力の使い方を学ぼう
タオーネから身の守り方の勉強(アーサー曰く鍛錬というらしい)をするように言われた翌日、ドニは自分よりも小さな友達の後ろに隠れるようにして立っていた。
昨日ずっと降り注いでいたはずの雨はドニたちが眠っている間に去っていったようで、今日は気持ちのいい青空だ。
そんな空の下、今ドニが立っている、薄紅や純白の花が咲いている背の低い生垣に囲まれた、この村では珍しい広々とした庭はアーサーの家のものだ。
地面には柔らかな若草が生い茂っており、暑いからと勧められた簡素なつっかけを履いただけの素足をくすぐった。
胸がドキドキと鳴って落ち着かず、そわそわと視線をあちらこちらに彷徨わせていると、ドニの前に立ったアーサーが苦笑する。
これまでよりも随分と内容を減らされた勉強を終えた頃に迎えに来てくれたアーサーについてきたはいいが、タオーネ以外のおとなと面と向かって対峙するのは初めてで緊張してしまう。
今は朝から村長への用事を済ましにいったらしいニコラスの帰りを待っているのだが、いつ戻ってくるのかと生垣の向こうを頻繁に確認しては緊張が高まっていくようだった。
鍛錬が始まる前に疲れてしまいそうなドニの様子に、アーサーが前を向いたまま顎を上げて、ドニの顔を下から覗き込むようにして目を合わせてきた。
「大丈夫だよ。うちの父さんはドニくんのこと知ってるし、鍛錬っていっても、いきなりきついことはしないよ」
いつでも誠実な友達の言葉に頷いたものの、ドニの心は不安でいっぱいだ。
教えてもらっても、うまくできなかったらどうしよう?
でも、タオーネに言われた通りに自分のことは自分で守れるようにしないと……。
同じようなことを何度も頭の中でぐるぐると繰り返し考えていると、垣根の向こうからアーサーによく似た強い眼差しをした男がやってきた。
今日からドニの先生となる騎士ニコラスだ。
そのたくましい腕には、なぜだか大鍋のような岩を抱えている。
「父さん、おかえりなさい」
「ただいま! 待たせちまってすまんな! 村長の話が長くてなぁ」
ドスンと岩を地面に置き、わざとおどけたように肩をすくめるニコラスの表情は息子のアーサーとは似つかないほど、くるくるとよく動いた。
快活な笑顔を浮かべたこの村の騎士はタオーネよりも幾分かがっしりとした体を縮めて、ドニよりも視線が低くなるように屈んだ。
「やぁドニくん。久しぶりだな! 怪我はもう大丈夫そうか?」
愛嬌のある笑顔にドニはおずおずと頷く。
まだまだ若い友達の父親は「そうか、それはよかった」と言ってドニの頭を撫でようとしたが、思わずビクッと身構えたドニを見てその手を止めた。
その手がしばらく宙を彷徨ったかと思うと、ドニの目の前に差し出され、ニコラスはより一層、明るく笑った。
「今日から俺がドニくんの教官となるわけなんだが、その……よろしくな!」
どうやら差し出された手は握手を求めているらしい。
ドニはまた頷いて、おっかなびっくりといった様子でその手を握った。
当たり前だが、前に握手をしたヘンリーの手よりもずっと大きくて分厚い手だった。
ごつごつとしたまめが掌に触る。
その大きな手を遠慮がちに握ると、何倍もの強い力で握り返された。
けして痛くはないが、生き生きとした力強さが伝わってくる。
驚いてニコラスを見上げると、彼はニッと歯を見せて笑い、自然な流れで握手を終わらせた。
それから教官らしく威厳に満ちた、ゆとりのある仕草で立ち上がり、ふたりの教え子に指示を出した。
「さて、早速だが鍛錬に入ろうか。アーサーは先に体を温めておいて、ドニくんは少し俺と話をしよう」
「はい」
アーサーがはっきりとした返事をして、ドニから少し離れたところに移動し、腕や脚を伸ばし始めた。
ドニは何をしているのだろうと思ったが、すぐにニコラスが言っていた鍛錬のひとつなのだろうと考え直した。
そうしてドニの意識がアーサーへ向いている間に、ニコラス教官はドニのほうへもう一歩近付いてさっきと同じように屈んだ。
慌てて視線を彼へ移すと、その若々しい眼がドニ越しに青空を映しているのが見えた。
「さて、ドニくん。君はタオーネ先生から、身を守る勉強をすると言われてここへ来たね?」
ニコラスからの確認の言葉にドニは距離の近さに少し緊張しながら、こくりと頷いた。
タオーネからはつい昨日、言いつけられたばかりだったが、それがドニに必要なことなのだということは理解できている。
本当にそんなことが自分にできるのか自信はないが、ドニだって自分の身くらい守れたらいいなと思っているのだ。
同居人の魔術師がスライムに襲われたドニを心配して飛んで帰ってきてくれたことは本当に嬉しかったが、何も心配させたいわけではない。
せめて彼の気がかりをひとつでもなくせるなら、ぜひともそうしたかった。
ドニが頷いたのを見たニコラスは一呼吸置くと、年長者らしい余裕のある微笑みを浮かべてとある質問を投げかけてきた。
「いきなりの質問で悪いけど、ドニくんは身を守るためには何を知る必要があると思う?」
その質問にドニはすっかり困ってしまって、元から下がり気味な眉尻をさらに下げてしまう。
身を守るためには何が必要だろう?
