新しい仲間
王子の教育係という役目を承ったタオーネは、これからまた公務へ赴くという魔王に別れを告げ、部屋をあとにした。
広く洗練された廊下に出ると、そこには顔馴染みである魔王専属の侍女が待ち構えていた。
清潔なエプロンドレスに身を包んだ彼女は冷淡な表情を動かすことなくタオーネへ一礼し、きっちりと巻かれた撫子色の髪を崩さずに顔を上げて淡々と告げる。
「それでは、まずはご同僚の方のもとへご案内致します」
「はい。お願いします」
タオーネが了承するや否や、彼女は無駄のない動きで足音をたてることなく歩み始めた。
等速な脚運びは後ろに続くタオーネに配慮され、速すぎもしなければ遅すぎもしない。
まだ外は明るいというのに物静かな城内を進んでいく。
タオーネは無言のまま前を歩く侍女の、つる草と同化したような長い耳が揺れ動く様を見て、意を決して言葉を発した。
「あの」
「はい。どうか致しましたか」
声をかけられると同時に立ち止まり、振り向いた彼女に合わせて足を止める。
シャルラハロートと同じくして昔からの知り合いである彼女の表情はやはり変わることはない。
常から厳しい顔つきをしているため、他者から恐れられることも多いようだが、タオーネはとっくに慣れているので気にならない。
年齢を重ねるごとに肌の色が変化するという魔族の中でも珍しい特性をもった種族の出身である彼女の、茶色がかったオリーブ色の肌を目にしながら遠慮がちに言葉を続ける。
「久方ぶりに再会して、いきなり仕事の話で申し訳ないのですが……」
「お気になさらず。わたくしも勤務中は私語を慎むべきだと考えておりますので、再会を喜ぶのはまたの機会でよろしいでしょう」
きっぱりと言い切った彼女は昔と何も変わりない。
幾分か肌の色が深くなったようだが、規律を重んじる性格も、厳しい物言いも、すべて彼女が少女だった時代と同じものだった。
その頃を無性に懐かしく思いながら、タオーネは改めて質問を口にした。
「では、ネルケさん。あなたから見て、殿下はどのような方だとお考えですか?」
言葉にしてみると随分と思い切った問いかけのように思えるが、相手は気心の知れたネルケだ。
仕事中は無駄口を叩かず、魔王の後ろに控えている彼女も、ひとたび口を開けば抜群の切れ味を発揮することをタオーネは知っている。
そのため、単刀直入に意見を求めたのだが、ネルケは珍しくしばし思案するような様子を見せたあと、慎重に言葉を選んでタオーネの質問に答えた。
「……ご自身の目でご覧になることが一番だとは思いますが、王子はおそらくお寂しいのでしょう。母君たる魔王さまはお忙しく、何か月もお会いにならないことも多いので……」
思いやりを感じるその答えに、タオーネは少し意外に思った。
誰にでも厳格な態度を崩さない彼女のことだから、もっと鋭い意見が返ってくるものだと予想していた。
さすがに敬愛する魔王の子息となったら話は別なのかとひとりで結論付ける。
だが、ネルケはすぐにいつも通りの強固な姿勢に戻ると、途端に冷ややかな声音で付け足した。
「だからといって、王子の態度はあまりにも目に余りますが。次期魔王であるというご自覚があるとは思えません」
「……城内でそのようなことを言って大丈夫ですか?」
想像以上に遠慮のない物言いに、タオーネは辺りの様子を窺いながら眉を顰める。
ほかの者に聞かれたとしたら問題になる可能性がある。
しかし、ネルケは顔色ひとつ変えずにきっぱりと言い切った。
「辺りに人の気配はございません。それに、城の者ならば皆が思っていることです」
そう言うと、彼女はエプロンドレスの裾をわずかに靡かせてくるりと身を翻し、ふたたび歩み始めた。
どうやらこれ以上は話を続けるつもりはないらしい。
相変わらずなネルケの様子に呆れと懐かしさが入り混じった嘆息をひとつ吐き、タオーネも彼女のあとを追った。
