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木偶の坊と魔術師が家族になったら  作者: 小峯ゆたた
第1章 バナーレ村
31/58

自分で決めよう

 東の空がにわかに白み始めた頃、ふたたび眠気に襲われたドニがウトウトしている合間にエルサリオンは治療院を後にしたようだった。

 微睡みの中で彼が出ていくような気配を感じてはいたが、どうやらそのまま眠ってしまったらしい。

 次に目を覚ましたときには日は高く昇り、いい匂いが部屋中に満ちていた。

 匂いのもとは、いつの間にかドニの様子を見にきてくれていたお隣のスーザンがよそってくれたスープだった。

 昨夜の残りものであるスープを目の前にしたドニがたどたどしく礼を言ってそれを食べ始めると、その様子を見たスーザンは安心したように微笑み、一旦家へ戻っていった。

 タオーネの味に限りなく近いスープをゆっくりと食べ進めながら、ドニは思案した。

 夜中に決意したことを誰かに話したほうがいいだろうと考え、すぐにニコラスの顔が頭に浮かぶ。

 ドニの心はすでに決まっていたが、そわそわと落ち着かずにその時を待った。

 そして器が空になってしばらくすると、その時はやってきた。

 聞き覚えのある足音が聞こえることに気がつき、耳を澄ますとそれは治療院に向かってくることがわかった。

 足音が治療院の前で止まり、外へ繋がる扉が数度叩かれる。

 それからすぐに開かれた入口から顔を覗かせたのは、ドニの待ち人その者だった。


「やぁドニ。調子はどうだ?」


 いつもよりもやや控えめな陽気さでニコラスが声をかけてきた。

 ドニはこれから自分の考えを話すということで緊張し、言葉も出せずに頷くことしかできない。

 だが、ニコラスはそれを気にすることなく話を続けた。


「リオンさんが後でまた診察しにくるって言ってたけど、お前の回復力は大したものらしい。すぐに元気になれるようだぞ」


 そう言ってニコラスは一旦言葉を切った。

 確かに昨日よりも体の調子がいいことはドニ自身も感じていた。

 ベッドの上で上体を起こす動作も格段に楽になったし、おそらく立って歩くことももうできそうだった。

 きっと食事を摂ったことで、弱っていた体に元気の素のようなものが張り巡らされたのだろう。

 そんなことを考えていると、ニコラスが少し躊躇ってふたたび話を繋げるために言葉を口にした。


「あー……それで、その、もとの調子に戻ったときの話なんだが……ドニはこれからも此処で暮らしたいか?」


 恐る恐るといった様子で投げかけられたその問いにドニは首を傾げた。

 そんなドニを見てニコラスは意を決したような顔つきになると、誠意を込めた真面目な調子で詳しい話を切り出した。


「もし、ドニが此処で暮らしたいならそれはそれでいいんだ。でも、ひとりで暮らすのが寂しいって気持ちがあるなら、うちにこないか?」


 ニコラスの言葉にドニは目を見開いた。

 タオーネが去ってから自分の身の置き場所なんて昨夜まで考えたこともなかったが、まさかニコラスがこんなことを考えてくれていたなんて。

 ドニは半ば唖然としながら若くたくましい騎士を見上げた。

 彼は意志の強い眼差しを和らげ、ドニに目線を合わせて微笑んだ。


「ちょっと狭いがうちなら空き部屋もあるし、家の者もみんな賛成してくれてる。アーサーも兄弟がいないからな。もしもドニがうちにきてくれたら嬉しいって言ってたよ」


 熱心に語りかけてくるニコラスの姿は見るからに誠実で、心からドニを歓迎していることが伝わってくる。

 ドニは自分の胸が暖かくなるのを感じた。

 タオーネ以外にこんな役に立たない自分を家に迎えてくれる人がいるなんて思ってもみなかった。

 心の底が震えるかのような衝動を持て余し、感謝の気持ちを顕にしてニコラスを見つめる。

 彼はそんなドニを真っ直ぐに見据えて、さらに話を続けた。


「病み上がりのお前にこんな話をするのもどうかと思ったんだが、いつかは話さないといけないからな。もちろん、此処に残りたいならそれでいいんだ。その場合もお前が一人前になるまで支援させてもらうつもりだから、安心してくれ」


