旅立とう
ついにその日はやってきた。
その日がくるまでに時間が許す限り友達と過ごし、やっと住み慣れた家を見てまわったが、それもあっという間に過ぎていったようだった。
朝早くに目覚めたドニは丁寧に顔を洗い、まとめた荷物の確認もおこない、余った時間でふたたび家の中を見まわる。
自分にあてがわれた簡素な部屋、多くの時間を過ごした台所、あまり足を踏み入れることのなかった今は何もないタオーネの自室。
そして、まだ微かに治療魔術師の面影を残した治療院。
そこで静かに息を吸い込むと、薬を調合するタオーネの姿が目に見えるようだ。
さまざまな薬草が入り混じったこの匂いもこれで最後だ。
次にこの匂いに出会う時は、タオーネを見つけたときだろう。
ドニは目をつむり、もう一度深く息を吸い込んで治療院を後にした。
そのまま自室に置いていた荷物を背負い、台所へ向かうとちょうど迎えのエルサリオンが勝手口の扉から顔を覗かせたところだった。
相変わらず美しい顔立ちをしたエルフが、こちらを見てニッコリと笑って声をかけてくる。
「準備はいーい?」
その確認にドニは小さく頷く。
ニコラスに手伝ってもらって詰め込んだ荷物は大きな背負い鞄がひとつと、あとはバトルアックスだけだ。
緑がかったマントもきちんと身につけて抜かりはないように思える。
ドニの返事を確かめたエルサリオンはうんうんと頷くと、ふわふわと春風のような調子で外へ誘い出してきた。
「じゃあ行こう? みんな、ドニくんのことを待ってくれてるよ」
ドニはもう一度頷き、裏口から外へ出た。
そういえば、普段から玄関よりもこの勝手口のほうをよく使っていた。
少し歩き、立ち止まって振り向く。
タオーネとともに暮らした静かな家が変わらず佇んでいる。
その姿を見て、ドニの脳裏にこれまでの記憶が蘇る。
頑丈な食卓に並んだ温かい食事や甘いお茶におやつ。
今も台所の隅にひっそりと置いてある、文字や計算を覚えるのに用いた砂の入った木箱。
今はもう随分と寂しくなってしまった巨大な本棚や薬棚。
そのすべてがドニの奥底で蘇り、また眠りについていった。
奥深くへ沈んでいったものたちを見送り、ドニはまた歩き出す。
もう後ろを振り返ることはない。
そのままエルサリオンに連れられて東門へ進んでいくと、門の前に見知った顔が並んでいるのが見えてきた。
どうやらみんなドニの見送りに来てくれたらしい。
門はすでに開かれ、その外には古びた馬車と繋がれた二頭の馬が待ち構えている。
その馬車は村人が昔使っていたものを貰い受けたものだと、ドニは事前にエルサリオンから聞いていた。
御者台には灰褐色のマントに身を包んだフアリが座っている。
ドニを引き連れたエルサリオンは笑顔でそこで待つ者たちへ気楽な声をかけた。
「お待たせしました~」
その声掛けに各々ドニを待っていた見知った顔がすべてドニのほうを向いた。
バナーレ村で人見知りなドニが深く関わった者はそう多くない。
見送りに集まってくれたのは村長と駐在騎士の一家に猟師の一家、そしてお隣の木こりの一家だった。
ニコラスは大荷物を背負ったドニを見るや否や、今はもうそこまで変わらなくなった高さの視線を合わせ、最後の確認をおこなった。
「ドニ、忘れ物はないな?」
再度ドニは頭の中で記憶を辿り、大丈夫だと頷いてみせる。
必要なものはすべて持ってきた。
ドニが頷くと、ニコラスはいつものようにもはや自分とそう変わりない位置にあるドニの頭を撫でた。
そして、意志の強さを表す真っ直ぐな瞳がわずかに滲んだかと思うと、すぐに優しい言葉が続けられる。
「お前と先生の家はそのままにしておくから、いつでも帰ってこい」
そう言うニコラスの瞳はもう濡れていない。
もしかしたらドニの目の錯覚だったのかもしれない。
しかし、ドニはこの年若い騎士が意外と涙もろいことを知っていた。
そんな彼が何度もいつでも戻ってこいと言ってくれるたびに、嬉しくて胸の辺りがじんわりと暖かくなるが、ドニはもう戻らないと決めたのだ。
それでも帰る場所があるという事実と、それを何度でも確かめさせてくれるニコラスの気持ちが嬉しかった。
