遊びにいこう③
アーサーに連れられて家に帰ると、タオーネは出掛けているらしく、誰もいなかった。
誰もいない家は寂しげで、アーサーがいなければ余計に気が滅入りそうだった。
鍵が掛けられていない勝手口から家の中に入り、とりあえず椅子に座らせられる。
すると、すぐに机の上に置かれている黒板に何か書いてあることに気付いた。
今日は書き取りの勉強をしていないので、いつもの単語の羅列ではないはずだ。
覗き込んでみると、そこに刻まれていたのは、やはり何度も見たことがあるタオーネの文字であった。
何やら言伝らしき文が書いてあるようだが、ドニの頭ではまだまだ読み進めるのに時間がかかる。
そんなドニの様子を見かねたアーサーがその白墨で書かれた文字を読み上げてくれた。
「えーと……『依頼があったのでお百姓のナットさんの家まで出掛けてきます。夕食前までには帰ります』……だって。先生、お仕事に行ったのか」
アーサーが読み上げてくれた内容に合点がいって、ふうと息をついて机に寄りかかる。
仕事に行ったのならば仕方ない。
ニコラスはタオーネに体を診てもらえと言ったが、邪魔をするわけにもいかないだろう。
このまま帰ってくるまで待っていればいい。
ドニはそう考えたのだが、アーサーは違ったようだ。
彼はまるでそうすることが当たり前といったように、腰掛けることなくいま入ってきたばかりの勝手口へ体を向けた。
「俺、タオーネ先生を呼んでくるよ。その間、ひとりで待っててくれるかな」
アーサーの言葉に驚いてドニは言葉に詰まった。
魔物に襲われたとはいえ、大きな怪我もなく、今は意識もはっきりしているのだからわざわざ仕事中のタオーネの手を煩わせることはない。
だから呼びにいかないで、彼の帰りを待ちたい。
そう彼に伝えようと思ったが、アーサーは既に扉を開いて足を外に踏み出していた。
「すぐに連れてくるから待ってて」
彼はそう言うと、駆け足で来た道を戻っていった。
ヘンリーよりも軽快な足音が徐々に遠退いていく。
そして、すぐに部屋の中は静かになった。
誰もいない家にひとりぼっちだ。
ドニはそのことで急に心細くなり、ぎゅっと目を瞑った。
すると、縮こまった心に追い打ちをかけるように、今日一日の出来事が脳裏に甦る。
釣って持ち帰ることができなかった魚。
ヘンリーの泣きそうな顔。
タオーネの仕事の邪魔になる自分。
そんな現実がドニの瞼の裏でぐるぐるとまわり、胸がズキリと痛んだ。
自分は役立たずで、そこにいるだけで目障りとなる“でくのぼう”。
ずっとそう言われて育ってきたし、自分でも本当にそうだと思う。
だが、昔と今では少し感じ方が違う。
前は邪魔にならないように、目障りだと怒鳴られ殴られないようにただ体を小さくして震えていただけだった。
今は、そうじゃない。
こんな自分にも優しくしてくれる人たちに、何か喜んでもらいたい。
そんな気持ちがバナーレ村に来てからドニの胸に芽生えてきていた。
自分を買ってくれたタオーネはもちろん、優しくしてくれるアーサーや友達になってくれたヘンリーにも喜んでほしかった。
だから、今日ヘンリーが魚釣りをしようと誘ってくれた時、ドニはタオーネの役に立てるかもしれないと心を躍らせたのだ。
そして、元気のないアーサーにも少しは元気を出してもらえるかもとなおさらやる気になった。
だが、その結果はどうだ。
魚は釣れず、泣きそうなヘンリーに言葉をひとつ掛けることすらも出来ず、アーサーに迷惑をかけ、今もタオーネの邪魔をしている。
やはり“でくのぼう”は何処に行っても“でくのぼう”でしかないのだ。
その事実がドニの心を悲しみに染め上げた。
どうして何をやってもうまくできないのだろう。
とにかく悲しくて、情けなくて、ドニは俯いて唇を噛んだ。
もしかしたらヘンリーはもう遊んでくれないかもしれない。
あんな泣きそうな顔をさせたのだ。
遊んでくれなくなって当然だろう。
アーサーも何もできず、余計なことばかりしているドニに呆れているかもしれない。
タオーネだっていつかこんな“でくのぼう”なんて嫌になるに決まってる。
いや、もしかしたらもう既に仕事の邪魔となったドニを疎ましく思っているかもしれない。
そう考えると余計に悲しくて、鼻の奥がつーんと痛んだ。