 つまりニコラスは今後の生活に対するドニの気持ちを汲んだ上で、一人前になるまで面倒を見てくれると言っているのだろう。

 ドニはなんだか己が恥ずかしくなった。

 自身がタオーネを失って嘆いてばかりいた間も、彼はこの先のドニの将来のことを考えていてくれていたのだ。

 木偶の坊であったはずの自分にも、助けようとしてくれる人ができた。

 これまでずっとタオーネしか目に入っていなかったような気がするけれど、彼に救われてこのバナーレ村で暮らし、ドニは多くのものを得ていたのだ。

 そのことをはっきりと自覚し、ドニは鼻の奥がつーんと痛むのを感じた。

 こんな自分のことを想ってくれる彼らの気持ちが、本当に嬉しい。

 嬉しくて、泣きそうだ。

 しかし、ドニはもう自分が進むべき道を決めていた。


「まぁすぐに決めなくてもいい。とりあえず考えてみてくれよ。それじゃ、またくるから」


 病み上がりの子どものもとへ長居することは気が退けるのか、ニコラスは猶予を提示してドニの気持ちにゆとりを持たせるように仕組んであっさりと別れを切り出した。

 彼が去る前に、自身の決意を言わなければならない。

 ドニはドキドキと鳴り響く胸を叱咤して、ニコラスの後ろ姿に声をかけた。


「ニ、ニコラスさん」

「どうした?」


 思っていたよりも小さくなってしまった声にもすぐに足を止め、振り向いてくれたニコラスは親切そうな優しい声で訊き返してくる。

 胸の音がどんどん大きくなっていくような気がする。

 耳の近くでドクドクと低い音が響いている。

 緊張で今にも喉が渇いてしまいそうだ。

 けれど、きちんと告げなければ。

 ドニは意を決して言葉を振り絞り、自身の気持ちを口にした。


「お、おれ、おれ……タオ、探しにいく」


 始めの言葉は詰まってしまったが、声を震わせることなく告げられた。

 意気地なしな自分にしては上出来だと珍しく己を褒め、ドニは動悸を鎮めようと目を伏せた。

 しかし、ニコラスが動く気配がしない。

 ポッカリと空いたような間を不思議に思って、おずおずと彼の姿を視界に入れる。

 すると、ニコラスは顔を固く強張らせて動揺しているようだった。

 彼はドニの視線に気がつくと、我に返ったように厳しい語調でドニの決断を咎めた。


「それは、駄目だ。お前を行かせるわけにはいかない」


 そのあまりの頑なな気迫に一瞬、怖気づく。

 だが、ドニの意志は固かった。

 確かに一緒に暮らしてもいいというニコラスの気持ちを受け取らないことに、申し訳なさは感じていた。

 それでも、ドニはこの決断を曲げることはできなかった。

 人から否定されてすぐ折れるようなら、端からこんなことは考えない。

 ドニは恐れを抱いた自身の心を奮い立て、真っ直ぐにニコラスを見上げた。


「おれ、タオのとこ、いく」

「駄目だ。魔大陸はこの辺とは比べ物にならないほど厳しい土地なんだぞ。俺だってこの村から離れるわけにはいかない。お前ひとりでどうやっていくつもりなんだ」


 ニコラスの厳しいがもっともな言葉が胸に突き刺さる。

 しかし、ドニだって易々と決めたわけではない。

 タオーネのもとに辿りつくまでに命が尽きることだって考えた。

 死ぬのは怖い。

 でも、ドニはあの魔術師を追いかけないとならない。

 そんな一心で決意したことだったが、喋ることが大の苦手であるドニよりも早くに、ニコラスの言葉が後を追ってくる。


「それに俺はタオーネ先生に約束したんだ。ドニのことは任せろって。だから、俺はお前を危険な目に合わせるわけにはいかないんだよ。先生だってドニがそんな危ないことをするなら反対するだろう」


