思わぬ任命
「……申し訳ありません。話が、長くなってしまいましたね。魔王さまもお忙しいでしょうに」
これ以上、自分のことで魔族の王たるシャルラハロートを煩わせるわけにはいかないと、タオーネは誤魔化すように微笑んだ。
困った者を放っておけない彼女の性格から、さらに心の内へ踏み込まれるのを恐れていることもあり、それは少し言い訳のように感じられる。
苦楽をともにした彼女を前にすると、ついつい普段は奥底に沈めてある本音が吐露してしまう。
孤独な罰を自身に科せたタオーネとしては、それは避けたいことであった。
だが、タオーネの祈りが通じたのか、シャルラハロートは優雅な動作で頬に手を触れると少々弱ったような微笑で頷いた。
「そんなことない、と言えたらよかったのですけど、生憎わたくしが自由に使える時間はあなたが仰るように少ないのです。……本当はもっとゆっくりあなたのお話を伺いたかったのですが……」
名残惜しげに目を伏せる彼女はやはり美しい。
その情熱的な美貌は魔大陸中の男たちの羨望の的という話も存在し、少なくも昔の仲間のひとりは豊かな胸元を目に毒だとよく彼女をからかっていた。
だが、長い付き合いで彼女の美貌にもすっかり慣れてしまったタオーネは、色香の中に隠された違和感を感じとった。
長い睫毛が影を落としていてわかりにくいが、うっすらと暗い隈が浮き出ているのだ。
おそらく寝る間も惜しんで魔族のために公務をこなしているのだろう。
広大な魔大陸を統べるには相応の苦労が必要となる。
言葉の通りに忙しい日々を送っている様子のシャルラハロートに、労わりの心を込めてタオーネは首を小さく横に振った。
疲労が溜まっているならば、なおさら長らく拘束するわけにもいかない。
そう考えたタオーネは気持ちを切り替え、魔王の臣下として彼女の力になろうと申し出る。
「お気遣い、感謝致します。ですが、どうかお構いなく。魔王さまがお望みならば、今からでも城の仕事へ戻りましょう。私はふたたび魔術研究室へ戻ればよろしいのですか? わざわざ手紙をお出しになられたということは、何か重大な研究を始められたのでは……」
自分がこの城に呼び戻されたということは十中八九は魔術の研究絡みだろうと想定し、タオーネは話を進めた。
タオーネが幼い頃より習得した魔術の多くは誰かに師事することなく得た独学の賜物であり、一般的な魔術師たちとは異なる術式である場合が多い。
そのため、研究の場においては斬新な発想を提案し、従来の魔術に捕らわれない使い道を発見することも多かった。
保守的な宮廷魔術師たちからは妬みややっかみを受けることも多かったが。
慣れない王宮勤めに孤立した職場。
当時のことを思い出すと胃がキリリと痛むが、それに見て見ぬふりして目の前の上司へ意識を移り変わらせる。
しかし、当の魔王は何やら気まずげな視線をタオーネへ向けている。
どうかしたのだろうかと思うよりも早く、彼女は改まった態度で神妙に口を開いた。
「……あなたにはまず、伝えなければならないことがあります」
「……はい」
迫力のある美しさを誇るシャルラハロートが真剣な面持ちになると、思わず身構えてしまう。
タオーネは背筋を正し、次に続く言葉へ耳を傾けた。
もしかしたら、留守の間に想像もできないような悲惨なことが起こってしまったのかもしれない。
悪質な流行病か、それとも大規模な災害か。
瞬時に予想を巡らせるが、長らく魔大陸を不在にしていたタオーネは彼女の説明を待つほかない。
魔王はしばらく言いよどみ、言葉を探している様子だったが、何やら覚悟を決めたのか、ゆっくりと重大な事実を艶やかな唇からこぼれ落とした。
「実は、わたくしは…………子を産んだのです」
「………………は……?」
思いもよらない告示に思わず間の抜けた声が漏れた。
子ども? 誰の? シャルラハロートが?
