過去と向き合おう
深夜の墓場の闇の中。
三日月の光に照らされた死人の肌が青白く浮き上がり、目を離せない。
ゆらりゆらりと緩慢に歩く男を前に、ドニは息をすることすらも忘れて立ち尽くした。
血の通っていない、どす黒い隈が染みついている顔は紛れもなく死者のものだ。
けれど、こちらを睨む冷たい眼も、月光に妖しく照らされる白刃も、間違いなくドニが知る彼そのものであった。
ああ、と音にならない吐息がこぼれる。
自分でも何故かはわからないが、おぞましさすら帯びている男のもとへ駆け寄りたいという衝動が体の中を駆け巡る。
うんと小さな頃ですら、抱き上げられたことも頭を撫でられたこともないというのに、ドニの肉体は彼の後ろの、視界にすら入らないその場所に戻ろうとしていた。
ずっと、本当に長い間そうしてきたように、剣がいずれは鞘に戻るように。
それでも、己のすべてを支える足だけは恐怖を忘れていないようで、凍りついたように動かない。
心だけが火に飛び込む羽虫のように、燃え尽きることなど考えもせず愚鈍なまでに真っ直ぐ飛びたがった。
「帰参者か。思ってたより厄介なのが出てきたな」
背後からエルサリオンの呟きが聞こえ、ドニは忘却しかけた現状をやっと思い出す。
主人の姿をした亡者は、月明りによって照らされた道をゆっくりと自身の脚で歩いてくる。
その姿はほかの死霊たちとは大きく異なっていた。
肉を失ったスケルトンやゴースト、傷んだ肉体に縋りついているようなゾンビとは明らかに違う。
まるで死んだことが神の手違いであったとでも言うように、不遜に力強く歪んだ生を身体に宿している。
ドニはレブナントというものを知らなかったが、それがありふれた魔物でないことはすぐに理解できた。
この場で誰よりも聡明なエルフは瞬時に男の危険度を察知し、即座に自分たちでは荷が重すぎると認め、すぐさま声を張り上げた。
「よし、一旦撤退するよ! フーちゃんも撤退! このお札じゃ無理!! 僕が魔術で足止めするから逃げるよー!」
潔い宣言にフアリが小さく舌打ちし、輪郭のあやふやなゴーストを斬りつけると、ひらりと身を翻して進むべき方向を修正した。
それを確認したエルサリオンは珍しく早急に、今度は目の前に突っ立っているドニをせっついた。
「さあ、ドニくんも。 魔術で支援するから昼間みたいに走って!」
陽が高く出ていた時間に路地裏で聞いた呪文が早口に唱えられる。
それから裏町を一緒に駆け抜いたときと同じように、手をとられた。
彼の頭の中ではこれからの作戦が練り直され、再構築されている最中なのだろう。
それはきっと一番安全で、依頼を達成するには最も確かな選択であることをドニは知っていた。
ドニには想像もつかないほどの知を持つ魔術師の弟子は、やはり聡明で賢いのだと此処までの道でよくわかっていた。
だけれど、
「おれ、行かない」
「えっ……?」
引っ張られ、よろめく体を足をしっかりと踏ん張ることでどうにか止め、握られた手を控えめに振りほどく。
思わぬ抵抗を受けたエルサリオンは呆けたような声をあげ、一瞬、目を見開いて動揺を顕にした。
彼のそんな表情を見て胸に微かな痛みが走ったが、それはすぐに思い出された自分のやるべきことを前に流れ去っていった。
ドニは今、此処で、過去と向き合わなければならない。
理屈や言葉では説明することはできないけれど、ドニでなければ解決できない問題が此処にはあるのだ。
だから、逃げることはできない。
自分の意思で退路を断ち、いまだに動揺を収拾できずにいるエルサリオンへ何か言葉をかけようと口を開きかけたその時。
フアリの怒号が響く。
「おい!! リオン!!」
「え……うわぁ!?」
相棒の呼びかけにハッと正気を取り戻したエルサリオンの軽い体が、突如、後ろへと吹き飛ばされた。
おとなというには華奢な薄い肉体が、墓石に添えられるようにして植えられている植木に打ちつけられる。