 タオーネも反対する。

 そう言われるとドニの胸は簡単にドキリと跳ねあがる。

 確かにあの魔術師は危ないことはけして許さなかった。

 一度だけ叱責されたときも、ドニが迫りくる魔物と戦うと言ったからだった。

 きっと今回のことも彼が知ったら叱られるに違いない。

 しかし、それでもドニはタオーネのもとに赴かねばならなかった。

 これは自分のわがままだ。

 これまでわがままを言うなんてことはドニには考えられなかったが、今回だけは譲れない。

 ドニはニコラスから視線をそらさずに、必死に食い下がった。


「おれ、いく」

「だから、それは……」


 本来の性格では考えられないほど強情なドニの言葉を、ふたたび却下しようと開きかけたニコラスの口がなぜか噤まれた。

 どうしたのだろうと思ったその時、ドニは自身の頬が濡れる感触に気がついた。

 泣いている。

 そう自覚してしまったらもうそれを止めることはできなかった。

 次から次へと流れ落ちる涙を拭うこともせず、ドニは真っ直ぐにニコラスを見つめた。


「…………おれ、いく……」


 最後になんとか自分の意志を言葉にして、ドニは黙ってひたすらニコラスを見つめ続けた。

 ニコラスはそんなドニに気圧されたのか、たじろいで言葉も出ない様子だった。

 ある種の緊迫感がふたりの間に漂い、けして双方の視線を外すことを許さない。

 張りつめた静けさがその場を支配していく。

 だが、それは突然の来訪者によって崩され、霧散された。

 ニコラスの背後に位置する扉が叩かれ、それを追うように明るい声が響いた。


「コンコンコーン! 失礼しまー……あれ、取り込み中だったかな?」


 外から顔を覗かせたのはエルサリオンだった。

 彼は治療院の異様な空気を感じ取り、困ったような顔で笑った。


「僕は出直してきたほうがいい?」


 こてんと首を傾げて訊ねるエルサリオンに、ニコラスが顔を強張らせたままではあったが、空気の流れが変化したことに少し安堵した様子で頷く。


「ああ、そうしてくれると……」

「あ、あのっリオン、さんっ」


 断りをいれようとしたところで、横から口を挟んできたドニにニコラスがぎょっとするのがわかった。

 だが、もはやそんなことに気遣っている場合ではない。

 ドニは普段のおとなしさをかなぐり捨てて、必死にエルサリオンを呼び止めた。

 すると彼は拍子抜けするほど場違いなニコニコとした笑顔で応じてくれた。


「さんはいらないよー。リオンでいいからねー。それで、なぁに? どうしたの、ドニくん」


 エルサリオンはベッドのすぐそばまで近寄ってくると、しゃがみこんでドニに目線を合わせた。

 ドニは服の袖で涙をごしごしと拭き、昂った気持ちのまま懸命に話そうと言葉を探した。

 昨夜から考えていたことは興奮しているためか、ところどころ詰まりながらも案外すんなりと口にすることができた。


「えと、えっと……おれ、タオのとこ、いきたい。だから、おれも、つ……つれてって、ください……!」

「ドニ! お前、何を……!」


 すぐさま飛んできた鋭い語気に怯みそうになるが、ドニは勝手に震えそうになる体を抑えつけてエルサリオンから目を離さなかった。

 人の好さそうなエルフはドニの言葉を聞いて眉を寄せている。


「うーん……そうだなぁ……」


 口元を拳で覆い、しばし悩むような様子を見せたエルサリオンは活発だが賢そうな瞳をドニへ向け、叱責の色を含まぬ声音で問うてくる。


「ドニくんは、今じゃなきゃ駄目なの? 師匠のところに行くのは大きくなって冒険者になってからでも遅くないと思うよ? 師匠は魔族だからあと軽く五百年くらいは生きそうだし……」


