6
闇が晴れて、絶望が舞い降りる。
「こっちはたったの二人だぞッ!」
シャギアが吠える。しかし、それは無理もないことだった。
目前に並び立つ無数の怪物。加えて、依然として数が残る大群。あの側近の詠唱は一撃必殺ではなく、召喚魔法だったようだ。
昔、人工的に魔獣を造りだそうとした組織があった。結果から述べると、それは失敗に終わる。自然の定理から生まれる魔獣を造りだすことは不可能だったのだ。理由には、魔獣特有の魔力が創造できなかったとか……まあいろいろある。
だが、ここで考えてみてほしい。
一体彼らの努力は、何処へ消えたのだろうか。彼らが調査し、研究し、実験した……成果こそでなかったが、それらに費やした時間と努力はどうなったのだろうか。
奇跡、という言葉がある。不可能を可能にする現象。物質的にできないことを幻想的に解決し、具現化することだ。絵空事とも言われるが、これらの超現象は実際に記録として残されている。
これもまた然り。奇跡が起きた。組織が費やした時間と努力は不可能を可能にしたのだ。
が、全ての奇跡は幸せへと繋がるのだろうか。成功したことは奇跡……だがそれは世界にとって善なるものだったのか。全ての奇跡が幸せを呼ぶわけではない。時には不幸を悪魔を災厄をを呼ぶ。この奇跡は攻撃的な魔獣を産んだ。つまり、この奇跡は悪魔を呼んでしまった。
生まれた魔獣は犬の成れ果て。黄色い人工皮膚がチグハグに縫われ、身体は肥大し、瞳孔は広がって、血管が浮き出ている異形。『鬼面犬』の誕生だ。
グリムは冷静に戦力を判断し、結論に至る。
「二人で戦おう……本気でいく」
そう。
彼らは引けないのだ。引くことができない。勝つことにしか目標を置いてないため、かつて命を助けてくれた親友のため、彼らは引けない。
「まだ諦めがつかないのですかあ?」
「るっせぇ! こっからが本番なんだよッ!」
シャギアの怒鳴り声と共に走り出す。
走りながら武器召喚の呪文を唱えた。
「万有の哀願が集う華――『無罪の花弁』」
グリムの腕に黄金の鎌が出現する。彼の髪と同じ色。闇の中でも光輝く破邪の色だ。赤銅色の髪をした友と並び、怪物に向かって駆ける。
襲いかかってくる獰猛な牙を刃が受け止める。火花が飛び散り、金属音を奏でる。荒い息遣いが間近で聞こえ、戦意を研ぎ澄ます。目の前には無数の牙。暗闇の中で疎らに見える歪な歯。それは一見、笑っているようにも見えた。
しばらく応戦していた二人だが、如何せん数の戦力差は埋まらない。徐々に徐々に追い詰められていく。防ぐたびに、小さな傷が生まれる。致命傷は避けているが、このままだと体力切れを迎えてしまうだろう。魔獣の攻撃速度が速いため、魔法を唱えることも難しい。
だから。
冷酷な悪魔へと化してしまったグリムは、なんのためらいもなく一歩、身を引いた。
つまり、友を身代わりにしたのだ。
「うおッ!? おい、グリムッ!」
瞬く間に手数で押しきられ、シャギアの腕に頬に胸に傷が刻まれる。吹き出す鮮紅が、闇夜に撒き散った。しかし、それも長くは続かない。
「『絶する還元』」
グリムの声が夜空に響く。友を犠牲に唱えた魔法。混沌を打ち砕く祝詞。黄金の刃は輝きを増し、白く発光し始めた。刀身も光によって肥大する。黄金の柄に輝く白の刃。月の光に劣らぬ輝きだ。
魔を極めた者は呪文を唱えることなく魔法を繰り出せる。熟練の技だ。
押しきられている友を越え、鎌を薙ぐ。白い軌跡が描かれ、きらきらと銀色の粉末が振り撒かれる。
迫る獣にさくり、と突き刺さった。肉を断ち切る手応えは無い……しかし、それで良い。これはそういう魔法だ。
