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木偶の坊と魔術師が家族になったら  作者: 小峯ゆたた
第3章 喧騒の街ヘイストル
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ギルドに登録しよう

 簡単な検問を終え、石壁を越えると、そこは前に目にしたときと変わらぬように思えた。

 馬車の荷台からこっそりと周囲を覗き見て、ドニは妙な緊張感に顔を強張らせた。

 この街の何処かで暮らしていたときは町中を歩き回ることなどなかったが、タオーネに連れられて外へと足を踏み出した際に見た景色がそこかしこに重なって蘇る。

 間違いなく、このヘイストルという街はドニが住んでいた地であった。

 前の飼い主によって家に閉じ込められていたときは遠くに人の気配を感じるだけだったが、此処は随分と賑やかなように感じる。

 のどかなバナーレ村とはまったく様子が異なる。

 きちんと整備された道は馬車が通ってもガタガタとひどくは揺れず、行き交う人々も旅人や商人などさまざまな身なりの者がいる。

 あちらこちらで言葉を交わす者たちの声がひっきりなしに聴こえてきては過ぎ去っていく。

 しばしそんな忙しない情景を眺めていたドニだったが、頭がクラクラとしてきたのを感じて荷台の奥に頭を引っ込めた。

 身の置き場のないような息苦しさが胸を突いていた。

 この街にはすでにドニが帰る場所なんてない。

 だというのに、過去の陽炎かげろうが己を待ち続けているような気がして、少し怖かった。

 だが、心を落ち着かせようと荷台の床を見つめている合間にも、フアリが操る馬車はのんびりと歩んでいく。


 やがて馬の脚が止まり、言われるがままに荷物を抱えて外へ出ると、そこはどうやら宿屋であるようだった。

 馬車を預けることもできるらしく、馬の手綱を引いていくフアリに追いやられ、ドニは宿に入っていくエルサリオンの後に続くしかなかった。

 オロオロとしながら宿屋の主人と交渉するエルサリオンを待っていると、宿の中からも見える往来にはやはり多くの人たちが行き来していて、なんだか居心地が悪い。

 過ぎる時間がやけに長く感じる。

 たらたらと冷や汗をかいて棒立ちになって苦しい時間を耐えていると、ローブのフードで特徴的な耳を隠したエルフの魔術師が交渉を終わらせたらしい。

 大きく数字が刻まれた札を手にして戻ってきた彼は、自分よりも大柄なドニの手を引いて宿屋の奥へと進み、とある部屋の扉を開くとそこに荷物を置いた。

 今晩はこの部屋に泊まるようだ。

 ドニもエルサリオンに倣って自身が抱えていた荷物を床へ降ろした。

 途端に手持ち無沙汰になった手で、落ち着きなさげにシャツの胸元を掴むと、重たい荷から解放されてぐーっと背筋を伸ばしていたエルサリオンが穏やかな笑顔でドニの顔を覗き込む。


「今日の寝床は確保したし、まずは冒険者ギルドに行こうかなーって思ってるけど、ドニくんは大丈夫? なんか顔色が悪いような」


 そう問いながら、彼はドニの額に掌を重ねた。

 急なことにぎょっとしたドニは体を固まらせてしまったが、エルサリオンは構わずに話し続ける。


「うーん。熱はないみたいだし、ご飯もちゃんと食べたよねぇ? 大きな街で緊張しちゃった?」


 空いている手の人差し指で自身の頬をつつきながら、治療魔術師は目の前の患者の容態を探っていく。

 しかし、ドニは首を振ることすらできずに恐々とエルサリオンを上目に見た。

 彼は額に置いていた手を動かし、今度はドニの髪をわしわしと撫で、矢継ぎ早に言葉を重ねていった。


「昨日はあまり眠れなかったかな? どうする? 今日は宿屋さんで休んで、ギルドに行くのは明日にしようか? 僕らの用事は僕らだけで済ませられるし、冒険者ギルドにはドニくんも登録したほうがいいだろうけど、この街から出るまでにやればいいんだし」