どんどん底に沈んでいくような気持ちの重さにつられ、段々と体も下を向いていく。
やがて机に突っ伏してしまうほどに体が丸まったその時、急に大きな音が聞こえ、ドニは慌てて飛び起きた。
どうやら勝手口の扉が乱雑に開かれたらしく、外から光が差し込む。
ドニが事態を把握する間もなく、黒っぽい塊――ドニはすぐにそれがローブだということに気付いた――が家の中に飛び込んでくる。
見慣れたローブの下から現れたのは、やはり見慣れている青い肌と葡萄酒色の眼。
タオーネだ。
「ドニ!!」
強い調子で名前を呼ばれて手を伸ばされ、思わず目を固く閉じて身構える。
だが、彼の手はドニを打つことはせず、割れ物に触れるかのように頬を包んだ。
その感触に驚いて目を開くと、タオーネの瞳と視線がぶつかった。
気が動転しているのか、その瞳は大きく揺れ、平常とは言い難い。
彼はドニが反応を返すのを待たずに、ひどく狼狽した様子で次々に言葉を投げかけてきた。
「ああドニ! 大丈夫ですか!? 意識はありますね!? 村の中でスライムに襲われるなんて……! どこか痛いところはありますか!? ああ本当にごめんなさい……! 私がもっと普段から村を見てまわっていたら……」
早口でまくしたてられ、その長い指で顔中を忙しく揉むように触られて、ドニは目を白黒させた。
あのタオーネが焦っている。
いつも冷静でなんでも知っている彼が自分のためにわざわざ帰ってきてくれて、しかもこんなにも狼狽えている。
その事実に衝撃を受けるほど驚いて、半ば呆気にとられたが、すぐに無事であることを伝えなければならないと気付き、彼の掌の中からなんとか言葉を絞り出す。
「あ、あの、おっおれ、だいじょうぶ、だから、えっと」
顔のあちこちを揉まれて間抜けな顔になりながら伝えると、タオーネはようやく両手の動きを止めた。
だが、その眼差しはまだ心配そうにドニを見つめた。
「ドニ、本当に大丈夫なのですか? 痛いところや苦しいところは……」
「ない、から。ないから、だいじょうぶ、です」
念を押すような確認にこくこくと何度も頷きながら答える。
すると、今度はきちんと伝わったらしく、タオーネはようやくドニの顔から両手を退けた。
それからひとつ、長く息を吐き出すと、彼はいつものように優しい笑みを浮かべ、呟いた。
「ああ……よかった……無事なのですね……」
その声音があまりに暖かく響き、ドニは居心地が悪いような、妙なこそばゆさを抱いた。
タオーネが自分の無事に安心してくれている。
それが素直に嬉しくて、でもどうしたらいいのかわからなくて、ドニはもじもじとしてしまう。
そんなドニを見たタオーネはハッと気づいたような顔をして恥ずかしそうに目を伏せた。
いつもは青い顔がうっすらと薄紫色に染まっている。
「……すみません。見苦しいところをお見せしました……。その、アーサーくんから話を聞いてすぐに走ってきてしまったので、状況を把握しておらず……本当にすみません……」
ぼそぼそと決まりが悪そうに語られる言葉に、今度はドニの頬が熱を帯びてきた。
いつでも落ち着いた様子を見せていたタオーネが自分のために走って帰ってきてくれたのだ。
それもアーサーからすべて説明される前に走り出したということは、かなり慌てたのだろう。
つまり、彼はドニが怪我をしたと思って、居てもたってもいられなくなったということになる。
そんなにも自分のことを想っていてくれたなんて考えもしなかった。
まだ恥ずかしそうにしているタオーネを見ていると、心の底から喜びや戸惑い、照れ臭さが入り混じったような複雑な気持ちが湧いて体中に広がっていくようだった。
その気持ちに比例するようにドニの頬はどんどん熱くなっていって、その熱は指の先にまでじわじわと伝っていく。
こそばゆい空気がふたりを包み、お互いになんだかもじもじとしてしまう。
しかし、それは長くは続かず、開いたままの勝手口からふたたび何かが飛び込んできた。
瞬時にふたりの視線を集めたそれは体の動きに合わせて金色の髪を弾ませ、胸を手で押さえる。
飛び込んできたのはタオーネを呼びにいったアーサーだった。
「せ、先生、走るの速すぎです……最後まで、は、話を、聞いてください……!」
どうやら彼もタオーネを追って走ってきたらしく、肩で息をしている。
