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木偶の坊と魔術師が家族になったら  作者: 小峯ゆたた
第4章 魔王城の魔術師Ⅰ
53/58

教育方針

 魔大陸の夏は短い。

 過酷な環境にあるこの地は一年の多くを寒々しい風景のまま過ぎる。

 だが、夏の本当に短い一時(いっとき)だけは緑に溢れ、それまで隠されていた雄大な姿を見せる。

 旅の間に何度も目にしてきた茫洋たる草原や草木を靡かせる強い風の感触や匂いは、長くこの大陸を離れていた今でも鮮明に思い出すことができる。

 タオーネはまだ訪れていない夏の気配を探すように、自室の窓から外を見下ろした。

 そこは他国を見ても特に広大な大陸を統べる魔王が居城。

 その膝元とも言える美しい庭が広がっている。

 大陸の支配者が所持していることもあり、城の周辺は険しい環境である魔大陸だということを忘れてしまいそうになるほど、豊かな緑に溢れている。

 ほかの国から仕入れてきたという薔薇の蕾は今にもこぼれそうに膨らんでおり、もうじきに此処では特別な意味を持つ真紅の色をした花を披露してくれることだろう。

 植物の取り扱いに慣れているプフランツェの里の者たちが多く仕えているせいか、よく手入れされている庭を眺めながら、タオーネはそっと息を吐いた。


 一度は飛び出した城に戻ってきて数日。

 昼間は初日から機嫌を盛大に損ねてしまった王子を若き同僚トロイが主体となって――リーリエではまたしても泣かされて終わりであるし、早々に嫌われてしまったタオーネでは逆効果であった――宥めすかし、その合間に教育係として学習の準備をおこなって、ようやく授業を開始する段階にまでこぎつけた。

