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木偶の坊と魔術師が家族になったら  作者: 小峯ゆたた
第2章 魔大陸の魔術師
40/58

友好のお茶会

 本の山に囲まれ、随分と窮屈になったソファーに辿りつき、何とか座れる場所を確保する。

 ふたりの男は紳士的にまずは涙をこぼし続ける少女に席を譲り、自分たちはとりあえず立ったまま、どちらともなく息を吐いた。

 若者は何度か経験したことへのやるせない想いを、年かさの魔術師は初めて目にしたことへ途方に暮れるような気持ちを漏らした。

 王子の部屋を追われた一行は、自分たちの職場のひとつである事務室へと戻ってきたのだった。

 凄まじい癇癪を目の当たりにした三人は疲労を滲ませ、しばし沈黙する。

 だが、この中では一番立ち直りが早いらしいトロイがにこやかな笑顔で、いささか沈痛な空気を破った。

 彼は和やかな立ち振る舞いで、同僚たちに笑いかけ、併設されているささやかな給湯室へ足を向けた。

 どうやら温かな飲み物でふたりの心を解そうと考えたようだ。


「それじゃあ、とりあえずお茶を淹れてきますね」

「あっ……わ、私が、やりま……ひぐっ」


 あちらこちらに積み重ねられた本を避けながら既に給湯室へ足を踏み入れかけていたトロイの後ろ姿に、グスグスとべそをかいている侍女が慌てて声をかけた。

 その涙声に阻まれた言葉を聞いた若者は、事務室と給湯室を仕切る壁からひょっこりと頭を出してひらひらと手を振った。

 手の動きに合わせて、長い尻尾も釣られて揺れ動いた。


「リーリエさんは座ってて。お茶ぐらいなら僕にも淹れられるから」

「でっでも……」

「いいからいいから。泣いてる女の子にやらせるわけにはいかないし。僕に任せておいて」

「……ごめんなさい」


 ニコニコと愛想よく笑うトロイに、鼻の頭を真っ赤にしたリーリエは申し訳なさそうに俯いて謝った。

 本来は自分の仕事の範疇であるお茶の用意をさせてしまってしまうことに、罪悪感があるのだろう。

 それでもトロイの言うことはもっともであり、まずは彼女の涙を止めることが先だ。

 そう己の中で結論付けたタオーネは、改めて給湯室へ引っ込もうとする一本の三つ編みを揺らす頭を呼び止めた。


「トロイ殿」

「呼び捨てで構いませんよ、タオーネさま。それで、なんでしょう?」

「では、トロイさん。鋏はこの部屋にありますか?」


 急なタオーネの質問に、ふたたび顔を覗かせたトロイは同僚が何をするつもりなのかすぐに合点がいったらしい。

 鋭い犬歯を見せてニッと笑うと、事務用品が並んだ棚を指さした。


「鋏ならそこの棚にありますよ。上から二段目です。小さいですけど、切れ味は抜群ですよ」

「ありがとうございます」

「いいえー。確かお茶菓子もあったはずなので、期待していてくださいね」


 にこやかに足どり軽く今度こそ給湯室へ姿を消したトロイを見送り、示された棚を覗き込む。

 すると、彼が言った通りに今はもういない前任者たちが置いていったと思われるペーパーナイフや羽ペンに紛れるようにして、洒落た装飾の小さな鋏が置かれていた。

 都合のいいことに身だしなみを整えるための櫛もそばに転がされている。

 タオーネは迷うことなくそれらを手にし、ソファーに座って次から次へと湧き出る涙を拭っているリーリエのもとへ近づいた。

 そして、床へ膝をついて屈み込み、初めて対峙する彼女の目線に合わせて優しく言葉をかけた。


「リーリエさん、でしたね?」

