9
翌日。
ソアは玄関に立っていた。和風と洋風を混ぜ合わせた、絹と布で出来た服を着ている。
「それじゃあ、いってきます」
「おう、きぃつけろよ」
うん、と頷くと歩き始める。向かうのは、家から少し離れたところにある乗り物置場だ。そこにはシャギアが昔使っていたという二輪車――『空動車』が置いてある。
人力ではなく、大気中に漂う空気で動く。魔法によって空気から動力を錬成するのだ。錬成する、といってもただ単に空気を取り込んで排出するだけなので、高位な魔法は使われていない。
形としては、丸くて厚いゴム製のチューブが前後ろに一つずつ。その前輪部分から管が上へと伸びており、ちょうど顔の少し下あたりで左右に別れている。動きを制御するときは、その取手で行う。発進や停車は声紋認証によって稼動する。
鉄の馬とも呼ばれることもしばしば。
「ゴー」
この『空動車』、身長もでかく顔も厳つい人が乗ればかっこよく決まるのだが、残念ながら乗り手はソアだ。正直なところ非常にかっこ悪い。
説明している間に目的地へと着いたようだ。
「スティ」
ソアが通う学校は意外と遠い。だが、直線上にあるため道に迷うこともない。学校を突き抜ければ市場がある。いつも日用品を買ったりしている場所だ。
「おはよー」「おっはよー」「おはー」元気の良い挨拶が交わされてる。
――ここで僕も挨拶を……!
「おっ、おは……おっ、ぉお!」
生徒たちが通りすぎた。
「はよぉぅぅ……」
ソアの声は虚しく宙に消えた。
皆が集まったところで授業が始まる。ここに集まっているのは十人程度で、幾分か女の子のほうが多い。
学校と呼ばれているが、実はそんな大層なところではない。歳もまばらだし、教室すらない。授業は外で行われ、地べたに座って受ける。
授業といってもそんなに難しいものではない。簡単な基礎知識を教えてもらう程度だ。
もちろん、ここは普通の学校ではない。特殊な場所にある特別な学校だ。
「はーい、みんな。おはよー!」
小さな学校に光が射した。先生の登場だ。
授業が始まる前に、訓練生たちが必ずといっていいほど釘付けになる部分がある。それは先生の大きな大きな胸だ。ちなみに釘付けになるのは、男の子のみである。
この大きな胸を持つ先生の名は、リーベ・ピリアー。童顔で愛らしい顔の持ち主だ。エメラルドの瞳に赤紫の髪。赤ワインとも称され大人らしい、だが子どもらしさも残る色合いだ。
そして、なによりも惹かれることが、お荷物になっている本当に大きな胸だ。栄養を十分すぎるほど含んだ脂肪の塊は、男にとって甘美で魅惑に満ち、本能的に触りたいと願ってしまう不思議な不思議な代物なのだ。
リーベを花にたとえるなら、向日葵が妥当だろう。大人なのに子どもっぽさを残していて、なおかつ弾力抜群の胸を持つ……まさに向日葵が相応しい人だ。
おはようございまーす、という定番の返しの代わりに一人の男子生徒から無垢な質問が発せられた。
「なんで先生のおっぱいはそんなにでかいんですかぁ?」
子どもの質問というのは単純で無垢だ。罪はない。普通ならここでそんな質問はしちゃダメです、と叱るところだろう。
「も、もう! ダメでしょ、そんな質問しちゃあ!」
だが、この先生は照れ屋さんなのだ。大きな胸にこの性格。子どもたちに好かれないはずがない。特に男の子に。
「そ、それじゃあ、きょ、今日は魔法について話しますからねー、昨日の続きですよー!」
まだ恥ずかしかったのか、若干言動がおろおろしていた。
レッスン、スタート。