抵抗するための力?
それとも逃げるための脚の速さだろうか?
いまいちピンとくる答えが見つからず、当てずっぽうにでも答えたほうがいいのか、それとも間違えたら叱られるのか……と質問に直接は関係ないことを考え始める。
そんなドニの情けない表情を見たニコラスが、アーサーにそっくりな顔で苦笑いを浮かべた。
「ああ、答えられなくていいんだ。初めてのことなんだから知らなくて当然なんだ」
そう言われてドニが露骨に安心すると、彼は微笑ましげに口元を弛めたが、すぐに教官の威厳を思い出したらしく、きりっと引き締まった微笑みをつくった。
目の前の生徒が大真面目な様子で耳を傾けているのを見て、満足そうだ。
「いいかな? 身を守るということは、相手はこっちを攻撃してくる状況ってことなんだ。その攻撃から逃れたり、防御したりするには、相手がどんな動きをするのかわからなくちゃいけない。それから自分の力がどのくらいのものなのか、きちんと知っておかないとうまく動くことができない」
教官の言うことを一字一句たりとも聞き逃さないぞという心構えで耳を傾けていたドニは、無意識にふむふむと頷いていることに自分では気付かない。
模範的な生徒の態度にニコラスの陽気な唇がすぐにまた弛んで、親しみを感じさせる笑みを描く。
彼の気さくで飾ってもすぐにボロが出る雰囲気に、ドニの緊張はもうほんの小さな欠片ほどになっていた。
「だからまずは自分の力について知ろう。それから体を動かすことに慣れて、ちゃんと自分の力を扱えるようになったら実際にどうやって攻撃から身を守るのか教えるよ。最初は簡単なことから始めるから、そんなに身構えてなくていいぞ」
教官から直々に安心するように言われたドニはまだ微かに残っていた肩の力を抜いて、安堵した。
鍛錬もタオーネが教える勉強と同じだ。
まずは数字や文字を写すだけの簡単なものから始まり、慣れてきたら段々と計算や文章を読むなどの少し難しいことをやっていく。
鍛錬と勉強は使うところが体か頭かで異なるだけで、方法は同じなのだ。
それなら自分にもできるかもしれない。
勉強ならいつもやっているし、頭の悪い自分でも読み書きと簡単な計算(たまに間違えることはあるが)ができるようになったのだ。
きっと鍛錬も少しずつやっていけば、できることが増えるかもしれない……。
ドニがこの村にきてから知らないうちに少しずつ胸に灯されてきた希望という小さな光を見つめていると、ニコラスが元気な若者らしい声を張った。
「あともうひとつ! もうひとつ、大切なことがある」
教官の言葉に急いで意識を自分の中から外の世界へ戻す。
すると、彼は先ほどまでの芝居じみたものではない、心の様子をそのまま映した真面目な顔をした。
その顔はアーサーにそっくりだ。
「鍛錬を続けていくと、ドニくんもきっと強くなる。だけど、その力を無闇に使ってはいけないんだ。力っていうもんは、何かを守る、ここぞというときに使うもので、誰かを傷つけるために使うものじゃない。それだけは絶対に覚えておいてほしい」
真っ直ぐに射貫くような眼で語るニコラスに、ドニは少し腰が引けそうになりながら何度も頷いた。
ドニは身を守ることを習いにきたのだから、それ以外に力を使うつもりなんてない。
むしろドニはずっと恐れていた。
昔から少し力を入れると何でも壊れてしまうほどの怪力。
物を壊し、いくら殴られて躾けられても制御できないその力はドニの臆病な心をさらに責めたてる。
だから強くなりたくはなかった。
タオーネに言われたように、自分の身を守れるようになれたらそれでいい。
いつも胸にしまってある暗い記憶と感情がほんの少し顔を出し、これから勢いをつけようとしていた明るく熱を帯びた気持ちが萎れていくのがわかる。
