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木偶の坊と魔術師が家族になったら  作者: 小峯ゆたた
第1章 バナーレ村
30/58

エルフと話そう

 突如現れて村の危機を救ったエルフはすでにタオーネが去ったあとだということを知ると、村長の家へ向かっていったらしい。

 何やらタオーネのことを知っているような口ぶりだったが、質問する隙もなく出ていってしまった。

 あまりの忙しなさにドニは目を白黒させていたが、彼が治療院から出ていくとふたたび静けさが戻ってきた。

 天窓から差し込む光はすでに夕焼けで色付き、一日の終わりを告げている。

 つい先ほどシェリィも自宅に戻ったため、ドニは治療院にひとりでいるのだった。

 誰もいない治療院は静かだ。

 村の外れに建てられていることもあるのだろうが、人の気配が感じられない。

 物寂しい雰囲気の中、ドニはおとなしくベッドに横たわっている。

 日中の騒動は悲しみの渦からドニを置き去りにしていたが、それも去ったいま、ドニの胸は空っぽになってしまったようだ。

 気疲れからくる疲労感だけが体に留まっている。

 しかし、目は冴えていて眠れそうになかった。

 今は奥底で燻っているだけの苦しみがまた頭をもたげないように、すっかり少なくなった書物が並べられている本棚をぼんやりと見つめていた。

 そうしてただ時が過ぎていくのを感じていると、突然、扉が叩かれた。

 にわかに驚いて音が鳴る方向へ目を向ける。

 すると、何の断りもなしに外に繋がる扉が開かれた。


「お邪魔しま~す」


 そう言って遠慮なく顔を覗かせたのは、昼間のエルフだった。

 なぜかその腕には鍋が抱えられている。

 彼は驚くドニを気にすることなく、非の打ちどころのない美しい顔で笑った。


「やぁ。さっきはいきなりごめんね! 君がドニくん?」


 奔放な振る舞いに臆しながらも、確認の言葉におずおずと頷く。

 それから来客を目の前にして寝そべっているのも気が引けるため、なんとか起き上がった。

 幾分か体が馴染んできたのか、上体を起こす動作も昼間に比べれば随分と楽だった。

 相手がドニであることを知ったエルフの少年はさらにパアッと花咲くような笑顔を見せた。


「そっかそっか! 僕はエルフのエルサリオン。長いからリオンって呼んでね!」


 人懐っこく笑う少年、エルサリオンにドニはこくりと頷いた。

 己の名を告げた彼は「師匠ってば案外、英雄とか好きなのかなぁ」とぼやいたが、ドニにはその意味がわからない。

 彼は一体、何をしにきたのだろう。

 初対面に等しい相手にドニはすっかり腰が引けていた。

 悪い者ではなさそうだが、見慣れない者との一対一での対面がドニは大の苦手だった。

 思わず目線を泳がせると、エルサリオンはそれも気にしていないのか、どんどん話しかけてくる。


「あっ体調はどうかな? バシリスクの毒をくらったのに生きてるんだってね! すごい生命力なんだねぇ」


 感心したように微笑む彼にどのように応えればいいのかわからず、ぎこちなく頷くことしかできない。

 そんな生真面目なドニの様子が面白く映ったのか、エルサリオンはクスクスと笑って話を続けた。


「意識もしっかりしてるみたいだしもう心配はいらないと思うけど、数日は僕が君の診察をするよ。師匠の尻拭いは弟子がやらなきゃね!」


 師匠というのはタオーネのことだろうか。

 その言葉にドニはなんだか落ち着かない気持ちになる。

 自分が知らないタオーネを彼は知っているのだ。

 それはきっと遠い過去のことなのだろうが、そんな話でもいいから耳にしたかった。

 とにかくあの魔族の魔術師との繋がりを感じていたかった。

 そう思ったドニは意を決してエルサリオンへ問いを投げかけた。


「……あの、ししょーって……?」

「ああ! 実は僕、タオーネ師匠と一緒に旅をしていたことがあってね。そのときに魔術とか治療について色々と教わったんだ。だから、僕らは師匠と弟子って関係なの。えーっと、先生と教え子みたいな?」