「ぐすっ……はい。タオーネさま」


 タオーネの呼びかけに、涙を吸ってじっとりと濡れたハンカチを握りしめ、リーリエが答える。

 透き通るような緑がかった白い肌が、今は赤っぽく染まっている。

 彼女の一族は年若いほど肌が白いことを知っているタオーネは、思っていたよりも幼いのかもしれないと、その泣き顔を見て感じた

 そんな思考を頭の片隅で認識しながら、手に持った櫛と鋏を構え、相手を怖がらせないようにまたしても声をかける。


「少しジッとしておいてくださいね。動くと危ないですよ」

「ふぇ……?」


 まずは状況を把握できずに困惑するリーリエの前髪を櫛で梳く。

 タオーネとしては、うら若い年頃の少女の髪に触れることに抵抗があったが、残念ながらこの場には彼女のほかに男しかいない。

 代わりに任せられる者もおらず、無心で柔らかな白髪を梳いていく。

 やがてリーリエも何をされているのか理解したらしく、今度は初対面のタオーネに髪を弄られていることへの戸惑いを顕にした。


「あの、タオーネさま……?」

「大丈夫。これでも散髪は慣れているので」


 一度、安心させるようにそう言って、リーリエにそばにあったくずかごを抱えさせると、タオーネは意識を彼女の髪へ集中させた。

 乱雑に切られてしまった前髪は長さがバラバラで、すべてを同じように整えることはできそうにない。

 しかし、幸いなことに王子は額の中心辺りの髪を掴んで切ったようで、左右ともに端のほうは長さを保っている。

 一瞬、思案し、櫛で前髪の一部をすくって指で固定して、慎重に鋏を入れる。

 チョキチョキと細やかな音をたてて、新雪のような毛髪がくずかごへ舞い落ちていく。

 端は長いまま残して、中央にいくにつれて弓なりに短くなるように鋏を動かす。

 刃物を扱っていることへの注意だけ残して、あとは無心になって散髪に勤しんだ。


 だが、前髪が一番短くなる辺りに鋏が差し込むと、タオーネの脳裏にバナーレ村での情景が過った。


 あれは確か冬に降り積もった雪がまだ溶けきっていない頃だった。

 家にこもることも多かった冬は、髪を自由に伸ばさせる時間を人びとに与えた。

 当然、ともに暮らした少年もその茶髪に好き勝手させて、春の気配が村に訪れる頃には頭のあちらこちらを跳ねさせていた。

 前髪だけはこまめに切っていたが、そろそろ限界だということでまだ肌寒い中、何重にも服を重ね着させて家の軒下で散髪をおこなったのだ。

 鋏とはいえ刃物を間近に感じる散髪に、彼はいつになっても慣れることはなかった。

 それでも最後に髪を切ったその日は、タオーネを信頼するように目をギュッと閉じて、鋏への恐怖に耐えていた。

 その些細な変化が本当に嬉しくて、切り落とされた髪が雪溶け水で湿った地面へ散った様子すらも鮮明に覚えている。


 そんな幸せそのものだった記憶が蘇り、タオーネの手が止まる。

 胸が抉れ、暗く澱んだ穴がポッカリと口を開けた。

 もうとっくに冬は過ぎ去ったというのに、指先まで凍りついたように寒々しい。

 鋏を構えたままの手が今にも震えだしそうだった。

 しかし、突然動きを止めたタオーネに不安を感じたのか、瞼を閉じていたはずのリーリエの瞳がいつの間にか向けられていることに気付き、我に返る。

 女性の髪を切っているときに、ぼんやりと別のことを考えるのはよくないことだ。

 タオーネは己を叱咤し、不安げな少女に微笑して散髪を再開した。

 まだ全身が冷え込んでいたが、それも豊かな西大陸と比べると幾分か気温の低い魔大陸へ渡ったからだと無理やり自身を納得させた。