彼はもう一度ドニの髪をくしゃっと撫でると、これからドニを外の世界に連れ出してくれる少年らしさが色濃く残るエルフの手をしっかりと握った。
「リオンさん、ドニをよろしくお願いします」
「まっかせといてー! フーちゃんもいるし安心して任せてよ!」
薄い胸をドーンと叩いてニコニコと笑うエルサリオンはやはりドニたちとそう変わらない年に見えるが、彼は長寿であるエルフだ。
この場の誰よりも年長である彼はきっと頼りになるのだろう。
それでも飄々としたエルサリオンでは心配に思う者も少なくないようで、ヘンリーの妹サラがおずおずとドニに話しかけてくる。
「ドニお兄ちゃん、本当にいっちゃうの?」
兄によく似た幼い彼女のどんぐり眼には、涙がたっぷりと溜まっている。
その腕には木彫りの人形アミィが抱かれており、彼女はそれをぎゅうっと抱きしめて今にも泣き出しそうになるのを堪えていた。
ドニはそんなサラの姿に何と答えればいいのかわからず言葉に詰まった。
すると、兄であるヘンリーがすぐに自身の妹をたしなめた。
「サラ、あんまりドニを困らせるなよ」
「だって……」
兄らしく諭そうとしたヘンリーだったが、サラが涙の溜まった瞳でぐずり始めると、困ったようにオロオロし始めてしまった。
妹には随分と甘い彼は強く叱ることに慣れていないのだ。
だが、そんなヘンリーを手助けするかのようにシェリィがそっとサラの背中を押して言った。
「サラ。あんた、渡すものがあるんじゃないの?」
「うっうん……!」
シェリィに促され、サラは慌てて涙を拭うとドニのそばに寄ってきた。
それから人形とともに抱えていた小袋を取り出しながら、それが何なのか説明してくれる。
「あのね、ドニお兄ちゃんが怪我しないようにね、お守りをつくったの」
人形を落とさないように四苦八苦しながらも、やがてきれいな草色の小袋の中から何かが転がり出された。
すぐにサラの小さな手によってドニの掌に乗せられた木彫りのそれは丸っぽく、何やら動物のように見える。
「豚さんだよ。お兄ちゃんとアーサーお兄ちゃんが木で彫ってつくったの。お顔はサラがやったんだよ」
そう言われてまじまじと眺めてみると、確かに豚らしい特徴がわかった。
垂れ気味の耳に特徴的な鼻、つぶらな瞳、そして四本の短い脚。
木でこしらえられたその豚は少々歪だが、愛嬌のある可愛らしい表情をしている。
「豚は怪我をしにくいから健康の象徴になるらしい」
「あと幸運の象徴でもあるから、持ってたらいいことあるかもね!」
じっくりとお守りの豚を見つめるドニに、ニコラスとエルサリオンが補足の説明をしてくれた。
この村でも豚は何度も見たことがあるが、そんな意味があるとは知らなかった。
ドニは幼い少女と友達たちの気遣いが嬉しくて、くしゃりと破顔して感謝の気持ちを口にした。
「サラ、あ、ありがとう」
「うんっ。あとね、その袋はシェリィちゃんが縫ってくれたんだよ!」
ドニが喜んだことが嬉しかったのか、ニッコリと笑ったサラがそう言って豚のお守りがしまってあった草色の小袋を手渡してくる。
それを手に取って見てみると、縫い目が均等でしっかりと綴じられており、通された紐も頑丈そうだった。
彼女が縫い直してくれたシャツでも思ったことだが、シェリィは裁縫が本当に上手だ。
ドニは心底感心して、相変わらず無愛想な少女にも感謝を表した。
「シェリィも、ありがとう」
「……大したことはしてないわ。せっかくサラから貰ったんだから、大事にしなさいよね」
「う、うん」
素っ気ない言葉を返され、コクコクと頷く。
おとなも子どもも多少なりとも涙ぐんでいるこの場でも、シェリィはいつもと変わらない。
彼女はつっけんどんに手を差し伸べると、意外と面倒見のいい一面を見せた。
「貸して。荷物に入れておいてあげる」
言われるがままにお守りと小袋を渡す。
シェリィは小さな豚を丁寧に自身が縫った袋へしまい込むと、それをドニが背負っている大荷物の隙間へ慎重に差し入れた。
そして、彼女はドニの顔をジッと覗き込むと、小さな声で呟くように言った。
「……気をつけて行きなさいよ」
「……うん」
シェリィ式の優しい言葉にこみ上げる熱い気持ちをそのままに頷く。
