魔術師の決断
王国騎士の来訪から始まった一日が、終わろうとしていた。
天窓から差し込む夕日に照らされながら、タオーネは今も眠るドニの顔を眺めている。
いまだに微熱というには高すぎる熱が彼を苦しめているようだったが、今は波が引き、幾分かましなようだった。
おそらく夜中にまた熱が上がるのだろう。
ドニの体はうまく毒との付き合いを学んでいっているようだ。
鍛錬の教官であるニコラス曰く体力のある彼は、きっと回復する。
そう確信したタオーネは清潔な布巾で、ドニの額に浮かぶ汗を拭う。
束の間の穏やかな時間が、今のタオーネには心痛い。
王国騎士たちが去って、ニコラスが鬼気迫る顔で村長のもとへ新たな問題を持ち込みに走っていったが、それを解決する術はそう簡単には見つからないだろう。
やつらの上層部へ訴えかけようにも、バナーレ村から王都まではおよそひと月ほどかかる。
その間にあの不遜な騎士たちが戻ってくるのは明確であり、最悪の場合、上層部も取り合ってくれない可能性だってある。
組織の中枢ほど差別意識が強くなるものだということを、タオーネは自身の経験から知っている。
状況は絶望的だった。
あんな言葉も通じぬ輩が権力を握っている場合は、武力で抵抗するほかない。
だが、王国を守護する騎士と揉めるということは国家を敵にまわすことに等しい。
そうなったとしたら、ニコラスや村の者たちにまで被害が及ぶことになりかねない。
タオーネは赤い顔をして眠るドニを見つめた。
もしも、自分が国に盾突こうものなら、ともに暮らしているこの子どもにも多大な影響を与えてしまうだろう。
少々特異な体質であるようだが、人族である彼は人族の社会で生きていくことが一番の幸せだとタオーネは考えていた。
他種族の中で生きていくことの難しさは、長年の放浪による経験によってタオーネの身に染みついているため、やはりそれが正解なのだと思える。
しかし、タオーネが王国との関係を拗らせれば、ひとりの子どもの将来を奪うことに繋がってしまう。
あの魔族という理由でタオーネを徹底的に排除しようとする、狂信的な王国騎士たちが魔族と暮らしていた者を見逃すなんてことは絶対にない。
タオーネはやっと平穏を手に入れた少年の幸福を守りたかった。
そして、異形であるはずの自身を受け入れてくれたこの村に迷惑をかけたくなかった。
ローブの下で悲しみと諦めが膨らんで、ギリギリと体を蝕んでいく。
ドニの状態がまだしばらく落ち着いていそうだと判断したタオーネは立ち上がり、扉を介して外に出た。
それから家の前に続く道を少し辿り、たまたま近くを通りがかった村の農民に声をかけ、村長と駐在騎士に言伝を頼む。
快く了承した農民に礼を言うと、すぐさま来た道へ翻す。
とある決断を胸に秘め、タオーネは沈みゆく夕日を背に重い足取りでドニが眠る治療院へ戻っていった。
※※※※※※※※※※
完全に日が沈み、月の光がほのかに辺りを包む。
それまでドニに付きっきりで看病をしていたタオーネは瞼を閉じて、静かにその時を待った。
やはり日中に予想した通り、ドニの熱は夜が深まるにつれて徐々に高まってきていた。
だが、それはすでに危なげない範囲に収まるものと考えられた。
おそらく山場は朝方で、それ以降は緩やかに回復するものと思われる。
そのため、今のところは少々目を離しても心配はいらないだろう。
そう判断し、タオーネはこれから訪れる客人を待っていた。
しばらくすると、ふたつの足音が微かに聴こえ、やがて玄関の扉が控えめに叩かれた。
タオーネはすぐに玄関へ向かい、扉を開いて自分が呼んだ客を迎え入れた。
「夜分にお呼び立てして申し訳ありません。どうぞお上がりになってください」