そして、長い廊下をしばらく進み、階段を下りた先。
城内では幾分か地味な印象を受ける一角に目的の場所はあった。
いくつもの扉が並ぶうちのひとつの前で、ネルケが足を止めた。
「こちらがシュトルツ殿下教育係の方々の事務室となります」
この扉の向こうにこれから仕事をともにする同僚がいるようだ。
ネルケが几帳面に扉をノックし、中にいる者に来訪を告げる。
「失礼致します」
「はい、どうぞ」
返ってきた声音は非常に和やかで柔らかいものだった。
ネルケの手によって音をたてずに扉が開かれる。
すると、そこにはひとりの青年が本の山に埋もれるようにして座っていた。
青年が立ち上がると、その拍子に何冊かの本が机から落ちる。
それを慌てて受け止めて本の山へ積み重ねる彼の姿を、タオーネはネルケの後ろから眺めた。
仕立ての良い執事服を着こなすその者は事前に聞いていた通り、若い。
身長はタオーネよりも若干低いくらいだろうか。
その見目はここ数十年で見慣れた人族とそう変わらない。
だが、上着の裾から見える矢のような形をした尻尾が、青年が魔族であることを示していた。
「あれ? ネルケさん……そちらの方はまさか……」
本を積み終えた若者が、頭の片側でまとめて編んだ髪を揺らし、細く表情の見えない目でタオーネを捉えた。
その顔は若々しいが、先任のホルン・ディーナー氏によく似ているように感じられる。
突然の来訪者の素性を探る彼に答えるように、ネルケがこの部屋を共用する新たな同僚を紹介した。
「元宮廷魔術師のタオーネ・ハイルクラオト殿です。長らく休暇をとっておられていましたが、このたび、シュトルツ殿下の教育係に就任なさいました」
「わーやっぱり! 祖父からよくお話を伺っていました! お会いできて光栄です!」
新しい仲間がタオーネだと知った青年は、嬉しそうに無邪気な笑みを浮かべて近付いてきた。
ほとんど開いていないように見える瞳から感情を読むことは難しいが、その分、顔全体の表情が柔らかくころころと変化するため、むしろ朗らかで取っつきやすい印象を受けた。
感激を素直に表現する口元から、鋭い犬歯が覗いている。
彼は今にも踊りだしそうな心を体中で表していたが、冷たい眼差しのネルケの顔を見ると、照れ臭そうに笑ってようやく成人らしい挨拶の言葉を口にした。
「あ、ご挨拶が遅れました……すみません。僕……じゃなくて私はトロイ・ディーナーと申します。祖父のホルンは先代魔王さまに引き続き、現魔王さまの教養を担当させていただいてました」
「ご丁寧にありがとうございます。タオーネ・ハイルクラオトです。教育というものには不慣れなのですが、どうかこれからよろしくお願いします」
トロイの不慣れな自己紹介を微笑ましく思いながら、タオーネも改めて挨拶を返した。
昔から人見知りする質であったが、この友好的で飾らない青年ならば今後もうまくやっていけそうだと秘かに胸を撫で下ろす。
前の職場では仕事仲間に恵まれなかったこともあり、同僚というものにあまり期待していなかったタオーネだが、ひとまず安心といったところだろう。
差し出された手を軽く握りながら安堵していると、トロイはニコニコと笑っておしゃべりを続けてきた。
「ふふふ、嬉しいな。あの“沈黙の魔術師”さまと同じ職場で働けるなんて」
「……その通り名も、久方ぶりに耳にしました……」
忘れかけていた自身の二つ名を思い出させられ、タオーネは恥ずかしさのあまり顔を伏せるほかなかった。
ほかの魔術師に比べて無詠唱での魔術の行使を得意としているために、知らぬ間に名付けられたものではあるが、巷に流れた風聞も合わさって随分と大げさなように感じるのだ。
確かに若い頃は魔術や治療術にばかり頭を使っていたが、自分はただの魔術師だ。