 それはまさに正論だった。

 だが、いま彼が言うことをドニも考えなかったわけではない。

 じっくりと考えて至ったことを自身が持つ言葉を最大限に用いて、ドニはふたりの年長者へ伝えようと努力した。


「……おれ、今まで、ずっと、まってるだけ。でも、それは、ダメだから……。いかないと、おれ、ダメになる」


 そう、ドニは気付いたのだ。

 自分が一度たりとも己の幸せを掴むために動いたことがないことに。

 いつだって自身の置かれた環境に甘んじて、それを変えようと努力することなく嘆くばかりだったことに。

 死んだ飼い主から逃れようとしたこともなかった。

 タオーネから与えられる幸福をただ受け取るだけだった。

 自分の力で求めたことなど一度もなかった。

 けれど、それでは駄目なのだ。

 だってタオーネはまだ生きている。

 生きて、同じ世界の何処かにいる。

 だから追いかけなければならない。

 もしもタオーネがそれを望んでいないとしても、ドニは自身のためにそうしなければならない。

 此処ですべてを諦めてしまったら、きっと死ぬまで後悔し続けることになる。

 前の飼い主も恐ろしく強い剣士だったが、最期は突然やってきたのだ。

 タオーネだってドニがおとなになるまで生きているという保証は何処にもない。

 だったら今この時にだって探しに行きたい。

 そして、今度こそちゃんと言葉にして伝えたかった。

 家族になってもいいですか、と。


 そんな想いをふたりに伝えたかったのだが、言葉が足りずうまく説明できない。

 ニコラスは難しい顔をして黙ってしまった。

 対するエルサリオンはやはり少し困ったような顔をして、それから真面目な様子でドニに問いかけてきた。


「少し厳しいことを言うけど、旅ってそんな甘いものじゃないよ。危険だってたくさんある。魔物もそうだし、人間だって信用ならないことのほうが多い。もしかしたら、僕だって君が危険な目にあったときに見捨てないとならないことが起きるかもしれない。それでも、行きたい?」