その様子を目で追っていたドニは何が起きたのか瞬時には理解できなかった。
だが、鼓膜が震え、ふたつの刃がぶつかり合った音の余韻を示していた。
魔物と化した己の主人が彼に斬撃を飛ばしたのだ。
何度か目にしたことのある戦いをもとにそう結論付けると、ドニの顔から見る見るうちに血の気が引いていく。
化け物じみた男の剣技をよく知るドニはエルサリオンを案じ、咄嗟に彼の名を叫ぶ。
「リ、リオン……!」
「チィッ……!」
フアリが焦りのままに舌打ちし、こちらに駆けつけようと走りだす。
しかし、墓場の住人たちは倒しても倒しても湧き出ては彼女の行く手を阻む。
もつれるような足止めを受け、彼女は余裕なく苛立ち、吼えた。
「くそっ!! おい、てめぇどういうつもりだ!! さっさと逃げろ!!」
「けほっ……ドニくん!!」
フアリの怒鳴り声に続くようにして、地面を転げていたエルサリオンも咳き込みながら叫んだ。
すぐに立ち上がって杖を構えた彼は、見たところ大きな怪我をしていない。
おそらくは直前で魔術を用いて斬撃の威力を和らげたのだろう。
ドニは大事ない彼の姿に安心したが、蘇った男は着実に距離を詰めており、もう少しでふたたびエルサリオンやフアリへ斬撃を飛ばせるまでの位置へ達する。
そうなる前に引き離せれば、ふたりはきっともう大丈夫だ。
ずっと手にしていたバトルアックスをそっと地面に横たえる。
今は、これは必要ない。
緊張や恐怖、それから微かな喜びが絡み合った奇怪な心持ちの中、焦燥に声を張り上げるおとなたちへ向かってドニは生真面目に頷いてみせた。
「お、おれ、だいじょうぶ」
またしても驚愕に見開かれるエルサリオンの大きな眼から視線を外し、ドニは向かってくる男に対峙すべく歩み出した。
背後でエルサリオンが何度も名を呼んでいるが、聞こえないふりをする。
ドニの目は死んだ主人だけを捉えていた。
彼もドニが自分を出迎えるつもりだと理解したのか、覚束ない脚をゆっくりと動かし、暗く陰った瞳で己の幼い奴隷を見据えた。
そのふらつくようで隙のない足取りが、その片腕にぶら下げられた剣が、男と過ごしたこれまでの記憶を蘇らせる。
まだ満足に歩くこともできなかった頃、男に背負われて目にした血飛沫。
一切の慈悲なく獣も、魔物も、人さえも斬り殺していく妖しい刃の輝き。
時おりいつも以上に憎悪を沸々と宿し、自分を睨む冷たい眼。
酒の匂いを常に纏わせるようになったのは、この街に定住するようになってからだっただろうか。
家でも酒を切らしたことはなく、夜になるとふらりと何処かへ出掛けていく後ろ姿。
きっとあの気だるげな女主人が営む酒場に出向いていたのだろう。
朝日が昇る前に帰ってきて、彼が眠りにつくまで息を殺して部屋の隅で震えていたこともあった。
うっかり怯えた眼差しを向ければ、一晩中折檻を強いられた。
時には殴られない日もあったが、大抵は男の気まぐれのままに痛めつけられた。
苛烈な暴力に支配された、温もりのない日々。
それが、ドニのすべてだった。
カツンと小さな音を立て、靴の踵が小石を踏み、止まる。
かつて世界のすべてであった男が目の前に立っていた。
突然の別れから一年以上経ち、こうして並んでみると、何よりも大きく絶対的な存在であったその男がお世辞にも背が高いとは言えないことに気付く。
だが、それでも彼が発する息の詰まりそうな威圧感は変わっていない。
奇妙な導きのもと再会した主人と奴隷の間に、言葉はない。
沈黙は保たれたままだった。
男が恐ろしい斬撃を飛ばす不思議で美しい剣を手放した。
この街で呪剣と呼ばれたそれは、自身の主に従うように、抵抗なくまるでバターを切り分けるナイフのように地面へ突き刺さる。
その様子を無意識に目で追いかけていたドニは、男の両腕が自分の喉元に伸びてきてもさほど驚かなかった。