 その労わりのこもった提案に少し心が揺れるが、ちょうどそこに馬を預け終わったらしいフアリがやってきたことで、思わず頷きそうになった頭を寸でで留めた。

 エルサリオンの言葉でドニの調子が万全でないことを察した彼女は壁に寄りかかり、腕を組んでこちらを静観している。

 その眼から厳しい感情を読み取ることはなかったが、この狼人族が何を考えているのかもわからない。

 ドニは彼女の姿を目にしたことで昨晩の記憶を蘇らせ、できるだけ彼女らの迷惑にならないようにしようと心新たに決意したことを思い出した。

 ならば、早々にギルドへ向かうという予定を邪魔するわけにもいかないだろう。

 硬くなっていた首をぎこちなく横に振り、ドニは声を振り絞って答えた。


「おれ、だいじょうぶ。行く」

「ほんと? 具合が悪かったらすぐに言ってよ?」


 微笑みつつも心配そうな顔をしたエルサリオンに、小さくこくりと頷く。

 事実、息苦しさは感じるもののそれは倒れそうなほどでもなく、ジッと堪えられる質のものだ。

 自身の体が異様に頑丈なことをドニは知っていた。

 夜にはこの部屋へ戻ってこられるはずなのだから、きっと大丈夫だ

 意を決して顔を上げると、それまで黙っていたフアリがぶっきらぼうに男たちを急かした。


「おい、行くならさっさと行かねぇか。日が暮れちまう」

「はいはい。フーちゃんはせっかちだなぁ」

「ああ?」


 軽口を叩くエルサリオンとそんな彼の肩を軽く小突くフアリの後ろに遠慮がちに続いて、ドニは部屋を後にした。

 臆病な胸は相変わらずドキドキと不安がっていたが、そう背丈が変わらないふたりの背後に隠れるようにして、広い街へ足を踏み出したのだった。




※※※※※※※※※※




 慣れない町中を歩いていき、やっとの想いで辿りついた冒険者ギルドは何処か荒っぽい印象であった。

 出入りする冒険者たちの雰囲気がそう感じさせるのか、はたまた飾り気のない武骨な外観によるものなのかはドニには判別できない。

 一切の躊躇なくギルドへと足を踏み入れるエルサリオンに続き、恐る恐る開けっ放しの扉をくぐる。

 すると一瞬、多くの視線が向けられて体が竦みそうになるが、それはすぐに霧散してガヤガヤとした喧騒の中に消えていった。


「ドニくんは僕かフーちゃんのそばにいてね」


 フードを目深に被ったエルサリオンにそう言われ、ドニは小さく頷くと、変わらずにふたりの後ろをついて歩いた。

 できるだけ人の視界に入り込まないように大きな図体を縮こまらせて建物の奥へと進む。

 前を歩くふたりが真っ直ぐに向かった先にはカウンターが並んでおり、ギルドの職員と思わしき女性たちが待ち受けていた。

 エルサリオンはその中のひとりにニッコリと笑いかけると、人好きのする朗らかな調子で声をかけた。


「こんにちは、お姉さん! 僕らは三級冒険者のリオンと六級冒険者のフアリ・レアンだけど、此処の支部長さんはいるかな? 王国騎士団の件って言えばわかると思うんだけど……」