 少しして、リーリエの前髪の端から端にまで鋏を入れ終わった。

 全体を確認し、不自然に揃った箇所へ切り込んで、自然で健康的な形をつくりあげる。

 最後に無詠唱魔術で極めて微弱なそよ風を流し、彼女の顔へ散った細かな毛髪の残骸を吹き飛ばす。

 それから、ちょっと躊躇して、また新たな風を魔力で練り上げた。

 切った髪の多くは抱えさせたくずかごに収まったが、それでも多少は外へとこぼれ落ちている。

 その多くはリーリエのエプロンドレス――その年の割には非常に豊かな胸元に付着しているのだ。

 さすがにそれらは彼女自身にとってもらったほうがいいとも考えたタオーネだったが、細かい毛髪は人の手では取り除きにくい。

 それ故に、タオーネは視線をリーリエの前髪から動かすことなく、威力を極限まで低めた風魔法でそれらを薙ぎ払った。

 礼儀として女性の胸元の確認をおこなうことはできないが、これできれいになったはずだ。

 年甲斐もなく少々緊張した表情を弛め、少女に終了した旨を伝える。


「……はい、できました。切った髪がまだ顔についていると思うので、あとで顔を洗ってください。目も腫れていらっしゃいますし、ついでに冷やされるとよろしいかと」


 そう言って、近くの机に放られていた手鏡をリーリエへ手渡した。

 散髪の腕前自体はそう悪くないと思うが、女性の髪ということであまり自信がない。

 恐る恐るといった気持ちで彼女の様子を窺ったが、それはいらぬ心配だったようだった。


「わぁ……」


 感嘆するような呟きと、パッと花咲くような表情。

 そのどちらもが偽りでないことはすぐにわかった。

 確認するように何度も整えられた前髪に触れる少女の姿に、ホッと安堵する。

 しばらく鏡を食い入るように眺めていたリーリエは、ハッと気付いたような顔をしてタオーネに感謝を伝えた。


「あ……ありがとうございます……」

「前髪が短いとお顔が明るく見えますし、悪くはないと思いますが……何分、昔から若年寄の感性なのでひとまずはそれでご了承ください」

「いえ、そんな……これ、私、好きです」


 手鏡を片手に嬉しそうにはにかむ彼女は、意味もなく指で何度も髪を摘まんだ。

 随分と短くなった前髪の下にいる眉さえも喜んでいるように見える。

 実際にその髪型はリーリエによく似合っていた。

 すると、ちょうどそこへお盆にティーポットやお茶菓子を乗せたトロイが戻ってきて、人好きする笑顔で彼女の髪について触れた。


「あれ、リーリエさんの前髪が可愛くなってる」


 年若い青年の素直な感想に、リーリエの顔が途端にカァーッと赤くなる。

 異性から褒められることに慣れていない様子の少女を微笑ましく思っていると、彼女は不自然なまでに慌てて話題を逸らした。


「タ、タオーネさまは器用でいらっしゃるんですね」

「器用と言いますか……自分の髪もずっと自分で切っていますし、他人の髪を切る機会もそれなりにありましたから、慣れているのです」


 話を逸らすためとはいえ、本心からの賛辞にタオーネは控えめに微笑んで応えた。

 またしても頭の片隅にチラリと大柄な少年の影が過ったが、表に出すことなく堪える。

 彼のことを忘れるつもりは毛頭もないが、他者がいる環境で過去に捕らわれるわけにもいかない。

 そっと悲しみを心の奥底に押しやっていると、その間にも社交的なトロイが話を進めてくれる。


「そしたらリーリエさんは顔を洗ってきたら? お茶はまだ蒸らさなきゃいけないし、今のうちに行ってきたらどうかな?」

