目を覚まそう
夢を、見ていた。
最初は、暗くて重たい底のほうの記憶の夢。
殴られて、蹴られて、絞められる。
鬼のような形相に、恐ろしい怒号。
世界のすべてだった、その人の記憶。
怖い怖いその人は、ある日、突然いなくなった。
朝、目を覚ましたら、空っぽの酒瓶に囲まれて自分で吐いた吐瀉物にまみれて冷たくなっていた。
その時、ドニは刃を向けられるときよりも怖くなった。
ドニは自分が何処で生まれたかなんて知らなかったけれど、その人はずっとそばにいた。
いくら虐げられても、冷たくされても、絶対にドニのもとに帰ってくるその人を失って、ドニは独りぼっちになったのだ。
その人がいない世界を、ドニは知らなかった。
だから、本当に怖くて、悲しくて、頭が真っ白になった。
そして、気がついたら粗末なテントに押し込められて、色々な人に見られるようになっていた。
その頃の記憶は、あまりない。
すべてが遠いことのように感じていたことだけ覚えている。
そして、次の夢。
まだまだ暗いけれど、世界に色がついた頃の記憶。
不思議な目の色をした男の人が、死にたいのかと訊いてくる。
ドニは咄嗟に首を横に振った。
あの人は死んでしまった。
けれど、自分は生きている。
あの人のいない世界は相変わらず、得体のしれない怖いものだったが、不思議と彼のところへいこうとは思わなかった。
そして、そんな自分を見て男の人が何を思ったのかはわからなかったが、一緒に連れていってもらえることになった。
男の人は不思議な人で、きれいな服を買ってくれて、温かいご飯も食べさせてくれた。
しかも、それだけでなく、ドニという名前を与えてくれたのだ。
何もかもがわからなくて困惑するドニに優しく接してくれた彼は、タオーネと名乗った。
タオーネは腕に嵌めていた輪っかを外すと、あまり見たことがないような不思議な姿になった。
でも、葡萄酒の底みたいな色の瞳はやっぱり優しくて、怖いと思うことはなかった。
それから、最後の夢は、バナーレ村での記憶。
優しいタオーネと暮らして、勉強して、初めての友達もできた。
最初は外が怖くて仕方なかったけど、アーサーに勇気づけられ、ヘンリーに手を引かれて家から出てみると、そこには綺麗なものがたくさんあった。
村のみんなは優しくて、お隣のシェリィは少し怖いと思ってたけど、実はあまり怖くなかった。
でも、スライムに襲われたときは本当に怖かった。
このまま死んじゃうのかと思った。
そのときは友達と騎士のニコラスのおかげで助かったけど、自分は何もできないからタオーネに嫌われるかもしれないと本気で考えた。
だけど、タオーネは。
彼は、いつでも優しくドニを見守ってくれた。
どうしてそんなに優しくしてくれるのか、ドニには到底わからなかったけれど、それは確かに幸せだった。
そんな暖かな幸せに浸りながら、ドニはある考えを抱くようになった。
タオーネと、家族になりたい。
その想いを伝える勇気はドニにはなかったが、それでもドニはタオーネと一緒にいられて幸せだった。
いつか、ちゃんと言えるといいな。
夢心地にそう考えて、ドニの意識はだんだんとぼやけていった。
気がつくと、ドニは心地好い波に揺られて夢の狭間を彷徨っていた。
体がポカポカと暖かくて、柔らかなものに包まれている。
少し暑いかなと思っていると、不意にひんやりとした何かが触れた。
ちょっとびっくりしたけれど、それは熱を帯びた体には気持ちよく感じられて、ドニはもう一度、深く眠ろうと思った。
でも、すぐに悲しい声が聴こえてきた。
その声はぼんやりとしていて聞き取れなかったけど、とても悲しいことを言っているのだとなんとなく伝わってきた。
何かを謝るような、そんな声。
その声を聴いていると、ドニまで悲しくなってしまう。
どうしたの? 何がそんなに悲しいの?