そんなアーサーを見たタオーネは頬に差し込んでいた紫色を一段と濃くして、羞恥の気持ちを表した。
「申し訳ありません……アーサーくん……。ドニが襲われたと聞いてつい……」
その言葉にドニがまたもじもじしていると、アーサーは乱れた息を整えながら微笑んだ。
彼のいつもはさらさらの金髪が汗で額に貼りついている。
「先生でも、慌てることがあるんですね」
「いい年をしておいてお恥ずかしいかぎりです……」
また恥ずかしげに俯きそうになったタオーネは、ふとドニを見て何かに気が付いたような顔をした。
そして、誤魔化すような咳払いをひとつするとドニの頭と肩にそっと手を添えてきた。
どうしたのだろうと見上げると、頬にはまだ紫色が残っているが冷静さを取り戻したらしい彼はいつもの微笑を繕っている。
「さて、ドニも怪我はなさそうですが、一応、治癒魔術をかけておきましょうか」
怪我は大したことはないのでその必要はないとドニは思ったが、口には出さずにタオーネに従うことにした。
彼が必要だと言うのならばそうなのだろう。
おとなしく椅子に座っているとタオーネの手がいい子だと言うように何度かドニの頭を撫で、動きが止まる。
それから一呼吸おいてから落ち着いた声音がその魔術の名を唱えた。
「治癒」
彼の冷たい手から暖かな光が生み出され、鈍く痛みが僅かに残っていた痣を包んだかと思うと、すぐに青黒く変色していた肌が元の色に戻っていった。
もう痛みはまったくない。
ドニが治癒魔術を受けるのは買われた際に腹の調子を整えてもらった以来だが、いつ見ても不思議なものである。
タオーネは魔術の光が消えてからも、ドニの体に痣が残っていないか念入りに調べてから頷いた。
「これで大丈夫でしょう。もしも、後から痛み出した場合は、すぐに言ってください。いいですね?」
念を押すようにゆっくりと言い渡され、こくりと頷く。
するとまたしても頭を数度撫でられ、こそばゆさに目を細めた。
そんなドニを見たタオーネも微笑ましげに目を細めたが、すぐにアーサーのほうへ体を向き直し、いつもと変わらぬ微笑みを口元に乗せた。
「アーサーくん、わざわざありがとうございました。外はまだ暑いですし、少し休まれていってください」
「いえ、父さんにドニくんを送り届けたことを伝えてきますから……」
タオーネが真夏日だというのに自分たちのために走った少年へ礼を伝え、休憩するように促したが、アーサーは遠慮がちに辞退することを表した。
だが、タオーネはそんな彼に諭すような柔らかい声音で言葉を続けた。
「たまには休むことも必要ですよ。アーサーくんはいつも頑張っておられますから」
タオーネの言葉にアーサーが少し困ったような顔をしながら、ちらりとドニを見る。
ドニとしても自分のために暑い中を走ってくれた彼を労わりたかったため、小さく頷いてみせると、彼は控えめにはにかんでタオーネへ視線を戻した。
「じゃあ、少しだけ……」
「では、ベリーの搾り汁でもお出ししましょうか。ヘンリーくんのお宅から頂いたのですよ」
提案を受け入れられた途端にいそいそと台所に向かったタオーネを見送ると、ドニの隣の席にアーサーが腰かけた。
ドニが座ると足が床につくのだが、アーサーの足は宙にぶらりと浮いている。
そんな違いを見つけてなんとなくそれを眺めていると、アーサーが少し迷うような素振りを見せながら話しかけてきた。
「……あのさ、ドニくん。ヘンリーのことなんだけど……」
ヘンリーのことと聞いてドニの心は途端にずしりと重くなる。
もしもアーサーの口からヘンリーとはもう遊ぶなとでも言われたら……という考えがチラリと脳裏に過った。
さっきまで暖かい気持ちで膨らんでいた心が急激に萎んでいく。
だが、話はきちんと聞かなければならないと考え、恐々とではあるが彼のほうへ目を向ける。
するとその意志の強そうな瞳が何かを心配しているような色を湛えているのが見えた。
アーサーは少し言葉を詰まらせたが、すぐにドニにも理解しやすいようにゆっくりと話し始めた。
「今日は本当に怖い目にあったと思うけど、またあいつと遊んでやってくれないかな。あいつ、今日のことに責任感じてると思うから、また一緒に遊んでやってくれると、あいつも少しは気が晴れると思うんだ」