「あっ……はいっ。いってきます、すみません……!」


 トロイの提案に、リーリエは慌てた様子で立ち上がり、侍女としての品格を失わない程度に急ぎ足で給湯室へ向かっていった。

 その姿はすぐに壁の向こうへ消えたが、ガシャンと何かがぶつかる音と「きゃあ!」という短い悲鳴が聞こえてきて、ちょっとした不安を煽った。


「……大丈夫でしょうか?」

「平気ですよー。リーリエさんは少しおっちょこちょいなんです」


 思わず呟いた確認の言葉に、タオーネよりも数日早く此処に赴任したトロイがのんびりと答える。

 そして、彼の言う通りにすぐに水を流す音が聞こえ始め、本当に心配いらないことがわかった。

 横長な形をしたテーブルにお盆で運んできたものを移すトロイに促され、タオーネもようやく腰を下ろすことができた。

 ひと息つき、トロイを手伝ってそれぞれの席の前へカップを配り、お茶会の準備を進める。

 しばらくして、幾分か顔色がよくなったリーリエが戻り、照れ臭そうにペコリと頭を下げた。


「あ、えっと、し、失礼しました」

「いいえ。では、ひとまずお茶をいただきましょうか」


 ほんのりと切りたての前髪を濡らした侍女が席につくのを待ち、トロイが事前に温めておいたカップへお茶を注いでいく。

 一緒に運ばれてきた小さな籠の中には、清潔な布巾に包まれるようにして柔らかなパンにも似た焼き菓子が用意されている。

 タオーネはそれを若者たちに勧めるように、さりげなくふたりのそばへ配置した。

 そうしてお茶会の準備が終わり、めいめいに湯気のたつカップへ口をつけると、トロイが軽い調子で口火を切った。


「それじゃあ、改めて自己紹介でもします?」

「そうですね。お互いに知らないことが多いでしょうから……」


 彼の申し出に賛成してカップをテーブルへ戻すと、ちょうど菓子を手に取って幸せそうに齧っていたリーリエがまごつきながらコクコクと頷く。

 その様子を好ましく感じたらしいトロイはクスリと笑い、やはり率先してこの場を仕切り始めた。


「言い出しっぺの僕からいきますね。改めまして、僕はトロイ・ディーナーです。小さい頃から教育者になるために育ってきました。この城に来る前は実家に程近い小さな町で教師をしていたんですけど、高貴な血筋の方の教育を任せられるのは初めてなので、多分色々とご迷惑をおかけするかと思います。すみません」


 簡潔だがわかりやすい自己紹介のあとに、事前の謝罪を付け足して彼は頭を下げた。

 だが、こういった職場に慣れていないのはお互いさまだ。

 タオーネは彼と違って教育について学んできたわけではない。

 どうせ三人で協力していかねばならないのだから、今の段階で謝るトロイはむしろ好意的に感じる。

 この短時間で彼の人となりを少し理解してきたタオーネは、純粋な興味からその来歴について触れた。

 もちろん、今後の仕事を考えてのこともあったが、タオーネの気持ちとしてはこの場で唯一、教師としての経験のある、のびやかな若者自身への関心が占めていた。


「教師の経験がおありということですが、何をお教えになっていたのですか?」

「町では読み書きとか、簡単な計算とかを教えてましたけど、あとは語学ですね。これでも一応、西大陸語も獣人語もできるんですよ。あっでも、一応は祖父から魔王にふさわしい教育というものをずっと教わってきたので、立ち振る舞いやマナーといったものはきちんとお教えできると思います。僕自身はマナーとか少し苦手なんですけど」


