突然の凶報
その知らせは突然、バナーレ村にやってきた。
タオーネはいつものように仕事部屋で薬の調合をおこなっていた。
するとそこに村長からの使いがきて、今すぐ村長の家にきてほしいと言うのだ。
急な呼び出しを受け、タオーネはすぐに頷き、台所で勉強していたドニに出かける旨を伝えたのだった。
それから早速、村長の家に向かうと、すでに村長と駐在騎士ニコラス、そして見慣れぬ鷹のような鳥がそこにいた。
利口そうなその鳥の脚には、ウォルトン領騎士団の印がくくりつけられている。
馬よりも速く長い距離を飛ぶ鳥を用いたということは、おそらくは緊急用の伝書鳥なのだろう。
ものものしい空気と嫌な予感をひしひしと感じながら、タオーネは難しい顔をした村の要人ふたりに声をかけた。
「遅くなってしまい、申し訳ありません。……何か、問題が起こりましたか」
タオーネの言葉にニコラスが青ざめた村長の顔に伺い、ことの次第を話す権利を得ると、ふたたびこちらのほうへ向き直った。
彼も落ち着いてはいるが、緊迫した顔つきになっている。
そして、潜められた声でその凶報が告げられた。
「この村から馬で二日ほどの距離にある、帝国との国境付近の村が、落ちた」
「っ……!?」
突然の知らせにタオーネは息を詰まらせ、ひどく驚愕した。
しかし、すぐに態勢を立て直すと、あくまで冷静に詳細を求めて問い返す。
「……なぜ?」
「この辺では到底信じられないような規模の魔物の群れに飲まれたそうだ。それが昨日の出来事だそうだ。そして、その大群はこのバナーレ村を真っ直ぐ目指していると思われる」
それを聞いて、タオーネの頭の中には去年の異様ともいえるゴブリンたちの発生が甦っていた。
やつらがこの極めてやっかいな件と関連している可能性は高い。
帝国側の村が落とされたということは、もしもあのゴブリンたちが関係する事件であるならば、やはり帝国領から潜り込んできたと考えるのが自然だろう。
しかし、王国は帝国と不仲であるため、その国境は王国騎士団が直々に警備を執り行っているはずだ。
ならば今回の、目につかないはずがない魔物の大群がどうやってその包囲網を潜り抜け、王国領を突き進んでいるというのか。
そこまで考えて、タオーネはローブの下でたらりと冷や汗を流した。
この事象は、想定していたよりも遥かに根深いものかもしれない。
目の前の魔物を倒しただけでは解決しない何かがその根本にはある。
そんな予感を感じながら、それでもまずは迫りくる村の脅威を始末しなければなるまいと考えて、タオーネは呟いた。
「すぐに対処しなければ」
「ああ。予想では早くて明日の昼頃にはこの村に辿りついているだろう。冒険者ギルドやウォルトン領騎士団の者たちも村に達するまでに数を減らそうと試みてくれているそうだが、それでもかなりの数になると思う」
ニコラスが伝書鳥が運んできた手紙を机に広げる。
すると、その手紙に描かれた簡素な地図が目に入った。
急いで描かれたらしい、少し雑なその地図にはどうやら魔物の進行方向が刻まれているようだ。
ニコラスはその情報を指で追い、状況をまとめていく。
「軌道を考えると、やつらはおそらく西の森を突っ切ってくる。ギルドと騎士団も援軍を送ってくれるらしいが、急なことで人手が足りていないそうだ。俺たちも前線に立つことになるだろう」
「わかりました。魔物相手ならばお任せください」
「頼もしいな、先生」
そこで初めてニコラスの顔がほんの少し弛んだ。
騎士団で腕を磨き、実戦経験もある彼は肩の力を抜くことの必要性も理解しているのだ。
それがわかっているタオーネもほんの少し力みを解いて、彼に微笑み返した。
事実、タオーネは魔物相手の戦闘に関してはそれなりの経験も実績も持っているため、己の力を過信はしないものの、それなりの余裕は持ち合わせている。