初めは怖くて仕方がなかった彼女も、今ではそうではないのだとドニは知っていた。
彼女の言うことはいつも筋が通っていて、いつでも揺るぎないその姿にいつしか憧れていた。
それはこれからも変わることはないだろう。
ドニがしっかりと頷いたことを見届けたシェリィはくるりと振り返り、いつもの調子で少年たちに発破をかけ始める。
「ほら、あんたたちも言いたいことは言っておいたら? ぐずぐずしてあまり引き留めるのもよくないわよ」
そのずけずけとした物言いにアーサーが苦笑し、ヘンリーとともにドニに近寄ってきた。
おとなたちは子どもたちの友情を優先するつもりらしく、遠巻きに見守るだけに留めるようだ。
ドニの友達は並んで立つと、お互いに視線を交し合った。
しばらく言葉なく相手の気持ちを確かめるように見つめあい、一番のおしゃべりであるヘンリーが口火を切った。
「……ドニ」
彼はこれから旅立つ友の名を呼んで少し黙った。
しかし、すぐに口元へ笑みを浮かべると、ドニの手を固く握りしめた。
それはいつものヘンリーの笑顔だった。
握りしめられた手が熱い。
「絶対に会いに行くからな」
「……うん」
「俺、大きくなったら冒険者になるよ。それで、絶対に自分で魔大陸に行けるくらい強くなるから」
夢を語るヘンリーの瞳はいつもに増してキラキラと輝いて見える。
それがなんだか眩しくて、ドニは目を細めて本当にそうなったらいいなと無邪気に考えた。
けれど、小さな友達はなんだか恥ずかしそうに自分のもじゃもじゃ頭を乱雑に掻いた。
「へへへ。なんか恥ずかしいな。アーサーなんてもっと色々と考えてるからなぁ」
そう言われ、アーサーを見ると、彼は困ったような微笑を湛えていた。
それからしばし言葉を探しているような様子を見せたあと、アーサーは真面目な調子でゆっくりと自身の決めたことを言葉に表していった。
「……ドニくん。……俺は、ウォルトン領騎士団じゃなくて、王国騎士団を目指すことにしたんだ」
初めて聞いたアーサーの決意に驚いて、ドニは目を見開いた。
王国騎士といえば、タオーネを村から追いやったやつらだ。
それなのにアーサーはどうしてそんなものを目指そうと言うのか。
わけがわからず混乱していると、彼はゆっくりと詳細を語り始めた。
「この村にきたやつらを見て、王国騎士団の現状は本当にひどいものだってわかったけど、俺はそれを変えたい」
王国騎士団を変える。
そう言うアーサーの眼差しはいつも以上に真剣で、強い意志を感じられる。
その瞳を見て、混乱していたドニの頭がだんだんと落ち着きを取り戻していった。
王国騎士になりたいと言う彼は、初めて会ったときから何も変わらない。
真面目で優しいドニの友達のままだ。
アーサーは――きっと多くの時間を費やして考えたのだろう――懸命に自身の考えを説明してみせた。
「だから、俺に何ができるかはまだわからないけど、自分が入団して内側から頑張ってみようと思って……。俺は生まれたときからタオーネ先生のお世話になってきたから、魔族とか人族とかは関係なくいい人はいるんだってわかってる。それを周りに伝えられたら、何か少しは変わるかもしれないだろ?」
自分では思いつきもしなかったアーサーの目標に、ドニは思わず息を呑んだ。
彼はこの大きな世界を相手にしようと言っているのだ。
ドニとタオーネが早々に諦めてしまったことを、この友達はやってのけようと決意したのだ。
「王国騎士団の騎士たちは王都の貴族ばかりだから、俺が入り込むのは本当に大変なことだと思う。でも、俺、絶対にやるよ。いつか魔族の人もこの国で平和に暮らせるようになるまで、頑張るから」
もしも彼が言う通りの世界がやってきたなら、タオーネもまた此処へ戻ってこれるかもしれない。
あの優しい魔術師が心穏やかに暮らせたというこのバナーレ村で、また一緒に暮らせる日がくるかもしれない。
そうやって考えると、ドニの胸が大きく高鳴った。
そんなことは、本当にこれっぽっちも考えたことがなかった。
ドニよりずっと賢いアーサーはそれがどんなに難しいことかわかっているはずだ。
それでも彼はやると決めたのだ。