 その問いにドニはすぐさま頷いた。

 旅が危険なことだというのは重々承知だ。

 タオーネが帰ったという魔大陸の厳しさだって何度も聞かされている。

 だが、何もせずに後悔して生きるよりも、死の危険と隣り合わせでも進める道があるのなら最後まで足掻きたい。

 そんな覚悟を決めているドニには迷うことなどないのだ。


「うーん……そっかそっか……」


 揺るぎないドニの様子に、エルサリオンがまたしても拳を口に当てて悩み始めてしまった。

 彼が何を考えているのかわからずに不安に思っていると、エルフの少年は温和に微笑んで自身の考えを口にする。


「ドニくんの気持ちはよくわかったけど、僕だけじゃ決められないかなぁ。一緒に旅してる仲間がいるから……。あっそうだ! ちょーっと待っててね!」


 話しているうちに何かを閃いたらしいエルサリオンは慌ただしく治療院から飛び出していった。

 タッタッタッと走り去る軽やかな足音が遠ざかっていき、部屋の中は沈黙だけが残った。

 何処となく気まずげな空気に所在なさげに視線を彷徨わせると、それまで黙り込んでいたニコラスが静かに口を開いた。


「……ドニ、本気なんだな?」


 確かめるような言葉にドニはしっかりと頷いた。

 ニコラスが一緒に暮らそうと言ってくれたのは本当に嬉しかった。

 彼らとともに暮らすことになったらさぞかし楽しいことだろう。

 しかし、ドニは絶望から救い出してくれた魔術師に目をつむって過ごすことはできない。

 そんな感謝と申し出を断ることへの心苦しい気持ちを込めてニコラスを見つめていると、彼は強張った唇の隙間から硬い声を出して言葉を紡いだ。


「俺は、やっぱり反対だ。お前が一人前になったら許してもいいと思うが、お前はまだ子どもだ。わざわざ危険とわかってるところへ向かわせるわけにはいかない」


 ニコラスは考えを譲るつもりがないようだった。

 だが、それはドニも同じこと。

 ドニは何としてでも魔大陸へ向かうつもりだ。

 たとえ、最後まで反対されようともそれを譲るつもりはない。

 そのためには最悪の場合、ニコラスに隠れて村を出なければならないかもしれない。

 そうなってしまうのはドニとしても残念でならず、その様子を想像するだけで気が重くなるが、それでも決行することに変わりなかった。

 秘かにそんな決意を固め、緊張した面持ちでニコラスに対峙していると、彼の顔に陰が差していくことに気付いた。

 彼はいつもの陽気さを失った暗い表情で俯き、ポツポツと小さく呟いた。


「……本当は、俺がもっとうまくやれていればよかったんだろうな。そうしたら、先生だって出ていかなくたってよかったのに……」


 己を責めるようなニコラスの言葉にドニは狼狽えた。

 タオーネが出ていったことで彼が悪いことなんて何もないだろうに。

 しかし、思わず吐露したような彼の後悔を感じ取り、ドニも俯いてしまう。

 自責の念に捕らわれている彼に何と言葉をかけたらいいのかわからない。

 ふたりで重たい雰囲気に身を沈め、ふたたび静寂が戻ってきた。

 どちらも無言のまま動かない。

 だが、しばらくそうしていると、やがて先ほど耳にした軽やかな足音が聴こえてきた。

 耳を澄ますと、エルサリオンのほかにどうやらもうひとりいるらしく、時々ふたつの足音が重なった。

 ニコラスとドニがどちらともなく顔を上げると、駆けてきたふたりが扉から勢いよく飛び込んできた。


「たっだいま~!」

「おい! いきなり何だよ……!」


 元気よく声をあげたエルサリオンの後ろから、不機嫌そうな低い女性の声が飛んでくる。

 うっすらと聞き覚えのあるその声にドニは昨日の出来事を思い返した。

 確かこの声はエルサリオンの相方のものだ。

 そう思って姿は初めて見る彼女へ視線を向けると、同時にエルサリオンが相棒の紹介を始めた。


「えーっと、ドニくんは初めてだよね? この子はフアリちゃん! 僕と一緒に旅してる獣人の剣士だよ!」


 この辺りでは聞き慣れない響きの名前をしたその女性は、ドニが今まで目にしたことのない姿をしていた。

 全身を覆う豊かな白灰色の毛に、赤く光る鋭い眼。

 人族とは明らかに異なる顔立ちは幼いころに目にした狼にそっくりだった。

 一見、人族とかけ離れた容姿をしているその者の性別はわかりにくいが、薄着でいるためにクッキリと浮かび上がる体の線が女性であることを主張している。

 彼女は恐ろしげな狼顔で此処まで無理やり腕を引っ張ってきたエルサリオンを睨みつけると、豊満な胸の前で腕を組み、さらに低めた声音で唸った。


狼人族・・・だ。つーかちゃん付けはやめろって言ってるだろーが!」

「まあまあ、怒らない怒らない。幸せが逃げていくよ?」

「誰のせいだっ!」


 白い牙を剥き出しにして怒るフアリの怒声にドニは思わずビクリと体を竦ませた。

 しかし、怒鳴られた当人はまったく気にせずにニコニコと笑っている。


「そんなことよりね、フーちゃん」

「この野郎……!」

「彼が今朝話したドニくんなんだけどね、僕らと一緒に魔大陸まで行きたいんだって!」

「……はぁ?」


 別の可愛らしい呼び名を口にしたエルサリオンにふたたび食って掛かろうとしたフアリだったが、構わず続けられた話に気をとられ、遅れて片眉を吊り上げた。

 それからジロリと鋭い視線がドニに向けられる。

 無意識に背筋を伸ばしてその視線に耐えるが、ドニは彼女のお気に召さなかったらしい。