表情を曇らせたドニを見たニコラスは自分の態度が怖かったのかと捉えたらしく、慌ててにっこりと笑った。
「まあ、ドニくんは気が優しいみたいだからな。大丈夫だとは思うが、覚えておいてくれ」
優しく締めくくられた忠告の言葉に、じくじくと疼き始めそうな胸の内から目を逸らし、ドニは小さく頷いた。
ついさっきまで確かにそこに灯っていた光を強引に探し出し、暗く冷たい水を浴びて消えそうになったそれを奮い立たせる。
今は落ち込んでいる場合ではないのだ。
タオーネのためにも鍛錬をしなければならない。
隙あらば纏わりついてくる重たい自分の分身に目を瞑り、立ち上がったニコラスを見上げた。
彼はドニが平気そうなことを確認して、安堵しているようだった。
「よし、じゃドニくんもアーサーと一緒にまずは体を温めようか。動きを教えるから、まずは真似してやってみよう」
教官からの鍛錬に関する初めての指示にドニは頷き、今度は胴を伸ばしているらしいアーサーのほうへ近寄っていった。
そして、彼の真似をしてゆっくりと体を動かし始める。
時たまニコラスから修正を受けながら、友達の隣で目的がいまいちわからない動きを繰り返す。
今はとにかく目の前のことに集中して無心になりたかった。
※※※※※※※※※※
「そろそろ体も温まったと思うけどどうかな」
ニコラスの言葉に顔を上げ、ドニは自分の体を見まわした。
確かにのびのびと動いたことにより、体の隅々まで熱がまわり、その頬も薔薇色になるほど血が巡っていた。
変化があったのは体だけではない。
ドニは体を動かすことによって心にも良い作用が働くことがあると知っていたわけではなかったけれど、決まった動き――体操というらしい――を繰り返しているうちに幾分か胸が軽くなったようにも感じた。
熱い息をつきながら頷くと、教官が満足そうに頷き返してくる。
「よし。そしたら次はドニくんの力がどれくらいか見てみよう」
力を見ると聞いてドニは何をするのだろうと、ニコラスを見上げる。
ニコラスは変わらずに快活な笑みを浮かべている。
「タオーネ先生から聞いたけど、ドニくんは普通よりも少し力が強いらしいな」
そう言われて、ドニはふたたび表情を曇らせることになった。
壊したくないのに言うことを聞かない己の力は疎ましいだけだ。
昨日だって、加減を誤って皿を手の力だけで割ったばかりだ。
タオーネには叱られなかったが、ドニはしばらく自分を責め、どんよりと嫌な気持ちになったものだ。
叱られるか否かとは別の問題として、タオーネに迷惑をかけるこの力が心底嫌いだった。
もっと普通だったら、前の飼い主だってもしかしたらもう少し優しくしてくれたかもしれない……。
ドニの頭に体操によって忘れかけていた澱んだものがまた戻ってくる。
そんな教え子の様子を見たニコラスは少し考えるような仕草をしたあと、極めて真面目だが先ほどのような鋭さはない優しさを含んだ眼差しをドニへ向け、それとまったく同じ調子で語りかけた。
「ドニくんは自分の力が怖いか?」
その問いにドニは少し迷ったような素振りをする。
自分のこの疎ましい力を怖いというには、何か言葉が足らないような気がして、だけれどそれが何なのかもわからずどう返したらいいのか困ってしまう。
だが、その答えはすぐに代弁された。
「物を壊してしまったりするのが怖いのか? 誰かを傷つけてしまうのが怖い?」
ドニはニコラスが続けた言葉たちを聞いてハッとした。
その通りだった。
人に触れるときは細心の注意を払い、できるだけこちらからは触れないようにしているため、まだ誰かを怪我させるということは今までなかった。
だからいつの間にか、これからもずっと人だけは傷つけることはないと思っていた。
だが、もしも無意識に力加減を間違えてしまったら?
