7
ここからがらりと変わっていくかな。
「さあ! どちらかを選びなさいッ!」
叫ぶレベッカの声。しかし、それはグリムに届いてなかった。
当惑。
グリムは自分を築き上げていた確固たる意思が崩れていくのを感じた。
――僕は、なにを……。
今の今まで掲げていた「勝利」という単語。これは元々何のためだったか。
もちろん、子どもたちを守るためだ。
狂った妻から、大軍から、危険から遠ざけるため。だが、本当に自分は遠ざけるための行動をとっていたのか――
答えは、否だ。
グリムは感情の赴くままに分析し、鎌を振るい、刃を突き立てた。そのあとのことなど考えずに。冷静に戦場を見る目があるなら、逆境に打ち勝てた実力があるなら、なぜそれを子どもたちのために使わなかったのか。
家を壊されたから。
襲いかかられたから。
――違う……僕は……
単純に逃げればよかったのだ。シャギアと力を合わせ、退路を開きこの場から逃げ出す。それだけでよかったのだ。さらに相手は思念体だ。時間が経つだけで消滅した。少しだけでもいいから地面に注意すればよかったのではないか。
――許せなかっただけなんだな……。
自分を捨てた妻に。シャールを独り占めしようした魔女に。
憤りをぶつけたかっただけ。
グリムとて男だ。レベッカを愛する気持ちは本物だったのだろう。しかしそれを、自分とて彼女と同じように愛する子どもを独占されそうになり、果てには殺されそうにもなったのだ。
愛する人に。愛した人に。
「時間はあまり残さないわ。早く選んでね」
「そんなの……選べるはずが、ない……」
彼の口から出る言葉は弱々しく小さい。しかし、返歌のように返す言葉は残虐だった。
「選ばなければ、二人とも殺すわよ?」
このとき、グリムは気づかなかった。もともとレベッカはシャールを取り戻すために来たのだ。だから、「二人とも殺す」という選択肢は存在しない。ソアを殺すことはあっても。だが、彼は気づかない。
くそ、と心のなかで自分の妻を呪った。
どちらともかわいい子どもだ。ソアだって本当の息子ではないが、注いできた愛情は確かなものだし、区別も差別もせずに接してきた。シャールは言うまでもなく愛する我が子だ。選べるはずがない。
最善は二人ともを取り返すこと。レベッカに攻撃をしかけ、二人を取り戻す。だがこれは不可能に近い。少しでも加減に失敗すれば子どもたちに被害がでてしまうし、何よりも自信がなかった。
『鬼面犬』や思念体の大軍と戦った猛者は何処へ行ってしまったのか。
詰まるところ、彼も人だということだろう。
呼吸が速くなっていく。鼓動も速い。拍動音など聞こえるはずないのに、不思議と聞こえた。頭が回らない。視界が暗転したり白くなったりして気持ち悪い。冷や汗が垂れ、背中がぐっしょりと濡れた。ごうんごうん、と木槌で叩かれたよう耳鳴りがする。思考が完全に停止した。
――選ばないと……。
「さあ! 早く選びなさいッ! さあッ!」
一秒が永く感じられる。一言一言がゆっくりと鼓膜から浸透して脳へと届く。身体の重心が固定されていない。内蔵をゆっくりじっくり締め上げられているような感覚。ぐらり、ぐらりと身体が揺れた。
「う……ぁ、あぁ……」
力ない声を発する。それを見てイラついたのか、レベッカは次の段階へと進んだ。
「選べないのなら、私が選ばさせてあげる」
笑顔も微笑みもすっかりと消えて、苛立ちの表情で鎌を振るった。彼女の両手はふさがっている。彼女の鎌は空中に浮いていた。その鎌がゆっくりと動き、鈍く光る刃が子どもたちの首筋に迫る。
危うい思考の上で彼が出した答えとは――
「……頼む。二人とも大事なんだ。……それだけは、それだけはやめてくれ……頼む」
吐き出されたのは求められていない言葉。必死の懇願。グリムはがっくりと項垂れて、視線を下に落とす。
ぴく、とレベッカの雪のように白い頬が固まった。
ソアを落としシャールを抱く。
「ああ、私の愛しいシャール……」
