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木偶の坊と魔術師が家族になったら  作者: 小峯ゆたた
第3章 喧騒の街ヘイストル
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前を向こう

 深い眠りについていたドニは、清潔な古いシーツを目にしたとき、夢を見ているのだとまだ半分は無意識の中で泳いでいる頭で考えた。

 長く色のない中を漂っていたせいかすべてが目に染み入るようだ。

 遠くからは和やかな喧騒が聴こえてくる。

 何処かで何かを炒めているのか、食欲を刺激する香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

 目と耳と鼻がやけに現実味を帯びた感覚を拾う中で、寝惚けた頭はこれが夢ではないことを少しずつ認識していった。

 起きたくない。

 ドニは咄嗟にそう思ったけれど、温かい泥のような重みを伴う眠気に留まろうとしても、一度浮上し始めた意識は止まらない。

 随分と久しく感じる色づいた現実をぼんやりと眺めているうちに、視界の端、ドニの枕元にあの剣がそっと置かれていることに気がついた。

 研ぎ澄まされた氷柱のような、美しい白刃の剣。

 今は端麗な刃が漆黒の鞘に収められ、静けさを保っている。

 それでも呪いを纏うとされたその剣を目にしたことをきっかけに、昨晩の記憶がおぼろげに思い出されていく。


 歪な生を得た男の冷たい手の感触。

 すぐそばで感じた男の苦しみ。

 天に昇る光の粒たち。

 永遠とわの安息に導かれ、空へ帰っていった彼の魂。

 今度こそ完全に閉じきった、ドニの小さな世界。


 これでよかったのだ。

 ドニは何度も胸の内で呟いた。

 男が苦しみから解放された今、己を縛るものは何もなくなった。

 彼を救えたことは嬉しいことだった。

 けれど、心にぽっかりと穴が空いたような、冷え冷えとした喪失感がドニを凍えさせる。

 これからどうしたらいいのかわからない。

 ひとつの世界を失ったことが、ドニを暗闇に迷い込ませていた。

 凍りきった瞳のまま、縋るようにかつて同じ世界にあった剣へ手を伸ばす。

 すらりとした見かけのそれは、まるで空っぽになってしまったかのように軽かった。

 胸元に手繰り寄せ、柄に額を押し付ける。

 男の手に最も触れていたそこは今やその熱を忘れ、ひやりと冷たい。

 ドニはすっかり開ききった瞼をふたたび閉じて、耳を澄ませた。

 しかし、もはや何も聴こえず、本当にすべてが終わったのだとまたもや実感させられる。

 剣は何も言わない。

 この街に入り込んだときからずっと呼びかけてきたあの声はこの剣のものだったのだと、ドニは眠りにつく直前に気がついていた。

 死んだ主を呼び起こしてしまった呪剣は、自らの業による悲劇を終わらせたがっていたのだ。

 武器が意思を持つなんて聞いたこともなかったが、それでもドニは自分よりもずっと長い時を男に寄り添ってきた剣の声を聴いたのだ。

 だが、ともに同じ男に所持されていたドニを呼び、過去の因縁を断ち切らせ、主人の旅立ちを見届けた剣は今や深い眠りについたように黙りこくっている。

 自身の望んだ結果となったことに満足しながらも、ドニと同じように居場所を失ったそれは悲哀を感じさせる。

 ドニは喪失感という傷を舐めあうように剣の鞘を抱き寄せた。

 そうしていると、言葉はなくともお互いに共通している記憶を分かち合えるような気がした。

 しかし、剣は何も言わない。

 まるで主人の死とともに生きることを止めてしまったようだ。

 そんな姿が無性に悲しく映って、ドニはたまらない気持ちで剣を抱き締め、身を丸めるように強張らせた。

 涙は出なかったが、胸を掻き毟るような疼きが苦しくて仕方ない。

 息を吸うことも忘れ、横たわるシーツにしわを刻みながら、唇を噛む。

 あんなに恐ろしくつらかったはずなのに、自身の一部を切り離されたような感覚がドニを苛む。

 青褪めた顔を引きつらせ、やり場のない感情を持て余し、頭の中だけが活発に動きながらもぐちゃぐちゃと制御が利かないまま感情がもつれ続けた。

 だが、その時だった。

 