そう訊きたかったが、体が動かず、言葉も出ない。
そうしているうちにまた意識が霞んできて、ドニは深い眠りの世界に潜り込んでいったのだった。
だんだんと周囲の気配が強まっていく。
それから衣擦れの音や、ひそひそ話をする小さな声を耳が捉え始め、突然、意識が急浮上する。
明るい陽射しに気がついたら最後、本来は柔らかなそれが暗闇に慣れた目をチクチクと攻撃する。
ちょっとした不快な感覚に顔をしかめてささやかな抵抗をしていると、聞き覚えのある声が耳に届いた。
「ちょっと、ドニが起きたわよ」
「あっ本当だ!」
「静かにしなさいよ。此処は治療院なのよ」
「ごめん……」
「俺、父さんを呼んでくるよ」
なんとか細目を開いて、小声だがガヤガヤとした方向へ目を向ける。
扉の外に消えていった金髪はアーサーだろうか。
部屋の中が随分とすっきりしているが、どうやら此処は治療院のようだ。
ぼやけた視界で目を凝らすと、真っ黒なもじゃもじゃが映り、見慣れたどんぐり眼がドニの顔を覗き込んでいるのが見えた。
その心配顔を眺め、自分は一体なんで眠っているのだろうとぼんやり考える。
眠る前の記憶がひどく曖昧で思い出せない。
体がひどく重たく感じる。
「ドニ、気分はどうだ? 大丈夫か?」
不安そうなヘンリーの声に答えようとして口を開くが、声が出ない。
喉がカラカラに乾いてくっついてしまっているようだった。
カサカサした唇を動かして何とか声をあげようとするものの、乾いた咳だけが飛び出してくる。
だが、乾ききった喉では咳をするのもつらくて、引き攣るような痛みに顔を歪めて苦しんでいるとヘンリーが慌てて背中をさすってくれる。
「あたし、水を持ってくるわ」
これまでヘンリーの後ろで様子を窺っていたらしいシェリィが台所へ向かうのか、廊下へ繋がる扉から出ていった。
ドニは生理的な涙を滲ませながら咳を鎮めて、今度は体を起こそうと試みた。
体が鉛のように重くてなかなか起き上がれない。
それでもヘンリーの手を借りてなんとか上体を起こし、壁を背もたれにして人心地ついた。
すると、ちょうど水の入ったカップを手にしたシェリィが戻ってきた。
「自分で飲める?」
そう訊かれて頷くが、差し出された水に伸ばした手がおぼつかないのを見かねたのか、シェリィが口元まで運んでくれたカップに口をつけてまずはちょっぴり飲んでみる。
涸れた体に水分がじわじわと染み渡っていく。
それを感じると自身の肉体が水分を求めていることを自覚し、反射的に今度はたくさんの水を口に含んだ。
さすがに急激すぎたらしく、すぐに噎せてしまったが、シェリィは手慣れた様子で飲ませる量を調整して軽く背中を叩いてくれた。
それからかなりの時間をかけて水を一杯飲み干すと、少し体が楽になったようだった。
ドニが落ち着いたことを確認し、ヘンリーがおずおずと問いかけてくる。
「なんか痛いところとか変なところはないか?」
その問いに少し考えて、ドニは小さく首を横に振った。
体はまだ怠いが、それはきっと起きたばかりだからだと考えた。
「よかった……大丈夫そうだな……」
安心したように呟くヘンリーに、ドニはきょとんとした顔になった。
なんでそんなに心配そうにしているのかわからなかったのだ。
すると、そんなドニの様子を見たシェリィがすぐに説明してくれた。
「あんた、五日間も眠ったまんまだったのよ」
その言葉に思わず目を丸くして彼女を見た。
確かにいつもより眠っていたような気もするが、そんなに長い間ずっと目を覚ますことなく眠っていたのは初めてだ。
何がどうなっているのかわからずに、眠る前の記憶を思い出そうとすると、またしてもシェリィが説明を続けてくれた。
「盗賊に毒を盛られたらしいわよ。普通はそのまま死んでもおかしくなかったらしいけど、頑丈な体でよかったわね」
「ドニ、本当にごめん……。俺があのとき、家に帰んなかったら……」
ざっくりとした彼女の説明とヘンリーの謝罪を受け、ドニの頭の中で散らばっていた記憶が繋がる。
そうだ、避難所から家に戻ったヘンリーを追いかけていったら盗賊に鉢合わせて戦ったのだった。
いいところまで相手を追いつめたのはよかったが、気がついたらドニは地面に伏していて、きっとあのときに毒を盛られたのだろう。
どうやらそのまま意識を失っていたらしい。
自分の状況をなんとなく把握すると、急に心配なことが頭に浮かんでくる。
あの後、盗賊はどうなったのだろうか。
ヘンリーが無事なことを見るとあの男たちはどうにかしたのかもしれないが、盗賊がふたりだけということもないだろう。
村は一体どうなってしまったのだろう。
そんなことを考えると、ドニの不安をいち早く察したシェリィがすぐに知りたい情報を教えてくれる。
「ほかの人は特に怪我もしなかったらしいわ。あんたが唯一の重傷者だったのよ」
自分以外に怪我人がいないと聞いてドニはホッとした。