束の間、空気が緩んだが、すぐに村長が咳払いをして話を戻した。
あまり力を抜きすぎてもよくない。
村長はこの村の責任を負っている者らしく、村の中のことについて話し始めた。
「村の者たちには即刻知らせよう。避難させんとならん。先生に言われて一応、避難倉庫の整備をしておいて本当によかった」
村長の言葉にタオーネはそっと頷いて同意を示す。
この村には村共用の避難所があり、うまく扉を隠せば敵にも見つかりにくい構造になっているのだが、平和なバナーレ村では何年も使われておらず、長いこと放置されていたのだ。
それをタオーネが万全を尽くしておいたほうがいいと進言し、去年から少しずつ整備して問題なく使用できるようにしたのだった。
その整備を率先して買って出た働き者のニコラスが、何度か相談されたタオーネの予感にも似た心配について触れた。
「先生の嫌な予感が当たっちまったな。去年のゴブリンは偵察だったのかもしれない」
「その可能性は高いですね。しかし、そうなると群れを取り仕切る上位種がいることになりますね。それも、かなり知能が高い」
タオーネは明日の昼には迎えるはずの戦況に思いを馳せた。
話に聞くような大群がゴブリンだけで形成されているとは考えにくいが、もしもゴブリン系統の魔物を基礎とした群れだと想定するならば、その最上位種であるゴブリンキングがいてもおかしくない規模だろう。
冒険者時代に参加したいくつもの討伐を思い出し、タオーネは年甲斐もなく血が騒ぐのを感じて苦笑した。
そうしている間にも村長が段取りよく指示を出していく。
「とにかく、まずは住人たちの避難を優先しよう。女子どもと老人を優先して共用避難所へ。溢れた者にはこの家の地下倉庫を解放する」
「わかった。今すぐ村中に知らせてくる」
「頼む。くれぐれも落ち着いて行動するよう皆に伝えてくれ」
「ああ」
早速、村の住人たちに避難を指示しようと席を立ったニコラスを見て、タオーネも村長へ一礼してからその後を追った。
村長の家を出て、すぐに多忙な彼へ協力を申し出る。
「私も行きましょう」
「いや、先生はドニがいるだろ。うちは嫁もアーサーも非常時のことは言い聞かせてあるし、自分たちで避難の準備はできるが、ドニをひとりにさせるのは可哀想だ。帰ってやりなよ」
父親らしいニコラスの言葉にタオーネは少し自分を恥ずかしく思った。
どうやら緊急事態ということで、この村の魔術師としての責任にばかり意識が向いていたようだ。
確かにタオーネはあの自分を頼るしかない、怖がりな子どものことを考えねばならない。
もうひとつの自身の責任を思い出させてくれた騎士に、タオーネは感謝の眼差しを送る。
「お気遣い、感謝致します」
「お互いさまだろ。一通りのことが済んだらまた此処で落ちあおう」
「かしこまりました」
若くして立派な騎士であり、父である彼にタオーネが一礼し、ふたりはその場で別れた。
そのまま急ぎ足で家へ戻り、勝手口にまわってドニが勉強を続けているだろう台所へ飛び込むようにして帰ると、きょとんとした顔のドニがタオーネを見た。
「ドニ、いますね」
見ればわかることを訊いても、ドニは素直にコクンと頷いてくれる。
現状を理解していない彼にできるだけ衝撃を与えないで説明しようと、タオーネは一回、息をついた。
自身の気持ちも落ち着け、彼に向き合う。
「落ち着いて、聞いてください。いいですね?」
タオーネの様子に真面目な話だと察したらしく、ドニは姿勢を正して話を待った。
そんな彼にも理解しやすいようにゆっくりと説明を始める。
「明日の昼頃、この村に向かって魔物の群れが押し寄せます。私とニコラスさんがけっしてやつらを村に入れないつもりですが、一応、ドニも避難しましょう」
そこまで説明すると、ドニの様子に変化が見られたため、一度、言葉を切る。