白き刃と接触した部分が、塗装が剥がれるようにぼろぼろと崩れ始めた。続けて薙ぐこと三回。刃の通る度に怪物は、原型を保てなくなっていく。
これは分解する魔法だ。魔獣とて所詮は魔力の塊だ。数多の魔力が集まり、身体を形成している。この魔法は、その繋がりを解してやるだけだ。
襲いかかってくる爪を牙を顎を、白き刃で受け止め、または切り裂いて分解していく。
防御も攻撃となり異形の怪物は粉塵へと帰していく。
しかし、やはり数が多い。いくら無に帰せる魔法とて多勢を覆す鬼札にはならない。付け加えると、この魔法は人には効かない。魔獣特有の魔力のみ反応するからだ。
故にもっと大きく広く超絶的な破壊でないと『悪魔』は葬れない。
「すまない、シャギア。……続けて悪いんだが戦姫はまだ召喚ないのか?」
「あと一つだ!」
手負いを感じさせないほど力強く、シャギアは戦線に復帰した。彼の口から頼もしいトーンで呪文が紡がれる。
「深淵の常闇は楽しみを炎で顕す」
シャギアは手に持つ鎌――『ミネルヴァ』で宙に十字を描く。
炎が空間を裂いて出現。荒れ狂う炎神を暗示するように狂い躍る。風が吹き、空気が送り込まれ、煌々と燃え上がる。無から有を創造する魔法。万有の理を打ち砕き、勝利への道を示す。
「『業火の快楽』」
灼熱地獄。
この単語を聞いて、人は何を想像するだろうか。ただ熱いだけの空間。炎に身を焦がれる光景。あるいは燃えくずしか残らない絶対的な炎。
これは、そのすべてだ。
炎に呑まれていく。炎が呑み込んでいく。どちらどもよい。ただ炎の塊……いや、海が空間を掌握する。灼熱の波は、万物を溶かし焼いて焦がして消し去。
もはや、ここには太陽があった。摂氏にして何度であろうか。想像もつかない。理解もできない。ただ純粋な熱だけが存在していた。
明らかに初めの頃の魔法よりも威力が増している。これが貴族。これが『死神』に買われた男の力。
――が、彼の攻撃はまだ終わらない。
「喜、怒、哀、楽、が炎によって揃いし刻、深淵の常闇は狂喜と重なり祭を催し、宴と酔いに溺れ狂う」
灼熱の海が一点に収縮しだす。夜の暗闇を引き裂くように炎の赤色が軌跡を描いた。
シャギアの持つ最大にして最強の魔法。
この魔法は、喜怒哀楽を炎によって顕して始めて発動できる。
「戦乱に舞い降りる戦姫は化身を業火で顕在させる――『戦姫の贖罪』」
炎の塊は、姫へと姿を変えた。
ツインテールのシルエット。炎の戦姫は高らかな声を上げる。声、というよりも奇声。禍々しい炎が天高く燃え上がり、空気が揺れた。
大地と空が喚く。夜なのに空が灰色に染まり、大地が燃えくずと化す。赤子にもわかる……とてつもないものが来る、と。
戦姫の一声。
空気がねじ曲げられ、空間がぐにゃりと歪む。気温が上がり続け限界を超す。本能が危険を察知し、脳で理解するまえに行動を起こす。
空気が大気が全てが炎の戦姫へと集まっていく。乱気流が生まれ、突風が吹き荒れる。
視界は悪く敵方の姿は見えない。しかし、そんなのは問題にならない。この魔法からは、逃れることなどできない。戦姫は獲物を逃さない。骨一つさえ、燃えくずになるまで焼き続ける。
「弾けろ」
爆発。
空気も空間も風も息も砂も草も木も水も川も湖も光も闇も人も感情も強さも弱さも嬉しさも怒りも哀しさも楽しさもこの世に存在するなにもかも全て吹き飛ばして奪い去った。
◆
静寂が夜に降臨している。
真っ暗で静かで嫌悪される夜。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