みんな無事だったのだ。
ということは魔物討伐に向かった人たちも無事ということだろう。
そこまで考えて、ドニは避難所に入ってから再会していない魔術師のことを思い出した。
シェリィの口ぶりからして、彼もきっと怪我などせずに戻ってきたはずだ。
だが、だとしたらなぜこの治療院の主であるはずの彼が此処にいないのだろうか。
ドニは疑問に思って、まだ掠れている声を振り絞り、なんとか質問を口にした。
「……あ、の……タオ、は……?」
その問いかけに、ヘンリーの顔が強張る。
シェリィも心なしかいつもより固い表情になった。
そんなふたりの様子にただごとではないものを感じ、見る見るうちに不安が膨らんでいく。
タオーネは一体どうしたというのだろう。
ドニの瞳が不安に揺れるのを目の当たりにして、ヘンリーは気まずげに目を泳がせる。
束の間、嫌な沈黙が続いたが、それを躊躇いがちに破ったのはシェリィだった。
彼女は明らかに動揺しているヘンリーとは対照的に、落ち着いた様子で口を開いた。
「…………先生は、ちょっと遠いところへ出掛けたの」
彼女の言葉は何処か曖昧で、誤魔化しているような響きを感じられる。
ドニは胸騒ぎが強まるのを自覚しながら、さらに詳しいことを訊こうと恐る恐る尋ねた。
「い、つ……かえ、って……くる……?」
今度の問いかけは、それまで平静を保っていたシェリィの顔をあからさまに強張らせた。
彼女は険しい顔つきで宙を睨んだ。
その後ろでヘンリーがオロオロと挙動不審になっている。
彼らの様子は言葉なくとも明らかに、あの魔術師の身に何かがあったと言っていた。
ドニは自身の顔が青褪め、血の気が引いていくのがわかった。
タオーネは何処にいるのか。
そんな考えが思考を支配し、反射的にベッドから立ち上がろうとするが、長時間を横たわったままで過ごしたためか、やはり思った通りには体が動いてくれない。
ベッドの上でよろめくドニをすぐにシェリィが支え、ヘンリーも慌てて駆け寄ってドニの体をベッドへ寝かしつける。
それでも頭の中がタオーネのことでいっぱいになってしまっているドニは、彼を探しにいこうと起き上がる。
急に動いたせいか頭がグラグラしているが、今はそれどころではない。
目覚めたばかりの不自由な体でもがくドニを見て、ヘンリーが半ば呆然と困りきっているが、それももはや目に入らなかった。
厳しい表情をしたシェリィがなんとか抑えつけようとしてくるものの、ドニ相手では非力すぎた。
ふたりを意に介さずにまたしても上体を起こしたところで、治療院の扉が開かれた。
タオーネかと思って咄嗟に視線を向けたが、そこに立っていたのはニコラスであった。
その横にはアーサーも見える。
「ドニが起きたって?」
「ニコラスさん……!」
のんびりとした様子のニコラスだったが、切羽詰まった三人の表情を見て顔つきを変えた。
彼は部屋の中に入ると、すぐにベッドへ近づいて子どもたちを見まわした。
「どうしたんだ?」
「……タオ、いつ……かえって……くる……?」
ニコラスならば答えてくれるかもしれないと思い、ドニは同じ質問を彼に訊ねた。
すぐに帰ってくるから心配いらないと言ってくれることを期待していたのかもしれない。
しかし、やはり彼も顔を曇らせて言葉を詰まらせているようだった。
そんなニコラスを目にして、ドニの胸に差した暗い影がより濃いものとなっていく。
タオーネは、本当にどうしてしまったのだろう?
不安で不安でたまらないドニの様子に、ニコラスは安心させるようにぎこちなく微笑みをつくった。
「そう、だな。そのことについて、少し話そうか。アーサーたちは一回、家に帰りなさい」
「……はい。ドニくん、またくるね」
「今度はお見舞いに何か持ってきてやるからな! おとなしく寝てろよ!」
父親に言いつけられたアーサーは緊張した面持ちで頷くと、ドニへ優しい言葉をかけてふたたび外へ出ていった。
ヘンリーもうっすらと涙目のまま、あえて明るい声音でドニに別れを告げ、アーサーに続いた。
いつもに増してむっつりとしたシェリィも無言でその後を追っていく。
子どもたちの気配が遠退くのを待って、ニコラスが口火を切った。
「……さて、ドニ。タオーネ先生のことなんだが……」
何処か躊躇しているようなニコラスに、ドニの喉が勝手にゴクリと鳴った。
どうかタオーネが生きていますように。
ドニは無意識に祈り、これから状況を教えてくれようとしているニコラスへ縋るような視線を送る。
ニコラスは、しばし尻込みするように辺りへ視線を巡らせていたが、意を決して言葉を続けた。
「……急な用事ができてな。先生は、魔大陸に帰ったんだ。多分もう、戻ってこれない」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
彼は、何を言っているのだろう。
タオーネが自分を置いて魔大陸へ戻った?