 謙遜というよりは本音に寄っているトロイの言葉に、思わず微笑を湛えてしまう。

 裏表がなく、タオーネにとって付き合いやすい性分の彼は思ったことをそのまま口にする傾向にあるようだ。

 しかし、推定していたよりも随分と水準が高いように思える彼の技量にタオーネは安堵した。

 代々魔王の教育を務めてきた家柄の出身であるトロイの話を聞き、まだ経験は不足しているものの、彼が王族の教育係を担当するのに遜色はないように感じられた。

 これまでに積んできたその経験というものも、ある意味では自由奔放とも言える振る舞いのシュトルツを相手にするには都合がいいだろう。

 あの幼い暴君は王族としての枠に収まっていない。

 彼の母親であるシャルラハロートの若かりし頃を思い返しても、特別扱いするよりは自然体で接したほうが本人たちにもいい影響を与えるように思う。

 そんなことをひとりで算段しているうちにも、自己紹介の時間はどんどん進行していく。

 自身の挨拶を終えたトロイは、今度はそれまで黙って耳を傾けながら焼き菓子を頬張っていたリーリエに笑いかけた。


「それじゃ、次はリーリエさんね。はい、どうぞ」

「むぅ!?」


 急に矛先を向けられたリーリエは大げさなまでに驚いて、香ばしい菓子を喉に詰まらせた。

 彼女は忙しなくお茶で菓子を流し込むと、軽く咳き込んで狼狽しつつも、トロイからまわされた挨拶をおこなおうと背筋を伸ばして応えた。


「ケホッ……す、すみません……。えっと、私はリーリエと申します。魔王陛下の専属侍女で近衛兵でもあるネルケさんとは同郷で、プフランツェの里の出身です」


 その情報はすでにタオーネも知るものだった。

 昔馴染みのお堅い侍女と目の前の少女が生まれた里は、魔大陸の西の奥地に存在する。

 外界との繋がりを可能な限り遮断しているその里は珍しい植物の宝庫だという。

 そこで生まれた者たちは幼い頃より植物とともに成長し、本人たちの身体も長い歴史の中で植物に似た性質を得ている。

 ネルケは蔦そのものと言える長い耳を持ち、おそらくリーリエの髪で健気に咲いている真っ白な百合の花も彼女の肉体の一部だろう。

 そして、プフランツェの者たちすべてが有するのは、特徴的な変化を見せる肌だ。

 彼女らは生まれ落ちたときには若葉色の肌をしているのだそうだ。

 それが年を重ね、成長していくと白っぽさを帯びていき、若さを失っていくにつれてその白さは樹木の幹のような深い褐色に変わる。

 生きていく中で色が変化する肌というのはさまざまな容姿の者が存在する魔族の中でも珍しく、その珍しさから余計な諍いを避けるためにプフランツェの里はほとんど外界に姿を現さない。

 しかし、古くから魔王の血筋とは親交が深い彼らは、魔王の傘下となるために幼少の頃から教育を施され、その中でも優秀な者は準備が整うと魔王城へ勤め始める。

 当代の魔王が女性であることから近年は特に女性の進出が多いようだが、それにしてもリーリエは些か若すぎる気もする。

 そんなことを考えていると、彼女本人がそのことについて言及した。


「ほ、本当はまだ里で勉強しなければならないことがたくさんあったんですけど、人手が足りないということで、ひと月ほど前から未熟ながらシュトルツ殿下の専属侍女を務めさせていただいています……」