真っ二つに割れたあの皿のように、友達の体を砕いてしまったら?
そこまで考えてドニはぞっとした。
今まで物と人を同じように考えたことはなかったが、ニコラスが同列に言葉で並べたことでやっと気がついた。
そんなつもりがなくても物を壊してしまう自分が、人だけを傷つけずに過ごすことは不可能だ。
これまで誰にも怪我を負わせなかったのは単に運がよかっただけ。
人も物と同じで、ドニがうっかり加減を誤れば壊れてしまう。
そんな危険な自分が小さな友達たちと平気な顔で遊んでいたことが、どんなに危なくて恐ろしいことかやっと気付いたのだ。
遅すぎる自覚を経たドニはぶるりと小さく身震いして、ニコラスに同意の頷きを返した。
すると、それまでおとなしくしていたアーサーが自分の父親を見上げて微笑んだ。
「ね? 父さん。ドニくんは優しいんだ」
「その通りだったなぁ」
何やら好意的に捉えてくれたらしいふたりの親子に、ドニは心の中で首を横に振って否定した。
それは違う。
けして優しいわけではない。
自分は臆病で、そのくせ当たり前のことにも気付けない大馬鹿者だ。
だから、それは買い被りなのだ。
だが、思ったことを文章にするための頭がないドニの口から、言葉は出てこない。
そして、何にも気付かずに希望を胸に灯していた自分が滑稽で、ただ唇を噛みしめて地面を見つめた。
そんなドニの様子に気付いたニコラスは屈んで視線を合わせ、努めて優しげに言い聞かせてきた。
「ドニくん。君は力の使い方を知らないだけなんだ。力を知れば、うまく加減もできるようになると思う」
ドニは影が差した眼をニコラスへ向けた。
もしも彼の言うことが本当なら、ドニはこれから何も傷つけずに済むかもしれない。
ドニがじっと耳を傾けていることを確認して、ニコラスは話を続けた。
「ドニくんは今まで生きてきて、思いっきり力を振り絞ったことがあるかい?」
突然の問いにドニはふるふると首を横に振った。
物心ついた頃には何かを壊しては折檻されていたため、全力で何かを扱うといったことはしたことがなかった。
もしも自分が思いっきり何かへ力を向けたらどうなるかチラリと考えて不安になるが、そんな危ないことをわざわざさせられることもないだろうと自分に言い聞かせて、心が落ち着くように努めた。
だが、それも目の前の教官がすぐに崩していった。
「何事もそうだけど、自分の限界というものを知っておくとどうやったらうまくいくのか、わかりやすくなることも多い。だから、ドニくんも思いっきり力を出してみよう」
今まで生きてきてずっと言われてきたこととは逆のことを命じられ、ドニは困惑するとともに怯えにも似た震えそうになる感情が湧き上がり、思わずニコラスを責めたてるような目つきで見た。
しかし、この教官はそんなことはお構いなしといった様子で、鍛錬を始める前に何処からか持ってきた両手に抱えなければならないほどの岩を持ち上げ始めていた。
助けを求めるようにアーサーへ目を向けると、彼は自分の父親の言うことを信頼しているらしく、大丈夫だとドニを励ますように頷いてきた。
そんなふたりに囲まれて、ドニは脳裏に保護者である魔術師を思い浮かべた。
彼なら何て言うだろうか。
やはりニコラスの言うように全力を出してみるように言うのだろうか。
でも、そんなことをしたらとっても危ないことになるかも……。
いや、タオーネはニコラスの言うことをよく聞いて鍛錬に励むように言ったのだから、きっとそれが正解なのかもしれない。
悶々と考えている合間にニコラスは岩をドニの足元あたりにドスンと音を立てて置き、その衝撃でドニは意識を自分の頭の中から引きずり出した。
「村長に訊いていらない岩を貰ってきたんだ。これなら壊しても誰も困らないから、全力で殴るなり蹴るなりしてごらん。本当はいきなりこんな固いものを思いっきり殴ったら危ないんだが、聞いたところによるとドニくんにはこれくらいのほうがいいみたいだからな」
ニコラスがどんどん話を進めていくが、ドニの不安は消えることなく、じわじわと体のあちらこちらに這っていく。
不安と緊張でガチガチに体を強張らせていると、若き教官はふたたび自身の真っ直ぐな瞳をドニの視線に合わせ、頼もしく言い含める。