当代の魔王たちとともにあらゆる経験を重ねてきただけで、タオーネ自身は特に目立とうと思ったことはない。
しかし、その陰に潜む存在でいようとする姿が反対に人々の興味を引いてしまったらしく、結果的にはいくらか誇張された逸話までついてしまった。
そのことを苦く感じているタオーネは顔を紫色に染めて小さくなっていたが、その時代の仲間のひとりであるネルケの咳払いがふたりの間に割り込んできた。
「ご友好を深められるのは素晴らしいことですが、今は勤務中です。ディーナー殿、ハイルクラオト氏へこれまでの業務内容をお伝えください。これからはリーリエを含め、三人で協力していかねばならないのですから」
「私のことはトロイでいいのですけど……どうもディーナーって呼ばれ方に慣れなくて」
「……わたくしは労働の場へ馴れ合いを持ち込むことは嫌いです」
生真面目な侍女の指示にトロイが的外れなことを言い返すが、それもすぐに言葉の刃で斬り伏せられてしまう。
それなりに付き合いの長いタオーネには彼女がトロイの暢気な調子にやりにくそうな苛立ちを垣間見せたことがわかったが、若者が気付くことはない。
にべもないネルケにそれ以上言っても無駄だと悟ったらしい新人の教育者は、彼女に言われた通りにしようとまたしてもタオーネのほうへ向き直った。
だが、すぐさま何やら困ったような顔をして、細い眼を泳がせる。
「ええっと……そうだな……その……」
トロイは言いにくそうに口籠ったが、ネルケの鋭い一瞥にはすぐさま気がついたらしい。
小さく苦笑すると、及び腰で自分が赴任してからのことを言葉に直した。
「……正直に言いますと、私はどうも殿下のお気に召さないらしくって……まだまともに授業をおこなったことがないんです……」
簡潔でわかりやすく、情けない内容にタオーネはむしろ同情したが、自身にも他者にも妥協を許さないネルケはそうではないようだった。
彼女は一度嘆息し、声を抑える努力をしながらも言葉の端々に怒りと呆れを滲ませ、まくしたてた。
「それでも教育係ですか、あなたは。王子の気分が何ですか。教育係ならばそういった態度をたしなめ、厳格にあるべきでしょう」
「いやー……僕、怒ったり叱ったりってことが苦手で……。それにあの子に対して、慣れ親しんでいない相手が厳しく叱るというのは逆効果のような気もしますし……」
「何を甘いことを仰っているのです。第一、この大陸の王子に向かってあの子とは何ですか。王子には次期魔王たる自覚をもっていただかなければならないのですよ。あなたも王子の教育係としての自覚をなさい」
「はい……すみません……」
「すみませんではなく、申し訳ありませんと仰いなさい」
くどくどとたたみかけるようなネルケの説教に、今度はトロイがすっかり小さくなってしまっている。
彼女がひとたび怒ると長くなることは周知の事実であるが、つい最近この城へ赴任してきたという彼には馴染みのない人種なのだろう。
何処か悠長さを感じさせる箱入り息子といった風体のトロイは、尻尾を自らの脚に絡め、しょんぼりとネルケの説教に身を晒している。
その姿を少し可哀想に思って、タオーネは助け舟を出そうとさりげなく厳しい言葉の嵐の合間に割って入った。
「授業についてはまた追々に話し合っていきましょう。まずは殿下にお会いしなければ、授業をつくることもできませんし……トロイ殿も赴任されたばかりで色々と勝手がわからないこともおありでしょう。私にできることがあったら遠慮なく仰ってください」
話題を引き受け、仕事の話に戻すと、真面目な労働者であるネルケも申し分ないというように口を閉じた。
すると、助け出されたことを理解したトロイが人懐っこい笑顔をタオーネへ向けた。
矢じりのような尻尾の先が天を向き、犬のそれのようにゆらゆらと揺れる。
