城でも特に有力な貴族ヘルシャフト卿から王子の教育に関して好きにしていいと許可を得ているのだから、この程度の自由は利くはずだ。
机上での勉学の前に、まずは席へ座ってもらえる程度の関係性を築かなければならないのだ。
これはそのための一歩なのだと言えば、きっと問題はない。
そう考えたタオーネは親しみやすいかはわからないができる限り優しく見えるように微笑み、もう一度、早くも暴君と噂されている小さな王子を誘った。
「ですから、今日のところはお茶でも飲みながらゆっくりとお話しませんか?」
「……面白くなかったら僕は部屋に戻る。それでいいな」
「ええ、もちろんです。では、参りましょうか」
用心深く提示された条件も快く受け入れ、タオーネはその華奢な体に触れない程度に腕を伸ばし、シュトルツの肩のあたりにそっと手を添えた。
何はともあれ、ようやく一歩を踏み出したというところだろうか。
教育係に任命されたことを考えると、まだまだ出発点に並んだぐらいだが、一歩は一歩だ。
此処から焦らず少しずつ進んでいけばいい。
お互いについ先日まで同じ道で生きてきた人族よりもうんと長寿な魔族なのだから、時間はいくらでもある。
そうやって己を戒めると、ふと以前にも同じようなことを考えたなと記憶の断片が頭を掠めた。
結果的に嘘となってしまった、たったひとつの約束。
不意に思い出された幼い面影に胸が痛みを訴えたが、今は仕事中だ。
タオーネは底なしに湧き上がる苦くつらい気持ちに封をして、目の前のわがままな幼子を伴い、城内へ戻る道をゆっくりと歩いた。
悪戯な風が何度もローブの裾やフードを軽やかに巻き上げようとしたが、そんな風とは裏腹にタオーネの心は封じた澱みが溢れ出ないように硬く凍りつき、ひっそりと息を殺していた。