 気さくに用件を告げるエルサリオンに若い受付嬢は感じのいい微笑を見せ、「少々お待ちください」と言うと席を立って奥へと引っ込んでいった。

 その場で待たされることになった一行は、悪目立ちしないようにカウンターへ身を寄せ、静かに受付嬢の帰りを待つ。

 フアリは黙って佇み、エルサリオンも耳を見られないように自然な様相で顔を伏せて床を眺めている。

 手持ち無沙汰になったドニはチラリと視線をギルド内へ泳がせてみた。

 ざっと見たところ、冒険者は人族の者が多いようだ。

 チラホラと獣人族は見かけるが、そう多くはない。

 自分がともに暮らした魔術師のような魔族は見当たらない。

 そのことを少し残念に思いながら視線を足元へ移すと、ちょうどそこへ先ほどの受付嬢が戻ってきた。

 彼女はカウンターの戸になっている部分を開くと「こちらへどうぞ」と三人を促し、ふたたび奥へと歩いていった。

 ドニもおとなたちが進むのに合わせて足を動かした。

 そう長くない距離を歩いて、一番奥の部屋へ案内される。

 受付嬢はその部屋の扉を開くと、エルサリオンへ向けてニコッと笑って去っていった。

 そんな彼女に小さく手を振るエルサリオンを無視して、ズンズンと進んでいくフアリに続いてドニも室内へ入った。

 すると、髭に埋もれた顔のたくましい体つきをした老人が飾り気のない質素なソファーに座って、三人を待ち受けていた。

 老人は髭の中でニッと歯を見せて笑い、来客を迎え入れた。


「おう、お前さんたちか。話は聞いとるよ」

「支部長さん、こんにちは~! 今日は王国騎士たちの素行について報告をしにきましたー!」


 遅れて入室したエルサリオンが元気よく挨拶し、真っ先に適当な席に座る。

 フアリもすぐに入口に程近い椅子へ腰を下ろして浅く座った。

 自分は何処に座ればいいのかわからないドニは一瞬たじろいだが、エルサリオンがちょいちょいと手招きしてくれたので、おずおずと彼の隣りに腰かけた。

 ドニが席につくと、彼は幼い子どもに言い聞かせるような調子で穏やかに話しかけてきた。


「ドニくんはちょっと待っててね。お話を終わらせたら登録しよ!」


 その言葉に頷いて、おとなたちの邪魔にならないようにソファーの端に身を寄せる。

 この部屋はそう広くないし、知らない人も支部長だという老人ひとりだけなので、受付よりも緊張感がない。

 幾分か安堵して肩の力を抜くと、その支部長がドニの存在を不思議に思ったようで端的に疑問を口にした。


「そいつは?」

「僕らの新しい仲間! 旅に出るのは初めてだから、あとで登録させてね!」

「あいよ。なら、さっさと終わらせちまうか」


 話を振られてドニが慌てるよりも早くに、エルサリオンが先に答えてくれたことで胸を撫で下ろす。

 早々にドニから意識を逸らしておとなたちが始めた真面目な話を聞くことを憚られ、しばし視線を迷わせたあと、ぼんやりと部屋に飾られている槍を眺めることで落ち着いた。

 壁にかけてある長槍は見るからに堅強で、相当腕のたつ者でなければ扱うことは難しそうだった。

 この槍は此処の支部長のものだろうか。

 視界の端に見える彼ならば年老いているとはいえ、鍛え抜かれたその肉体で長い槍を自在に操れるのかもしれない。

 そんなことをよく手入れの行き届いた槍を見つめながら考える。

 時おり耳が勝手に拾う話の節々からは、王国騎士やら盗賊団やら知っている言葉が聞き取れたが、その大半は難しくてドニにはあまり理解できそうになかった。

 それでもあまりいい内容ではないことは伝わってくる。

 自分はこの場にいてもいいのだろうかという居心地の悪さを感じながら待ち続けていると、やがて話し合いは収束へ向かっていった。

 主にひとりでしゃべっていたエルサリオンがひと呼吸置いて話をまとめる。


「……っと、まぁこんなものかな。潜入捜査に関してはもっと詳しい人がまとめてくれてるでしょ?」

「ああ。だが、今回のことであちこちでてんやわんやな状態でな……ったく、とんだ世話をかけてくれるぜ」


 こんな場でもにこやかなエルサリオンとは対照的に、段々と険しい表情となっていった支部長がやり場のない怒りを舌打ちに乗せた。

 大柄な老人が不機嫌さを顕にすると凄味を感じさせられ、ドニは思わず萎縮してしまう。

 だが、このギルドの長は話を終えた途端に気持ちを切り替え、いくらか親しみやすい笑みを豊かな髭の隙間から垣間見せてドニのほうへと向き直った。


「さて、そっちの坊主が登録するんだったな。少し待ってろ」


 彼はそう言って立ち上がると、自身が使っている乱雑な机の上から一枚の紙のようなものを取り出して戻ってきた。

 目の前のテーブルに置かれたその紙は、ドニが今まで目にしてきた書物に使用されていた羊皮紙よりも質が悪いようだ。

 植物がもとになっているようで、所々に草の繊維のようなものが見える紙は薄汚れたような色をしているが、そこに記されている文字は問題なく読み取ることができる。