「ぐっ……!」
それまで剣を握っていた節くれ立った手で、猛毒のように蓄積した怨恨を源とした容赦のない力で、骨がギリギリと音を立てるほどに首を締めあげられる。
見る間にドニの顔は鬱血し、本能的に空気を求めて口がパクパクと喘いだ。
頭が破裂しそうな鈍痛が伴う中、エルサリオンが何かを叫んだ。
しかし、それはもはやドニには判別がつかない。
憎々しげに歪められた男の生気のない黄ばんだ顔だけが見えていた。
掌に込められた力は際限などないかのようにどんどん強まっていく。
視界の端に静かに佇む剣を捉えながら、ドニは命を危ぶまれる状態にも関わらず、酸欠によって霞む頭で懐かしさを感じていた。
彼はドニに暴力を振るうときは常に素手だった。
もはや彼の半身とも言える剣がドニを傷つけたのは、勝手に触れてしまったそのときだけだ。
いつだって酒に酔い、感情の昂りに比例するような男の熱を叩きつけられていた。
一度は死んでしまった男の手は、いまやぞっとするほどに冷えきっているが、それでもドニは懐かしかった。
魔物と化してしまった今でも、彼がドニのことを覚えているという何よりの証だった。
失ってしまったはずの世界は此処にあった。
彼と剣は、ずっとこの墓地でドニを待っていたのだ。
呼吸ができない苦しさのせいか、滲む視界で男を見つめる。
男の肩越しにひっそりと三日月が浮かぶ夜空が見えて、いつの間にか地面へ倒されていたことにようやく気がついた。
後頭部や背中に倒れた衝撃の痕跡を感じつつ、ドニはやはり瞼を閉じることなく男を見つめ続けた。
すると、それまできつく結ばれていた彼の唇が煩わしげにとある言葉を描いた。
“木偶の坊”
声を伴うことはなかったけれど、男は確かにドニを呼んだ。
人の名には相応しくないと、優しい魔術師によってやんわり捨て去られた己を示す言葉。
それが罵る目的を持っていることには、とっくに気付いていた。
それでも、それはずっとドニとともにあったものだった。
もはや傷つくはずもない。
だが、そう呼ばれることに懐かしさは覚えても、何処か小さな違和感を拭うことはできなかった。
何故だろうと考えたとき、頭に浮かぶのはタオーネの姿だった。
ドニという名をくれた、本当に優しい人。
狭く暗い世界から日の当たる場所へ連れ出してくれた、大切な人。
彼と一緒に暮らした世界は暖かく、とても明るいところだった。
タオーネを皮切りに、アーサーにヘンリー、シェリィやサラ、ニコラスの姿が次々に浮かび上がる。
サラの大事な木彫り人形のアミィも忘れてはいけない。
友達や大好きな人たちと過ごした日々が、春の日差しのように流れ込んでくる。
平和な村の美しい景色、一緒に笑い合った友達、優しくて頼りになるおとなたち。
そんな幸せな光景が、綿毛のようにドニのもとへ降り注ぐ。
それがいわゆる走馬燈というものだとはドニは知らなかったけれど、幸福に満たされた記憶に浸り、眠気の波に今にも攫われそうになっていた。
恍惚ともいえる暖かさに身を沈めろと誰かがささやいた。
靄のような曖昧な意識で微睡む。
だが、いざ眠気に身を任せようとしたそのとき、誰かが強くドニを呼んだ。
目を開けろ。向き合え。
その声は確かにそう言った。
すぐそばから聴こえる声に従い、ドニはとろりととろけた瞼を持ち上げた。
そこには最も長い時をともにした冷酷な男がいた。
この世のすべてに抱く憎悪をドニひとりに向け、疲労と酒でむくんだ顔を歪める男。
ドニの世界そのものであり、恐怖の象徴であった絶対的支配者。
お互いの息遣いだけが響いた狭い檻のようなあの世界は、今でもドニの心の奥底に巣食い、忘れることのできぬ恐怖の毒を撒き散らす。
けれど、今は。
太陽に照らされた広い空の下の世界を、幸せというものを知ったドニには、恐怖の奥深くに隠されたものが、はっきりと見えた。