「やっぱりタオーネさまは頼りになるお方ですね。僕、一緒に働く方がどんな人かなってちょっと心配だったんですけど、タオーネさまのような方で安心しました」
そう言う彼はやはり無邪気だ。
擦れたところがないトロイの様子はタオーネにとって好ましいものだったが、これでひどいわがまま者らしい王子の教育係が務まるのか少し不安にもなる。
それも含めて心配したシャルラハロートによって、自分も任命されたのだと己に言い含め、年長者としての覚悟を改めて定めた。
もとより期待はしていなかったのだ。
新しい職場の仲間とうまくやっていけそうなだけで大儲けといったところだろう。
そんなことを秘かに考えつつ、タオーネはまずはこの青年の話をゆっくりと聞いてみようと算段し、常日頃から忙しい友人に声をかけた。
「ネルケさん、あとはトロイ殿に色々と伺っておきますし、此処はもう大丈夫です。ほかにもお仕事がおありでしょうし、あとはお任せください」
気遣いを含めたその言葉に、ネルケはチラリとトロイへ視線を向ける。
それから小さく息を吐くと、王宮に勤める侍女に相応しい美しい所作で了承の意を示した。
「……ハイルクラオト殿がそう仰るのなら、わたくしはこれにて失礼させていただきます。ディーナー殿はくれぐれも失礼のないように。それでは、失礼致します」
最後にトロイへの忠告をひとつ言いつけ、彼女はやはり音をたてずに廊下へと続く扉へ手を伸ばした。
しかし、ネルケの手が扉を引き、ゆっくりと外の景観が目に見えてきたその時。
「ふぇえーーーーーーん!!」
廊下の奥から少女の泣き叫ぶ声が響き渡った。
その大声量の悲鳴のような声は明らかに異常があったことを伝えている。
タオーネは驚いて思わず手にしていた杖を構えたが、ネルケは深い深いため息を吐き、珍しく苛立ちを顕に額を片手で押さえて唸った。
「……あの子はまた……!」
「何事ですか?」
異常があったことは確かだが、緊急性は低いらしく、頭痛に耐えるような姿勢のまま動かないネルケにタオーネは問うた。
何やら事情を知っているようなことを言っていたが、魔王城がこんなにも騒がしいことは少なくともタオーネが知る限りではなかった。
緊急を要するものでないとはいえ、ただならぬ気配に眉を寄せる。
しかし、此処にきたばかりだというトロイは特に焦ることも苛立つこともなく、慣れた様子でいる。
彼は困ったような微笑を浮かべ、気配りするような言葉をネルケへかけた。
「あー、えーっと……ネルケさん。あとは私とタオーネさまでなんとかしておきますから、ご心配なく」
「……問題がありましたら、お呼びください」
「はい、わかってます。わざわざありがとうございました」
最後にトロイが優雅な仕草で簡略化された挨拶の礼を披露すると、ネルケはこの大陸における最高水準の侍女らしく静かな一礼をして、開けたままの扉からやっと狭い事務室をあとにすることができたのだった。
扉越しに神経質な彼女の気配が遠退くのを確認し、トロイが肩の力を抜く。
魔王に仕える者としてはいささか奔放な様相であったが、それでも厳しいネルケを前に気を張りつめていたらしい。
彼はホッと安堵の息を吐くと、タオーネに向かって笑いかけ、件の泣き声について触れた。
「ええっと……タオーネさま、この泣き声はですね、私たちの同僚である侍女のリーリエさんなんですけど……今からご同行願えます?」
扉の向こうからは相変わらずの喧騒が伝わってくるが、トロイは気にすることなくのほほんとした様子のまま、親しい者を茶会へ誘うかのような調子でタオーネに伺った。
そのまったく動じていない神経に少々面食らいながらも、それを了承して問題の侍女のもとへと向かう。
扉を開いてさらに大きく聞こえるようになった泣き声に多少の不安を覚えつつも、タオーネは新しい仲間とともに歩み出したのであった。