 わかりやすい説明に耳を傾けて、ドニは内心で首を傾げた。

 ドニも魔術や治療といったものではないが、タオーネから文字の読み書きや計算を教わっていた。

 つまり、エルサリオンはドニと同じということなのだろうか。

 ドニはタオーネと旅したことはなかったけれど、同じような境遇にいたことで彼にほんの少しの親近感がわき始めていた。

 しかし、ドニとは正反対と言ってもいいような性質らしいエルサリオンは饒舌だった。


「久しぶりに師匠に会えると思ったんだけど、入れ違いになるなんてついてないよねぇ。師匠のことだから、新しい薬とか魔術とか開発してるだろうし教えてもらいたかったのにもういないんだもん……残念!」


 そう言いながらもまったく落ち込んでいない様子の彼はペラペラと機嫌よく話し続ける。

 聞き役のドニが黙っていてもお構いなしだ。


「ドニくんは師匠と一緒に暮らしてたんだよね? あの人、かなり人見知りだし神経質で頑固だから、一緒に暮らすなんてなかなかできることじゃないよ。きっとドニくんと師匠は相性がよかったんだね!」


 それまで黙って一方的に繰り広げられる話を聞いていたドニはいきなり始まったタオーネの悪口に驚いて、オロオロと狼狽えた。

 どうにもエルサリオンの口から語られるタオーネの姿とドニの知るタオーネの姿は違う者のように思える。

 少なくとも、ドニがこの一年間ずっと見てきた彼はそんなひどいことを言われるような一面はなかったはずだ。

 あの優しい魔術師のためにもきちんと弁解しなければならない。

 ドニは思い切って、彼の弟子だというエルフへ物申した。


「タ、タオ……やさしい……いつも、やさしい」

「それはドニくんが優しいからだと思うなぁ。師匠は態度を偽ったりするのは苦手だから、一緒にいて嫌な相手には優しくしないよ!」


 ハッキリと断言されて、ドニは困って眉を寄せた。

 やっぱり、エルサリオンが話すタオーネ像は自分の中の彼の姿とは重ならない。

 ドニにとってタオーネはとってもすごくて誰よりも優しい人だった。

 でくのぼうである自分にも優しくしてくれて、無闇に怒ったりせずに待ち続けてくれる人なのだ。

 だから、ドニ自身が優しいと言われると疑問だった。

 それを伝えようと思っても言葉にできず、俯くしかないのだが。

 顔を伏せてもじもじし始めてしまったドニを見たエルサリオンはまた楽しげに笑った。

 よく笑う人だなと思って上目に見上げると、彼は両手に抱えた鍋を持ち上げてドニに見せた。


「僕、ドニくんに興味があるんだ。よかったら一緒に夕飯でも食べながら話さない? 村長さんのところの台所を借りてご飯も作ってきちゃったんだ! この家の台所って何処かな?」