一瞬の間に断片的な疑問が浮き上がっては途切れる。
タオーネは面食らったまま、驚愕を口から漏らした。
「子どもを、産んだ……? えっシャリィ……魔王さまが、ですか?」
あまりの衝撃に昔の呼び名を口走ったが、雑に訂正して聞き返す。
六十年ほど昔、タオーネがこの城を飛び出す頃には男の気配など何ひとつなかった彼女に子ども。
魔王としての務めを果たすために結婚は考えていないと公言していた彼女が、子どもを産んだ。
欠片も予想していなかった事実を前に、タオーネの動揺はなかなか収まらなかった。
その美貌と色香から男たちの羨望の的でありながら、本人は男への興味などこれっぽっちも見せたことがないというのになぜいきなり子どもなのか。
そして、子を生した相手は一体誰なのか。
そんな疑問が渦巻く中から飛び出た確認の言葉に、シャルラハロートは少し困ったように微笑みながら緩慢に頷いた。
「ええ。わたくしは三十年前に子を産み、母となりましたの」
「……不躾ですが、お相手は……?」
「それは公開しておりませんの。父なし子ということになっていますわね」
恐る恐る口にした質問には、あまりにもあっさりとした答えが返される。
それ以上は語られることはないのだとその答えに察したタオーネは、子の父親が誰なのか追究しようとは思わなかった。
魔大陸で片親のわからない子どもは別段珍しいものではない。
それに魔王という最高権力を手にしているシャルラハロートの夫ともなれば、政治的にもさまざまな障壁があるのだろう。
権力者同士の駆け引きというものに疎いタオーネでもそのことはすぐに理解できた。
公開していないというならば、わざわざ触れることでもない。
タオーネは動揺を抑え、微笑みを繕い、態勢を整えた。
「そう、ですか。いや……何はともあれ、おめでとうございます」
「うふふ、ありがとう」
驚きのあまり遅くなった祝辞に、シャルラハロートは安堵したように笑う。
おそらく昔馴染みであるタオーネに祝福してほしかったのだろう。
魔王に就任してからはあまり見かけなくなった、花が綻ぶような笑顔で素直に喜びを表している。
その様子からは子を産んだことを幸せに感じているのだと伝わってきて、タオーネは眩しいものを見るように目を細めた。
そして、彼女の幸福に羨望にも似た感情を覚えながら、まだ落ち着ききらない気持ちのまま話を進めた。
「……それで、その、王子ですか? それとも姫でしょうか……」
「男の子よ。わたくしに似て、少しやんちゃが過ぎますの。シュトルツと名付けました」
シャルラハロートに似て、と聞いてタオーネは一瞬、過去の出来事へ想いを馳せた。
目の前の彼女がまだ表情を取り繕うこともできずに、感情豊かな挙動で周囲を振りまわしていた頃のことだ。
あの頃はよく意見の相違によって衝突し、多くの気力を消費しながら対立することも多かった。
若い頃から頑固な自分と情熱的な行動力を有する彼女は、事あるがごとに己の考えをぶつけあっていたが、彼女がぶつかる相手はタオーネだけには留まらなかった。
何にでも首を突っ込み、弱者を守るためならば相手がどんな強者でも構わずに突っ込んでいったシャルラハロートの尻拭いは、正直のところ彼女との言い争いよりも随分と苦労させられた。
タオーネは過去のシャルラハロートの無謀とも言える猪突猛進っぷりを思い出し、その血を受け継いでいるという彼女の息子のことを考えて、恐々と質問を続けた。
「では、シュトルツ殿下と私の仕事に、何か関係が……?」
わざわざ仕事の話をする前に話したということは、自身の新しい仕事と彼女の子に何か関連性があることは明白だった。
ただの魔術師ならば直接的に王子と関わることはないように思え、これから己にどのような役割を言い渡されるのか少々不安に感じると、美しい魔王は炎を灯したような瞳で微笑した。
そして、紅い唇から思わぬ言葉を紡ぎ出した。