「昨日は魔法が無から有を創るって言ったよね? 今日はそれについて補足。魔法の使い方は、二通りあるんだ。一つ目は呪文。これは簡単な命令式で楽に使えるほう」
「せんせー、命令式ってなんなんですかあ?」
「行け、とかっていうのの言葉みたいなものなんだけど……。やったほうがいいかな? うん、それじゃあ、見てて!」
リーベは人差し指を出した。細くて綺麗な指。
「灯りよ点け――『灯火』」
人差し指から小さい炎が出た。生徒たちから「おぉ~」という歓声が上がる。
リーベは頬を赤らめながら、
「これが呪文による魔法ね。もっといっぱい練習すれば何も言わずに発動させることができるわ」
炎を消して話を続ける。
「そして二つ目が、詠唱による魔法。これはいくら練習しても無言で発動はできないわ。命令式は主にこの二つね」
リーベは生徒たちを見回し、反応をうかがう。
太陽はちょうど二色の空の真ん中あたりで輝いている。まだお昼だ。
「今日はまだ時間あるわね。よし、じゃあ次は、魔獣について話そう! 魔獣っていうのは…………実はまだあんまりわかってないんだ」
生徒から、えぇ~という声が上がった。
「ごめんね。ほんとは全部話せれたらいいんだけど、まだ私も知らないことだらけなんだ。でもね、魔獣が自然に生まれたってことはわかってるんだよ。そして、魔獣は私たち人間が持ってない特有の魔力を持ってるんだ。あ、中には人間と魔獣の混合も存在するんだよ」
人間は魔獣を差別している。人類支配が強い現在、いくら強大な魔獣がいようが人間が下に回ることはない。愚かな人間の闇だ。
「じゃあ、ここで問題! もし魔獣を見かけたらどうすればいいでしょう?」
そんなの簡単じゃないか、とソアは思った。近づかず、刺激しないようにして近くの大人を呼んでくればいい。そして、そして……、
――どうなるんだろう。
大人は魔獣をどうするのか。
普通の家庭だと、子どもは親から魔獣の恐さを聞かされて育つ。そうして、心の奥底に魔獣に対する絶対的な恐怖を覚えてしまうのだ。
だから、魔獣を見つけると大人を呼んだあと、駆除として殺されてしまうことは当然だった。
危ないから。
恐いから。
傷つけられるから。
――殺す。
これは世界の常識だった。
だが、ソアはそれを知らない。普通の家庭で育っていない。
「じゃーあ、そこの君っ! 答えてねっ」
かわいらしくウインクしながら指差すのはソア――ではなく、隣の女の子。瞳は翡翠で、澄んだ紫の髪を左右で結っておさげにしていた。藍色のワンピースが小麦色の肌と似合っている。
びくん、と身体が跳ねたように反応した後、少女は恐る恐る口を開いた。
甘く、囁くような声だった。
「お、大人を呼ぶ……?」
「せいかーい! よくできたねっ、リリアちゃん!」
リリアと呼ばれた少女は、仄かに顔を赤らめうつむいた。きっとこの少女はいま、誉められて嬉しいのだろう。すかさずソアは話しかけようと身をのり出す。
――ここを、逃したらダメだッ!
「ね、ねぇ! せ、正解するなんてすごいね!」
またもやワンピースの少女は、びくんと跳ねた。ゆっくりソアのほうへ顔を向け「……ありがと」と小さな口で言った。
この繋がりが友達への足掛かりとなる、はずだった。
新しい話題を出して、もっと話して仲良くなる。そのための手順は、昨日の夜に考えてあった。
はずなのに、ソアは口を開くことはできなかった。
――彼女の口の端に、小さくて鋭利な牙が飛び出ているのを見てしまったから。
ソアの視線に気づいたのか、リリアは慌てて口元に手を当てた。
――い、いまのは……ッ!