「大丈夫。危ないことになったら俺がどうにかする。これでもそれなりに場数は踏んでるからな。絶対に大丈夫だ」
その強い意志を表したような眼で説きつけられ、大丈夫という言葉が偽りのないものだとわかった。
そういえばニコラスはあの何でもできるタオーネが自分よりも適任だと言って、先生役をお願いした人だ。
きっとドニが考えているよりもずっとずっと強いのかもしれない。
しばらく考え込み、おずおずと同意すると、ニコラスも力強く頷き返してくれた。
それから岩を指差し、真剣な顔でドニに指示を出した。
「この岩にすべてをぶつけるんだ。ドニくんが今まで生きてきたすべてをあの岩が受け止めてくれると思ってやってごらん」
そう言われて足元に転がされた岩を見下ろす。
大きさはドニの膝元ほどまであるそれは見るからに堅い。
まだ胸に残る不安を抱えて教官を見ると、またしても大丈夫だと頷かれた。
そのままアーサーへ視線を移すと、ドニを後押しするように微笑まれる。
ニコラスが仕草だけで後ろに下がるようアーサーへ指示し、アーサーはその通りに教官の後ろへ何歩か後退した。
それを確認したドニはふたたび岩を真っ直ぐに見下ろした。
教官はこの岩にすべてをぶつけろと言った。
その言葉の真意はドニにはよくわからない。
だけれど、最善を尽くそうと、ドニは今までの短い人生を思い返す。
ずっと苦しいことばかりだった。
虐げられるばかりだったけど、ドニにとって唯一だった居場所は冬の寒い日になくなった。
もう酷いことはされないはずなのに、それまで生きてきた中で一番つらかった。
しかし、そんな中でタオーネに出会い、救い出してもらえた。
バナーレ村にやってきて、生まれて初めて友達もできた。
なんで彼らがドニに優しくしてくれるのかは未だにわからない。
でも、だからこそ、タオーネが望んでいることはやり遂げたい。
そして、友達を傷つけることがないようにしたかった。
力を出すことは本当に怖いけれど、これがそういったことに少しでも繋がっているなら、ドニは一生懸命やろうと思えた。
細く長く息を吐く。
目の前の大きな的に狙いを定める。
すべての息を吐き出すと同時に目を閉じる。
そして、全力の拳が振り落とされた。
響く轟音。
突如巻き起こる突風。
一瞬だったはずなのに、妙に遅く感じる時間。
その中でドニは自分の中で何かがカチリと嵌り込む音を確かに聞いた。
まるで、ずっと足りていなかった欠片がやっと戻ってきたかのような……。
しばらくして――本当は短い間だったのだが、ドニにはそれだけ長く感じられた――じんじんと響き渡る衝撃が余韻を残して消え、閉じていた瞼を上げると、あの人の頭よりもずっと大きな岩は何処にもなかった。
拳を打ちつけたはずの位置は地面がちょうどあの岩の大きさほど抉られ、剥き出しの大地が顔を覗かせている。
周囲を見やると所々に細かな欠片が何百と散らばり、それを避けるようにしてふたりの親子が呆然とした様子で立ち竦んでいた。
「……想像以上だな」
「ドニくん……すごい……」
ニコラスは何か独りごちり、アーサーは目を見開いて食い入るようにこの惨状を凝視している。
やっぱりやりすぎだったのだろうか。
何も言ってこないふたりに不安を覚えると、ニコラスがすぐにそれに気付いて何やら嬉しそうな微笑みを浮かべた。
「ああ、そんな顔をしなくても大丈夫だよ。確かにドニくんの力はすごいものだったが、世の中にはとんでもない怪力自慢がたくさんいるんだ。だから、ドニくんはおかしくない。むしろその力を使いこなせたなら、それは素晴らしいことだ」
元気づけるような言葉にドニはほっと安堵する。
それと同時に、褒められたことで頬が熱くなっていく。
ドニにはこの力の使い道を思い浮かべることはできないが、それでも褒められることは素直に嬉しかった。
そんなドニを微笑ましく思っているらしいニコラスが自身も微笑んだまま、とある確信を口にした。
「……それに、なんとなく力の使い方ってやつはわかっただろ? 岩を砕いたときにいい顔をしてた」
彼の言う通りだった。
誰に教わるでもなく魚が生まれた時から泳ぎ方を知っているように、ドニはあの岩を砕いた瞬間、本能的に自身の力の扱い方を理解していた。