「あ……いちばん、おく……」

「りょーかい。 ちょーっと待っててね!」


 エルサリオンは愛嬌たっぷりに片目をつむると、元気よく台所へ向かっていった。

 訊かれたことに反射的に答えたドニだったが、ほとんど何も知らない者と一緒に食事をするということに気が重くなった。

 ただでさえ極度の人見知りであるのに、食欲すらもないのだ。

 気を失っていた時間を含めるともう何日も何も食べていないはずなのに、食べたいという欲求は今も一切ないように思える。

 昼間にお隣のスーザンが作ってくれたパン粥もおいしそうだったが、結局は手をつけることができなかった。

 食べ物を残すのは本当に申し訳なく思うのだが、体が受け付けてくれないのだ。

 この夕食も同じ道を辿ることが目に見えているドニはとにかく憂鬱だった。

 うまく断ろうとエルサリオンに伝える言葉を探すが、それを見つけ出すのは自分にとって途方もないことだとすぐに気付いた。

 どうしようと頭を悩ませているうちに、軽やかな足音が戻ってきて、ふたたび扉を開く。


「お待たせ~! 今さらだけど嫌いなものってある?」


 口を挟む暇もなくかけられた明るい声音に首を横に振る。

 苦手なものはいくつかあるが、どれもタオーネが体にいいからと言うので頑張って食べていたため、嫌いというほどでもない。

 だが、今は何も食べることはできなそうだ。

 そのことを何とかエルサリオンに伝えねばと思ったが、ドニが口を開く前に彼が喋り始めてしまう。


「よかった! それじゃ、はいどーぞ! 師匠直伝、青豆のスープで~す!」


 昼間から出しっ放しの机の上に置かれたのは、いつもタオーネが好んで使っていた木のスープ皿だった。

 今はもうない日常の一片を垣間見て、ドニの胸がチクリと痛む。

 だが、その痛みを噛み締めるよりも早くにエルサリオンの言葉が頭に引っ掛かる。

 器の中身に目をやると、どろりとした濃厚なスープが入っているようだが、青豆は原型を留めていない。

 いつもタオーネが作るスープは豆や野菜がゴロゴロと入っていて、火にかけて放っておきながら時間をかけて煮込み、形が残ったままとろりとした食感に仕上げていた。

 タオーネ直伝という割には似ても似つかないスープを目の前に不思議に思っていると、エルサリオンがすぐに説明を付け足した。


「消化をよくするために豆は裏ごししちゃったけど、味つけは師匠の料理に似てると思うよ。あの人、ずぼらで面倒な料理はしない主義だし、栄養を無駄にしないからってスープとかシチューとかばっか作るんだよねぇ。特に豆は昔からよく食べてたよ!」


 先ほどまで彼が話していたタオーネの様相は別人なのではないかと疑うほど共感できなかったが、今度の言葉は確かにドニも知る魔術師のものだった。

 ずぼらというのはよくわからないが、栄養のことについてはよく口にしていたし、食卓にあがるのはスープやシチューが多かった。

 そして、豆料理はタオーネが特に好んでいたものだ。

 そんな些細なことから、エルサリオンが言う師匠は紛れもなく自分の知るタオーネなのだということを実感した。

 ドニは意を決して匙を手にとった。


「……い、いただき、ます……」

「はーい! めしあがれ~」


 きれいな色のスープを匙ですくい、恐る恐る口に含む。

 視界がじわりと滲んで、匙を持つ手が少し震えた。

 いつもより少し濃い味付けだけれど、これは確かにタオーネの味だ。


「どうかな?」


 最初のひと口を口に含んだままジッと俯いたドニの顔をエルサリオンが覗き込む。

 その顔は柔らかな微笑みが浮かんでいる。

 ドニは零れ落ちそうな涙と一緒にスープを飲みこんで、深く頷いた。


「おいしい、です……」

「うんうん。ちゃんと食べないとさ、師匠も心配しちゃうからさ。ちょっとずつでもいいから、ご飯は食べようね」


 エルサリオンに優しく諭され、ドニは少し戸惑いながら小さく頷き、次のひと口を匙ですくった。

 その様子を見て、エルサリオンも自身のために用意したスープ皿に手をつけた。

 病み上がりのドニに配慮してのことなのか、いささか少なめに盛られたスープはどんどん減っていく。

 突然置いていかれたドニとしては、タオーネが心配してくれるほどの価値が自分にあるとは思えなかったが、彼を知るエルサリオンの言葉は嘘でも嬉しかった。

 ひと口ひと口を噛み締めるように味わっていると、エルサリオンが目を細めて微笑んだ。


「……ドニくんは、タオーネ師匠のことが大好きなんだね」


 静かな喜びを含んだ言葉に匙を動かす手が止まる。

 それから、少し遅れてその意味を理解して、ドニはコクコクと何度も頷いた。


「お、おれ、タオ、すき……」

「そっかそっか。なんか、嬉しいな。しばらく一緒にいたこともあったけど、師匠はいつも何処か寂しそうだったから。ドニくんみたいな子がそばにいてくれて本当によかったよ」