 言葉の最後は力を失い、リーリエはその小柄な体をさらに小さくしてしまった。

 彼女の口から語られた説明からは、あの王子の尋常ではないわがままっぷりが伝わってきた。

 本来、リーリエは魔王城に勤める予定ではなかったのだ。

 シュトルツのあまりの傍若無人さに先人たちが根をあげて、彼女にお鉢がまわってきたのだろう。

 魔王の専属侍女であるネルケは類い稀なる忍耐力の持ち主であるが、同族の者たちが皆そうであるとは限らない。

 だが、赤子の頃から世話をしてきた乳母さえ辞職すると言う彼を相手に、まだ幼さの残る少女はひと月も孤独に頑張ってきたのだ。

 一度は自身の職場から逃げ出したことがあるタオーネは、ある種の尊敬の念を彼女に抱いた。

 そして、それと同じような気持ちを覚えたらしいトロイがリーリエに労わりの言葉をかける。


「僕らが来るまではひとりだったんだってね。大変だったね」

「いえ! シュトルツ殿下はお母さまにお会いすることができなくてお寂しいのだと思うんです……。でも、私が未熟だから何もして差し上げられなくて……」


 己の未熟を恥じる気持ちからか、やや俯き気味だったリーリエが同僚の気遣いに弾かれるようにして顔を上げ、幼子を擁護した。

 そのオロオロとした様子からは彼女の自信のなさが読み取れる。

 意地悪い目をしたあの王子もそのことをわかっていて、あのような悪戯というには度を過ぎている悪さをするのかもしれない。

 タオーネはそんなことを考えたが、トロイは変わらずにこやかに軽い調子で話を進めた。


「まぁそのあたりの話は自己紹介が終わってからゆっくり話し合いましょうよ。そしたら最後はタオーネさま、よろしくお願いします」

「わかりました」


 ついにまわってきた自身の出番を了承し、タオーネはまず少し気落ちしてしまったリーリエに焼き菓子を勧めた。

 落ち込んでいるときに空腹でいるのはよくない。

 遠慮がちな彼女の手が籠に伸びるのを見てから、タオーネは改めて挨拶を始める。

 そうは言っても、不本意ながら昔の経歴は自らが語らずとも多くの者が知っている。

 おそらくは退屈な紹介となるだろうからと、頭の中で簡潔にまとめて口を開いた。


「私は、タオーネ・ハイルクラオトと申します。本来、家名を持たない身分ではありますが、魔王陛下のお計らいにより、師の名を継いでハイルクラオトと名乗らせていただいてます。ご存知かもしれませんが、ハイルクラオトは代々薬師の家系でして、私の本業も薬師、そして治療魔術師となっております」


 まずはわかりきっている自身の名前と出自を述べる。

 遠い昔に終わったはずの師の最期を思い出すと、今でも苦いしこりのようなものが残っているのを自覚させられるが、もはや痛みを感じることはなくなった。

 この城に勤めるようになってから知った、師の家名に秘められた評判から多くの説明は必要ないと考え、あくまでサラリと流した。

 横に座るトロイが何やらわくわくしているが、今日のところは自身の来歴について詳しく話すつもりはない。


「魔王陛下とは若い頃に知り合い、まぁ様々なことがあったわけですが……おふたりもよくご存知だと思いますので割愛させていただきます」


 タオーネが巷で語られている冒険物語について触れるつもりがないことがわかると、トロイはガックリと肩を落とした。

 その様子が妙に面白く感じて、タオーネは苦笑しながら話を続けていく。


「魔王陛下とはおよそ百五十年ほどのお付き合いをさせていただいておりまして、この城にもおよそ五十年余り勤めさせていただきました。その後は無期限の休暇をいただき、魔大陸から西大陸へ渡って六十年ほど旅を続けていましたが、またこうして戻ってまいりました。この通り、私はただのしがない魔術師ですので王子の教育係というのは少々無理があるように思えるのですが、これも何かの縁でしょう。これからよろしくお願い致しますね」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

「よ、よろしくお願いしまふ……!」


 ざっくりとした自己紹介を終わらせ、新たな同僚たちへ微笑みかけると、トロイはニッコリと笑い、リーリエは食べかけの焼き菓子を手にしたまま頭を下げた。

 己の経歴を簡単に振り返ったタオーネが、本当は辞表を出したけれど受け付けられずに散々説得された上で無期限の休暇という名目となったことを思い出しながら、ふと遠いところを見つめるような眼差しをしていると、此処まで順調に仕切ってくれていたトロイがこの場をまとめる。