 どうやらそれは名前や年齢などの情報を書き込むためのものらしい。

 支部長は薄っぺらなその紙をドニの前に滑り込ませると、安物の羽ペンも一緒に渡してきた。


「ほれ、これに記入してくれるか。文字は書けるか?」


 あまり馴染みのない羽ペンを受け取りながら、曖昧に頷く。

 文字はこの一年の間に教わってきたのである程度は書けるが、こんな重要そうなものに記入したことはない。

 それに、ドニはずっと木箱に入れられた砂をなぞって勉強してきたのだ。

 こんな力を込めたらすぐに折れてしまいそうな羽ペンなんて扱ったことがない。

 タオーネが使っているところを何度か見かけたことがあるだけだ。

 自信がなくてオロオロとしていると、隣りに座っているエルサリオンが助け舟を出してくれることになった。

 彼はドニの手を取ってペンの持ち方を教え、書類の項目をひとつずつ説明しながらゆっくりと手を動かし始めたドニを見守った。

 そうやってエルサリオンに励まされ、眼前の記入欄を埋めようとドニは一生懸命に筆を動かした。

 最初に記入する自分の名前は問題なく書き終えることができた。

 名前は一番必要なことだからと何度も練習したので、間違えることはない。

 使い慣れない羽ペンのせいか、少し文字が歪んでしまったが読めるのだから大丈夫だろう。

 ほかにも年齢や出身地など、ドニにとっては曖昧な事柄を問われているため、時々ペンが止まってしまうこともあったが、エルサリオンに助けられ、なんとか最後まで書き終えることができた。

 間違いがないか簡単に確認してから書類を支部長へ手渡すと、彼は早速その内容に目を走らせた。


「書けたか。どれ…………年はこれ、間違えてねぇか?」

「合ってるよー。背は大きいけど、まだ十歳くらいなんだって」


 支部長の疑問にエルサリオンがドニの代わりに答えてくれた。

 正確な年齢はドニ自身も知らないが、おおよそ十歳ほどだと聞かされていたので記入欄にもそのまま書いたのだ。

 しかし、年を教わってからもう一年以上が経過しているのだから、十一としたほうがよかったのかもしれない。

 今さらながらそう思ったが、支部長が「まぁ人生色々あるよな」と呟いて視線を次の項目へ移したため、訂正する機会は失われてしまった。

 ドニ自身も老人の言葉の意味を考えることに意識を向けたので、すぐに訂正するという考えは頭の中から追いやられた。

 どうして自分が十歳だと人生色々なのだろうと不思議そうな顔をしていると、エルサリオンが成人前にギルドへ登録することが最近は珍しいのだと教えてくれた。

 それでなんとなく納得していると、そろそろ書類を確かめ終えそうな支部長がまたしてもポツリと呟く。


「ふむ……バナーレ村か。あそこはのどかでいいとこだな。……よし、確かに受け取った」


 快活な笑みを見せて問題がないことを確認したギルドの長に、ドニはホッと胸を撫で下ろした。

 出身地もよくわからないので、たった一年ばかりを過ごしたバナーレ村にしてしまったが、それで大丈夫なようだ。

 少なくともあの平穏な村よりもこの街のほうが長らく住み着いていたはずだが、ドニはそのことを伏せていたかった。

 書類上のことだとしてもバナーレ村が故郷であるということに秘かな喜びを感じつつ、ヘイストルで暮らしていたことがまだ誰にも知られていないことにそっと安堵する。

 そんなドニの胸の内を知らない支部長はあっさりと話を進めていく。


「これで仮登録が完了した。あとは実際に依頼を受けてもらって、それが完了次第、本登録になる」


 どうやらまだ登録は終わっていなかったようだ。

 これから依頼を受けなければならないと聞いて、ドニの中に潜む不安が頭をもたげた。

 依頼というのはどういったものなのだろうか。

 魔物と戦ったりするのだろうか。

 思わず困ったような眼をエルサリオンに向けると、彼は楽しげに会話を続けるところだった。


「懐かしいなー。僕もフーちゃんも最初は魔物の討伐依頼を受けたけど、別に採取とかでもいいんだよね?」


 その口ぶりから魔物と戦わなくてもいいのだということを察したドニは安心して、にわかに表情を弛めた。

 だが、話を振られた支部長は曖昧に頷いて何やら口籠ってしまい、つい先ほど消えたはずの不安が再来する。


「まぁ……本来はそうなんだが……」

「……何だよ。何か駄目な理由でもあんのか」


 明らかに訳ありといった様子で言いよどむ支部長を、フアリがいつもと同じ無愛想な調子で問いただした。

 すると、老人は言いにくそうに自身を悩ませる困りごとについて口火を切った。


「いや、駄目というわけではないんだが……ひとつ、手を焼いてる事案があってな。何せ、王国騎士団の汚職の件に人手を割いちまってるもんで、手がまわらなくてよ……。ちっと厄介な話なんだが、リオンさんは冒険者歴六十年の大ベテランだし、そっちの獣人族の姉さんも相当腕がたつだろ。本登録がてら、三人でギルドから依頼を受けてもらえねぇか?」