しかしソアの思考を遮るように、リーべの声が響いた。ちらりとリリアのほうへ目を走らせると、彼女はもうこちらを見ていない。何事もなかったかのような無表情でリーべを見ていた。
ソアは複雑な気持ちで先生の声に耳を傾けた。
「それじゃーあ、次はこの世界について話そっか!」
リーべは言葉を話すとき、体をくねらせ腰をふりふりするのだが、如何せん一番揺れる部分がある。それは巨乳だ。男子生徒一同が静かに授業を聞いていられるのも、その大きなお胸効果があるからだろう。
「この世界は今はもう壊れちゃいました。と、いうのも焔が壊れちゃったからなんだよ」
「焔ってなあにー?」
「うーん、焔って言うのは……運命を司る塊かな。まあ、神様って思ってもらっていいよ」
リーベはくるりと翻った。胸が揺れる。
「これも、まだまだわかんないことだらけなんだけどね。けど、それを壊した怖い人たちがいるんだよ。その人たちはシェル一族って呼ばれてる」
はっ、として慌てて目線をそらす。なにもシェル一族本人なのだ。いきなりおろおろするソアを、隣のリリアが訝しそうに横目に捉えていた。
「まあでも、シェル一族が焔を壊したっていう証拠はないんだけどね。一番焔に近いところに住んでいたから怪しまれたんだ。そしてそれを退治したのが『死神』って呼ばれる組織なんだよ」
人差し指を立てて強調する。しかし本当に強調されたのは、少しだけ寄せられて膨らみが増した胸のほうだった。
「『死神』はヘヴン一族を全員滅ぼしたんだ。一人残らずね……でも、最近の噂によると、たった一人だけ生き残りがいるらしい」
生徒たちからおぉ、という感嘆が洩れた。
「す、すげー」「生き残りかよ」「かっけー!」
ソアは自分の頬が熱くなるのを感じた。
それは僕だ! と、飛び出していきたい気持ちに駆られる。
――約束したんだ。簡単に正体をバラさないって。
と、シャギアとの約束を思いだし我慢する。
だが、葛藤は心に残る。できるんだけどやってはいけない、といった非常にむずむずした気持ち悪い心地を味わった。
実際、ソアは本名をリーべに伝えていない。自己紹介のときも「ソア」としか名乗っていなかった。
バレると大変なことになる。どれだけ大変なことになるかというと、捕まってしまう。ソアはいまや指名手配犯なのだ。焔を壊したシェル一族。それは、子どもでも例外ではない。
「それでね、俗に言う『焔の決壊』が起こってからは、世界は波乱に包まれちゃったんだ」
リーベは突如悲しげな表情を浮かべた。 長めの睫毛が少しだけ潤む。
「シェル一族は焔を壊す前までは、世界を治める王様をやってたんだ。パール・シェル……その人が、もう死んだけど聖歴の王様だったんだ」
ぽつりぽつりと話していく。風が一際冷たくなった。
「この世界が五百年を一周期として、王様が代わるのは知っているよね? その王様が焔を壊しちゃったんだ……。だから、さっき言った生き残りが王位を引き継ぐこともできないんだよね」
なにも一周期ぜんぶを同じ人が王様をするわけではない。まず寿命が圧倒的に足りない。だから、老いれば若い世代に交代するなどして、同じ一族が五百年間管理し続けるのだ。
今期の聖歴を任されたのはシェル一族だった。しかし焔を壊した罪人たちということで、滅ぼされてまった。
罪人が王になれるはずなどない。
「そこでいまこの世界は荒れているの。誰が王になるか、ってね」
陽が、傾いていた。
燃えるような空が一面に広がる。
この時間だけは、分割された赤と青の空が、ひとつのように見えた。
「じゃあ、今日はここまで! 最後のほうしんみりとしちゃってごめんね。明日からは魔法の使い方について説明していくからねっ!」
レッスン、フィニッシュ。お帰りの時間だ。
ソアは誰かと話すわけでもなく、『空動車』を停めていたところへ向かう。話さないのは友達がいないからだ。
「ゴー」
重い気持ちのまま走り出す。風が冷たい。肌に浸透していき、心に到達する。はぁ、と溜め息をついた。
「結局、今日もつくれなかったなあ……」
と、自分で言っておいて気づく。
翡翠の瞳。
澄んだ紫色の髪。
ほどよく焼けた小麦色の肌。
仄かに赤らむ頬。
甘く囁くような声。
かわいらしい口の端から覗く鋭利な牙。
勇気を振り絞って話しかけた相手。
だけど、きっと、彼女は――
「魔獣なんだよね……」
初めて話した人は、人間じゃなかった。
月が、輝き始めていた。
ストックが切れそう……。