お別れしよう②
一旦シェリィが縫い直してくれたシャツを家に置きに帰り、それから一行が向かったのはバナーレ村を横切るように流れる小川に続く道だった。
この一年で歩き慣れた道を進んでいくと、見慣れた古い小屋が見えてくる。
避難所ともなっているその小屋を初めて見たときは夜だった。
暗闇の中ではひどく恐ろしげに感じられた小屋も、昼の明るい時間では何ともない。
この小屋の地下に隠された部屋には恐怖と緊張の記憶が潜んでいるが、三人ともそのことについては触れなかった。
そこが先日の騒動と関係ある場だということに気がつかないふりをして、小屋の前を通過する。
そして、小川にかけられた橋を目にしながらも、ヘンリーが不意に道を逸れた。
慌ててそれについていくと、ヘンリーは川べりの草むらを前にして目を細めて言った。
「此処でさ、俺とドニで光虫を見たよな」
懐かしむような様子のヘンリーに、ドニも同意して小さく頷いた。
あの夏の夜の光景はこの先もけして忘れることはないだろう。
真っ暗な空を埋め尽くすように瞬く星たち。
小さくささやかだが力いっぱいに煌く光虫たち。
ふたつの異なる光の世界が入り混じる幻想的な風景は、ドニの心に強く刻み込まれていた。
夏の大気に孕んだ熱気が肌に纏わりつく感覚まで思い出す。
過去の記憶に馳せていると、ヘンリーはさらに話を続けた。
「そのあと、アーサーも遊べるようになって、あの小屋にツバメの雛も見に来たな」
「あの雛たちももう大きくなって何処かに行っちゃったね」
そんな会話を耳にして、ドニは光が舞う夜の記憶から弱々しい渡り鳥の雛たちの記憶へ意識を移した。
初めて三人揃って遊びにいったときのことだ。
小屋の壁の高い位置につくられた巣の中で、ピィピィと不安げに鳴いていた雛たちは季節が移り変わるのに合わせて大きくなり、とっくの昔に何処かへ飛んでいってしまった。
時おり、巣からこぼれ落ちてしまった雛鳥を見つけてはヘンリーがそっと巣に戻していたことを思い出す。
残念なことに最初に見たときよりも数は減ってしまったが、バッタなどの虫たちを食べて大きくなった雛たちを最後に見かけた際には親鳥とそう変わらない姿になっていた。
そんな記憶をドニと同じように思い返したらしいアーサーが、しみじみと感心した様子でその気持ちを言葉にした。
「あんなに頼りなかったのに、空を飛べるようになるんだもんな。すごいよな」
三人はふたたび道へ戻り、今度こそ橋を渡った。
何度も並んで歩いたその道を進みながらも、少年たちはお互いに共通する思い出を探していた。
これからの別れからひとまず目を逸らし、今は楽しかった月日を振り返りたかった。
口にはしなかったものの、三人の誰しもがこの一年を忘れたくないと考えていた。
どんなに些細なことも今ではかけがえのないもののように思える。
少年たちは目敏く記憶の片鱗を見つけては、あの辺りに咲いた春のあの花がきれいだったとか、花よりもこの先にある秋に実をつける木々のほうが好きだとか、取るに足らない何でもないような事柄をひとつひとつ大切に思い返し、言葉を交わした。
そうやって道なりに歩いていくと、この村の中では目立つ高さの丘が見えてくる。
丘のてっぺんには背が高く幹も太い年寄りの木が根付いている。
村の中心にあるその丘には子どもたちが多く集まるが、その立派な木に登れるものは案外少ない。
だんだんと近付いてくる丘を目にしたアーサーが、ふと思い出したように幼馴染へ問いかけた。
「あの丘のてっぺんにある木に登ると、夕日が一番きれいに見えるって教えてくれたのはヘンリーだっけ?」
「ん? そうだっけ? 俺は父ちゃんに教えてもらった」
キョトンとした様子であっけらかんとそう言うヘンリーだったが、ドニはしっかりと覚えていた。
ドニも此処で見る夕焼けが一番きれいなのだということをヘンリーに教えてもらった。
小さな友人よりも遥かに体が大きく重いドニは木に登るのも一苦労だった。
しかし、ヘンリーは諦めることなくドニを励まし、ふたりの少年が座ってもビクともしない太い枝へ導いてくれたのだ。