息を切らしてシャギアは倒れた。魔力の使いすぎだ。まっ平らな平面。地面と夜の境界線が綺麗に見えた。
「あとは、頼むぜ……」
薄笑いを浮かべ拳をつきだしてくる。ふっ、と笑い返し拳をぶつけあった。そして、彼は瞼をゆっくり瞑った。シャギアは一時戦線離脱だ。これ以上の戦闘は望めない。
グリムは気を引き締めると、遥か遠くの境界線を睨んだ。まだ終わっていない――まるでそう言っているかのように五感は研ぎ澄まされている。
突然、線が形を崩し何かがゆらりと動いた。
「……やはりか」
ゆっくりと闇夜から浮かび上がるのはグリムの妻にして怨敵。我が子のために狂った母の成れ果て。魔女。
「いまのは堪えたわ……」
その言葉に嘘はないようで、頬に切り傷や黒装束が黒ずんでたりしていた。何よりも、数が減っている。十人に届くか届かないかぐらいだ。これなら勝機はある、と確信する。
心のなかで戦友に感謝を述べた。
と、少し落ち着いたかと思われたところで、
「行って」
という命令と共に『鬼面犬』が放たれた。全滅できなかった怪物がこちらに向かって突進してくる。
不意を突かれたので咄嗟に反応できない。もう鎌は白く発光していない。魔法継続時間が過ぎたのだ。あわやというところで怪物たちの突進を避ける。
怪物はたったの三匹だ。鎌を薙いで一匹の脇に刺す、痛覚が存在しない怪物、はどうでもいいというように唸り醜悪な口を開く。グリムはそのまま力を込め、半円を描くように一物を振るった。
鎌の先についた奴を、再度突進してきていた二匹にぶつける。軽い脳震盪を起こしたかのようにふらつく怪物に渾身の蹴りを放つ。狙うは上腕顎。ここを貫通することができれば、三匹のうち一匹は無力化にできるはずだ。靴先にぶにん、と柔らかい感触。グリムの必殺の蹴りは――果たして貫通していなかった。思ったよりチグハグに縫われた人工皮膚は厚く、蹴り一撃では衝撃を殺されてしまう。
足を、止められた。
――まずい……ッ!
残り二匹が鋭利な牙を見せる。魔法を唱えるかと悩むがすぐにやめた。呪文を唱える時間がない。いくら無詠唱でも発動までの間にやられてしまうだろう。
どうする――、と再び刹那の思考へ戻ろうとしたとき、ぎらりと鈍く光るものが足元に見えた。
朱い鎌……シャギアの武器だ。グリムは友の鎌を掴み、振り回す。長い柄の部分が吉とでたのか、足に噛みつく怪物を除いて一旦敵を遠ざけることに成功した。
しかし、一息吐く暇もなく後ろに殺気を感じ、即座に退避。一コンマの差で、頭部があった空間を銀色の刃が通り過ぎる。
勝ち目が薄らいできている。明らかに劣勢だ。このままだと死ぬのも遠くはないだろう。
――それはダメだ。
敵をほふり、地を朱に染め、圧倒的な勝利を掴まないとダメだ。
グリムはいまだ勝つことに囚われていた。シャールやソアのことは二の次であった。冷酷な人情のままだったのだ。
迫り来る刃や牙を避け隙を見て反撃する。だが、決定打に欠けたまま戦局は動いていく。いつのまにか空が白み、灰色となっていた。
だからだろうか、突如訪れた事態を理解することができなかった。
敵や怪物を一時遠ざけた時、遠くで空気が弾けた音がした――かと思えば、目の前の敵が忽然と消えたではないか。
「……なッ」
否、全員は消えていない。怨敵であるラベッカと、彼女の横につきまとう側近はまだ消えていなかった。
「あの子たちじゃあ、こんぐらいか」
この突然の出来事は、果たして幸運なのか不運なのか。魔獣が消えるのはわからなくもない。動かしていた魔力が尽きたのだろう。しかし、他はどうしてなのか。
「これは一体なんだ?」
「あなた、おかしいとは思わなかったの?」