こちらを窺いながら伝えられた願い事に、ドニは拍子抜けして目をぱちぱちと瞬かせた。
今回ドニは皆に迷惑をかけたのだから、てっきりもう遊ぶななどといった言葉を予期していたのだが、彼はその反対のことを願っている。
ヘンリーだってもう自分とは遊びたくなくなっているだろうとドニは考えていたが、そうではないと言う。
アーサーの言葉に困惑するが、自分よりもヘンリーとの付き合いが長い彼が言うのだからきっとその通りなのだろう。
それでもやはりなんで皆がそう考えるのかがわからず、ドニは面食らったままアーサーの言葉をゆっくりと咀嚼し続けた。
そこに木のカップにベリーの搾ったものを注いだものを持ったタオーネが戻ってきて、ふたりの子どもたちの前にそれを置きながら話に参加してきた。
「アーサーくんはヘンリーくんのことをよく知っていらっしゃいますね」
「生まれた時から知ってるから……」
穏やかなタオーネの声音と照れ臭そうなアーサーの言葉を聞きながら、ドニは態勢を整えた。
理由はよく理解できないが、ヘンリーがまた一緒に遊んでもいいと思っているならば、ドニは喜んで遊ぶつもりだ。
そのことをアーサーにちゃんと伝えなければならないと考え、少ない引き出しから言葉を探して迷いながらも口から出してみる。
「……おれ、ヘンリーと、また遊びたい……」
言葉にしてみると簡単すぎる答えのような気がして、きちんと彼に伝わったか不安になるが、それは杞憂に終わるようだった。
アーサーはドニの答えを理解してくれたようで、幼いながらもいつも引き締まっている口元がホッと弛んだのがわかった。
「そっか……よかった。あいつも喜ぶよ」
安堵したように息をついたアーサーの様子にドニも安心して、ほっと息をついた。
だが、すぐにふと、とある質問が心の中に浮かんできて、どうすればいいのか考えることになった。
もしもこれからもドニとヘンリーが遊ぶようになったとして、アーサーはどうするのだろうか。
彼は忙しいと言って遊びの誘いを断っているが、いつになったら遊べるようになるのか。
余計なことかもしれないとも思ったが、これはきっとヘンリーも訊きたいことだと思い直し、ためらいを残しながらも恐る恐るその質問を口にした。
「アーサーは……遊ばない……?」
質問を投げかけたその一瞬、彼の顔に暗い影が落ちたのを見て、早くも後悔したドニであったが、しばらく沈黙した後にアーサーの真っ直ぐな瞳がこちらを捉えた。
彼は椅子の上で座り直すような仕草を見せ、ゆっくりと考えながら話を切り出した。
「……あいつとさ、遊ぶのは楽しいだろ? この村の色んなとこを見つけてきて、それを教えてくれてさ」
彼の言う通り、ヘンリーと遊ぶのは本当に楽しいが、それが質問の答えと何の関係があるのだろうと思いながらも、ドニは静かに次の言葉を待った。
目線を床に向けながら、アーサーがポツリポツリと続きを紡いでいく。
「そうするとさ、どんどんこの村のことが好きになるんだ。それで、ヘンリーとずっと遊んでいたいって思うんだよ」
そこまで言うと、アーサーはぎゅっと拳を握って一息ついた。
ドニにはまだ彼の意図がわからないが、少なくともその言葉には同意していた。
ヘンリーと遊んでいると、バナーレ村のことが少しずつ好きになっていく。
最初はあんなに外が怖かったのに、いつの間にか彼が迎えにくるのを待ち遠しく感じていた。
この村が好きと言い切るほどドニは多くの時間を過ごしたわけではないが、ヘンリーが連れて行ってくれるところはどこも言葉にしがたい魅力があるように思えるのだ。
光虫が集う川辺。小鳥のさえずりが聴こえる木の下。夕焼けが綺麗に見える丘の上。
そんな記憶に想いを馳せたドニの思考が完全に逸れてしまう前に、アーサーがふたたび話し始める。
「……でも、俺はあと二年で騎士学校に通うためにこの村を出なきゃいけなくなるんだ。だから、あまり好きになると、その時にすごくつらくなると思うから……」
そう言葉尻を濁らせて俯いてしまったアーサーに慌てながらも、ドニはやっと納得がいき、だからこそ彼にどういった言葉をかけたらよいのかわからずに、ただオロオロとすることしかできない。
ドニも前の飼い主が死んでいなくなった時、あんなに怖かったはずなのに、取り残されたのだとひどく傷ついたことがある。