そう言うと、夕方に言伝を頼んでおいた農民から用件を聞いて訪れてきてくれた村長とニコラスが、疲労を滲ませた顔で首を横へ振った。
タオーネの言伝は「伝えたいことがあるので夜になったらふたりで家にきてほしい」というものだったが、魔物襲来の凶報から始まった一連の騒動で疲れきっているであろう村の要人ふたりが自分の願い通りに足を運んでくれたことにタオーネは感謝した。
その上で謝罪すると、ニコラスがくたびれた微笑を口元に浮かべた。
「いや、ドニが大変なときだ。こちらから伺うのが妥当だろう」
彼の言う通り、回復の兆しが見えたとはいえ重傷者には違いないドニがいるため、長い時間を彼から離れて行動することは少し不安だった。
そのために治療院を併設する自宅に彼らを招いたのだ。
普段から険しい顔をさらに難しげにしている村長が、やや無愛想に村の子どもの容態を訊ねてくる。
「……それで、彼の様子は?」
「今は少し熱が上がっていますが、それは回復に伴うものだと思われますので心配いりません。まだしばらくは眠ったままかもしれませんが、近いうちに目も覚めるかと」
「そうか……よかった……」
ドニが回復に向かっていると聞いたニコラスが安堵の声を漏らす。
毎日のように鍛錬でドニを鍛えてきた彼は、自身をもうひとりの保護者になったように思って教え子を心配していたのだろう。
ぶっきらぼうなように見える村長も、ひっそりと安心したように息を吐いている。
そんな彼らの様子をドニの保護者として嬉しく思いながら、これから話す内容に沈む心を隠して、タオーネは微笑んだ。
「では、こちらへどうぞ」
優しい客人たちを食堂へ通す。
治療院はドニが眠っているし、タオーネの自室は治療のために引っ張り出した書物が山となって積み重なっている。
必然的に人を招き入れることに適した部屋は食堂のみとなっていたのだ。
「今、お茶を淹れますのでお好きなところにお座りください」
「ああ。すまんな」
ふたりが椅子に座るのを気配で察しながら、タオーネはあらかじめ用意していた茶葉に湯を注いだ。
このあたりでよく飲まれている茶葉には、軒先でちょっとした栽培をして数を増やした香草を足しておいた。
いい香りのするこの草は疲労回復の効用が期待できる。
湯に色がついて香りが移った頃合いを見極め、木のカップに注ぎ入れる。
ホカホカと湯気がたつ温かなそれをタオーネはふたりの前に並べた。
「どうぞ」
「ありがとう」
タオーネが席につき、三人でひとまず淹れたての茶をすする。
薄すぎず、渋みも出さず、よく淹れられている。
温かいカップを手に、三人は揃って細く息を吐く。
束の間の沈黙がその場を包んだ。
そして、村長が遠慮がちに話を切り出した。
「……それで、先生。話っていうのは……」
「……朝方の、王国騎士の者たちについてです」
これから話す内容にやや緊張しながらタオーネが答えると、その場に居合わせたニコラスがあからさまに顔を歪めて嫌悪感を顕にした。
村長も彼ほどではないが、むっつりと不機嫌そうに唇をへの字にしている。
「ああ、やはりそれか……」
「先生、あんなやつらのことは気にするな。俺が何とかするから」
頼もしく問題を請け負うことを申し出たニコラスだったが、タオーネは今の彼が解決策を持ち合わせていないことを知っていた。
それは村長も、タオーネ自身も、同じことだった。
ひとりで問題を抱えようとしている若い騎士を穏やかに諭すように、タオーネは言葉を続けた。
「ですが、ニコラスさんひとりで解決できることでもないでしょう? あの者たちにはもはや言葉も通じませんよ」
「だが……」
まだ何か言い返そうとするニコラスの言葉に重ねるように、タオーネはある決断を口にする。
じりじりと焦げるような胸の痛みに目を閉じながら。