激しくおどろおどろしい憎しみの裏には、深く身を切り裂くような痛みにも似た絶望を。
止むことのない暴力や暴言の裏には、行き場のない悲痛を。
ドニは確かに見たのだった。
恐怖の権化であるはずの主人は、孤独で哀しいひとりの男に過ぎなかったのだ。
気付いたときには、ドニは鉛のように重い腕を持ち上げ、彼の頬へ触れていた。
掌に無精ひげがチクチクと刺さった。
長いこと一緒にいたというのに、こうやって触れることは初めてだった。
それどころか男の名も知らぬドニはただ彼の頬をひと撫でし、名を呼ぶ代わりに哀しみを潜ませた眼をジッと見つめた。
内側に隠された悲痛と絶望を分かち合うかのように、ただ見つめ続けた。
そうして見つめあっているうちに、男の澱んだ瞳に映る姿を見て、ドニは自分が微笑んでいることを知った。
その微笑はすべてを包み込むような、優しく分け隔てなく慈しむものだった。
あの優しい魔術師が、怯える自分を癒したように、ドニは哀れな男へ微笑みかけていた。
ドニは自身を虐げ、見えない鎖に繋いだ男を、すでに許していた。
いつの間にか、絞められていたはずの首は解放されていた。
苦しげに戦慄いた男の唇が、誰かを呼ぶ。
「 」
音のないその名は、ドニの知らない者のものだ。
だが、男にとってかけがいのない者なのだろう。
彼は自分を通してその者の姿を見ている。
瞬時にそれを理解したドニは両手で男の顔を包み込み、微笑った。
哀れで寂しいこの男が、せめて最期は安らかであるように。
男が呻く。
焦点の合わない眼が揺れ、ドニの瞳に誰かを見出し、置いてけぼりにされた子どものように呆然と佇んでいる。
ドニは心の中からそっと語りかけた。
大丈夫。
もう苦しまなくていいんだよ。
これで、終わりにしよう。
かつて閉鎖された小さな世界を共有していた男と幼子は、果てしなく永遠に続く時の流れの中で、静かに見つめ合った。
ふたりっきりの世界で、最初で最後の穏やかな時間。
そんな静寂に満ちた空間も、やがて幕を閉じる。
男が音もなく瞼を下ろした。
深く刻みついた眉間のしわは消えることはなかったが、彼の凪いだ心が伝わってくる。
さようなら。
ドニのささやきは彼に届いたようだった。
男の体が淡い光に包まれた。
輪郭は闇に滲み、肉体は光と混ざり合い、いつの日か見た夏に生きる虫のように空を舞う。
光の粒子となって、男が天上へ昇っていく。
空へ帰り、星になろうとささやかに瞬く光が今、ドニのもとから旅立とうとしていた。
さようなら。
ドニはもう一度ささやいた。
肉体から解き放たれつつある魂の安寧を祈りながら、別れを告げた。
かろうじて形を保っていた男の姿が頼りなく揺れる。
しかし、暖かな光に包まれ、光そのものとなった彼は、ようやく現れた安息の地を真っ直ぐに目指していた。
真っ直ぐに、真っ直ぐに、ただ上空を目指していた。
そして、もはや残像とも言えるその光の影も次第に薄れ、すべてが天へ去った。
男の姿はもうどこにもない。
倒れたまま空を仰ぐドニを覆いつくすように散らばった、土にまみれた骨だけが残され、男がこの世にあったことを示していた。
風がゴオッと不浄なものを洗い流すかのように吹き抜けていく。
いつしか墓地は静寂を取り戻していた。
ドニの目に地面へ突き刺された一振りの剣が映る。
剣はふたたび持ち主を失い、寂しげな面持ちでそこにあった。
呪剣と噂された面影はもうどこにもなかった。
すべてが終わったのだ。
幾度にも絡みつき、終末を望んでいた過去の因縁がようやく終わったのだ。
呼び声はもう聴こえない。
やり遂げたという確かな実感とともに眠気が戻ってきた。
今度はそれを妨げるものはいない。
ドニはゆるゆると瞼をとろけさせ、意識を闇へと沈めた。
誰かが駆けつけてくる足音と何度も呼ばれる自分の名を聞きながら、色のない夢の扉を開いた。
その先に、死んだ男の背中を見た気がした。