そこから見た夕日はそれは素晴らしいものだった。
のどかなバナーレ村が鮮やかな夕日に照らされ、燃え上がるような光景を一望した。
それからも度々その木に登っては、少年たちは雄大な夕焼けに心打たれた。
そんな思い出を共有しながら歩んでいくと、丘のふもとに広がる広場も見えてくる。
そこでは春と秋の年二回訪れる行商人が店を広げることもある。
ドニも去年の秋にはマントと襟巻、そしておいしい飴玉を、今年の春先にはあの見事なバトルアックスをタオーネに買い与えてもらった。
とても嬉しく鮮明に思い出せる出来事であるはずなのに、思い出したドニの胸がチクリと痛む。
旅立ちが決まった今でもタオーネが去ったという事実はドニを苦しめる。
けれど、忘れたいと思ったことは一度もない。
いくら胸が痛んだとしても、この村でタオーネや友達と過ごした日々を忘れたくはなかった。
その想いも含め、此処での思い出を改めて胸に刻み込む。
何処へ行っても忘れないように。
様々な感情や記憶が入り混じりながらも、歩みを止めることはなく、三人の少年たちは道を進み続けた。
丘を越し、北にかかった橋を渡る。
すると、今度はこれまでも通るたびに少し緊張する場所へと行き着いた。
「あ……」
思わず立ち止まって声を漏らす。
ふたりの友達は急に足を止めたドニに驚くことなくその視線の先を辿った。
道を外れて生い茂る木々を抜けた先には、人気のない静かな川端が待ち受けている。
村の外れであるため、村人もまず足を運ばないそこはヘンリー曰く絶好の釣り場であったが、子どもたちはもう誰も近寄らない。
その原因となった恐怖を唯一体験したドニの頭にはある記憶がありありと蘇っていた。
ともに恐怖を味わったヘンリーはそれを的確に察し、落ち着きなくもじゃもじゃ頭を掻いて言った。
「あっちの川辺でドニがスライムに襲われたときは本当に怖かったぜ。水辺のスライムって怖いんだよな」
彼の言う通り、スライムに襲われたあの事件は思い出すだけで今も怖くなる。
ひとりで助けを待つ孤独や死が間近に迫ったあの感覚は、まだ薄れていない。
だが、あの日に感じたのはそういった負の感情だけではない。
ドニはそのこともしっかりと覚えていた。
あの事件があったからこそ、アーサーはまたヘンリーと遊ぼうと思えるようになり、ドニとも正真正銘の友達となったこと。
そして、ドニが魔物に襲われたと聞いたタオーネが半ば取り乱して走り帰ってきてくれたことも。
タオーネがどれだけドニのことを気にかけてくれていたか、あの日、ドニは初めて実感したのだ。
あのときのひどく焦ったタオーネの様子を思い出すと、胸が暖かくなる。
いらぬ心配をかけたことに申し訳ない気持ちもあったが、どうしても嬉しくなってしまう。
ドニにとってスライムに襲われたあの日は、恐怖と喜びな混じりあった不思議な記憶として強く印象付いていた。
同じようにそのときのことを思い出していたらしいアーサーが、微笑みながらそれを口にした。
「ヘンリーが泣きながら走ってきたときは驚いたよ。ドニくんが無事で本当によかった」
「俺、泣いてたっけ?」
「うん。泣いてた。あんなに泣いてるヘンリーを見たのは数年ぶりじゃないかな」
何処か恥ずかしそうなヘンリーがとぼけるが、アーサーは気にせずに追い打ちをかけた。
幼馴染からの追撃にヘンリーはきまりが悪そうに頭を掻いた。
当人は恥ずかしげにしているが、ドニからしてみれば彼は命の恩人のひとりである。
ヘンリーがいち早く助けを求めに駆けてくれたおかげでドニはこうして生きていられる。
そう考え、ドニは改めて感謝の気持ちを彼に伝えた。
「あ、あのときは、ありがとう」
言ってから少し唐突すぎたかなと思ったが、気のいい友達は少しはにかんでから誤魔化すように鼻の下を指で擦って笑った。
「いいってことよ。友達なんだから当たり前だろ?」
友達だから助けるのは当たり前。
彼にとっては何気ない言葉も、ドニにとっては胸の深いところへ染み込むほど気持ちを揺さぶられるものだ。
自分は彼らの友達として、少しでも彼らを助けたことがあっただろうか?