 順調な滑り出しとは到底言えないが、想定していた範囲内でもある。

 まだ本格的な仕事に取り掛かっているわけではないけれど、同僚たちともうまくやっていけそうであるし、昔の職場よりも居心地はよさそうだった。

 だが、問題は夜だった。

 情けないことに毎夜のごとく悪夢を見るのだ。

 おそらくは己の罪悪感から生み出されているそれはどうしても眠りを浅くする。

 とは言っても、仕事に私的なものを持ち込むことをタオーネは良しとしない。

 それに曲がりにもタオーネは治療魔術師だ。

 自身で調合した薬や魔術で己の体調を加減することはいくらでもできる。

 何事にも限度はあるが、当分はそういった方法をとり続けても問題ない。


 タオーネはもう一度、ふう、と息を吐き出した。

 眠気は既になかったけれど、教育係に任命されたその日の夜に泣いている王子を放ってしまったことが後ろめたく、仕事へ向かうのがいまだに少々気詰まりだった。

 しかし、そろそろ行かなければ。

 そう考え、気持ちを切り替えるために軽く自身の頬を叩くと、部屋の扉がコンコンコンと軽快な音を立てた。

 どうやら朝早くから来客のようだ。


「タオーネ・ハイルクラオトさま」

「はい」


 ノックに続いた呼び声に返事をして、けれど聞き慣れない声に最低限の警戒は保ちながら扉を開いた。

 すると、そこにはひとりの青年が立っていた。

 多種多様な特徴をもつ魔族の中で、彼は人族とそう変わらない見かけをしているが、頭で渦を巻く羊にも似たツノが紛れもなく同胞であることを示していた。

 仕立てのいい、しわひとつない服に身を包んだ青年は優雅な仕草で一礼すると温和そうな微笑を目元に湛えた。

 彼の胸元に金のピンで留められた美しい紫色のリボンを目にしたタオーネは、彼がどういった立場のものなのか目星をつけ、用件と問う。


「どうかされましたか?」

「お忙しいところ、失礼致します。グロル・ヘルシャフト卿がお呼びです」


 告げられた名はやはり知っているものだった。

 この城で働く者ならば誰だって知っている。

 だが、高貴な地位にあるその方にちょっとした苦手意識を持っているタオーネはにわかに心が重くなるのを感じた。


「それは、今ということですか?」

「はい。シュトルツ殿下のもとへお出向きになる前に、との仰せです」


 悪足掻きをするように問い返すものの、一寸の余地もない答えが返ってくるだけだった。

 気は乗らないが、タオーネもいい年をしたおとなだ。

 すぐさま肝を据え、わざわざ言伝を運んでくれた青年へ微笑みを返した。


「かしこまりました。この時間だと、ヘルシャフト卿は既に執務室にいらっしゃいますね? すぐに伺います」

「はっ。失礼致しました」


 ふたたび一礼して洗練された足どりで去っていく青年を見送り、タオーネは愛用の杖を手に取った。

 支度は既に済んでいる。

 タオーネはそのまま城の廊下へと出ると、扉の鍵を閉め、自室を後にした。

 向かう先は広大な魔大陸でも有数の血筋を引く、いわゆる貴族のひとりのもとである。




 広い城の中でも魔王の執務室に程近い、特別な一室。

 この中にタオーネを呼ぶ者がいるのだ。

 久方ぶりに感じる種類の緊張に体が硬くなっている。

 いくつになっても慣れないものだと内心で苦笑してしまう。

 大きく深呼吸し、ひと息ついて心を落ち着かせてから重厚な扉を叩き、自身の来訪を知らせた。


「失礼致します。タオーネ・ハイルクラオト、ただいま参りました」

「……お入りなさい」


 ゆったりとした深みのある独特の声音が入室の許可を告げた。

 その声に応え、音を立てぬように扉を開き、その隙間から部屋の中へ体を滑り込ませる。

 それから動きを止め、奥に構える立派な机へ体を向けると、タオーネは自分にできる最大限の礼儀を仕草に乗せて正式な礼を披露した。


「お久しぶりにございます、ヘルシャフト卿。ご挨拶が遅れ、申し訳ありません」


 無難な挨拶を口にし、顔を上げる。

 厳めしい机の向こうから知った顔が覗いていた。

 タオーネよりも幾分か高い位置にあるその顔は、鼻から顎にかけて厳重な仮面に覆われており、表情が読みにくい。

 しかし、感情を映さない両目、そして額に佇んでいる三つ目の瞳には年齢と強い疲労が滲んでいて、何処か陰気な印象を与えている。

 まるで枯れ木のようなその人はゆるりと忙しなさとは無縁な動きで席を立つと、緩慢な礼を返し、およそ六十年ぶりに交わす言葉を紡ぎ出した。


「……久しいですね、ハイルクラオト殿。……私もしばらく忙しく、城を留守にすることも多かったので、気にすることは何もありません」


 生まれながらに多くの人びとから敬られる貴族らしく、その声は重々しいが言葉の端々に気品というものが潜められているようだ。

 魔王に仕える大臣、グロル・ヘルシャフト。

 長い生を送る魔族からしても古くから代々の魔王へ忠誠を誓っているという家柄の彼は、その挙動のすべてが優雅そのもので、生まれついた家というものすら持っていないタオーネはほんの少し気後れしてしまう。

 奇妙な目玉のような紋様が刻まれた堅強な仮面で素顔を隠しているために、何を考えているのかさっぱりわからないことも、タオーネが彼を苦手とする要因となっていた。

 けれど、同じ屋根の下でこれから仕事をしていくのだから、そうも言っていられない。

 それに城内でも限りなく魔王に近しい地位にあるヘルシャフト卿は直接のものではないにしろ、タオーネの上司に当たる存在だろう。

 無礼な態度は許されない。

 タオーネは怯む気持ちを立て替え、さらに無難な言葉を選びながら話を続けた。


「……この度、改めて魔王さまにお仕えすることになりました。相変わらず至らない点も多いとは思いますが、今後もよろしくお願い致します。それで、その……私をお呼びになったご用件とは……?」


 恐る恐る訊いてみると、ヘルシャフト卿はやはり顔色ひとつ変えず、彼特有の間をとりながら本題に触れていく。


「いえ……大したことではないのですが……シュトルツ殿下の教育方針について、お話しておこうと思いまして……」


 話題は想像していた範疇のことだった。

 タオーネも遅かれ早かれいずれは王子の教育について何かしら指示が出るとは思っていた。

 自分たちの思い通りにできないのは不自由だが、一国の王子に教育を施すのだ。

 ましてや新たな教育係の誰しもが熟達した専門家とは言えないため、あらかじめ指示されることは妥当だろう。

 そう考えながら、タオーネはヘルシャフト卿の話に黙って耳を傾けた。


「あなたもご覧になったと思いますが……今や殿下は、城内の何人(なんびと)にも手がつけられない状態です……。情けないことに、これまで任命した教育係は皆、辞職し、本来は畑違いであるあなたにまで、お鉢がまわることになってしまいました」