疑問符に疑問符で返された。
「…………?」
「なんでこんなに地面がきれいなのかとか」
そう言われてグリムは辺りを見回す。確かにきれいだ。あんな乱戦であったはずなのに、落ちている血の量が少ない。地面には、大人二人程度の血痕しかなかった。
「……まさか、これは……」
「そのまさかよ。あなたとお友だちの血しか落ちてないわ」
そうなると答は、グリムの知っている中でひとつしかない。
「思念体だったってことか……」
「私は本物だけど、他はみんなそうね。けど、さすがに朝まではもたなかったみたい。この二人を除いては、ね」
そういうレベッカの隣に、ゆらりと揺れる二つの影。フードに隠れた顔が見えないのは、実態がないからだろう。
いま思えば、いろいろおかしかった。
突如『悪魔』が現れたことだって。呪文をほとんど唱えてこないことだって。
「だから魔法による戦法をとらなかったのか」
「そうね。思念体は、実態の無い思いの欠片。普通は武器を召喚するだけでも大変よ」
しかし、レベッカの横に立つ二人の側近は魔法を使った。それも呪文ではない。大魔法とされる詠唱だ。遠隔からによる魔力の操作は、非常に難しい。だが、あの側近はそれを行った。これは示唆することはつまり、
「そう、この子たちは普通じゃないわ」
思念体は基本的に不安定だ。意識だけを分離し、操作する魔法だ。当然、本体は無防備になるし、さらにはどんなささいな事でも邪魔が入った時点で、消滅するという致命的な欠点がある。思念体を存続させていられるのも、最初に送り込んだ魔力が尽きるまでだ。
だから本来この魔法は、盗み聞きや離れた者共が話すために使う魔法であった。攻撃用に用いるなど笑止千万。かろうじて物理的な武器を持たせれることぐらいか。畑に立つ案山子同然である。
だが事実として、レベッカという女性は攻撃的な用途に思念体を使った。
「なんてバカな……」
呆れを含んだグリムの声に、彼女は妖しく微笑む。
「攻撃のために用意したわけじゃないわ。あの子たちには戦力差を大きく見せるだけでよかったのよ」
「たったそのためだけに、引き連れて来たっていうのか……」
「まあ、そういうことになるわね。――そろそろもうこの子たちも限界ね」
見れば、レベッカの横に座していた側近たちが、消えかかっているではないか。砂の山が崩れ去るように、細かな粒となって消えていく。
敵の消滅に気を許してしまったのだろう。
だが、唐突に消えかかる側近が刃を向けた。刃が喉元に迫る。脚がもつれて後退できない。
――くッ!
しかし、さいわいにも鎌が届くことなく敵は霧散した。
気持ちを落ち着かせるために、グリムは大きく息を吸い、吐き出す。もう一度気合いを入れ直す。
やっと大詰めだ。この戦闘を招いた元凶。魔女になった妻、レベッカに目を向ける。
しかし、目線に彼女はいなかった。
「――ッ!?」
真後ろに気配。続いて、がこんと何かが開けられる音。
グリムは反発的に動いていた。知覚できないような速さで振り向き、歯を剥く。
「おいッ! そこには――」
レベッカの右手に金髪の子女……シャール、左手に癖毛の目立つ銀髪の少年……ソアがぶらさげられている。子どもたちはまだ放心しているようで、沈黙したままだ。
「あははははッ! あなたにとってどっちが大事ぃ? 選びなさい。あなたが選んだほうだけを返すわ」
彼女の桜色の唇が、残虐な弧を描いた。
道化の仮面のように。
「けど、選ばなかったほう――つまり、見捨てたほうはここで殺すわ」
本物の悪魔は、灰色へと変わってきた空の下、高らかな嗤いを上げる。
夜に、終わりが来ていた。