そんな考えが頭に過るが、ふたりの友達が絶えずに話し続けているため、それはすぐに中断された。
思わず自身の内側に向き出しそうだった意識を浮上させ、過去の話に花を咲かせるふたりのお喋りに耳を傾けながら、ふたたび先ほどと同じく道なりに歩み始める。
しかし、大した距離も進まないうちに、記憶に新しい場所へと行き着いた。
そこはドニが気を失う前に見た、最後の場所。
今はその辺りもすでに日常を取り戻しているが、三人は思わず暗い顔になった。
すべての元凶となったその場所で笑えるほど、少年たちの傷は癒えていない。
さっきまでの笑顔を何処へ消し飛ばしたのか、ヘンリーが沈んだ低い声音でポツリと呟いた。
「……この辺りで三人で戦ったな」
「みんな人間相手の実戦は初めてだったけど、持ち堪えられてよかったよな」
ヘンリーの呟きに応えるアーサーの表情も、言葉とは裏腹に硬くなっている。
やがて誰ともなく歩みを止め、三人はその場に立ち竦む。
そして、しばらくの沈黙。
少年たちはそれぞれ後悔や自責の念に捕らわれていたが、それを口にすることはなかった。
一度口にしてしまえば、きっと笑顔で別れられなくなる。
そんな予感を抱き、三人は黙り込んだまま、この暗い雰囲気からの脱出策を模索した。
だが、それを見つけることはできず、諦めたアーサーが手探りするように口火を切った。
「……ドニくんが倒れて、もう駄目だと思ったときにタオーネ先生が助けに来てくれたんだ」
友達の口から恐る恐る続けられた先日の騒動についての話は、ドニの知らないものだった。
ドニは自身が毒に倒れたことまでしか知らない。
目覚めてからもタオーネが去ったことで頭がいっぱいになり、ほかのことを考えることができなくなっていたため、どうやって盗賊の手から逃れて治療院に運ばれたかは誰にも問うことがなかった。
アーサーが語る話の続きが気になって耳を澄ますと、彼はゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「先生はすぐに盗賊たちを捕まえたけど、なんていうか、すごく怖かった」
彼の感じたタオーネの印象にドニは首を傾げることになった。
あの優しい魔術師と怖いという感情が結びつかない。
一度、強く叱られたこともあったが、アーサーの言う恐怖がそんなものではないことはなんとなくわかる。
しかし、それがどういうものかはやはりわからず疑問に思っていると、ヘンリーがアーサーの意見に同意して頷いた。
「倒れたドニを見た先生は確かに怖かったな。俺、そのまま盗賊たちを殺しちまうのかと思った」
ヘンリーの言葉にドニはとても驚いた。
いくら自分が倒れたからといってタオーネがそこまで苛烈になるとは思ってもみなかった。
だが、正直者である友人たちがそう言うのだから事実なのだろう。
それでも驚きを消し去ることはできず、目を白黒させていると、アーサーがポツポツと話を続ける。
「……それで、盗賊がドニくんにバシリスクの毒を打ったってわかったときは先生も一瞬、すごく動揺してた。そんな先生を見て、俺もドニくんが死んじゃうと思って、頭が真っ白になった」
そこまで言うと、アーサーは黙り込んでしまった。
同じようにヘンリーも何やら思いつめた顔で黙っている。
ドニは自分が倒れたときの話を聞いて、どれほど周囲に心配をかけていたのかようやく理解した。
それなのにタオーネがいなくなったと自身のことでいっぱいいっぱいになり、周りに意識を向けることができなかった己が少し恥ずかしい。
けれど、ドニは毒に負けることなく生き残った。
だからこれ以上、彼らに自分が倒れたことで思い悩んでほしくない。
そう思ったドニだったが、ふたりの憂慮はほかのところにあるようだった。
しばらく沈黙を守った友達は不意にドニを見上げ、うっすらと膜が張った瞳を見せた。
「……なぁ、ドニ。……死ぬなよ」
