扉越しの涙
常日頃からどんよりと曇った魔大陸の空も闇を深め、夜空へと変わる。
魔王城へ戻ってきてから、休める時間もなかった体からようやく力を抜き、上質なベッドへと腰かける。
城内の一角に設けられた、住み込みの臣下たちの生活の場。
その中でも人気のないシンと静まり返った片隅に、この部屋はある。
周囲の空き部屋に住む者はおらず、耳を澄ましても静寂だけが答える。
空いている部屋ならば何処でも好きに使っていいと言われたタオーネは、煩わしい人間関係を避けるために物寂しいこの場所を選んだ。
新しく与えられた自室は広いとは言えないが、タオーネにはこれで十分だった。
空間操作魔術が付随された鞄から書物を出したはいいが、もともと用意されていた本棚に並べる気力もなく、ただ積み重ねて未来の自分に託すことにして、本の山をぼんやりと眺める。
タオーネの長く忙しない一日が、ようやく終わった。
若くはない体へ重くのしかかる疲労感に、タオーネは逆らうことなく身を任せる。
今日は気軽なお茶会を終わらせたあと、事務室の片づけだけで時間が過ぎ去ってしまった。
自分たちの前任者たちが置き去りにしていった事務道具や本の山は大量で、部屋にもとから備え付けられていた収納だけでは追いつかない。
収まりきらなかった書物はとりあえず新たな自室へ持ち帰ってきたが、おかげで整理する前の仕事場とそう変わらない状態になってしまっている。
明日以降、興味を引かれるものを数冊だけ手元に残して、あとは城の書庫に預けてしまえばいいだろう。
おびただしい数の書物を前に考えをまとめ、タオーネは体を後ろへ倒れ込ませた。
王族や貴族が使用するようなものではないが、紛うことなく上等な質であるベッドがタオーネの身体を柔らかく受け止める。
緩やかに息を吐き出し、瞼を下ろす。
バナーレ村を後にしてまだ一日も経過していないというのに、時は目まぐるしく駆け巡り、タオーネを振りまわす。
長い長い月日を凝縮したような疲労がドッと箍を外して、肉体を蝕んでいく。
ひどい倦怠感に逆らうことができず、タオーネは節々の痛みを感じながら微睡んだ。
思えば、ウォルトン領騎士団からの凶報を受けてからまともに睡眠をとっていなかった。
もはや幾日が過ぎたかもわからぬ頭でようやく自覚すると、途端に眠気が強まる。
せめて灯りを消してから眠ろうと自分に言い聞かせるが、体が言うことを聞いてくれない。
早々に起き上がることを諦めたタオーネは、すでに部屋着に着替えてあることだしまだ少し早いが、今夜はもう就寝してしまおうと考えを改めた。
そう決めてしまうと、それまでうつらうつらとしていた意識が急速に深いところへ沈んでいく。
自身の正直な欲求に抗うことはできず、流されるままに就眠を受け入れる。
そうして、夢の世界への入口に足を踏み入れ、現実の扉を閉ざそうとしたその瞬間。
タオーネの瞼の裏に、あまりにも鮮明な情景が浮かび上がってきた。
薄暗いテントの中。
藁を敷かれただけの粗末な寝床。
そこに蹲るひとりの少年。
その茶髪の中に紛れる見慣れたつむじを目にし、血流が加速する。
ドッドッドッドッドッ。
心臓の鼓動が体中に響き渡り、耳元でざわざわと音をたてた。
本能が逃げろと警鐘を鳴らした。
あまりの重圧に潰れてしまう前に目を逸らせと警告してくる。
不都合な現実は忘れてしまえと己の影が甘言を囁いてくる。
だが、タオーネは逃げなかった。
目を逸らすことなく、その少年の幻影を食い入るように見つめた。
自身の罪を忘れぬために、決して許さぬために、その場に踏みとどまった。
そのタオーネの覚悟に応えるように、幼い子の虚像はゆっくりと面を上げる。
ゆっくり、ゆっくりと。
そうして、白い額が現れ、その下にあるはずの大きな翠の瞳も姿を見せる……はずだった。
俯いて陰った少年の顔が、どろりと溶けた。
あまりの吃驚に目を見張るが、その合間にも少年の身体はどんどん崩れていく。
皮膚も肉も骨もすべてが黒い水となって流れ出す。
それはあっという間に辺りを覆い、奴隷商のテントの中であったその場所は煤よりも濃い暗闇となってふたりを取り残した。
一向に止まる気配がない水流に、反射的に手を伸ばしたが、それまで彼の肉体だったはずの流動体はタオーネの指の間からするりと滑り落ち、闇へと吸い込まれていった。