彼の顔は見る見るうちに血の気が引いて真っ青になり、その大きな体もカタカタと震え始めた。
恐怖に支配され、錯乱しそうなのかもしれない。
タオーネは可哀想なほど怯えるドニを落ち着かせるために、冷静に穏やかな調子で声をかけ続けた。
「ドニ、落ち着いて。大丈夫です。少しじっとしていればすぐに終わります。大したことではありません。私が必ずあなたを守ります」
そうやって語りかけ続けると、ドニはだんだんと落ち着きを取り戻していった。
しばらくして、まだ顔は青白いものの冷静に話せる程度にまで回復し、ドニは弱々しく頷いた。
どうやらもう大丈夫そうだ。
そう判断したタオーネは彼の頭を優しく撫でる。
「いい子ですね。避難場所ですが、お隣のお家の向かいに建っている小屋はわかりますね? あそこは普段は物置小屋として使われていますが、緊急時の避難部屋の入口になっています。地下にある部屋なので、まず安全です。今からそこに避難して、とりあえず一夜を過ごすことになりますが、此処までいいですか?」
具体的な避難場所の情報を伝えて、理解度の確認を挟むと、ドニはまたコクンと頷いた。
それでもやはり普段とは違う環境で一夜を過ごすことに不安があるのか、オロオロと視線を彷徨わせている。
そんな彼の心配を少しでも軽減させようと、タオーネは彼の友人たちの名をあげた。
「子どもはそこへ優先的に避難することになっているので、ヘンリーくんやアーサーくんも一緒になるでしょうから、大丈夫ですよ。それでは、今から避難の準備をします。大切なものをまとめて荷物にしてください。地下室は夜になると冷えるので、毛布も持っていきましょう」
そう言いつけると、ドニは青い顔のまま頷いて自室へ向かおうと椅子から立ち上がる。
だが、やはり緊急事態に慌てたのか、脚をゴンッと机に打ちつけてしまった。
「落ち着いてくださいね。まだ時間はありますから」
諭すように言い含めると、彼はもう一度頷き、慎重な足どりで自身の部屋に向かっていった。
不器用な彼ひとりでは荷造りするのは難しいだろうから手伝ってやらなければと考えながら、タオーネは地下の食糧庫を覗き込んだ。
長期戦になる可能性は低いが、念のために持てるだけの食べ物は持たせよう。
そう考えてそのまま齧れるパンやチーズの欠片を清潔な布巾で包み、簡素な弁当を作り上げる。
出来上がったそれを一旦、机の上に置いて今度こそ荷造りを手伝おうとドニの部屋へ足を向ける。
すると、ベッドの上にタオーネが買ってやったマントや襟巻がまとめて置かれており、その横には新品のバトルアックスが立てかけられていたが、ドニの姿がなかった。
どうしたのだろうと思うや否や、バタバタと忙しない足音がタオーネの自室から向かってくる。
そうして廊下から現れたドニの手には、タオーネが愛読している植物辞典が抱えられていた。
おそらく、タオーネの分の荷造りも手伝おうとして、一番目にすることが多いその書籍を選んで持ってきたのだろう。
だが、タオーネは魔物を討伐する立場なので、避難は必要ない。
ドニの無邪気な気遣いに思わず口角が弛むのを感じながら、タオーネはそのことを彼に伝えた。
「ああ、ドニ、私は避難しないのでそれらを持っていく必要はありませんよ」
途端にひどく狼狽えて顔を曇らせたドニを見て、タオーネはしまったと内心で感じた。
きちんと説明したつもりだったが、彼は自分とともに避難するものだと思い込んでいたのだ。
それを突然そうじゃないと言われたら不安に思うに決まっている。
自身の説明不足を反省していると、ドニはやはり不安でいっぱいといった表情でタオーネの顔を上目に覗いてきた。
「……いっしょ、じゃない……?」
「夜と明日はこれからの対応があるので、一緒にいられませんが、避難所には村の人たちもいるので大丈夫ですよ」