ずっとそばにあったものがなくなるのは、本当につらいことだ。
アーサーの場合はそれが大好きな村と友達なのだから、余計につらいだろう。
だが、ドニはそんな彼の苦しみを和らげる術を持っていない。
顔を伏せてしまったため、表情を窺うことはできないが消沈しきっている雰囲気のアーサーを前に狼狽えていると、今まで黙って話を聞いていたタオーネがそっとアーサーの頭へ手を伸ばした。
「……アーサーくんはバナーレ村とヘンリーくんのことが大好きなのですね」
そう言ってアーサーの頭を撫でたタオーネがふと遠いところを見つめる。
その独特な瞳はドニでもアーサーでもなく、ここではないどこかを映していた。
今までにないタオーネの様子にドニはそわそわと落ち着かない気持ちになったが、彼はそれに気がつかないまま独り言のようにゆっくりと語り出した。
「昔の私にも、そういう仲間がいました。ただ、仲間と共にいた場所がどうしても好きになれずに、私は仲間と別れました」
虚空を見つめていた瞳がドニを捉え、すぐにアーサーに移る。
瞳にはまだ懐かしむような色の名残が残っているが、タオーネの意識は既にこの食堂へ戻ってきていた。
だが、ドニはまだなんとなく居心地が悪くて視線を床へ向けてしまう。
自分の知らないタオーネを目の当たりにして心が波立っていた。
いや、元から彼のことに関して知らないことばかりなのだ。
そのことを浮き彫りにされたようで、ドニは胸の底が燃えるような、それでいて深く沈んでいくような、悲しみにも似た妙な気持ちを抱いていた。
そんなドニの様子にやはり気がつかないのか、タオーネは真っ直ぐにアーサーを見据えて微笑む。
そして、彼が年長者らしいこれまでの人生を含めたような重みのある穏やかな声音で語るのを、ドニは耳だけで聴き入った。
「アーサーくん。お父様の跡を継いでこの村の駐在騎士になるにしろ、領主さまのもとで剣を振るうにしろ、心に愛する故郷があるというのは、大変な力になると思います。そして、将来どうするかはアーサーくんの自由です。もしも村が恋しくて仕方なくなったのなら、戻ってくればいいのです。あなたの人生はあなたのものなのですから」
ゆっくりと語られた言葉たちは優しく、それでいて力強く響いた。
俯いていたアーサーが顔を上げて、真っ直ぐにタオーネを見つめ返す。
「そう、でしょうか」
「ええ。あなたのお父さまがどうおっしゃるかはわかりませんが、自分のことは自分で決めればいいのです。あなたの人生を生きるのは、お父さまやほかの誰でもなく、あくまでもあなた自身でしょう? 村の外に出てほかの世界を見てみるというのも必要なことだとは思いますが、それを決めるのもアーサーくん自身ですよ」
自分で決める。
その言葉をじっくりと味わうように、アーサーはぎゅっと口元を引き締め、すぐに弛ませた。
ドニも彼と一緒にタオーネが説くその教えのようなものを聴いていたが、自分にとってはひどく難しいことのように思えた。
むしろ自分とは関係ないことのような気すらしていた。
だが、アーサーにとってはきっと難しいものではないのだろう。
いつも強い光を湛えている彼の瞳はそう思わせる力がある。
その考えは間違いではなかったらしく、ドニの隣に座っているアーサーがゆるりと安堵の息をついたのを感じた。
「……そうか……戻ってきても、いいのか……」
果実が自然と木から落ちるように、彼が抱えてきたものがその呟きとともにぽろりと放たれ、消える。
そんな気配を感じ取り、顔を上げると心なしか晴れやかな顔をしたアーサーがそこにいた。
彼は幾分か和らいだ瞳で微笑み、タオーネを見上げていた。
「なんだか、村から出たら、戻ってきちゃいけない気がしていたんだけど、そうじゃないんですね」
「はい。すべてはアーサーくん次第です」
タオーネは頷いて目の前の小さな男の子を励ますように微笑み返した。
柔らかな眼差しを向けられ、アーサーは改めて理解を深めたように頷く。
「そっか……なんか、くだらないことで悩んでた気がします」
「くだらなくなんてありませんよ。それだけアーサーくんが真面目に考えていたということです。それに、ほとんど村から出たことがないのですから、外に出るのは大変な勇気がいるものでしょう? きちんと向き合ったアーサーくんは偉いですよ」