「私は……バナーレ村を去ろうと思います」
一瞬の、沈黙。
タオーネの突然な決断に、村長は腕を組んで目を伏せ、より一層難しい顔つきになった。
まだまだ若いニコラスは理解不能といったようにしばし口を開いたまま固まり、それから半ば悲鳴のようにタオーネへ食って掛かった。
「なんでだよ……先生が出ていくことなんてないだろ……!?」
感情を剥き出しにしたニコラスの悲痛な表情に、タオーネの胸が痛みを強くする。
だが、それを抑えつけ、ただ淡々と声に感情を乗せないように気をつけながら話を続けていく。
「彼らは危険です。王国の古い勇者信仰を妄信しています。それは、魔族と人族の平等が約束された百年以上昔の状況と何も変わっていない。彼らの勇者信仰は寿命の短い人族の中で変わることなく受け継がれてきた価値観です。私には、それを変える方法がわかりません」
「だからと言って何も出ていくことはないだろ……!? 何も考え方を変えさせなくてもいいじゃないか……数日後の襲来をどうにかして乗り越えたらいい話だ……! 第一、ドニはどうするんだよ……まだ意識も戻ってないんだろ……!?」
ドニの名があがり、タオーネの心がひどい痛みを伴って大きく抉れた。
この決断は自身にとっても彼にとってもつらく、厳しいものだ。
自身が失おうとしているもの、そして多かれ少なかれドニを傷つけることになる選択を自覚するたびに、固く決断した今も血がにじむような想いを抱く。
ローブの下で拳を握りしめ、痛みを堪えながら、タオーネは平静を装って静かに答えを口にする。
「……たとえ、一度の襲来を交わしたところで、あの者たちは私への攻撃を諦めることはないでしょう。執拗に追いまわし、私が破滅するか王国から出ていくかするまで攻撃を続けると思われます。そうなったら、私だけではなく、村も、そしてともに暮らすドニも平穏を失うことに繋がりかねません」
それは、紛れもない事実だった。
あの手の狂信者はしつこく食い下がり、破滅をもたらす。
どうにかしてその窮地を乗り越えようともがいていたニコラスも、面と向かって告げられたその事実に、唇を噛みながら項垂れることしかできないようだった。
このバナーレ村を愛し、守護する立場にある彼にとって、村を危険に晒すことはあってはならないことなのだ。
だが、彼からしたらタオーネも守るべき住人のひとりなのだろう。
どちらにせよ避けられない被害に、ニコラスは苦しんでいた。
そんな彼の横で、それまでふたりのやり取りに静かに耳を傾けていた村長が伏せていた目をタオーネへ向け、口を開く。
「あの子を置いていくのか。あんたによく懐いてるじゃないか」
「そうだよ、先生。せめてドニの意識が戻ってから身の振り方を決めてもいいんじゃないか?」
村長の言葉に便乗するようにして、ニコラスも魔術師を説得しようと懸命に村に留まる道を主張した。
しかし、タオーネの心はもうとっくに定まっていた。
それでも引き留めてもらえることをありがたく思いながら、けして変わらぬ意思を言葉にする。
「いえ、出ていくのなら早いほうがよろしいでしょう。王国騎士が戻ってくる前には去ろうかと」
「……ドニは、置いていくんだな」
「ええ。彼にとっても、それがよいと思います。幼くして安住の地を失うことは、ひどくつらいことですから」
そう言うタオーネの頭の中には、自身の幼い頃のつらい記憶がおぼろげに蘇っていた。
居場所のなかった幼少期は今でも、時おりタオーネの胸にひっそりと影を落とすことがある。
安心して暮らせる場所というのはタオーネにとって、生涯を通じて渇望し続けるものだった。
自身が幾度も手に入れたと思いきや失うということを繰り返してきたそれを、ドニから取り上げることはしたくなかった。