このままでは彼がなくなってしまう。
タオーネは必死に腕を動かしたが、それを嘲笑うかのように少年の姿は闇の中へ溶け込んでいく。
宙を掻いた手は何も掴めずに、少年が消えゆくのを見ることしかできない。
やがて、最後の黒い水が暗がりに融和し、幼子は完全に消滅した。
呆然と心を絶望に染めると、遠いようで、それでいて耳元で囁くように誰かが語りかけてきた。
お 前 も 捨 て る の か 。
その声は紛うことなく、聞き慣れた子のもので。
咄嗟に声が聞こえてくる方向へ振り向こうとしたが、動けない。
返事はおろか、瞬きひとつさえできずに目の前の暗闇を凝視するほかない。
幻覚にしては生々しい気配が、タオーネの真後ろに佇んでいる。
その者の呼吸や心臓が鼓動する音すら聴こえてきそうな距離。
姿は見えないが、彼は泣いていた。
シクシクと無音の世界に響くすすり泣きはやけに大きく聞こえる。
いや、現にその嗚咽は音を増し、何重にも重なってタオーネを取り囲んでいた。
深い哀しみを宿した泣き声が四方八方からタオーネを責めたてる。
それは際限など存在しないかのように、どんどんと増長していき、やがて頭の中すら支配していく。
それはもはや人の声の様相をとっていなかった。
洪水のようなけたたましい騒音がそこら中で鳴り響く。
タオーネは張りつめた己の精神が急激に擦り減っていくのを感じながら、声にならぬ声で叫んだ。
ああ、気が狂いそうだ!
「…………ッ……!」
押し殺した悲鳴をあげながらベッドから飛び起きたタオーネは、いつの間にか自由になった腕を動かし、耳のあたりを押さえつけた。
細かに震える手はいつもに増してひどく冷たい。
打って変わったような静寂の中、自身の激しい鼓動と荒くなった息遣いだけが奇妙に浮き上がる。
すすり泣きは、もう聴こえない。
しばしの混乱を宥め、タオーネは己の状況を把握した。
どうやら、夢を見ていたらしい。
ひどい、夢だ。
タオーネは引き攣った唇から渇いた笑いを漏らした。
覚悟を決め、別離して間もないというのに、このざまだ。
自身の罪悪感は思っていたよりも深いもののようだ。
早くもあんな悪夢を見るなんて。
己の脆弱さに自嘲するが、声は出ない。
喉がカラカラに渇いている。
渇ききって張りついた咽頭を無理に動かしたために軽く咳き込みながら、タオーネはふらりと頼りない足取りで立ち上がった。
それからやけに重たく感じる脚を動かして、部屋の片隅に置かれた小さな机の上の水差しから水を汲み、一気に飲み干した。
耳の内側がまだドクドクと脈打っているが、いくらかは落ち着くことができた。
重苦しい息をゆるゆると吐き出し、タオーネは壁に掛けかけてあった愛用のローブを身に纏う。
好んで選んだはずの狭い部屋にいると、今はかえって追いつめられる気がした。
いつもと同じようにフードを深く被り、杖と角灯を手に取って、城の廊下へと続く扉を開いた。
とにかく一旦、気持ちを落ち着かせよう。
そう考えたタオーネは自身の心が赴くままに、夜の城内へと足を踏み出したのだった。
※※※※※※※※※※
可能な限り音を殺し、広く長い廊下を歩く。
もう随分と夜も深まっているのか、ネズミ一匹すら見当たらず、何の物音も聞こえてこない。
虫の声も、梟の呟きも、此処には届かない。
あまりの静けさに時おりわざとカツンと靴を鳴らすが、それも虚しく響くだけだった。
それでも自室へ戻る気にはなれず、タオーネはひたすら歩を進めた。
長い廊下は何処までも続いているかのように思われた。
しかし、やがて先の曲がり角からほのかな灯りが漏れているのが見えてきて、廊下の終わりに行き当たったことを悟る。
その灯りとともに人の気配を感じながら曲がり角を曲がると、そこには夜警の兵士が立っていた。
名前まではわからないが、顔は知っているその兵士は昔馴染みの部下だ。
相手も来訪者がタオーネだとすぐに気付いたようで、自身の任務を全うするべく声をかけてきた。
「ハイルクラオト殿。夜分にどちらへ?」
「仕事場に忘れ物をしたようなので、取りに戻ろうかと」
意味もなく徘徊していたとは言いにくく、咄嗟にそれらしい嘘をついてしまった。
なんだかきまりが悪い。