 フアリはフンと鼻を鳴らすと、顎をしゃくって不服であることを示した。


「……体はデカいが、まだ餓鬼なんだろ? 餓鬼の面倒を見ながら旅なんてごめんだな」


 その言葉に落胆しながらもドニは仕方ないなと内心で溜息をついた。

 確かに昨日この村にやってきたばかりの者に頼むようなことではない。

 断られるのも覚悟の上だった。

 だが、それでも諦めるわけにはいかない。

 ドニは萎みそうになる心を叱りつけた。

 この者たちが村を出ていくまで、いや、出ていってしまってもどうにかして魔大陸への旅を諦めずに食らいつくんだ。

 そうやって自分を奮い立たせている合間に、エルサリオンが小首を傾げてフアリに意見した。


「でも、覚悟はあるみたいだよ?」

「覚悟だけでどうにかなるならアタシらだってとっくに華ノ国についてるだろうよ」

「それもそうだ」


 あっさりと引き下がったエルサリオンの様子にドニは身を硬くさせ、改めて覚悟を決める。

 この旅立ちは一筋縄ではいかないようだ。

 そのことを表すようにフアリが念を押して反対する言葉を重ねた。


「とにかく、アタシは反対だからな。餓鬼を連れていくほど余裕のある旅じゃねぇだろ」


 フアリの睨むような眼光にもエルサリオンは怯むことなく飄々としている。

 それから人差し指を頬に当て、彼はニッコリと笑った。


「ふーん。フーちゃんは子どもひとりを守る自信もないんだねぇ」

「うるせぇ。その手には乗らねぇぞ。そもそもそういう問題じゃないだろーが」


 煽るようなエルサリオンの言葉にフアリはあくまで素っ気ない。

 ドニはこの掴みどころのないエルフが何を考えているのかわからなかった。

 これではまるで彼がドニを連れていってもいいと考えているみたいだ。

 エルサリオンはわざとらしく悲しげな顔をつくって、相方をさらに刺激するような言葉を続けた。


「狼人族は冷たいねぇ。決死の覚悟を決めた子どもの、尊い魂を蔑ろにするなんてねぇ」

「ああ?」


 さっきは素っ気なく流していたはずのフアリが恐ろしく殺気立った声をあげた。

 その地の底から響き渡うような声音にドニは縮みあがった。

 彼女は明らかに怒っている。

 ふたたび犬歯を剥き出しにして唸った彼女はさらに声を低め、怒りでギラギラと光る眼でエルサリオンを見据えた。


「テメェいい加減にしろよ。これ以上、言いがかりをつけて無闇にアタシら狼人族の名を傷つけるってんなら、お前でも容赦はしない」


 凶悪な顔つきになったフアリの姿にドニの背筋がブルリと震えた。

 直接、殺気を向けられたわけでもないのに身じろぎひとつできそうにない。

 だが、激しい怒りを一身に受けているはずの本人は顔色ひとつ変えることなく、とぼけた様子で話を続ける。


「でもさー主人や家族のために危険へ飛び込んでいくのが狼人族の誇りなんでしょ?」

「そうだ。それがどうした」

「それならさ、ドニくんだってそれに沿ってるわけだし、力を貸してあげてもいいと思うんだよね。あ、それともあれかな? 自分の目的だけ達成できればいいってことかな? えーそうだとしたらがっかりだなー。誇り高いはずの狼人族が自己中心的で血も涙もないなんて、すーっごくがっかりだなー!」


 あまりにもわかりやすいその挑発に、フアリの肩から力が抜けていくのがわかった。

 彼女はうんざりとしたため息をひとつ吐くと、今度は諭すように幾分か落ち着いた調子でエルサリオンに向き直した。


「……そんなわかりやすい挑発になんて乗らないからな。そもそも、自分の身も守れない餓鬼を連れていけるわけないだろ。アタシらだって易々と進める道じゃねぇんだぞ。野垂れ死にするとわかってるのに連れていくほうが問題なんじゃねぇのか。優しさと無責任な甘さは別物だろーが」


 懇々と言い聞かせるようなフアリの言葉は真っ当なものだ。

 わかってはいるが、ドニはしょんぼりと項垂れてそれを聞いた。

 しかし、エルサリオンは無邪気に瞳をクルリとまわすと、自身よりもやや高い位置にある彼女の顔を上目に覗き込んで言った。


「それってつまり、自分の身を自分で守ることができたらいいってこと?」

「あ?」


 不意な彼の確認にフアリが眉を顰めた。

 ドニも彼は何を言い出すのだろうと思い、チラリと目を向ける。

 エルサリオンは穏やかな微笑を湛えてもう一度、強情な相方へ問いかけた。


「自分の身さえ守れればいいんだよね?」

「……旅に出るってことはそういうことだろ」


 渋々といった様子で答えるフアリに、愛らしい少女のようにパチンと両手を合わせて鳴らしたエルサリオンはニッコリと破顔した。


「それじゃ、ドニくんが僕が出す試験を受けて合格できたら文句は言えないよね?」

「なんでそうなるんだよ!」


 唐突すぎるエルサリオンの提案にフアリが目を剥いて吠える。

 ドニも突然振られた話題に驚いて彼を凝視してしまう。

 それはずっと黙って状況を見定めていたニコラスも同じことだったようで、この場にいるすべての者がエルサルオンに注目していた。

 だが、やはり言い出した本人はまったく気にすることなく、のんびりとした調子だ。


「まぁまぁ落ち着きなよ。何も受かると決まったわけでもないんだし。もしかしたら落ちる可能性のほうが高いかもよ? 僕もそんな甘い試験にするつもりはないし」


 そう言われてフアリは少し落ち着いたようだったが、ドニは一抹の不安を抱いた。

 彼は一体何をするつもりなのだろう?