そんなことは、ありえない。
だって、約束したじゃないか。
ずっと一緒にいるって、大きくなってもそばにいさせてくれるって、約束したじゃないか。
それなのに、自分に何も言わずに去るなんて、そんなことはタオーネに限ってありえない。
支離滅裂になりそうな頭でそこまで考えると、ドニは最悪な事態もありえることに気がついた。
ドニはその推測に恐怖し、涙ぐみそうになりながら消え入りそうな声でニコラスを問い詰める。
「……タオ、しんだ……?」
タオーネが自分を置いていくことはありえない。
ならば、すでに彼が魔物や盗賊との戦闘の中で死んでしまっていて、みんながそれをドニから隠そうとしているというほうが現実的に思えた。
だが、同時にその予測はドニを絶望に叩き落すものでもあった。
どちらにせよ、ドニは信じたくなかった。
タオーネがいなくなったなんて、信じたくなかった。
しかし、ニコラスの口から出てきた言葉は、ドニを絶望の淵から救ってくれるものではなかった。
「いいや、怪我ひとつしてなかったよ。でも、急に帰ることになってしまってな。手紙を書くって言ってたし、そのうち届くさ。だから、ドニはまず自分の体のことを考えるんだ。何処か痺れてるところとかはないか?」
ひとまず説明を終わらせたニコラスが体の調子を尋ねてきたが、ドニにはもう聞こえていなかった。
本当にタオーネが自分を置いていったのだという現実に直面し、体が空っぽになるようなひどい喪失感に飲み込まれるしかなかった。
あの魔術師が自分のもとから去ったと認めざるを得ない状況となったドニは、即座に自身の落ち度を疑った。
でなければ、優しくて誠実な彼がドニに黙って去ってしまうなんてことがあるはずない。
「…………タオ、おれのこと、き、きらいに、なった……?」
今にもしゃくりあげそうになりながら問うドニに、ニコラスは頭を振ってそれを否定した。
苦しげに顔を歪める彼も、魔術師を失った悲しみを体すべてで表しているように見えた。
「違う、違うんだよ、ドニ。そういうことじゃないんだ……。先生は仕方のない事情で帰るしかなかったんだよ。ドニのことだって最後まで気にかけてた……」
そう言われても、ドニにはわからない。
タオーネがもうこの村にいないなんて。
もう二度と、ドニの前に現れないなんて、わかるわけがなかった。
恐慌状態となった頭は順序立てた考え方を忘れていき、根本にこびりついた単純で明確な思いに辿りつく。
タオーネと過ごすうちに影に隠れていた、ドニの基盤となるその概念は一度姿を見せると、もう止めることは不可能だった。
意識していないのにどんどんと荒くなっていく呼吸の合間に、ドニは誰に尋ねるというわけでもなくポツリと呟いた。
「お、おれ……じゃま……?」
「そうじゃない。先生はドニの幸せを願ってひとりで帰ったんだ。だから……」
ニコラスは必死にドニを落ち着けようと諭し始めたが、少年の瞳が自身を捉えていないことに気がついて、言葉を途切れさせて息を飲んだ。
ドニの目はもう何も映していなかった。
ただタオーネのそばにいたくて、彼の姿だけを探していた。
けれど、あの暗い色のローブを纏った魔族の魔術師の姿は何処にもない。
絶望に染まったドニの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
そうなると、もうそれを留める術はなくて、ドニは嗚咽を漏らしながら魔術師を呼んだ。
「ひぐっうぇぇ……やだ……タオ、どこ……? おれ、いいこ、するから……」
悪いところがあったら直すから。
だから、そばにいさせてほしい。
ドニは受け入れがたい現実を目の前に泣き続けた。
親鳥を失った雛鳥が、それでも巣の中で鳴いて親鳥の帰りを待つように、タオーネを呼び続けた。
しかし、いくら待っても、彼は帰ってはこなかった。
涙が枯れ果て、声すらも搾り尽くして何も出てこなくなっても、ドニはずっとあの魔術師を求めて泣き叫んでいたのだった。