「うーん……それって危ない仕事? 僕、この子にあまり危ないことはさせたくないんだけど……」


 支部長の頼みに真っ先に反応したのはエルサリオンだった。

 彼は依頼の内容に触れない支部長に困ったような微笑を向け、やんわりと逃げ道をつくった。

 ドニは彼が六十年も冒険者を続けていることを知って驚いていたが、自分を庇う言葉が耳に届き、不安で震えていた心が束の間だがほっこりと暖まるのを感じた。

 しかし、次に支部長が口にした事柄はそんな安らぎが吹き飛ぶようなものであった。


「それが……何というか……町中に魔物が出るようになっちまってな……。その魔物ってぇのが、この街にいくつかある墓場のひとつに出てくるんだよ……」

「つまり、死霊アンデッドの類いってこと? 何それ危ないじゃない!」


 大きな目をさらに見開いて驚きを表すエルサリオンに、支部長は渋い顔で同意を示した。

 話し合いのときから口数が少なかったフアリも眉を顰め、思わずといった様子で口を挟んだ。


「アンデッドってのは初心者には到底無理だろ。アタシだって上位種は加護付きの剣じゃねぇと斬れねぇぞ」


 彼女が言うように、死霊アンデッドという種別の魔物は質が悪い。

 生半可な剣技では斬れず、魔術もなけなしの肉体を持つものには火が効くようだが、肉体に縛られることのないものには僧侶が扱う神聖魔法と呼ばれる特殊なまじないしか通用しないという。

 旅の途中で出会ってしまった場合には刺激せずに逃げ、教会や冒険者ギルドに討伐依頼を出すのが定石だそうだ。

 ドニがたまに読んでいた、タオーネの手持ちの書籍の中にあった魔物図鑑の内容を思い返していると、向かい側に座る支部長がガバリと勢いよく頭を下げてテーブルに手をついた。

 思わずビクッと身を竦めるが、彼は構わずベテラン冒険者に頼み込み始める。


「それは承知の上だが、この通り頼む! やつらは墓場からは出てこねぇし昼間は眠ってるから立ち入りを禁止しておけば住民に危険はねぇ。だが、このままだと墓地が使い物にならねぇんだよ。ほかに頼めるやつもいねぇんだ。だから、頼むよ。報酬も弾むし、この通り!」