 その考えには落ち着きを取り戻したフアリも至ったらしく、彼女は素直にその疑問を発案者へぶつけた。


「……試験って、何をするつもりなんだよ?」

「そーだなー。あっフーちゃんって強いよね? 冒険者としてはまだ六級だけど、剣士としての腕前は若いのになかなかすごいもんね!」

「……当たり前だろ。男にだって負けねぇよ。得物が剣同士なら人族にも魔族にも勝つ」


 またもや唐突なエルサリオンの質問に警戒しながらも、フアリは律儀に答えて「だから何だよ」というような視線を彼に注いだ。

 相方の答えに満足そうに頷き、エルサリオンは楽しげに自分の思い付きを口にする。


「じゃあ、フーちゃんと対戦するっていうのはどうかな?」

「……はぁ!?」


 フアリがぎょっとした声をあげると同時に、ドニも驚愕してまたしてもエルサリオンの顔を凝視した。

 突拍子もないことを発案した彼は涼しい顔で説明を続けた。


「もちろん勝てって言うのは厳しすぎるから、一発当てられたら合格ってことにしてさ。だってフーちゃんなら生半可な攻撃は大体避けられるでしょ?」

「そりゃそうだけどよ……そいつ、病み上がりなんだろ? 動かしていいのかよ」

「だいじょーっぶ! ドニくんは体が丈夫みたいだし毒ももう抜けてるから、僕の見立てではご飯さえ食べてくれたらすぐに動けるようになるはず!」

「そう言ってもな……」


 渋るように口籠るフアリ以上に動揺しているドニは、急なこの展開についていくのもやっとで声も出ない。

 確かに目覚めてからぐんぐん体調が回復している。

 昨日は起き上がることも難しかったのに、今日は立ち上がることもできそうだった。

 だが、さすがにいきなり戦えというのは厳しいように思われる。

 それにドニの予想では、この獣人の剣士は気を失う前に対峙した盗賊よりも遥かに強い。

 実戦経験が極めて少ないドニが身を持って実力を感じた者は、その盗賊と乱暴な元飼い主だけだがすでに彼女の強さを直感していた。

 おそらく元の飼い主のほうが強いだろうが、ドニからしてみればどちらも圧倒的な存在のように感じられる。

 だが、エルサリオンはそんな強者と戦えというのだ。

 緊張のあまり息が詰まりそうになっていると、彼は少しばかり真面目な様相を繕ってこの場にいる者たちを納得させようと口を動かし続けた。


「それに、旅の途中で具合が悪くなっても敵は見逃してくれないからね。言い訳は通用しない。だったらこの試験もあながち的外れでもないんじゃないかな? フーちゃんもわざわざ当たってやるつもりはないでしょ?」

「ああ。そういうことならアタシはそれでいいが、お前はどうなんだよ」


 どうやらエルサリオンの言い分に納得した様子のフアリが、刃物のように鋭い瞳をドニに向けた。

 急に注目されたドニが思わずビクッと身を竦ませると、エルサリオンが自身の頭を拳で軽く小突いて可憐な笑顔を咲かせた。


「あっドニくん本人を置いてぼりにして話を進めちゃった! ごめんね! でも、この試験を乗り越えらえないようなら僕は君を連れていくべきではないと思う。もしも不合格だった場合は一人前になってから考えるってことでどうかな?」


 目まぐるしく語られた理屈や確認の言葉にほんの一瞬、剣士と戦うことへの恐れが胸に過った。

 彼女のたくましい腕に振るわれる切っ先を想像するだけで脚が震えそうだった。

 だが、やるしかない。

 無理やりにでもタオーネの後を追うと決めていたドニだったが、魔術師の弟子は自分が納得するためにわざわざ試験という道を作ってくれたのだ。

 この機会を逃すわけにはいかない。

 もう一度、タオーネに会うためにはどんなことでもすると決めたのだ。

 だから、断るという選択肢をドニは持ち合わせていなかった。

 タオーネへと続いているかもしれない道へ足を踏み出す勇気を胸に、ドニはしっかりと頷いた。


「おれ、やる」

「オッケー! そしたら明日の正午に北の森で試験しようか。迎えにくるから、ドニくんは明日までにちゃんとご飯を食べて、ぐーっすり眠ること! いいね?」

「う、うん」


 途端に明るく約束事を告げるエルサリオンの勢いに押され、再度小さく頷く。

 唖然とした様子でいたニコラスが何か言いたげにしていたが、エルサリオンに目配せされ、ひっそりと息を吐いていた。

 だが、そんなことも気付かずに、ドニは明日の試験のことを思ってドキドキと昂る胸を手で抑えつけた。

 それからこっそりと対戦相手の剣士へ目を向けると、彼女も獲物に狙いをつけるようにドニを見つめていた。

 その視線だけで仕留められそうだと気も重く考えながら、ドニは改めてタオーネを追うという覚悟を決め、自身のなけなしの闘志を奮い立たせるのだった。


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