今まで力を使おうとも考えたことがなかったというのに、やっとあるべき姿に戻れたのだと感じていた。
ドニは生まれて初めて水の中に放たれた魚なのだ。
自分がようやくこの世に生まれ落ちることができた、ひとつの命なのだと――既に十年ほど生きてきたというのにおかしな話だが――初めて実感したのだった。
「あの」
この奇妙な感動を自分の中に留めておくことが、なんとなくもったいないことのように思えて、気がついたら口を開いていた。
やはりすぐには言葉が出てこないし、流暢に喋ることもできないが、ドニは一生懸命に今まで培ってきた言葉の数々を思い返し、たどたどしく繋げていく。
「……まえは、さわると、みんな、こわれると、思ってた。でも、ちがくて、何かが、ぴったりじゃなかった、だけだった……というか、ええと……」
言葉にしてみると間違ったことは言っていないのだが、相手にきちんと伝わるだけの的確さはないように思えて段々と言葉尻が濁っていく。
だが、拙いながらひたむきに自身が感じた感覚を伝えようとするドニから何かを察したのか、ニコラスは顎を指先で摘まんで何やら考え込んでしまった。
「やっぱり今のでもう理解できたのか……。こいつはとんだ逸材かもしれんな」
ぼそりと呟かれた言葉にどう反応していいのか困って、口を噤んでしまう。
するとニコラスはすぐに取り繕うような笑みをつくって意識をドニへ戻した。
「ん、いや、こっちの話だ。鍛えていけばドニくんは絶対に強くなる。だけどその力をどうやって使うかはドニくん次第だからな」
自分に言い聞かせるように呟かれたニコラスの言葉に、ドニは居心地悪そうに視線を泳がせた。
ドニとしてはやはりたとえ強くなれるとしても、この規格外な力を誰かを傷つける戦いに使いたくはなかった。
タオーネが言うように身を守れたらそれでいい。
だが、言外にニコラスから期待のようなものを感じ取り、それに応えない自分がなんだか悪いことをしているように思えてドニは萎縮してしまう。
申し訳なさそうにしているドニを見て、気にするなというように笑うとニコラスはあえて気楽な様子を装った。
「とにかく、鍛錬を続けようか。この様子ならきっとうまくいくさ」
明るい調子のニコラスに安心して、ドニはこくんと頷いた。
それまで離れたところで黙っていたアーサーもドニの隣へ戻ってきた。
生徒ふたりを前に教官は腰に手を当てて、自分の立場に合った貫禄を演出しながらもその目元を和らげて話を切り出した。
「とりあえず毎日続けるものとして、さっきの体操と走り込みと……あとは素振りもやってみよう」
先ほどおこなった体操はいいとして、走り込みはきっとそのままの意味で走ることだろう。
残るは素振りだが、前にアーサーが木の棒を振るっていたあれだろうかとドニはぼんやりと脳裏に思い浮かべた。
今もアーサーの家の壁に三本の棒が立てかけられているのが見えるので、きっとそうかもしれない。
その考えは合っていたらしく、ニコラスが説明を続けた。
「素振りは剣に模して削った木の棒を決まった型に沿って振るんだ。今日はその動きについてやろうと思う」
やはりあの木の棒は剣だったのか。
ただの棒だと思い込むようにしていたドニはそれが剣だと意識した途端、尻込みしてしまう。
剣はどうしても体が勝手に拒否してしまう。
どんなに心を奮い立てようとしてもそれは簡単に崩れていくのだ。
ドニにとって、剣とは深い因縁によって恐怖を刻み、今も捕らえられている鎖のようなものだった。
剣はこの村にくるまでのドニの生涯には欠かさず存在していた、畏怖の象徴なのだ。
脳髄に染み込んだ鈍く光る切っ先を思い出し、ドニはぶるりと体を震わせた。
そんなドニの様子を、壁に立てかけてあった木刀を取りに行って戻ってきたニコラスが怪訝な顔で見た。
「慣れてきたら実際に摸擬戦なんかをやってみると相手の動きもよくわかるようになるが……もしかして、剣は苦手か?」
恐る恐るこちらを窺うようにして投げかけられた問いに、ドニは強張った首をどうにか縦に振った。
剣と対峙すると考えただけで脚が震えそうだった。
怯える教え子を目にして、ニコラスは困ったように頬を掻いた。