そうタオーネに褒められて頬を掻くアーサーの顔はほんのりと赤い。
照れ臭そうにはにかみながら、アーサーは自身よりもずっと長く生きてきた良き指南役に自らの考えを告げた。
「……もし、この村のことをもっと好きになって、離れたくないって思うようになるとしても、それはその時に考えることにします」
「そうですね。その時々でしかわからないこともあるでしょう」
タオーネが頷き返して同意を示すと、アーサーは再度ほっとしたように息をついた。
重く湿った空気が消え、いつもと同じ緩やかな時間が流れ始めたことにドニも安心して息を漏らす。
それから、アーサーの悩みを言葉だけで解決してしまったタオーネはすごいなと思い、尊敬の意を込めて上目で彼を見上げた。
するとそれに気付いたタオーネに小首を傾げられ、慌てて視線を外す。
少しの間、行き場を失くした視線を彷徨わせ、何気なくアーサーのほうへそれを向けると、彼は何か話を切り出そうとしている最中であった。
ドニが視線を向けたことでタオーネもそれを辿って彼に目を向けることとなり、注目を集めることになったアーサーはさらに赤面してしまった。
耳まで赤くしながら少しだけ躊躇して、彼は遠慮がちにタオーネへ質問を投げかけた。
「……先生も、昔の仲間のところに戻りたくなったりすることって、ありますか?」
その質問を耳にした途端、ドニの胸がドキリと跳ねる。
タオーネは自分の知らないその場所へ戻りたいのだろうか。
先ほどまで燻っていた不穏な感情がふたたび戻ってくるのを感じる。
もしもタオーネが戻りたいと答えた時にドニにはそれを止める術がない。
彼が行ってしまったらまたどこかへ売られるのだろうか。
それともひとりで野垂れ死ぬのだろうか。
どちらにしても、また置いていかれる。
そんな考えがドニの頭をじわじわと侵食し、心配のあまり恐る恐るタオーネを見る。
すると、今度は彼もドニの様子に気付いたらしく、葡萄酒色の瞳と目が合った。
思わずびくりと体を竦ませると、タオーネは心配いらないというように微笑みかけてきた。
そして、彼はアーサーの質問へ答えるべく口を開いた。
「会いたくなることはたまにありますが……」
ぬるりと胸に不快な何かが滑り込むような感覚に奥歯を噛み締めて、ドニは自身の保護者を見つめる。
そうやって怯える心に耐えながらじっと答えの続きを待つと、タオーネは目元を微かに和らげ、答えを最後まで口にした。
「今はこのバナーレ村の治療魔術師として働き、ドニと暮らすほうが、私にとってはよき選択ですね」
その言葉は心からの本心だということがありありとわかった。
あまりにも穏やかで澄みきった水面のような声音も、ドニを暖かく包むように見守る白さのない独特の瞳も、そこに嘘偽りがないことを表していた。
タオーネが、自分と暮らすことはいいことだと言った。
その事実が本当に嬉しくて、ドニはその言葉を何度も何度も噛み締める。
今までそんなことを言われたことは一度もなかった。
いつだって邪魔者扱いで、自分はいないほうがいいのだと思っていた。
それなのに、この魔術師はドニと一緒にいるのはいいことだと言った。
なぜ彼がこんな“でくのぼう”のためにそこまで思ってくれるのかは、いまだにわからない。
けれど、自分が怪我をしたと聞いて、慌てて走り帰ってきてくれた彼の言葉を嘘だとはドニには思えなかった。
自分はここにいていいんだ。
理由はまだわからないけど、自分がここにいることはタオーネにとっていいことなんだ。
そう理解して、胸の内側が暖まるのとともに頬のあたりもじんわりと熱くなってくる。
アーサーの次はまたドニが赤面する番だった。
はにかんでもじもじとするドニをタオーネとアーサーが微笑ましげに見守る。
和やかな雰囲気がその場を包み、三人の心が凪いでいることを全員で共有している最中、控えめなノックが勝手口の扉を叩いた。
「…………あの、ごめんください」
遅れて聴こえてきた小さな声はドニはもちろん、この場の誰もが聞き慣れているものだ。
どうしよう。
彼にどんな顔でどんな言葉をかけたらいいのだろう。
そうやってドニが足りない頭を必死に動かすのと同時に、タオーネが立ち上がる。
「おや? ヘンリーくんですか?」