アーサーが言うと、不思議と実現するような予感を抱くのはなぜだろう。
ドニは感謝と尊敬の気持ちを込めて、優しくて責任感の強い友達を見つめた。
彼はそんなドニの視線に気付き、ふと目元を和らげると、珍しく年相応の笑顔を見せた。
「それに、王国騎士団は国王さまに直接仕えるからね。もしかしたら国同士のやり取りによっては、魔大陸に行くことになるかもしれない。 そしたら、絶対にドニくんに会いに行くね」
子どもらしい約束を口にして、アーサーはドニの手を柔く握った。
彼の目に涙はない。
ずっと先を見据えた、しっかりとした目をしている。
それを見て、ドニは無意識に浮かんでいた涙を服の袖で拭った。
友達が自分のために未来を見据えて悲しみを乗り越えたのに、己が泣いているのはおかしいように思えた。
ドニが涙を拭いている間に、ヘンリーがいつものように暢気にぼやく。
「アーサーならやり遂げそうだよなぁ……俺も頑張らなくちゃな」
「ふたりでどっちが先に魔大陸へ辿りつくか、勝負だな」
「勝負っつーなら負けられねーな!」
軽口を叩きあいながらも、ふたりの友達はどちらも本気だった。
ヘンリーもアーサーも晴れやかな顔だ。
ふたりはそれぞれドニを励ますように軽く腕を叩き、何の陰りもない眩い笑みを向けてくる。
「だから、ドニくんも頑張って。俺は何処にいても君を応援するから」
「友達だもんな!」
その力強い言葉に、ドニは鼻の奥がつーんとした。
さっき拭いたばかりの涙がまた滲み出てくる。
それでもドニは目を拭くこともせず、ふたりの友達の手を取った。
色々と言いたいことはあるのに、気持ちばかりが先走って言葉にならない。
ドニはただうわ言のように親友たちの名を呼んだ。
「……アーサー、ヘンリー……」
じわじわと溜まっていくドニの涙を見て、ふたりが一瞬、唇を震わせる。
しかし、あくまで明るく先に険しい道を行く友を送り出すため、すぐに笑顔に戻り、触れあった手を強く握りしめる。
怪力故に力を込められないドニに代わって、強く強く握りしめる。
「いってらっしゃい。……また会おうね!」
「そーそー。これはさよならじゃないぞ! また会うときはまたなって言わなきゃな!」
アーサーがおとなっぽい微笑を湛え、ヘンリーが大きな口を暢気で元気な笑みで飾った。
ふたりの顔に悲しみはない。
別れ際に約束を交わして、三人はそれぞれの道へ足を踏み出そうとしていた。
また会おう。
その言葉が心に響いたのは、どうやら少年たちだけではなかったようだ。
不意に大きな手で頭を撫でられる。
振り向くと、ニコラスが泣き笑いのような顔でそこに立っていた。
彼は自分の息子にそうするように何度もドニの頭を撫でると、確かな言葉をドニへ送った。
「……ドニ、またな」
最後までドニの行く末を心配してくれたニコラスが、子どもたちの気持ちを汲み取って、ドニを信じて送り出してくれている。
たったひと言の短い言葉の中にその事実を理解して、その途端、ギリギリのところで留まっていたドニの涙が一粒だけ宙に消えた。
ドニはそれを気にも止めず、この一年間を過ごし、人としての幸せを教えてくれたバナーレ村の人びとへの気持ちを最大限に表し、言葉という形にした。
「……みんな、またね……!」
別れの言葉はさよならではない。
またいつか会う日まで、しばしの別れだ。
ドニは涙を浮かべながらも笑顔でバナーレ村の門を越え、外へ出た。
北へ向かう風がドニの体を包み込み、林檎のような頬を撫で、遠い遠い地を目指して吹き去っていった。
※※※※※※※※※※
「そしたら行こっか!」
フアリと並んで御者台に座ったエルサリオンがそう言ったのを皮切りに、馬が歩き出し、馬車がゆっくりと進み始める。
荷台に乗せられたドニはガタガタと揺れる視界の中、だんだんと遠退いていくバナーレ村を見つめ続けた。
村の姿がどんなに小さくなっても、やがてドニの目では捉えることができなくなっても、ひたすら思い出の地と暖かな人たちを想って見つめ続けた。
その間にも幼いドニを乗せた小さな馬車は、北を目指して走り続ける。
もう一度、あの優しい魔術師に会うために。
第1章 バナーレ村 完結。