 ドニはどんな言葉を口にしたらいいのかわからず、わずかに目を伏せた。

 きっと、自分がタオーネにできたことは何もない。

 けれど己と暮らしていたときに、彼が寂しげな顔をすることはほとんどなかったように思う。

 過去の話に触れた際には必ず何処か遠くを見つめるような様子はあったが、それも長く続いたことはなかった。

 タオーネはいつだって、ドニへ微笑みを向けてくれていた。


「村の人たちから色々と話を聞いたけど、師匠はこの村とドニくんのことを気に入ってたみたいだね。あの師匠がずっと穏やかでいられたくらいだもんなぁ。きっと、ずっと此処で君と暮らしていたかったんだと思う」


 さらに重ねられていくエルサリオンの言葉はドニが一番信じたいと思うものだった。

 タオーネが村を出ていったのは王国騎士たちによる仕打ちが原因だということを知ってなお、理由がそれだけだと考えるにはあまりにもドニに自信が足りていなかった。

 だから、彼の言葉が真実だとしたら、この悲しみが癒えることはないけれど、ドニの心は救われるだろう。

 せめてタオーネも自分と同じように思っていてくれるのならば、あの魔術師とまだ繋がっていると思える気がした。

 それでもまだ半信半疑な己がいて、思わず縋るような視線をエルサリオンへ向けると、彼は感情の揺らぎを見せることなく、静かに言った。


「でも、この国は、ううん、この大陸は人族以外には優しくないから。魔族の師匠がずーっと暮らすのは難しかった。それだけだよ」


 若く美しい顔に老獪した達観のような静けさだけを乗せたエルフからは、それ以上は何も読み取れない。

 しかし、狭い世界しか知らないドニにも彼が言っていることは少しわかった。

 バナーレ村ではタオーネを魔族だからと言って疎外する者はひとりもいない。

 だが、外の世界はそうではないのだろう。

 あの王国騎士たちがいい例だ。

 魔族だからという理由だけであんなに激しく罵られるのだ。

 今まで考えたことはなかったが、もしもこの村以外のすべてがああいった感情を持っているとしたら、その中で生きていくことはひどく難しいに違いない。

 そう考えると、ドニはとても悲しくなった。

 だって、生まれて初めてドニに優しくしてくれたのはタオーネなのだから。

 前の飼い主は人族だったが、すべてを憎んでいるような恐ろしさがあった。

 対して、世間では悪者とされているらしい魔族のタオーネはドニを救ってくれたのだ。

 だから、生まれついた種族だけで善悪を判断するのはおかしいことだ。

 他者に比べると非常に世間知らずなドニであるが、それだけはハッキリと言える。

 悪いのはタオーネではない。

 間違っているのは世界のほうだ。

 けれど、その誤りに気付いたところで、ちっぽけな存在であるドニにはどうすることもできない。

 目の前で虐げられたタオーネに何もできない自分が情けなくて、ドニは唇を噛んだ。

 そんな様子を目にしたエルサリオンは、やはり感情を一切波立たせることなく話を続けた。