「そうね……あなたにこんなことを頼むのはお門違いなのかもしれませんが……率直に申し上げますと、シュトルツの教育係にあなたを任命したいのです」
「……私が、教育係……ですか?」
魔王からの通告に思わず訊き返してしまう。
教育係と言われても、タオーネに教育者としての経験は皆無である。
これまでに弟子をひとりだけとって魔術や旅の手立てを教えたり、この一年は右も左もわからない幼子に簡単な教養を学ばせたりはしていたが、次期魔王となる者への教育はどう考えても自分には荷が重すぎる。
孤児として育ったために出自もはっきりせず、王宮勤めをするだけでも何処の馬の骨かもわからぬと陰口を叩かれた。
事実、平民の中でもことさらに貧しい生まれのため、上流階級が必要とする教養も教わったことがない。
そんな己が王子の教育をおこなうというのは、あまりにも無謀だ。
しかし、シャルラハロートはそんなタオーネの考えを気にすることなく、話を続けていく。
「ええ。あなたが城を出たあと、わたくしに魔王たる者としての教育を施してくださったホルン・ディーナー氏がお年で引退なさったの。それから二十年ほどしてからシュトルツが産まれたのですけれど……なかなか適任者が見つからなくて」
ホルン・ディーナー氏はタオーネも知る者だ。
前例のない抜擢にて宮廷魔術師として魔王城へ着任したタオーネに、さりげなく魔王の配下に相応しい振る舞いや王宮ならではの人付き合いを教えてくれたことは、この城では数少ない嬉しい記憶として残っている。
そして、出会った当初から豊かな白い髭で顔を埋もれさせていた彼が引退したという事実はそれを残念に思いながらも、すぐに納得できるものだった。
いくら寿命の長い種族といえど、もとより高齢であったディーナー氏を呼び戻すわけにはいくまい。
それでも自らにお鉢がまわってくることに納得できるわけもなかったが、とりあえず話だけでも聞いてみようとタオーネは黙って耳を傾けた。
「今までも様々な方たちにお任せしたのですが、先ほど申した通り、少し……いえかなりやんちゃが過ぎるもので……教育係どころか乳母まで辞職してしまう有様ですの……」
母親としての恥じらいからか、真っ白なくすみのない肌をほんのりと赤み帯びさせるシャルラハロートの顔がにわかに俯く。
彼女が語った現状にタオーネは秘かにため息を吐いた。
やはり今はそのほとんどが鳴りを潜めているとはいえ、かのじゃじゃ馬の血を引き継いだ王子は随分と曲者のようだ。
教師はともかく赤子の頃から世話をしてきたはずの乳母まで辞めるとは、相当な暴君なのだろう。
確かシュトルツ殿下は三十歳と言っていた。
人族ならばいい年ではあるが、彼らに比べて成長の遅い魔族ではほんの幼い子どもである。
そんな幼さで既に手のつけようがないと彼の母親は言っているのだ。
その事実に頭痛を覚えそうになりながらも、タオーネはふと疑問を感じた。
教育係もおらず、乳母すらもそばにいないということは、件の王子はどういう状況に置かれているのだろうか。
小さな幼児を、それも一国の王子をひとりにしておくわけにもいかないだろう。
タオーネはその疑問をすぐさま口にした。
「では、現在、殿下はどうなさっているのですか?」
「ひと月ほど前から、ネルケと同郷のお若い方にお付きの侍女として付いていただいています。数日前にはホルン・ディーナー氏のご令孫に赴任していただきましたが、何分まだまだ経験の浅い若者ですので、城の者たちも心配しているところでしたのよ」
答えを聞いたタオーネは教育係として指名されたことに対して、ほんの少しの納得を得た。
魔王専属の侍女であり、同時に近衛兵でもある昔馴染みと同郷ということは、王宮に勤めるための教養を幼い頃から学んできたということだ。
彼女たちの一族は古くから魔王に忠誠を誓っているらしく、女性の多くは年頃になると侍女として魔王に仕えることが多い。