近頃は村の住人たちの顔もすっかり覚えたドニが安心できるように言い聞かせる。
このバナーレ村に恐れる者はいないと理解した彼は、もはや誰に会おうがきちんと挨拶――といっても言葉が伴うことは稀ではあるが――できるようになっている。
そんな現状も踏まえてひとりではないことを強調して説得を試みるも、ドニの顔は一向に曇ったままだ。
彼は少し考えるような素振りを見せて、遠慮がちに震えそうな声でタオーネに訊いた。
「タオ、たたかう……?」
「ええ。私はこの村に住む魔術師ですから、戦いにも赴きます」
嘘をつくわけにもいかないので正直に答えると、ドニの顔により一層暗いものが陰った。
もしかしたら彼はひとりになる心配をしているのではなく、タオーネのことを心配しているのかもしれない。
そう考えてそれについても問題ないということを彼に伝えようと口を開きかけた瞬間、悩んだような様子を見せていたドニが顔を蒼白にしながらも、何やら覚悟を決めたような表情でタオーネを見つめた。
その異様な雰囲気に嫌な予感を覚えると、やはりその予感も的中してしまったらしい。
ドニは震える体を叱咤するように言った。
「お、おれも、いく」
「それはいけません」
反射的に融通の利かない、強い調子で彼の言葉を否定する。
大概のことはドニのやりたいようにさせる方針のタオーネだったが、それは絶対に認めてはならないことだった。
「ドニ、あなたはまだ実戦経験もないでしょう? それに普段、鍛錬をしているといっても、敵に立ち向かう方法を教わっているわけではありません。そんなあなたを戦場に立たせるわけにはいきません」
勢いづいたまま、半ば叱るような語調で自身の言い分を述べる。
だが、思わず厳しくなった語気を正面から浴びたドニが今にも泣きだしそうな顔をしたことで、タオーネは口を閉じてしまう。
咄嗟に正論で責めたててしまったが、これでは相手は萎縮する一方だ。
若かりし頃の悪癖がぶり返ってしまった。
今までにないタオーネの強い態度にドニはすっかり怯えてしまっている。
きっと彼はただ自分のことを心配してくれているだけなのに、それを頭から否定したのはよくなかった。
即座に自身の過失を反省し、タオーネは説得の方法を切り替えることにした。
おそらくはきつくなっている表情を意識的に弛め、あえて明るく穏やかに振る舞う。
「心配しないでください。これでも私はそこそこ強いのですよ? 長いこと冒険者として生きてきましたし、この村の中ではおそらく一番、魔物との戦闘経験があります。だから、大丈夫。どうかドニは待っていてください」
何も心配することはないと、ドニが安心することだけを考えて優しく言い含める。
すると彼は和らいだタオーネの様子を見て少し体の力を抜き、おずおずと涙ぐみそうになりながら、囁くように問いかけてきた。
「……し、しなない……?」
その縋るような言葉にタオーネは、場違いな暖かい気持ちを抱いた。
この幼い子どもの必死な問いかけはタオーネが大昔に諦めた何かを蘇らせようとする。
それを何処かで感じながら、否定することなく、タオーネは真っ直ぐにドニの翠の瞳を見つめた。
いつになく、素直な自分がそこにいた。
「私は絶対に死にません。生きて、必ずドニのもとに帰ってきます」
静かに、だが力強く頷いて、タオーネは約束の言葉を口にした。
その心から誓った言葉に、ドニは顔をくしゃくしゃにさせて、恐々と頷いた。
約束が彼の心にほんの少しの安らぎを与えたのだろう。
まだ強張ってはいるが、先ほどのような怯えや心配は心なしかわずかに和らいだように見えた。
タオーネはこの雛が待つ巣に必ず戻ることを改めて誓い、その少し伸びてきた髪をくしゃりと撫でた。
決戦の時は、もう、すぐそこまでやってきている。