今にも消え入りそうなその囁きには、懇願するような響きが感じられる。
しかし、ドニには何のことかわからない。
自分は今こうして生きている。
それでもヘンリーのどんぐり眼は湿り気を帯びていて、ドニはオロオロとしてしまう。
彼は鼻をすすると、涙をこぼさないように空を仰ぐようにドニを見つめながら言葉を続けた。
「俺さ、さっきお前に色々言っちゃったけど、わかってるんだ。ドニは先生と一緒にいたほうがいいって。だって、先生とドニは家族みたいなもんだろ? だから絶対に一緒にいたほうがいいと思うんだ」
そう言うヘンリーに同意するようにアーサーも頷いた。
彼らの意見にドニの心が騒めく。
この村にきてタオーネの次に長くそばにいた友達の目には、ドニとタオーネはともにあるべきだと映っていると言うのだ。
それも家族のようだと。
他者から見た自分たちの姿がずっと望んできたものそのもので、ドニは場違いではあるが全身に喜びが迸るのがわかった。
けれど、その反対にヘンリーはより一層目を潤ませて思いの丈を吐き出していく。
「でも……でもさ、死んだらもう会えないじゃんか。お前も旅が危険だとわかってて決めたんだと思うけど、死んじゃったらさ、先生にも会えないし、俺とアーサーも絶対にもう二度とドニに会えなくなる。そんなの、俺、嫌だ」
そこまで言い切ると、ヘンリーは服の袖で乱暴に顔を拭った。
そんな彼を見つめながら、今言われたことを頭の中でなぞった。
彼らはこれから旅立つドニが旅の途中で人知れず死ぬことを恐れているのだ。
ドニはやっとそのことを理解した。
ヘンリーは乱雑に擦って赤くなった顔で、今度は幾分か強い力を眼差しに込めてふたたびドニを真っ直ぐに見上げた。
「だからさ、約束しろよ。絶対に死なないって」
あまりにも必死な言葉に、ドニは息を呑んだ。
小さな友達は半ば呆然としているドニへ、自分たちの気持ちをすべて伝えようと懸命に言葉を重ねていく。
「生きて先生のところに行けよ。そしたら俺もアーサーもどうにかして会いに行くから。何年かかるかわかんないし、おとなになってからになるだろうけど、でも絶対にふたりに会いに行くから」
ヘンリーが約束を語り、アーサーが強く頷く。
彼らの想いはドニの心に深く染み込んでいった。
ドニは今までバナーレ村から出てしまったら、もう二度とこの優しい友達に会うことはないと思っていた。
しかし、ふたりはいつか必ずまた会いに行くと言ってくれているのだ。
そんなことは思ってもみなかった自分が少し恥ずかしい。
けれど、同時に体が震えるほどの喜びがこみ上げてくる。
心の底から湧き上がる感情に思わず泣きそうになって、ドニは口を開いた。
優しくてひたむきな、かけがえのない大切な親友たちの想いに応えたかった。
震えそうになる声を絞り出し、誓いを立てる。
「……おれ、死なない。生きて、またあう」
気弱なドニにしては珍しい、断定的な強い決意の表れ。
その誓いにアーサーが何度も頷き、唇を戦慄かせて顔を腕で隠した。
ヘンリーのどんぐり眼に溜まった涙がポロリと落ちた。
彼は肩を震わせて言葉も出ない幼馴染の分も含めて、大きな声で誓いに応えた。
「約束だからな! 絶対だぞ!!」
ポロポロと涙をこぼしながら叫ぶように言い渡された約束に、ドニは大きく頷く。
すると、その拍子に熱いものが頬を伝い、いつの間にか自分も泣いているのだとわかった。
涙で滲む視界でドニはヘンリーとアーサーを見つめ、改めて自身へ誓う。
絶対にまたふたりに会おう。
そのために何が何でも生きて、タオーネを見つけよう。
三人の少年たちは泣き止む術を持たない赤子のように、次から次へと涙を落とし続けた。
しばし周囲は静寂に包まれ、時おり嗚咽を交えて三人はそれぞれの想いを噛み締めた。
別れを惜しみながらも、その時はすぐそこまで迫っている。
西に沈みゆく太陽が幼い子どもたちを優しく見守っていた。