予想外の台詞に顔を上げると、彼女の白くて長い指が、優しく愛しくシャールを撫でていた。その様は確かに母親そのもので、ありしの彼女の姿に重なる――
。
「なんで、君は狂ったんだ?」
知らずに言葉が口から飛び出していた。
「私は狂ってなんかないわ」
「だったらなんで、こんなことをするんだ?」
レベッカは視線だけこちらに向け、
「『死神』の予言って何だと思ってる?」
と、言う。予想だにしていなかったことだ。いったい何故ここで死神が出てくるのだろうか。
「……え?」
当然ながら疑問符でしか返せない。
風が、吹いてきた。レベッカの茶髪が巻き上げられる。
「十年に一度しかないけど、その内容は絶対。……でも、その内容を偽装することはできる」
「どういう、ことだ……?」
不吉な予感が身体中をめぐる。
「ずいぶん前に『シェル一族皆殺し』の命令がでたのは覚えてる?」
グリムは狼狽えながらも「……あ、ああ」と言った。当たり前だ。ソアを助け出した時のことだ。忘れるはずがない。
「理由はシェル一族が、神とされている焔を決壊させ、世の中を混沌へと導くから、だったよね」
そうだ。結果として焔の決壊を防ぐことはできなかったが、そこから発生してくるであろう二次災害は防ぐことができた。皆殺し、という方法で。
「けれど、あなたは運命をねじ曲げる力を有する『魔神の涙』を使って、この子を助け出した」
そう言って彼女はソアを指差す。グリムは偶然焔の欠片を見つけ、その力を手に入れた。運命を悪い方向しか変えれない力。自分のエゴでソアに過酷な人生を押し付けてしまったのだ。
「ここからが本題。予言は、ここまでのことを示していたの」
「…………」
「つまり、あなたがこの銀髪の子を助けるまでが本当の予言ってことよ」
「……だったら、僕が『魔神の涙』で運命を変えたことも、ソアに過酷な人生を押し付けたことも、ぜんぶわかっていたのか……ッ」
レベッカは寂しげな笑みを浮かべた。そんな彼女の顔に耐えれなくて、グリムは叫ぶ。
「なら、なんで皆殺しっていう命令だったんだ!? 僕が命令違反したこともッ、ソアを匿っていたこともわかっていたのかッ!」
「そこは少し考えればわかるでしょ。なんで皆殺しにしたかったのか」
血液が、熱い。
レベッカは撫でる手を休めない。
「まさか……プライド、か……ッ」
『死神』は誇り高き組織だ。シェルを皆殺しにできないことが許せなかったというのだろうか。真実を隠蔽し、嘘の予言で部下を動かしてまでも、ソアというひとりの子どもを殺そうとしたのか。
「そうね。くだらないプライドよ。そのためだけに本当の予言を偽った」
「……そんな……バカな。…………だけど、なんで君はそんなこと知っているんだ?」
「協力者がいたのよ」
「協力者? 誰だ?」
「ごめんなさい、それは言えないわ」
それもそうだろう。わざわざ手の内を見せてくれるわけがない。
しかし、グリムは納得できなかった。彼女がただ狂ったわけではないのなら。重い真実を知っていたのならば――
「どうして……なぜ僕に伝えてくれなかったんだ……」
「あの頃のあなたは命令に忠実だったじゃない」
「ふざけるなッ! 君は僕の妻だぞ! なぜ僕を頼らなかったッ!?」
その台詞にレベッカの頬が僅かに赤らむ。
彼女は嬉しいような、困ったような笑みを浮かべた。
風が、止んだ。
空では星の輝きが失せてきている。
太陽が顔を覗かせていた。
「ねえ、あなた。私たちと一緒にこない?」
「え?」
「私の話を聞いて『死神』がおかしいってわかったでしょう?」
しかし、一度信じたものは簡単に捨てられない。第一、証拠だってないのだ。
妻の言葉を信じるか、信じないか。
「まだ間に合うわ。まだやりなおせれる。あなただって変わったのね。ずっと優しくなった。私たちと一緒に行きましょう?」
言葉自体に甘さが宿っているようだ。水が土に浸透していくように言葉は胸に響き渡る。