 語られた内容は既に知っていることだったが、改めて小さな暴君の横暴な振る舞いを感じさせるものだった。

 よく見てみれば、王子について話すヘルシャフト卿の表情にも先ほどよりさらに疲れが滲み出ている気がする。

 これまでの彼の心労を慮りながらも、タオーネは己が本来は畑違いであるということから教育方針に関する指示を命じられるのだろうと予想した。

 だが、次に伝えられた言葉はその予想を裏切るものだった。


「……これから、多くのご苦労があるかと思います……。ですが……もはや、手段を選んでいる場合ではないことも、確かです……。そこで……この度、新たな教育係として、任命されたハイルクラオト殿に、教育内容、及び教育方法は、すべてお任せしようと思うのです」

「え……よろしいのですか?」


 思わず聞き返してしまう程度には、タオーネは驚きを顕にした。

 まさかすべてを任せてもらえるとは思っていなかった。

 曲がりにも王子を教育するというのに、素人任せでいいのだろうか。

 そんな疑問も浮かんだが、ヘルシャフト卿は緩慢に頷いて言い渡しが真実であることを示した。


「ええ……。細かいこと、小うるさいことは、申しません。ひとまず、殿下に勉学の意思が備わるまで、あなたの思うままに、お仕事されてください……」


 どうやら手のつけようのない王子は教育うんぬんの前に、机の前に座らせることのほうが難しいようだった。

 それはこの数日、件の男児を宥めることに注力したタオーネにもよく理解することができる。

 今日から授業を開始する予定ではあるが、一筋縄ではいかない予感もしている。

 己よりも長い時間を王子に割いてきただろう大臣も、そのことをよくわかっているのだろう。

 つまり、タオーネたちに期待されているのは教育内容ではなく、やはりシュトルツ王子の――言い方は少し大袈裟かもしれないが――更生なのだ。

 いささか拍子抜けではあったが、仕事としては上司にとやかく言われないということは申し分ない待遇である。

 タオーネはできる限り恭しく見えるように礼をして、了承の意を表した。


「かしこまりました。何処までお役に立てるかはわかりませんが、このタオーネ・ハイルクラオト、精いっぱいシュトルツ殿下が教育係を務めさせていただきます」

「それは……頼もしいですね……。何か必要なことがあったら、遠慮なく仰ってください……。……とは言っても、私は城を留守にすることが多いのですが……」


 仮面の下の本心こそよくわからないが、とりあえず話はまとまった。

 しかし、タオーネは職業柄、ヘルシャフト卿の言葉に反応せざるを得なかった。

 先ほども城をずっと留守にしていたと言っていたが、おそらく彼も魔王と同じように広い魔大陸を奔走しているのだろう。

 もとより皮膚の色がタオーネと同じように不健康に見られがちな色をしているヘルシャフト卿だが、その三つ目の周囲に根深く染みついている陰惨な隈は以前よりも濃くなっているように思える。

 最高級であろう、ゆったりとしたローブに隠れてはいるが、その体つきはお世辞にもたくましいとは言えない。

 治療魔術師として、タオーネは彼の体力や過労具合が気になった。


「お忙しいのですね。体調はいかがですか。私も治療魔術師の端くれですので、何か優れないところがございましたら、いつでもご相談にお乗りできるかと思いますが……」


 少し躊躇したけれど、思い切って診察を申し出る。

 かつて師から受け継いだ治療師としての矜持や理念がタオーネをそうさせたのだ。

 だが、大臣は特に感情を表すことなく、淡々と言った。


「ハイルクラオトの号を襲名されながら、端くれというのは……少々謙遜が過ぎるように思いますが……そうですね……その時が来たら、ご相談させてもらいましょう。それでは、私もそろそろ此処を発たねばならないので……」