 その言葉はタオーネの意識を現実に戻すには、十分すぎるものだった。


「この三人で頑張っていきましょうね。何せ、手強い相手なので……」


 トロイの発言で、先ほどの嵐のような出来事を思い出した一行は一瞬の静寂を共有した。

 自分たちが任された子どもが相当な問題児であることを早くも認識したタオーネは、その沈黙を破るためにあえて微笑を湛え、一番の被害を被ったリーリエを気遣った。


「リーリエさんは本当に災難でしたね。まさか女性の髪を無断で切るようなお方だとは想像してなかったので、驚きました」

「い、いえ。普段はそれほどでもないんですよ? 脚をひっかけてきたり、ちょっと飲み物をこぼされたりするくらいで……」


 タオーネの言葉にリーリエが慌てて王子の弁明を図ったが、反対に普段から悪質な悪戯を受けていることを露呈してしまっている。

 思わずため息を吐きそうになって堪えるが、さすがのトロイもシュトルツのおこないをよく思わないらしく、彼は渋い顔でぼやいた。


「うーん……僕は叱ることが苦手だけど、女性にそういった嫌がらせをするのは感心できないなぁ……。どうにかして止めさせないと……」

「そうですね。少々良識というものが欠けているかもしれません。まだ年齢的にも幼い方なので、矯正は可能だとは思いますが……」


 トロイの意見に同調して、それでも同僚たちの心を少しでも軽くさせようとタオーネはわずかな希望を口にした。

 しかし、若い同僚はタオーネの言葉に少し考えるような素振りを見せた。

 どうしたのだろうかと彼の動向を探ると、視線に気付いたトロイがはにかみながら控えめに訊ねてきた。


「あの、僕の考えなんですけど、いいですか? 別にどういったことをしたほうがいいとかそういう話ではないんですけど」

「ええ、もちろんです。お聞かせください」


 タオーネが若者の背中を押すように頷いてみせると、彼は相手の様子を窺いながら自分の意見を言葉にしていく。

 何やら不安そうだが、それでも己の考えをきちんと伝えようとする姿勢が伝わってくる。


「リーリエさんが言ったように、殿下は寂しさが根源にあるんでしょう。僕も今までに何人か親に構ってもらえずに寂しがる子を見てきましたけど、中には寂しさから構ってほしくて手酷い悪戯をするような子どももいました。それで、僕の考えではそういう子を頭ごなしに叱りつけるのは、ちょっと違うかなって思うんです」


 それは怒ることが苦手だという温和なトロイらしい意見だった。

 彼の言う通り、シュトルツは誰の目から見ても寂しがっているように見える。

 シャルラハロートと顔を合わせたという旨を言葉にしたとき、彼の感情が昂り、爆発した。

 おそらくは久々に帰ってきた母親が自分とは会わずに、こんな得体のしれない魔術師に会っていたということが逆鱗に触れたのだろう。

 反対に言えば、長年の付き合いで信頼あるタオーネに息子を託すためにわざわざ時間を割いて、城に戻ってきたということだが、それを幼いシュトルツに理解して受け入れろと言うのは難しい。

 そんなことも踏まえて、タオーネはトロイの話に聞き入った。

 子どもが悪さをしたらまずは叱るという一般的な教育の風潮から少し外れている考えの持ち主は、新しい同僚がどういった価値観を有しているのかわからず、恐る恐るといった様相で話を締めくくる。


「殿下の場合はまず根本的に寂しさを解決して差し上げたほうが、効果的かなって思うんですけど……どうでしょう……?」


 自身の主張に対する意見を求めてくるトロイの視線と、黙って男たちの話に耳を傾けてるリーリエの視線がタオーネに注がれる。

 こういった種類の視線を向けられたことが以前にもあると感じたが、仕事の場に無関係な私情を持ち込むべきではないと留まり、臆病な少年の面影を心の奥底にしまい込む。

 それから努めて微笑をつくりあげると、タオーネは相手を安心させるために頷いて同意を示した。


「私はトロイさんの意見に概ね賛成です。子どもが寂しがるままに放置するのはよくないことですから」

「本当ですか? よかった……」


 仕事をともにする仲間から賛同を得られたことで、トロイがホッとした表情を見せた。

 だが、タオーネの考えはそれだけでは終わらない。

 タオーネはできるだけ穏やかな語調で、自身の言い分を申し添える。


「しかし、悪いことをなさったときには、きちんと注意して差し上げたほうがいいでしょう。今は子どもでもいずれはおとなにならなくてはならないのです。そのためには物事の分別というものを理解していただかなければなりません」


 寂しさを認めずに叱りつけることはタオーネもよくないと思うが、それとこれはまた別の話だ。

 甘やかすだけでは碌なおとなに成長しない。

 教育するということには、物事の善悪を教えるということも含まれているはずだ。

 教師としての経験はおろか、伴侶もいなければ実子もいないタオーネではあるが、ふたりの少年の成長を見守ったこの六十年余りの経験からそんな考えが導き出される。

 しかし、概ね賛成だということに変わりはない。

 タオーネはそれを伝えるために、さらに詳しい見解を付け加えた。


「もちろん、暴力や傷つけるような言葉で屈服させるということはしません。これでは根本的な解決にはなりませんから。殿下ご自身が善悪の判断をできるようにならなければ意味がありません。ですが、あの様子だと長いことかかるかもしれませんね……」