 こつん、と何かが唐突にドニの頭頂部に触れた。

 何処からか転がってきたらしい、微かな感触を伝えたそれをそっと手に取り、その正体を確かめるために自身の目の前まで運ぶ。

 掴んだ柔い拳を開くと、そこには小さな木彫りの豚がいた。

 バナーレ村を旅立つときにサラに貰った少し歪な形をしたお守りだ。

 アーサーとヘンリーが彫って、小さなサラが表情をつけた可愛いお守りがそこにはあった。

 それからドニはその豚があったと思われる場所の近くに、草色の小袋が遠慮がちに添えられていることにも気付いた。

 これはシェリィがあまりにも小さな豚の寝床として、わざわざつくってくれたものだった。

 友達たちがドニのために繕ってくれたふたつの品からは、何処かバナーレ村の風に含まれる木々や水面の匂いが漂ってくる気がする。

 小豚のお守りと小さくとも丈夫できれいな袋を見つめていたドニの視界が、じわりと滲んだ。


 ああ、そうだ。

 自分には彼らがいる。

 あののどかな村でタオーネと暮らし、友達と過ごした日々の記憶がハッキリと自身の中に刻み込まれている。

 暗い絶望から救い出された先、新たな世界がまだそこにある。


 ドニの瞳から熱い涙がつるりとこぼれ落ちた。

 一度こぼれたそれは止まることなく、次から次へと流れ出た。

 顔やベッドを濡らす涙を拭うこともせず、ドニは心に故郷を描いた。

 たった一年ぽっちしかいなかったけれど、バナーレ村は確かにドニの故郷であった。

 帰ることは叶わないかもしれないけれど、それでもあの村での出来事のすべてがかけがえのない宝物だった。

 その事実がドニにとある気付きをもたらしていた。

 いくら離れたとしてもバナーレ村が心にあるように、男に背負われ旅した道も、薄暗く狭いあばら家で震えた日々も消えたわけではない。

 形ある姿ではなくなってしまったが、今もちゃんと残っている。

 名も知らぬ男の存在はドニの中に根付き、ひっそりと息しているのだ。

 安堵の涙がポロポロと落ちていく。

 どんなに痛めつけられても、どんなに恐ろしい目にあっても、ドニは彼を忘れたくなかった。

 家族とは言えないけれど、かつて自分のすべてだった人。

 ひどく乱暴だったけれど、襲い来る獣や魔物から自分を守り、最後まで決して刃を向けなかった人。

 周りがどんな評価をしたとしても、ドニにはどうしても彼を嫌いになることはできなかった。

 だから、せめて己だけが彼を覚えていよう。

 決して忘れぬように、自らの根源として刻み付けていよう。

 だから、もう心配いらない。


 前を向こう。

 この先の何処かで、自分に新たな世界を与えてくれた優しい魔術師が待っているのだから。

 もうひとりの大切な人はまだ生きているのだから。

 死者との記憶を胸に秘め、前を向いて歩いていこう。


 唯一の忘れ形見である剣と故郷の面影を孕んだお守りたちを抱え、ドニは静かに泣き続けた。

 そして、その涙もやがては止まり、瞳はしっかりと生きた力を宿すときがくるのだった。




 もぞもぞと凝り固まった関節を伸ばすように起き上がる。

 とっくに部屋へ差し込む陽射しに慣れた眼にはもう涙はない。

 ひとしきり泣いてすでに心は落ち着いていた。

 胸元に剣とお守りを抱きかかえ、ベッドに座るように上体を持ち上げた。

 そうすることで自然と前を向いた視線の先に、壁に立てかけられたバトルアックスが入り込み、墓地で一旦は手放したそれが無事に手元へ戻ってきていることに安堵する。

 そういえば同室に泊まっているふたりはどうしているのだろうと思い、もう濡れていない目元を念のためゴシゴシと擦りながら宿の室内を見渡す。

 すると、ドニのベッドとは反対側のもっとも入口に近い、いかにも安物のベッドからカタンと小さな音が聞こえ、そちらに視線を向けた。

 そこには灰白色の毛皮に覆われた狼獣人の女剣士フアリが立っていた。

 見たところ、エルサリオンはいないようだ。

 どうやら彼女はずっとこの部屋にいたらしく、ドニが起きたことに反応して立ち上がったようだった。

 下手な誤魔化しは効かないほどに鋭い感覚を有するフアリを目にしたドニの脳裏に、以前眠れずに泣いていたところを怒鳴られた記憶が思い出される。

 フアリはドニが泣いていたことに気付いているはずだ。

 叱られる。

 咄嗟にそう思って身を竦ませる。

 