「はい。わざわざお時間をいただき、ありがとうございました。失礼致します」


 どうやら出過ぎた真似だったようだ。

 言外に相談することはないと言うヘルシャフト卿に、タオーネは素直に従い、身を引いた。

 執務室から出る際に見た彼の顔はやはり仮面に隠され、その下の本心は結局、最後までわからず終いであった。

 本当に付き合いにくい。

 タオーネはそっと息を吐き、ほのかに重くなる心を誤魔化した。

 仕事はこれから始まるのだ。

 こんな浮かない顔で職場に向かうわけにはいかない。

 小さなしこりのように残った苦手意識を一旦飲みこんで、気持ちを切り替える。

 まだ昼にもならないというのに、今日はよく気持ちを切り替える日だなと他人事のように考えて、タオーネは同僚たちが待つ自身の職場へと向かったのだった。




※※※※※※※※※※




「おはようございます。遅くなって申し訳ありません」

「あっ! タオーネさま!」

「……どうかされたのですか?」


 教育係に割り当てられた事務室へ入った途端、何やら慌ただしい雰囲気を察してタオーネは首を傾げた。

 ヘルシャフト卿に呼ばれて遅くなったといえ、始業を予定していた時刻には及ばないというのに、空気がざわついている。

 問題が起きたことは明白だった。

 一応、困りきった顔の同僚たちに何事か訊ねてみたものの、彼らが落ち着かない様子でいる原因をタオーネは既になんとなく予想できた。


「あの……その……」

「ええっとですね……シュトルツ殿下のことなんですが……朝食を終えてから姿が見えないんです。多分、今日から授業が開始するということで、逃走されたのだと思われます」


 王子専属の侍女リーリエが自ら説明しようと思ったのか口を開いたが、オロオロとひどく狼狽えていて言葉にならず、代わりに若き教育者トロイが問いかけに答えた。

 その説明にタオーネはやっぱりかと内心で溜息をついた。

 あのわがまま放題の王子がおとなしく机に座るとは思っていなかったため、驚きはしない。

 一筋縄ではいかないことはわかりきっていた。


「……まぁ、想定範囲内ではありますね。では、私が探しに行きましょう。トロイさんは授業の準備、リーリエさんはご自分のお仕事をお進めになってください」

「あのっわ、私も探しに行きます!」


 この場で一番の年長者らしく冷静に指示を出すと、リーリエが思いつめた顔で捜索係を願い出た。

 おそらく王子の生活のほぼすべてを任されている彼女は、シュトルツの逃亡に責任を感じているのだろう。

 正直なところ、シュトルツは相手が誰であろうと逃げ出す気もするので、そんなに苦悩しなくてもいいと思うのだが。

 それに隠れた王子を見つけるのに大人数である必要はない。

 タオーネはやんわりと首を横に振り、可哀想な少女を安心させるように微笑んだ。


「それには及びませんよ。こういったことは慣れていますので、私にお任せください」


 冒険者時代に探し物の依頼も経験していることを踏まえてそう伝えると、リーリエはまだ心配そうではあるが、コクリと頷いてくれた。

 そんな彼女にもう一度微笑みかけ、話がまとまったことを確認すると、タオーネは事務室と外を繋ぐ窓のほうを振り向いた。

 硝子の扉のような大きな窓は室内に陽光を誘い込み、開放的な印象を与えている。

 その一番端。

 何枚も続く窓が途切れる壁との境目。

 タオーネはそこに先ほどから風にそよいで揺れる真紅と、その合間からピョコンと飛び出す漆黒の小さなツノを見ていた。


「さて、王子。さすがにそこは危険だと思うのですが……ひとりでお降りになれますか?」

「え?」

「え?」


 突拍子もない質問に同僚ふたりが疑問符を口にすると同時に、窓の外から「うわっバレた!」という声が聞こえてくる。

 続く慌ただしく滑り落ちるような音を捉えながら、タオーネは悠々と歩み寄って閉じていた窓を開放した。

 すると、美しく手入れされている庭の奥へ駆けていく小さな影が視界に入った。

 それをすぐに追いかけることはせず、周囲をぐるりと見渡すと、事務室の階上の部屋から丈夫そうな縄が地面に向けてぶら下げられているのを見つけた。

 上の部屋は確か魔王シャルラハロートの私的な書庫であったはずだ。

 彼女の息子であるシュトルツが忍び込めても不思議ではない。

 あとで管理者にこれからは王子の姿を書庫で見かけたら事務室まで連絡してもらえるよう、お願いしておこう。

 城の半ばの階であるとはいえ、結構な高さがある。

 万が一のことがあったら危険だ。

 とりあえず今後の対策を簡単に練って、タオーネはふたたび視線を紅の子が走り去った方向へ移した。

 ちょうど薔薇の繁みの向こう側へ隠れるところであった子どもを見送り、さもおかしそうに笑う。


「鬼ごっこ、ですか。幼少期はあまり友人というものに縁がなかったもので、魔物くらいしか追いかけたことがないのですが……この鬼役、精いっぱい務めさせていただきましょう」


 そう言って開いた窓から飛び降りる。

 背中でリーリエの小さな悲鳴を聞きながら、練り上げた魔力を変質させ、体に纏わせる。

 次の瞬間にはタオーネの脚は空を駆けていた。

 今度はやけに嬉しそうなトロイの歓声を背後に、飛ぶように見えない道を走った。

 頭の中には過去に追いかけた様々な魔物たちを思い出しながら、タオーネは己から逃げ切ろうと考えている王子を追いかけていった。

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