「剣は最もよく使われている武器だから、ある程度は扱い方を知っていたほうがいいと思うんだが……」
それを聞いてドニはさらに体を硬くした。
最もよく使われているということは、これから目にすることも一番多いということになる。
ようやく少しは慣れてきた外の世界を恐れる気持ちが甦りそうだ。
不安でいっぱいになりながら教官を上目で見上げると、彼はぶつぶつと独り言を始めてしまっていた。
「んん……でも、戦うかどうかは置いておくとしても、やはり護身のために何か武器を扱えたほうがいいよな……どうするか……」
こちらの様子に気がつかないニコラスにドニはどうしたらいいのかわからなくなって、ますます全身を強張らせる。
しかし、自分の世界に入ってしまった父親とまた怯え始めてしまった友達に、ここまで黙って見守っていたアーサーがすぐに助け舟を出してくれた。
「父さん。それは後々考えることにして、今日は今日できることをしよう。ドニくんは木刀なら平気かな」
アーサーの確認にドニは目を泳がせた。
剣の形をした木の塊は本物ほどではないが、少し怖いのだ。
対するニコラスはしっかりした息子の物言いに「それもそうだな!」と頷いて、やはり気楽な態度でドニと向き合った。
「木刀は剣を模したっていっても単なる木だ。刃もついていないから斬れもしない。まぁあれだな、木の棒だと思っていればいいさ」
教官の助言にドニはまじまじと木刀を眺めてみた。
確かにこの剣を模した木の枝は刃もついておらず、記憶の中にある剣とは違うようにも見える。
いわば形だけ真似ているだけだ。
そこらに転がっている枝よりは遥かに立派だが、本物の剣に比べれば粗末な代物である。
これだったら振るっているときにきちんと周囲を確認すれば、何かを傷つけることもないように思える。
これは剣じゃない。
ただの木の棒だ。
そう自分に暗示をかけて、ドニは小さく頷いた。
助言をうまく受け入れられた教官も満足そうに頷いて、場を改めるように咳払いをひとつした。
「さて、そしたら素振りのやり方を教えよう。まずは俺のように握ってごらん……もう少し脇を締めて……そう、なかなか格好いいぞ!」
意を決して言われるままに木刀を握りしめると、ニコラスに茶化すように褒められ、まだ少し強張っていた顔で引きつりそうになりながらも笑みをつくる。
やはり緊張はするが、これまでと違ってうまく力を操れるという確かな感覚がドニに安心感を与えていた。
きっともう手の中で皿を割ることもないだろう。
その事実が嬉しくて、ドニの全身から無意識に無駄な力が抜けていく。
それを感じ取ったニコラスが調子よく教官らしさを取り戻し、よく通る声を張って次の指示を出した。
「アーサーもドニくんのお手本として一緒にやってくれ。先輩らしいところを見せてやれよ! ドニくんはアーサーの真似をしてごらん。父親の俺が言うのもなんだが、アーサーはいい剣筋をしてるんだ!」
「はい!」
「は……はい……」
ほんの少し父親らしい親馬鹿さを垣間見せたニコラスにその息子ははにかむように笑って、即座に生真面目に口を結び、目の前の空間を力強い眼で射貫いた。
そのあまりに急激な変化に驚いていると、アーサーは幼いながらも覇気のこもった声を張り上げて、構えた木刀を振り下ろした。
「イチ! ニ! イチ! ニ!」
一心不乱に素振りを始めた友達に倣ってドニも木刀を振るっていく。
ニコラスはその光景を満足そうに眺めたあと、この子どもたちの師として助言を投げかけていった。
「ドニくん! もっと肘の力を抜いてごらん! あと腕で振るうんじゃなくて、背中を使うことを意識して……うん、少しよくなった! あとは声も一緒に出してみよう!」
「はい……! い、いち! に!」
アーサーにつられていつもよりほんの少し大きな声で返事をし、言われたことに気をつけながら、ドニは素振りを続けた。
体操の時よりも体の隅々まで熱が早くまわるのを感じながら、一生懸命に木刀を振るう。
空から太陽が地べたを見下ろしているのも相まって、すぐに汗が服に纏わりついたが、それもあまり気にならなかった。
心地好い乾いた風が吹き抜けていく中で、ドニはただひたすら素振りをおこない、体を動かす喜びを学んでいったのだった。