「僕も貴重なエルフってことで何度も捕まって奴隷にされそうになったんだ。だから、普段は耳を隠すためにローブのフードは外せないんだよ」


 何でもないことのようにそう言うエルサリオンに胸を痛めながらも、ドニはちょっぴり疑問を抱いた。

 彼はなぜ危険な土地にも関わらず、旅を続けているのだろうか。

 そんな疑問がチラリと脳裏を過ぎったが、すぐにまだ続けられたエルサリオンの話に意識を引き寄せられた。


「それに、師匠は策略とか駆け引きとか苦手だからねぇ。人のしがらみに巻き込まれると、すぐ諦めてどっかに行っちゃうんだ」


 先ほどまでの淡々とした雰囲気を崩し、エルサリオンは軽い調子で肩を竦ませた。

 日中の王国騎士との対立でもそうだったが、急激な態度の変貌は彼独特の掴みどころのない空気を作り上げている。

 その飄々とした物言いに何と返したらいいのかわからず、言葉を詰まらせていると彼は真っ直ぐにドニを見つめた。

 明るくキラキラとした輝きを放つ大きな瞳に捉えられ、目が離せない。

 他人からジッと見つめられることを苦手とするドニだったが、エルサリオンの目元に湛えられた微笑が何処かタオーネに似ている気がして困惑しながらも嫌な気持ちでないことは確かだった。

 彼はより一層、優しい微笑を深めると、ゆっくりとドニへ言い聞かすように言った。


「だから、ドニくんは悪くないんだよ」


 その言葉にドニはやはり何も応えることができない。

 自分に落ち度がないということを認めるのは、ドニにとって難しいことだった。

 それでも、エルサリオンが語ってくれた世の中の現状と、まったく似ていないはずなのにタオーネを思わせる彼の眼差しが心の中にすんなりと入ってきていた。

 うまく反応を返すことはできないが、彼の言葉と心遣いはきちんと届いている。

 そのことを汲み取ってくれたのか、エルサリオンはニッコリと笑って茶目っ気たっぷりに胸を張った。


「むしろドニくんはタオーネ師匠にこのいくじなし!!くらい言ってもいいよ。僕が許可する!」


 えっへん!と偉そうに振る舞う彼の姿は無邪気で親しみやすい。

 ドニは一瞬そのあけすけな言葉に呆気にとられたが、すぐに彼のおどけた様子に思わず小さな笑みをこぼしてしまう。

 音なく顔を弛めたドニを見て、エルサリオンは端正な顔をさらに華やかな笑顔で飾り立てて言葉を続けた。


「ふふふ。まぁ師匠もドニくんも生きてるわけだしさ。離れ離れになったかもしれないけど、生きてるならまた会える可能性はゼロじゃないでしょ? これからのことなんて誰にもわからないんだから、どうせなら幸せな想像をしようよ」


 さらりと流すように放たれた彼の言葉は、ドニの心の片隅に引っかかった。

 しかし、それを自覚する暇もなく、エルサリオンが話の続きを口にしたため、ドニはそのことを深く考えることはしなかった。


「僕は明々後日までこの村にいるし、何なら師匠にお手紙でも書いてみる? 僕とフアリちゃんは東大陸を目指してるんだけど、その途中で魔大陸も横断することになるだろうし預かるよ。魔大陸は広いから、僕が師匠に会えるかはわからないけど……」