 短時間で嫌というほど見せつけられたシュトルツの気性の荒さを思い返し、タオーネはため息混じりに呟く。

 この場であれこれ理想の教育法を考えたところで、まずはあの王子に話を聞いてもらえるようにならねばならぬのだ。

 骨が折れる仕事であるということは明白であった。

 あまり空気を重くしないために微かな微笑みを浮かべたまま、小さな不安をお茶で流し込む。

 すると、タオーネの空になったカップを目敏く確認したリーリエが新しいお茶を注ぎ入れてくれたため、彼女に目配せで謝意を示した。


「そうですねぇ……今の状態じゃ暴君そのものですし、こちらの言葉を聞いてくださるまで随分とかかりそうですよねぇ」


 侍女の少女がお茶を注いでくれる間に、自身のカップを掌で弄んでいたトロイが魔術師の言葉をなぞってのんびりと同意する。

 彼はティーポットを机の上に戻したリーリエがふたたび腰を下ろすのを待って、やはり軽い調子で彼女に話を振った。


「リーリエさんはどう思う?」

「わっ私ですか……?」

「うん。リーリエさんもこれから一緒に頑張る仲間なんだから、みんなで考えたほうがいいと思うんだ」


 ニコリと笑うトロイの言葉に、リーリエの瞳が慎ましやかに輝く。

 これまでたったひとりで王子の横暴に耐えてきた彼女は、仲間という言葉に魅力的な響きを感じるようだ。

 話の輪に入れてもらえたリーリエは嬉しそうにはにかみながらも、自分で意見することに慣れていないのか、腰を引かせておずおずと思ったことを口にした。


「私は……教育とかはよくわからないですけど……でも、シュトルツさまには寄り添う人が必要なんだと思います。城の中ではお友達もいませんし、お母さまもお忙しいですし……」


 自信なさげにそう言う彼女だが、厳しい一ヶ月を送ってきたのにも関わらず、乱暴を働いてくる相手のことをひたむきに考えられることはなかなかできないことだ。

 泣き虫でまだ未熟かもしれない少女だが、その芯は周囲が思っているよりも強いものかもしれない。

 怖がりでありながらも心の折れた様子がないリーリエの様子に安堵を覚えながら、タオーネは年長者らしく今後の方針をまとめる。


「その通りですね。では、しばらくの目標は三人で力を合わせ、まずは王子の心を開く、ということでよろしいですか?」

「はい。とにかくそれが最優先でしょう。勉学は殿下本人がやる気にさえなってくれたら、後からどうにでもなりますから」


 示された目標にトロイがすぐさま頷いて、賛同する。

 所在なさげにエプロンドレスの端を握っていたリーリエも、タオーネの言葉にコクコクと何度も頷いた。

 三人の意見が揃ったところで、とりあえず一段階は進むことができたように思って、幾分か心が軽くなった気がする。

 仕事をおこなう上での方針もまとまり、タオーネはさっさとこの話し合いを終わらせることにした。

 今日は三人が揃った初日だ。

 ほかにもやるべきことはたくさんある。

 タオーネは新しい仲間たちを見渡し、静かな笑みで自分の気持ちを表した。


「それではこの三人で気長に頑張りましょう。これからよろしくお願いしますね」


 人手も限られた、非常に労力を伴う職場ではあるが、覚悟はとっくに決まっている。

 どんな困難が待ち受けていたとしても、この仕事に全霊を注ぐつもりだ。

 今度こそ逃げ出さずに最後までやり通す。

 胸の内でそう己に言い聞かせ、タオーネは穏やかに微笑みを湛えたのだった。

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