頑ななタオーネの意志を確認することとなったニコラスは、途方に暮れた顔をした。
もう村の魔術師を止める術はないということに気付いてしまった彼は呆然とした、痛々しい様子でうわ言のように最後の説得を試みる。
「だけど、ドニは先生のことが大好きなんだ……。 何でかは知らないが、秘密にしてほしいって言われてたから黙ってたけど、俺との鍛錬だって先生のことを守りたいから戦い方を教えてくれって言ってきて……。俺は、ドニと先生は一緒にいたほうがいいと思う」
ニコラスに告げられた今まで知ることのなかった事実は、タオーネの胸に奇妙な気持ちを生じさせた。
生きながら心臓を食らわれるような痛みを覚えながらも、心はブルブルと震えるほどの喜びを感じている。
嬉しくて、涙が出そうだ。
あの子は、タオーネが望むものをずっと与えてくれていたのだ。
これかもこのままずっと、ともに暮らすことができたのなら。
きっと、ドニは自身の夢を叶えてくれただろう。
いや、もうすでに叶っていたも同然だったのだ。
けれど、それは彼のためにも手放さなければならない。
王国で生きていくのならば人族とともに生きていったほうがいい。
タオーネはこれから己を待ち受ける境遇を思うと、あの健気で純粋な少年を自身の我欲で連れていくわけにはいかないことを理解していた。
「……私はこれから、魔大陸に戻ろうと思っています。あの地は厳しく、寂しいところです。未来ある人族の子どもを連れていくところではありませんから……」
「……魔大陸に戻って、先生はどうするんだ」
「前の職場の伝手がありますので、そちらを頼ろうかと。しばらくはバタバタするでしょうが、落ち着いたら手紙を書きますね」
諦めにも似た眼差しで力なく質問を投げかけてきたニコラスに、タオーネはあえて明るく柔らかな調子で答えた。
同じ王国内ならまだしも、海を挟んで遠く離れた魔大陸からの手紙がバナーレ村まできちんと届くとは思えなかったが、たとえ気休めでもこの村で得た繋がりが切れるわけではないと思いたかった。
若い騎士もそれを感じ取ったのか、努めて微笑みを返そうとしたようだが、うまくいかずにくしゃりと顔を歪ませて俯いてしまった。
そんなニコラスに釣られてタオーネが取り繕った微笑も崩れそうになったが、どうにか形を保ったまま耐えきる。
もう言葉を発することもなくなった若者に代わり、今度は村長が今後のことを訊ねてきた。
「それで、いつ頃に行っちまう予定なんだ」
「そうですね……遅くとも、明後日の朝方には。別れが惜しくなるので、皆さんには黙っていこうと思います。不誠実ではありますが、皆さんによろしくお伝えください。それから治療院は整理をして、解放していこうと思っています。簡単な薬の調合なども残していくので、今後もお役立てください」
自分がいなくとも村はなんとかなる。
言外にそう伝え、少しでも安心させようとしたが、想像していたよりも性急な旅立ちだったようで村長は口を閉ざして瞼を伏せた。
沈痛な様子のふたりにタオーネも心が痛むが、それでも一度決めたことを覆すつもりはなかった。
しばし三人を静寂が包む。
そして、目をしょぼしょぼとさせた村長がその静けさに乗せるように小さく呟いた。
「……あんたがいなくなると、寂しくなるな」
ポツリと呟かれたその言葉に、微笑みを象っていたタオーネの唇が戦慄き、ついには崩壊した。
せめて泣き言が漏れ出さないように唇を噛みしめ、顔を伏せる。
十年という年月をバナーレ村で苦楽をともにした三人は、別れの悲しみにじっと耐え忍ぶ。
別れとはいつになっても何と苦しいものなのだろう。
タオーネはズシリと重くのしかかってくる重たい空気の中で、この村で過ごしたかけがえのない日々を噛み締めた。