 そう提案されてドニはしばし考え込んだ。

 それは随分と魅力的な提案に思えた。

 もしかしたらタオーネの手に届かない可能性のほうが高いのかもしれないが、それでも彼との繋がりをすべて諦めてしまうよりは希望がある。

 エルサリオンと出会ってまだ大した時間も経っていないが、この短時間で彼は信頼できるとドニは感じていた。

 タオーネの弟子である彼は、自分の旅に支障が出ない程度には責任もって手紙を預かってくれるだろう。

 けれど、ドニはなぜだかすぐに答えを告げることができなかった。

 目の前にタオーネのもとまで伸びているかもしれない糸が足らされているというのに、掴むことを躊躇していた。

 自分でもはっきりとはわからないが、これは最善とは言えない気がしたのだ。

 思いのほか悩み始めてしまったドニを見て、エルサリオンは気軽そうな声音ですぐさま話題を変えた。


「まっ考えてみてよ。明日も此処には顔を出すからさ。それよりふたりでお話しようよー。僕、この村での師匠の暮らしぶりとか知りた~い!」


 急に話を振られたドニは慌てて一旦考えるのをやめ、頭の中に大切にしまってある思い出を振り返った。

 そして、目を煌かせる彼の期待に沿えるように、それをたどたどしく言葉に直していく。

 話すことが不得意なドニはうまく伝えられないことも多かったが、それでもエルサリオンは楽しげに耳を傾け、時おり相槌を打ったり笑い声をあげたりしてくれた。

 ドニは一生懸命に喋っているうちに何度か言葉を詰まらせ、涙が滲むこともあったが、タオーネのことをひたすら話し続けた。

 どんなに些細なことでも丁寧に言葉に直して口にすると、ひとつひとつの出来事がドニの中のより深いところに染み込んでいくようだった。

 そうしてゆっくりとした語りは、程よい疲労感がドニに纏わりつき、眠気を誘い出すまで続けられた。




※※※※※※※※※※




 短い眠りから覚めると、辺りは真っ暗だった。

 どうやら気持ちが昂って深く眠れなかったようだ。

 しばらくベッドの上でぼんやりとしていると、やがて暗闇に目が慣れてきたのか、天窓から差し込む僅かな月光を頼りに部屋の様子が見えるようになってきた。

 壁に寄り添うようにして眠っているのはエルサリオンだ。

 彼は話し疲れて眠ってしまったドニに付き添ってくれているらしく、毛布に包まれて静かに寝ている。

 床に座る要領で睡眠をとっている彼を見て、ドニは自分だけベッドを使っているのが申し訳なくなったが、すぐに別の考えが頭を占めた。

 それはエルサリオンが話してくれたことだった。

 タオーネは死んだわけではなく、生きている。

 その言葉が心の片隅に引っかかっていたことを思い出したのだ。

 そう、タオーネは生きている。

 今も何処かで息をして、同じ空の下に在り続けているのだ。

 ドニは誰も考えを遮る者がいない夜の静けさの中、その事実を噛み締めてゆっくりと長考した。


 ドニが不本意な厳しい別れを経験するのはこれで二度目だ。

 一度目は一年以上前のこと。

 物心ついた頃にはすでにそばにいた怖い飼い主を失った。

 彼を失ったとき、ドニは絶望した。

 朝起きて冷たくなった彼を目にしたとき、ドニは自分の居場所を永遠に失くしたことを理解したのだ。

 死んだ者は蘇らない。

 そんな底知れない暗がりに捕らわれ、絶望した。


 そして、今回の別れもその時と同じものだと思っていた。

 すべてを失った自分に新しい世界を見せてくれた人。

 彼に置いていかれたと知って、ドニは一度目と同じ絶望にふたたび捕らわれてしまったのだと思ったのだ。

 しかし、タオーネは生きている。

 前の飼い主は死んでしまった。

 死んでしまった者にはもう二度と会えない。

 けれど、生きている者には会えるかもしれない。

 エルサリオンの言葉はそのことを教えてくれていたのだ。


「タオは、生きてる……」


 ポツリと呟いたその言葉は夜の暗がりに薄れて消えていったが、ドニの中で何度も反響した。

 相手が死んでいるのならば、それは諦めるしかないように思える。

 だが、どうしてもまた会いたい相手が生きているのなら……?

 ドニは今もスヤスヤと安らかに眠っているエルサリオンに視線を向けた。

 彼は魔大陸を横断して東大陸へ向かうと言っていた。

 そんなことも思い出して、ドニは自身の胸にとある想いが灯るのを感じ取った。

 その想いに真っ直ぐ目を向けて、ドニはふたたび考え込む。

 目も頭も冴えわたり、眠る前に感じていた疲労はもはや何処にも存在しない。

 ただひたすらに己と向き合い、自身の望みを見出していく。

 こうして、眠れぬ夜が過ぎていった。


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