ひとりで慌てるドニとは反対に、タオーネはいっそ暢気ともいえる調子で声の主へ話しかけながら勝手口の扉を開いた。
すると、そこにはやはり黒いもじゃもじゃ頭のヘンリーが立っていた。
だが、いつもの騒がしさは鳴りを潜め、消沈した様子で家の中を覗いている。
「いらっしゃいませ。どうぞお入りください」
「ううん。すぐに帰るから……」
タオーネの誘いにも力なく首を横に振り、ヘンリーは手にぶら下げていたバケツをおずおずと差し出した。
「その……これ。今日釣った分の魚。よかったら貰ってほしいんだ」
「こんなにたくさん……よろしいのですか?」
「うん。こんなんじゃお詫びにならないと思うけど……。それと、ニコラスさんが村の中に他の魔物が入り込んだ様子はないけど、近いうちに先生に意見を聞きたいって」
「はい、わかりました。確かに言伝されました。ありがとうございます」
自身より遥かに背の高いタオーネを見上げていたヘンリーは用件を伝い終え、魚が入っているらしいバケツを手渡すと、ドニのほうへ目を向けた。
どうしようと迷いながらふたりのやり取りを見守っていたドニは急な視線に驚いて、小さく体を跳ねさせた。
それを見たヘンリーがさらに気落ちしたように表情を曇らせてしまい、すぐにドニはしまったと体を強張らせる。
しかし、彼は恐々と痛々しい笑顔を作ると、ドニに優しく語りかけてきた。
「……ドニ、今日は本当にごめんな。俺が釣りしようなんて言ったから、怖い想いさせちゃったな」
ヘンリーの謝罪にドニは微かに首を横に振ったが、体のあちこちに力が入ってうまく動かせない。
何か言わなければと焦るほど、喉の奥が絞まって何もできなくなる。
ヘンリーはそんなドニを悲しそうな目で映し、気詰まりな雰囲気を少しでも遠退けようとふたたびタオーネへ視線を移した。
「それと、先生にもごめんなさい。ドニ、俺のことを庇ってスライムに捕まっちゃって……」
改めて謝罪し、うっすらと涙を浮かべた彼の姿に、ドニの心がズキンと痛む。
こういう時にいつも動けない自分に嫌気が差した。
ドニが自己嫌悪に陥っていると、タオーネが小さなヘンリーに目線を合わせるように屈み込んで、優しく話しかけた。
「大事には至りませんでしたから……。それにヘンリーくんがニコラスさんを呼んでくれたのでしょう? アーサーくんから聞きましたよ。こうしてドニに大きな怪我がなかったのも、ヘンリーくんが素早くニコラスさんを呼んでくれたからです。本当にありがとうございました」
思いもよらない感謝の言葉にヘンリーは狼狽えてしまっているが、ドニもタオーネと同じ気持ちだった。
スライムに襲われたのは本当に怖かったが、あの川辺にスライムがいたことに彼は関係ない。
それにヘンリーがすぐにニコラスを呼んできてくれたおかげでドニは助かったのだ。
逆の立場だったらきっとドニは情けないことこの上ないが、どうしたらいいのかわからずにオロオロとするしかなかっただろう。
だから、ヘンリーが謝ることなんてない。
むしろドニからお礼を言いたいところだ。
そう考えるものの、やはりそれらを言葉に直すことがドニには難しく、頭の中がごちゃごちゃと入り混じっていく。
そうしている間にヘンリーもタオーネからの感謝にどうしたらよいのかわからなくなったらしく、戸惑いを顕にして視線を泳がせ、逃げるようにその場から一歩後退した。
「……俺、もう帰るよ。じゃあ……」
気まずそうにボソボソとそれだけ言うと、ヘンリーはくるりと振り返って足を踏み出した。
このままではヘンリーが帰ってしまう。
そう思ってさらに慌てたドニは思わず椅子から立ち上がって、彼を呼んだ。
「ヘ、ヘンリー……!」
名を呼ばれ、立ち止まって振り向くヘンリー。
彼を呼び止めたはいいが、言葉の続きを考えていなかったため、しどろもどろになりながら必死に考える。
だが、焦るあまり頭の中がまとまる前に口から言葉が流れ出た。
「あの、その……おれ、おれ、ヘンリーと、遊ぶの、すき」
自分でも予想していなかった言葉にドニは首まで赤く染め、その続きをどうするべきか頭を絞った。
ドニの気持ちを伝えるにはどんな言葉が必要なのか。
一生懸命に考えるが、気持ちばかりが先走り、まとまらないままの頭で続きをなんとか紡ぎ出す。