それと同じように引退したディーナー氏の家系も代々、次期魔王の教育係としての役目を担ってきたということを思い出す。
幼い頃から教育者になるべく育つという家柄の者、それもあのホルン・ディーナー氏の孫が赴任したというのだから王子に施す教育の内容は心配なさそうだ。
むしろその若者たちに足りないのは年齢というものだろう。
いくら手に負えないといっても王族の子を教育せねばならないのだ。
そのあたりには寛大であろう母親はともかく、保守的な臣下たちが若者相手にあれこれ口を出す様子が目に見えている。
きっとそんなことにならぬよう、彼女はそろそろいい年と言える程度には年齢を重ねてきた自分にも教育係としてその輪に加わってほしいのだろう。
前の職場での評価は何であれ、タオーネも一応は優秀な魔術師として王宮へ勤めていたのだ。
王子のそばに置く理由は無理やりではあるがつくれる。
タオーネがそんな背景を理解していると、シャルラハロートは美しい顔を少しばかり曇らせた。
ひとりの母親である彼女は一瞬の憂いを垣間見せ、すぐに凛とした強い美しさを取り戻すと、厳しいまでにハッキリとした声音で語り出した。
「……本当は、母であるわたくしがそばに付いていられるならよろしいのでしょうけど……わたくしは今代の魔王として、務めを果たさなければなりません」
言い切る彼女の顔は魔王のそれであった。
そこに生半可な甘さはない。
「シュトルツには寂しい想いをさせていることでしょう。ですが、わたくしは母である前に王です。すべては魔族の幸福のため、この身を捧げる必要があります」
今こうして王としての覚悟を語る彼女も、タオーネが戻るまでに多くのことで頭を悩ませてきたのだろう。
お転婆だったが根は誰よりも優しいシャルラハロートのことだ。
母親として、魔王として、心の揺れ動きに翻弄されることもあっただろう。
しかし、彼女は第一に王であることを選んだのだ。
この世に生まれ落ちたとき、彼女に王位継承権は存在しなかった。
それどころか王族の血を継いでいることすらも伝えられずに育ったと聞いている。
そんな彼女が魔王となる際には、多くの苦労と努力、そして相応の覚悟が必要だった。
どんな困難にも立ち向かい、乗り越えてきた彼女は、己のすべてを魔族の平穏へ捧げることを誓っていた。
そのために自身の生活を省みることなど二の次なのだろう。
だが、彼女は母親になったのだ。
魔王であることを選びながらも、心の何処かしらではやはり母親なのだ。
シャルラハロートは燃え盛る王の眼差しを弛め、心配そうな、それでいて暖かさを感じる真摯な視線をタオーネへ向けた。
そして、ひとりの子の親として、信頼する仲間へ願いの言葉をかけるのだった。
「あなたにこんなことをお願いするのは身勝手なことだとは思いますが、どうかあの子に一度お会いしていただけませんか。もしもあなたの手にも負えないようでしたら、そのときは辞退してくださって結構ですから……」
我が子を心配し、それでも自らの信念を曲げることはできず、ひとり悩む母の顔。
そんなシャルラハロートの姿に、タオーネは自身の苦しみを重ねていた。
子どものそばにいたいと願っても叶えることのできぬ状況。
タオーネは、シャルラハロートに自分を、彼女の子にドニを重ねて見ていた。
自らが王子の教育係になるということへの自信は、まったくと言っていいほどない。
けれど、少しでも彼女と彼女の子の力になれたなら。
そう考えたタオーネは椅子から立ち上がり、恭しく跪いて頭を垂れた。
慣れないはずの格式的な言葉が、するりと滑り出る。
「魔王陛下の仰せのままに」
仲間の苦悩に応えるように、自分自身の罪を償うために、タオーネは役目を引き受ける覚悟を胸に刻み付けた。
せめて、ドニに添い遂げられなかった分も彼女たちの力になろう。
タオーネは秘かに誓い、瞼を閉じた。
何処で、孤独な少年が泣いている気がした。