グリムはゆっくりと、だが確かに頷いた。
「悪かった……」
「行きましょう。間違ったことを改め直すために」
レベッカは妖艶に微笑んだ。握手しようと手を差し伸べてくる。
間違いは直さないとならない。
きっと今までの自分は間違っていたのだ。
疑うこともせず、ただ与えられた命令だけこなしていた。
それではダメだった。
自分で考え、決めていかなければならない。
グリムは、差し出された手を掴もうとする。
ここからだ。ここから生まれ変わっていけばよい――
「けど、ごめんね」
しかし、グリムの手は握手することなく、地面に落ちた。
「――え?」
切断された、と気づくのに時間がかかった。手首の断面から血が滝のように流れる。視線を上げると、シャールを抱えた魔女は哀しげな目をしていた。
理解が、追い付かない。
「本当に悪いと思っているわ」
謝罪の言葉に反して繰り出された斬撃。
グリムの足が脇腹が肩から、朱い血が迸る。
敵だ、と認識したときにはもう遅かった。
「……ッ、レベッカァアああああああああぁッ」
魂の叫びは怒りの声か。またまた悲しみの雄叫びか。
グリムの瞳に愛する妻が映る。
雪の中で咲く妖しげな花。
それは、哀しそうに揺れていた。
風が、切れる音がした。
ごとん、と首が身体から離れる。
盛大に噴き出す血は、少しだけ黒かった。
「ごめんね」
誰が正しかったのだろう。
誰が狂っていたのだろう。
誰が善だったのだろう。
誰が悪だったのだろう。
誰が正しくて、誰が狂っていて、誰が善で、誰が悪なんて、この世界において関係ない。
信じ信じられ、騙し騙され、殺し殺される。愛情も、友情も、信頼も、仲間も、全て歪んだ因果の輪廻。
夜が完全に晴れ、生命の源である太陽の日差しが降り注ぐ。
三人で過ごしたところは跡形もなく消し去り、ただ地面が広がる。
人は独りでは生きていけない。だが、それを覆すのがこの世界の現状。何故こうなってしまったのだろうか。
黒く深い霧のような悪夢は、まだ始まったばかりだ。
◇
グリムが絶命した後、レベッカの横に立ち上がる者がいた。二つに分割されてしまった友を見て、哀悼を捧げる。
「本当に、これが予言なんでしょうね?」
隣の魔女も、どこか悲しそうにグリムを見つめていた。シャギアは苦々しく口を開く。
「ああ、ここまでが予言だ。俺たちはグリムを殺さないといけなかった」
「そうしないと世界に災いが降り注ぐ。混沌の幕が開けてしまう――貴方はそう言ったわ」
「そうだ。この後、グリムは狂ってしまう。だから、俺が運命を変えた」
つまるところ、協力者はシャギアだった。彼こそが本当の予言を知り、レベッカに伝えた人物。さらには『魔神の涙』を所持していたのである。
焔の欠片。運命の矛先を変える力。いったいこれは何なのか。今のところ答えはない。
友を喪った男は、銀髪の少年の元へ歩いていく。
「あら、その子をどうするつもりなの?」
彼は寂しそうに笑った。ソアを肩に抱き、レベッカに向き直る。
「んあー、なんつーか……どんな運命だったとしても、俺はグリムの親友だ……。俺はそれを無くしてしまった」
悲壮の想いが胸に刻まれる。
彼らは紛れもなく親友だった。
予言さえなければ、こんな結果にはならなかっただろう。
悪いのは、運命だ。
「だから、あいつが残したモノぐらいは、俺が引き継いでやりたいんだよ。……あんただって同じだろ?」
彼女も力なく笑う。
「……そうね。私だって、こんな運命じゃなかったら夫婦としてずっと暮らしてたかもしれない」
シャギアが親友であるように、レベッカもグリムの妻だ。愛した人だ。これからは、自分が子を育てていかなければならない。
もしか。運命がこんな残酷でなかったのなら、彼らは愛し合い続けただろう。
朝が、来た。
夜明けが終わる。
各々の歯車は傷つきながら運命を動かしていく。
いつ止まるとも知らずに。
陽が平らな地面を照らす。
風が、また吹いた。