「だから、えっと……また、遊ぼう……?」
拙いながら言葉にしてみると、伝えたいことの半分も含まれていないことに気付き、しくじったかなと不安になった。
そして、アーサーに保証されてはいたが、本当にヘンリーが自分と遊びたいと思っているのかという不安も合わさり、恐る恐る彼の表情を窺う。
ヘンリーは膜の張った大きな瞳でドニを見つめていた。
おずおずと上目にこちらを窺う彼もまた、ドニの気持ちを確かめたいのだとその目が語っていた。
「いいのか……?」
くしゃくしゃの顔で囁くように問われ、ドニは今度こそしっかりと頷いた。
うまく言葉にすることはできないけれど、彼に自分の気持ちを知ってほしかった。
「おれ、ヘンリーと、遊びたい」
そう言うと、ヘンリーはくしゃくしゃになっていた顔をさらにくしゃくしゃにさせた。
それから擦り切れている袖口で顔をごしごしと拭くと、くしゃっと笑った。
真っ黒な彼の髪はもじゃもじゃで、さっきの表情と似ていたけど、ヘンリーにはやっぱり笑顔が似合う。
「あっ、あと、アーサーとも、遊びたい」
ふたりじゃなくて三人で遊んだほうがきっと楽しい。
そんな考えが頭の中で入り混じったものから飛び出してきて、ドニは慌ててアーサーのほうを見た。
すると彼は少しおとなっぽい、とても柔らかな微笑みを友達ふたりに向けていた。
「……うん。三人で遊ぼう」
アーサーの優しげな声音にヘンリーは顎を震わせ、下手くそな笑顔で応えた。
「お前、もう忙しいのはいいのか」
「もう忙しいのは終わったよ。……三人で遊ぼう」
アーサーはまた袖口で顔を擦るヘンリーに近付いて、その肩を労わるように軽く叩いた。
ふたりの間にできていたしこりはたったそれだけのやり取りで綺麗に消えていった。
そんなふたりの様子をドニは眩しいものを見るように、目を細めて見守る。
このことを頭の中で鮮明に描いたわけではなかったけれど、この光景はドニが漠然と思い描いていた夢のような、理想のようなものだった。
ふたりが仲直りして本当によかった。
うまく喋ることはできなかったが、今はとにかくふたりの関係がうまくいったことが嬉しい。
ドニが無意識のうちに微笑んでいると、同じように様子を見守っていたタオーネが口を開いた。
「まだ夕食までには時間がありますし、みなさんで遊んできてはどうでしょうか。一応ドニはまだ安静にしていたほうがいいので、無茶にならない程度でとなりますが……」
その素敵な提案にドニは瞳を輝かせて彼を見上げた。
ドニの保護者はそれに応えるように頷いて、三人の子どもたちが視界に入るように見渡した。
「それと、これからはおとなの目が届く範囲で遊びましょうね。もしも危ないと思ったらすぐにおとなに知らせるようにしてください」
「うん。わかったよ」
年長者からの諸注意にヘンリーが声に出して力強く頷いた。
アーサーとドニも生真面目な顔で頷く。
危ないことは今回でもうおしまいだ。
それをしっかりと肝に銘じて、ドニの友達たちはこれからどうするか作戦会議を開いた。
「そしたら、今日はどうしようか」
「橋のとこの小屋でツバメが雛を育ててるから、見に行くか?」
「毎年そこで子育てしてるよな。ドニくんはどうかな?」
すぐに決まった作戦にドニはこくこくと頷いた。
三人で遊ぶのならば、きっと何をしても面白いに違いない。
「じゃ決まりだな。行こうぜ!」
ドニの同意を得たヘンリーがまだ赤みの残る顔をしながら、いつものように元気に号令をかけ、小さな体をのびのびと跳ねさせる。
今にも待ちきれないというように駆け出しそうな友達のもとへ駆け寄ろうとしたドニは一旦立ち止まり、喜びを素直に微笑に乗せているタオーネをまた見上げた。
そして、遊びに外へ出るようになった頃に教わった挨拶をする。
「あ……いって、きます」
「はい。いってらっしゃい」
返された挨拶とともにぽんと軽く背を叩いてきた手が、ドニを外へ送り出す。
そのまま歩み出すと、ドニを待っていたヘンリーがいつもより随分と控えめに駆け出した。
その後ろをアーサーが仕方ないやつだなと言いたげな顔をして追いかける。
ドニは一度だけタオーネを振り返ると、アーサーに倣って友達の後を追った。
三人を後押しするように吹いた風は、濃い夏の気配を纏わせて、そのまま過ぎ去っていった。