「起きたのか」


 淡々と答えを必要としない確認の言葉を投げかけてくる彼女に、恐々と小さく頷く。

 それから次に飛んでくるかもしれない叱責を構えて待つ。

 しかし、続けられたのは変わらず淡々とした声音だった。


「あいつは買い出しに行った。しばらくすりゃ戻ってくる」


 予期せぬ言葉にキョトンとした顔になったドニだったが、あいつというのはエルサリオンのことだと遅れて理解した。

 だが、うまく反応できずにいると、フアリはまだ状況が飲みこめていないのだと判断し、ドニが気絶するように眠ったあとのことを簡潔にまとめて説明を追加してくれる。


「お前はあの剣士のレブナントが消えたあと、気を失ったんだ。親玉が死んだことが関係してるんだろーが、ほかの魔物どももただの屍に戻った。その呪剣も回収して今日にでもギルドに持っていくらしい。アタシは墓場で寝てるお前を背負って宿まで戻って、お前は今までずっと寝てたってわけだ」

「あ……ありがとう、ございます」


 感情の読めない表情で語られる内容に申し訳なさを覚え、ドニは大きな体を小さくして謝罪の気持ちも込めて礼を述べた。

 現在のドニと同等程度に背丈のあるフアリでも、骨も太く重たい自分を背負って歩いたのは大変だっただろう。

 しかし、彼女はドニの言葉に応えず、ジッと何かを思案するような表情を見せる。

 しばしの沈黙を経て開かれた口から、やや躊躇を含んだ言葉が放たれた。


「……お前、あいつの言いつけを破っただろ」


 あいつ、というのはやはりエルサリオンのことだろう。

 ドニは瞬時に彼の手を振り切って逃げることを拒否した昨夜の出来事を思い出した。

 かつての主人を見送るためにエルサリオンの策に逆らったのは、ドニにしては随分と大胆だった。

 今でもその選択が正しかったと確信しているが、客観的に見ると無謀でしかないこともわかる。

 そして、フアリはその無謀さに眉を曇らせているのだった。


「あいつは逃げろって言ったのに、お前は従わなかった。今回はどういうわけか丸く収まったが、下手に指揮に逆らうやつは早死にする。リオンに止められてなかったらアタシはお前をぶん殴ってるよ」