 小さな山のような体の老人が懇願する姿を見て、フアリがうんざりとしたため息を吐き出した。

 それから彼女は見ていられないというように支部長から目を逸らして、エルサリオンをせっついた。


「おい、どうするんだ」

「うー……アンデッドはちょっとな……僕、火魔法は苦手だし、僧侶でもないし……ドニくんにもしものことがあったらなぁ……」


 エルサリオンも自分より大柄な老人に頭を下げられて悩んでいるようだが、どちらかと言うと断り方に迷っているという様子だろうか。

 一向に頭を上げない支部長に、彼は困った顔をして頬を掻いている。

 自身の心配をされていることがわかっているため、ドニは少し躊躇したが、それでも放っておくのは忍びなくて恐る恐るおとなたちの話に割って入る。


「あ、あの……おれ、あぶなくなったら、かくれるか、にげるから……だから、えっと……」


 かろうじて絞り出せた小さな声は、段々と自信を失い、最後には消え入るようなものになってしまった。

 口に出してから余計なことを言ったかもしれないと心配になって、不安げにエルサリオンとフアリの顔色を窺う。

 自分よりもうんと年上の老人が必死に頼んでいる姿を見て胸が痛くなったこともあるが、魔物が出て困っている人たちがいると考えると、見て見ぬふりはできなかった。

 その言葉は他者を助けたいという純粋な正義感からくるものではなかったが、知ってしまった以上は見捨てられない。

 ドニの脳裏には、魔物の襲来に脅かされたつい最近の記憶が蘇っていた。

 あの地下の避難所で味わった恐怖をドニは忘れてはいなかった。

 魔物と戦うことは恐ろしいけれど、それ以上にあの日、耐えきれずに泣き出してしまった幼いサラのような子がいるかもしれないと思うと、ジッとはしていられないのだ。

 それでも勝手に口を挟んだことで叱られるかもしれないと、オドオドとふたりを上目に見る。

 しかし、エルサリオンはともかく、意外なことに怒りっぽいはずのフアリも特に嫌な顔をするわけでもなく、彼女はチラリとドニを見やると逃げ腰の相方へ視線を移した。


「本人はこう言ってんぞ」

「うーん……どうしよ……フーちゃんはどう思う?」

「アタシも別に受けたくはねぇが……どっちにしろこいつは此処で登録させちまったほうが都合がいいんだろ?」

「まぁね。旅に出るならギルドに登録したほうが便利なんだけど……」


 ドニ本人の意見を聞き、さらに案外やぶさかでもなさそうな相棒の様子を目にしたエルサリオンが、う~と唸って思案する。

 彼の頭の中では良心と心配が天秤にかけられ、グラグラと揺れているのだろう。

 しばらく言葉なく大きな瞳をくるくる動かして考え込んでいた彼は、やがて小さく息を吐くと、隣りのドニと目線を合わせ、ゆっくりと言い含めるように語り始めた。


「ドニくん。多分大丈夫だとは思うけど、危なくなったらすぐ逃げるって約束できる? アンデッド系の魔物は色々と厄介だから、今のドニくんだと歯がたたないかもだし、無理は絶対しないでほしいんだ。アンデッドは冒険者たちなら基本的には避けて通るものだから、逃げるのは当たり前のことなんだけど……」


 いつになく慎重なエルサリオンの姿に、今回の魔物がどれほど厄介なのか改めて理解する。

 だが、それはすでに承知のことだ。

 彼らの口ぶりから、ドニさえ何とかなれば問題ない依頼だということもわかっている。

 それにドニはタオーネに会いに行くために旅に出たのだ。

 こんなところで倒れるわけにはいかない。

 敵わない相手がいたら全力で逃げよう。

 魔物と対峙することに早くも恐れを抱いているドニは、彼の言葉にコクコクと何度も頷いた。


「おれ、あぶなかったら、にげる」


 真剣な面持ちでそう言うドニを見たエルサリオンは、ふー……と息を吐くと、いつもの陽気な笑顔になった。

 それから彼は今も頭を下げ続けている支部長のほうを向き直り、自身の結論を告げるのだった。


「支部長さん、僕たち、その依頼を受けるよ。その代わり、報酬は弾んでよね!」

「おお、本当か! いやー助かった! 報酬は任せておけ! 多少は色つけてやるよ!」


 依頼を了承してもらえた支部長が勢いよく顔を上げ、髭の合間に白い歯を見せて笑う。

 ようやく老人の哀願を止めさせることができたことにホッとしつつ、ドニはこれから立ち向かわなければならない魔物に思考を馳せた。

 やつらは墓地に出現すると言っていた。

 この街で死んだ者たちが埋葬される場所。

 死という言葉を見つめたことで、ドニの頭に吐瀉物に塗れて動かなくなっていた飼い主の姿が過る。

 ひょっとすると、あの人もそこに埋められているのかもしれない。

 そう考え、ざわりと胸が騒いだが、すぐにそれを打ち消すように自分の中に生まれた仮説を否定する。

 支部長は街にいくつかある墓場のひとつに魔物が出るとも言っていた。

 あの人がそこに埋まっているとは限らない。

 だから、大丈夫。

 ドニは己を落ち着かせるために何度も何度も心の内で自身に言い聞かせた。


 けれど、そこでふと、ドニはこの街に入ったときのことを思い出した。

 暗い過去の一片が待ち構えているような感覚。

 もしかしたら、本当に何かが待ち受けているのかもしれない。

 そんな予感に胸のざわめきがより一層強くなる。

 普段は鈍いはずの頭が今、ハッキリと何かの歯車が動き始めたことを認識した。

 冒険者ギルドの一室で、ドニは過去に置いてきたはずの時間が胎動し始めたのだと直感したのだ。

 波打つ感情が、じくじくとした疼きに変わっていく。

 和やかな雰囲気となったおとなたちにぎこちない微笑を向けながら、ドニはこれから襲い来る痛みに耐えるため、ギュッと拳を握ったのだった。

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