だが、兵士はその嘘に納得したように頷くと、大きな体を壁に寄せるようにして道を開けた。
「そうですか。失礼しました。どうぞ、お通りください」
「ありがとうございます。お疲れ様です」
嘘をついたことへの気まずさから、手短に労わりの言葉をかけ、その場をさっさと通過する。
特に行き先を決めていたわけではなかったが、自分がついた嘘をなぞるように事務室を目指すことに決めた。
用事があるわけでもないが、なんとなく足を向けてみようという気持ちになったのだ。
さらに続く廊下を進み、途中の階段を上る。
夜警の兵士以外の者に出会うこともなく仕事場へ辿りつき、ローブに括りつけたままでいた鍵で錠を外す。
そして、音をたてぬようにわずかに扉を開き、最低限の隙間から部屋へ滑り込んだ。
数刻前まで若者たちの存在によって華やいでいた事務室は、昼間とは一変して静けさに満ちていた。
シンと身に染みるような静寂の中、タオーネは大きく息を吸い、ひんやりとした冷たい空気で肺を満たしたあとにそれを細く吐き出した。
棚にぎっしりと詰められた本の匂いがする。
閉め忘れた明かり取りの窓から差し込む月光に照らされ、ふたたび持ち主たちの手に取られることを待ち続けている書物や文具たちを見渡しながら、タオーネはゆっくりとそう広くもない室内を巡る。
完全に日が沈むまでになんとか整理された仕事道具たちは体裁が整っていて、見目がいい。
撫子色の髪をした魔王専属侍女ほどではないが、目の届く範囲にあるものはキッチリと揃えておきたい性分のタオーネには整頓されたこの現状は満足いくものだった。
しかし、窓を閉め忘れるのはいただけない。
タオーネは自身の不備に眉を寄せ、二度とこんなことがあってはならないと己に釘を刺しながら窓を閉めた。
その途端に外界から遮断された仕事部屋は角灯の明かりだけを頼りとし、より一層ひっそりと口を閉ざすような姿を見せる。
まるでタオーネ以外のものすべてが眠りについているかのようだ。
そう考えるや否や、なんとなくこの場に居続けることが気詰まりに感じ、タオーネはそろりと足を出口へ向けた。
この部屋を後にしたとしても、さすがにこれ以上、不審者よろしくうろうろし続けることも気が退ける。
憂鬱の火種はまだ燻っているが、自室に戻るべきだろう。
重い足取りで扉まで辿りつき、振り返ってもう一度、事務室を見渡す。
窓は閉められ、仕事道具たちは来たときと変わらず明日へ備えている。
今度こそ何の欠損もないことを確かめ、入ったときと同じように最低限の隙間から扉の外に出た。
錠前をかけ、さて戻ろうと来た道へ足を踏み出したが、タオーネはとある異変に気付いて振り返った。
廊下の奥から細い風の流れを感じたのだ。
確かにローブの表面をそよぐそれは、外気の冷たさを含んでいる。
此処は魔大陸の中でも最高峰の技術で建てられた魔王城だ。
隙間風が入り込む余地はないはずだ。
しかも、この先にはこの城の王子の自室がある。
もしもこの風の出どころが外的要因によるものだとしたら……。
魔王軍の警備が不足しているとは思わないが、万が一ということもある。
タオーネは最悪の事態を推定し、帰り道とは真逆の王子の部屋へと向かうことにした。
角灯の火を消し、己の気配も殺し、慎重に、だが迅速に廊下の奥へと進む。
道の途中にはほかにも兵が配備されていたが、落とし物をしたと言えば、それなりに顔を知られているためか、すんなりと通過できた。
その間にも風は時おり途切れながらも気が向くとタオーネを待ち受けるように、ローブから露出した顔をくすぐった。
だが、からかうようなそよ風にも焦りを助長されることのないタオーネは、大した時間をかけることもなく目的の場所へと至った。
無事に何事もなく目的地へと辿りつき、王子の自室から少し離れた位置で辺りの様子を探る。
灯りがないため、辺りはほとんど真っ暗だが、そろそろ目も慣れてきている。
耳を澄まし、眼を凝らすが、今のところこれといって異常はない。
肝心の風の出どころも探ろうと思ったが、ささやかな流れはすっかり息を潜め、いくら待っても姿を現す気配がなかった。
本当なら王子の部屋の中も確かめたほうがいいのかもしれないが、異常が見つからない以上は無闇に刺激するのはよくないだろう。
それにもう夜も遅い。