 厳しいことを言われ、ドニは萎縮しそうになるが、彼女の顔と言葉のどちらにも感情の荒波は感じ取れない。

 高ぶることなく静かに言い聞かせられる戒めは直球そのもので、ドニの胸に抵抗する暇もなく刺さるが、不思議と痛みはほとんど感じなかった。

 しかし、ドニがきちんと聞いていることを確かめた彼女は眼光と語調をほんの少し強め、念を押すように話を締めくくる。


「アタシらは一緒に旅してんだ。勝手な行動はこれ以上許さねぇ。これから足を引っ張るようなら何処だろうが置いていくからな」


 バナーレ村でも告げられた警告。

 改めて釘を刺されたドニはしょんぼりと肩を落とし、素直にその忠告を聞き入れた。

 これからの旅路で臆病で意気地のない自分が彼女たちに逆らうことはもうないと思われたが、今回かけてしまった迷惑を自覚して申し訳ないという気持ちが強まる。

 見るからに気落ちした様子に、フアリが困ったように視線を彷徨わせたが、彼女の足元を見つめていたドニは気付かない。

 またしても気まずげな沈黙がふたりの間に流れた。

 だが、それは長くは続かなかった。

 気詰まりな空気から逃れるように、フアリがごくごく小さな声で呟くように付け足す。


「……餓鬼はおとなの後ろで守られてりゃいいんだ。わかったな」


 その言葉には微かな思いやりのようなものが窺えた。

 不器用で、粗雑ではあるが、彼女が初めて見える形で示した優しさにドニはバッと顔を上げた。

 まさか彼女からそういった言葉をかけられるとは思ってもみなかった。

 タオーネに拾われて以降、ぐんぐんと伸びた身長のせいでもはや子どもには見えない自分を守る対象として見てくれているのだ。

 驚きにパチパチと目を瞬かせ、遅れてじんわりとした温かさが胸に広がる。

 こそばゆくて、嬉しい。

 彼女はドニのことを心配してくれているのだとハッキリとわかった。

 でも、驚きも強くて何も言えずにいると、フアリは眉間にしわを寄せて不機嫌そうに唸った。


「おい、アタシはわかったか訊いてんだよ」

「あ……ごめ……わ、わかった」


 瞬時に謝ろうとしたドニだったが、彼女の顔がさらに険しくなるのを見てすぐさま首を縦に振った。

 カクカクと頭を揺らすドニを見た彼女はフンと鼻を鳴らし、そっぽを向いた。

 機嫌を損ねたように振る舞ってはいるが、何処かわざとらしい。

 それが照れからくるものだということはドニにも容易に見当がついた。

 だが、そのことをわざわざ口に出して指摘する意味もない。

 ふたたび沈黙がふたりを包んだが、先ほどのように気まずいものではなく、むず痒さを感じるもので決して嫌な気分ではない。

 むしろ和やかささえ含んでいる空気にフアリの眉間のしわも徐々に弛んでいく。

 ドニももじもじしながら腕に抱えた剣を抱き締める。

 自分の気持ちが鞘を通して刃に染み込み、この剣の悲しみを少しでも和らげることができるかもしれないと頭の片隅で考えた。

 そうしてふたりで無言のまま時間の流れに身を任せていると、やがて扉の向こうから軽やかな足音が静寂に割り込んできた。

 その足音はすぐにドニたちのいる部屋の前まで辿りつき、扉を開けると同時に明るい声音が飛び込んでくる。


「たっだいま~。ドニくん起きたー?」


 いつもと変わらない様子のエルサリオンがひょっこりと顔を覗かせ、ニッコリと笑った。

 彼は薄い体で部屋の中へ滑り込むと、室内を覆っていた妙な雰囲気に気付いて首を傾げた。


「ん? 何してたの?」

「説教」

「あらー可哀想に。フーちゃんの顔は怖いからお説教も倍の怖さ……痛い!」


 すぐにふざけるエルサリオンの肩に、もはやお決まりのフアリの拳が飛んだ。

 制裁された彼は「冗談なのに……」と痛がる素振りを見せながらも、その瞳は悪戯っぽい光を宿していた。

 そんなおとなたちのじゃれ合いを眺めていると、それまでフアリを注目していたエルサリオンが自然な動作でドニへ視線を移し、ふわりと微笑んだ。


「ドニくん、おはよう。昨日は大変だったね」

「ご、ごめんなさい……」


 かけられた言葉はあくまでさりげない挨拶であったが、昨日と言われたことでドニの頭には己が昨夜しでかした反抗的な態度がすぐさま思い出され、咄嗟に消え入りそうな声で謝罪する。

 エルサリオンが怒るところは想像できなかったが、自分の非を理解しているドニはまたもや小さくなってしまった。

 エルフの魔術師はそんなドニのもとへ歩み寄ると、俯く顔を覗き込むように身を屈めた。

 おずおずと目線を合わせると、やはり彼の表情や纏う空気に怒りは感じられなかった。

 彼は持ち前の穏やかさを損なうことなく微笑すら湛え、ドニに話しかけてくる。


「フーちゃんにお説教されたなら、きっと僕が言うことは何もないと思うけど……これからはせめて、危ないことをする前に僕にお話してくれるかな? 相談してくれたら、一緒に考えることもできるしさ」


 彼は怒っていなかった。

 むしろドニに寄り添い、力になるとまで言ってくれている。

 それが嬉しいと同時にやっぱり今回のことが申し訳なくて、ドニは頷いて小さな声で応える。


「……うん。ご、ごめんね」

「そんなに謝らなくてもいいよ。ドニくんのおかげで依頼達成できたようなものだからね」


 そう言って笑うと、エルサリオンはドニの寝ぐせがついたままの髪をくしゃりと撫でた。

 ドニはそれでもまだ心苦しい想いであったが、彼はこの話はこれでおしまいだと言わんばかりに軽快に手を二度叩くと、明るく陽気な調子で話をまとめ、転換した。


「そういうわけで、依頼も無事に終わったことだし、ご飯を食べたらギルドに行こうか。これからの旅のために、本登録して冒険者にならなくちゃね!」


 彼の言葉にハッとする。

 ドニは依頼を達成したのだから冒険者ギルドへ報告し、本登録をしなければならなかった。

 旅を続ける上で冒険者であることは大いに助けになるとエルサリオンから教わっていたため、その必要性はわかっている。

 けれど、冒険者ギルドへ向かうということは今抱えているこの剣も持っていくということだ。

 今回の死霊騒ぎの発端とされる剣がどういった扱いをされるのか、ドニは考えたくなかった。

 できることなら男の形見とも言え、己にとっても唯一の記憶を共有できる剣を手放したくない。

 この寂しさを鞘の中に閉じ込めた剣を独りぼっちにしてはいけないのだ。

 そう言いたかったが、ドニにはそれが自分の我儘なのか、それとも揺るぎない使命なのかわからなかった。

 これ以上、旅の同行者たちに迷惑をかけてはいけないという考えも混じり合い、開きかけた口を噤む。

 どうしたらいいのかわからず、剣を抱き締め、柄に頬を寄せる。

 もしかしたらお別れになってしまうかもしれない。

 そんな不安を前に、ドニは剣の声に耳を傾けた。

 君はどうしたらいいと思う?と言葉なく問いかける。

 しかし、殻に閉じこもった剣は答えず、沈黙を守ったままヒヤリとした感触をドニに伝えるだけだった。

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