子どもはとっくに眠っている時間だ。
そんなことを考えてしばし悩んだタオーネだったが、結局はもしものことへの心配が勝った。
意を決して部屋に近寄ろうと一瞬、離していた視線を扉へ向ける。
すると、その入り口がわずかに開かれていることに気がついて、タオーネは眉を顰めた。
重厚な材質でできた重々しい扉を音なく動かすことは難しい。
それもこんなにも近い位置にタオーネがいながら、そのことに気付かないというのはおかしい。
この短時間の記憶を遡ってみても、扉が開放された形跡はない。
しかし、実際に入口は開かれている。
それともこの扉はもとよりわずかに閉めきられていないこの状態だったのだろうか。
いくつかの考えが頭に浮かぶが、やはり周囲に異常はないことから、最初に自分が見逃していたという説が有力なように思われた。
さらに此処に至るまでに感じた微弱な風もこの扉の隙間から流れてきていたのだと考えると、辻褄が合う。
きっと王子が窓を開けたまま、眠ってしまったのだろう。
そう結論付けて、自身の心配が無用なものだったと安心しようとしたその時。
タオーネの耳に小さな声のようなものが届いた。
もしや最悪の予想が当たったかと思い、肝を冷やしたが、そうではなかった。
「……ぅ……ひっく……」
その押し殺したような、震える感情が込められた声は、確かにシュトルツのものだった。
部屋の中には王子以外の気配はない。
つまり、彼は扉の向こうで独りきりで泣いているのだ。
昼間の癇癪を考えても、母親に会えない寂しさから涙しているのだろう。
それは子どもとしては当たり前のことだ
だが、タオーネは目の当たりにしたこの状況にひどく動揺してしまった。
脳裏にはつい先ほど見た夢の光景が、鮮明に思い出されていた。
暗い空間で、幼い少年がたったひとりで泣いている。
自身の腕から逃れ、溶け去った愛し子の姿がシュトルツに重なる。
これは現実だとわかっているのに、脂汗が首筋を伝った。
無意識に足が後退る。
理性が泣いている子どもを放っておくのかと己を責めたてるが、体が言うことを聞かない。
いや、未だ何処か夢の世界に浸っていた心の奥底が訴えているのだ。
お前に彼らの涙を拭う資格があるのか、と。
タオーネの足がまた一歩じりじりと下がった。
資格なんてあるはずがないと、内側に潜んでいるもうひとりの自分が叫んだ。
仕事も家も、二度も逃げ出した己に資格などあるはずがない。
その主張に対して理性を司る冷静な自分が声をあげる。
だからといって、目の前の幼子を放っておくというのは責任あるおとなのやることではない。
すぐに戻って声をかけるべきだ。
しかし、タオーネの脚はすでに帰路をふらふらと辿っていた。
頭の中で幾重にもいくつもの意見が飛び交い、己を責めたてたが、その意味すらもはや解することはできなかった。
ただひどく痛む頭をぼんやりと認識しながら、勝手に動く脚に身を任せるしかなかった。
※※※※※※※※※※
自室に戻ってきたタオーネはローブを脱ぐことすら忘れてベッドへ倒れ込んだ。
どうやって帰ってきたのかは覚えていない。
ただひたすらに頭が痛んで仕方ない。
薬を飲む気力すら残っていなかった。
自らの身の内で渦巻いている感情の種類すら理解することができずに、頭を抱えてそれに耐える。
結局、また逃げ出してしまった。
あらゆる情報や感情が錯綜する中で、己の罪悪を重ねたことだけは確かに理解できた。
この、腰抜けが。
タオーネは自分の弱い心を厳しく咎め、体を丸めるようにだんだんと痛みを増す額を膝に押し付けて瞼を下ろす。
体調を崩したら、それこそふたたびこの城を出ていかねばならなくなるかもしれない。
それだけは、避けなければ。
自分は此処で、この土地で罪を償うと決めたのだから。
今度こそはやり遂げなければ。
そのために少しでも体を休めよう。
そう考えて無理やり眠りにつこうとしたが、眠気は一向にやってこなかった。
それでも眠ろうとタオーネはより一層、瞼をきつく閉じる。
何処からかふたりの少年の嗚咽が聴こえてくるような気がしたが、それが気のせいだということをタオーネはわかっていた。
窓の外では暗く濁った灰色の空が星を失い、その表情を沈痛に滲ませていた。
第2章 魔大陸の魔術師 完結。




