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いつの時代でも存在する場所と人々がいる。
平和な時でも、混沌とした時でも。
それは、貧困街と金の無い人だ。
ソアやリリアの通う、特別なところにある特別な学校。何故、ここには椅子や机しか置いていないのだろう。何故、歳がまちまちなのだろう。何故、教室がないのだろう。何故、校舎がないのだろう。
答えは簡単だ。金が無いからである。
金に乏しい人々が通う学校。当然、まともな設備があるはずもない。
だが、子どもたちは真摯に授業を受ける。自分たちが貧困なことを知らずして、ではない。もちろん知っている。
将来、親を手助けできるように。貧困街から抜けれるように。彼らは真面目に知識を得る。
――という人々もいる反面、こんな人々もいる。
たとえばソアは犯罪人だ。神である焔を壊し、神殺しを成したシェル一族の末裔。表舞台に立つことを許されない人種だ。
たとえばリリアは魔獣だ。古くから人間と仲たがいした忌まわしき種族。当然こちらも表舞台に立てない。
つまり、貧困街を隠れ蓑として利用する人々のことだ。
今日の授業の内容は簡潔だった。昨日が世界の情勢についてだったのなら、今回は情勢についてだろうか。
曰く、この世界は二分割されている。自分たちが暮らす青い空の領土と、未だ何もわかっていない赤い空領土の二つに。
曰く、シェル一族や『死神』のような組織が幾つも存在し、互いにテリトリーを持っている。そして今現在最も力を持っている大組織が三つあり、それらが他の小組織を統括している。
一つは『死神』。古くから力を蓄え続けシェル一族をも滅ぼした組織。
二つは『協会』。自らが説いた教えを布教し続ける組織。
三つは『悪魔』。近年急激に成長してきた新しい組織。
主にこの三つが世界情勢を統治しているらしい。
このうちソアは二つの組織と対面したことがある。『死神』と『悪魔』だ。前者の方には育ての親であるグリムが所属しており、後者には彼の妻のレベッカが所属している。
ソアは複雑な気持ちを抱きながら、側に止めてある二輪車に向かった。
もう黄昏時だ。昔幼馴染みと眺め怖れた、その空模様を少しばかり懐かしく感じた。
――シャール……。
生きているとはシャギアから聞かされている。しかし、彼女がいないという虚無感は拭えない。
家に帰っても、頬を少し膨らませて「おそい」と怒る彼女はいない。
四六時中いらずらを仕掛けてくる彼女はいない。
理不尽な暴力を振るう彼女はいない。
――寂しい。
どうしようもない孤独感に襲われ、シーツを被って泣いたことも少なくない。
「はぁ……」
老けたようなため息を吐いて、『空動車』に乗り込む。うだうだしても仕方がない。早く知識を身に付けて、彼女を探しに行けるようにならないとダメだ。自分を鼓舞して前を見つめる。
すると、エメラルドの煌めきが視界を覆い尽くしていた。
「――ッ!?」
一瞬、何が起きたのかわからなかった。いや、わかったとしても納得はできなかっただろう。
リリアの小さい顔が、目と鼻の先にあった。もう少しでも動けば、ぷるんとした唇と触れてしまいそうだ。
ソアの脳が突然の出来事にスパークした。
小柄な少女は、まるで気にしてないかのように嘯く。
「……ソア」
甘い息が首にかかる。声がうまく耳に入らない。間近で囁くように発せられる少女の声は、男としての本能を叩く。
まだ子どもであるソアがそんなことに耐えられるはずがなく、
「……ソア!?」
顔から蒸気を出して後ろ向けに倒れてしまった。しかし場所が悪かった。蠱惑的なリリアから離れたのは良かったのだが、比較的大きい二輪車はソアを受け止めず、彼は地面へと落下してしまう。
ごっつん、とソアは後頭部を強打した。視界が暗転する。朦朧とする意識の最中、自分の頭上で環を描くひよこが見えた。
◆
ぺろぺろ。
ぺろぺろぺろ。
ソアが気がついた時、初めに知覚したのは、温かくて粘りけのある何かが連続的に額に当たる音だった。
ねちゃねちゃして気持ち悪いし、くすぐったい。甘い匂いがするのは気のせいだろうか。
しかし完全に覚醒すると、額に当たる何かがわかった。
――だれかの、舌……?
天啓的に意識を失う前の記憶が甦る。確かあの時目の前にいたのはリリアだった。だとすれば、自分の額を一生懸命に舐めているのは必然的に彼女ということになる。
ソアは起き上がろうとした。これ以上不快な感覚は味わいたくない。いくら可愛らしい少女がその行為をやっていたとしても、ただひたすらに額を舐められるというのは嫌だった。
「――!」
リリアが驚きに目を見開く。
考えてみてほしい。
額を舐められるということは口があるはずだ。舌だけで独立することはできない。口があるということは、歯があるということである。
この状態で起き上がるということは、すなわち口の中目掛けて頭突きをしたようなものだった。
当然の如く、歯にぶち当たる。
「……ッ! あっ、つぅ……!」
今度は、額が熱を持つ。痛みとは、許容範囲を越えた熱さでもある。
目覚ましは最悪の一言に尽きた。舐められ歯にぶち当たるという前代未聞の所業。
「……ッ。………………ソア、ごめん……」
「い、いや……大丈夫だ、よ……」
ソアはちらりとリリアを見る。そして愕然とした。彼女は口を押さえ、自分よりも苦しそうにしているではないか。明らかに大丈夫ではない様子だ。しかし何故そこまで痛がっているのか。もしかすると魔獣は歯が弱点なのかしれない。
さらに、リリアは先に謝ってきた。痛みを我慢してまでも、こちらを気遣ってくれたのだ。ソアは自分が「人」として不甲斐ないと思った。
きっと、彼女は自分を気遣って舐めていてくれたのだ。あれは斬新な目覚ましなどではない。犬は主人が傷付いた時、傷口を舐めると聞く。人間だって傷口には唾を塗っておけと言うではないか。
なのに、なのに頭突きをかました挙げ句、先に心配されたようでは頭が上がらない。
ソアはすぐさまリリアの側に駆け寄ると声をかけた。
「大丈夫?」
しかし、彼女は首を横にふるだけだった。
いろいろ想像を膨らませるソアだが、べつに魔獣は歯が弱点というわけではない。歯が生えているところ、つまりは歯茎が痛いのだ。
歯茎には多数の神経が通っている。そのため少しの刺激でも反応してしまうというデリケートな場所なのだ。
「で、でも痛そう……」
「……だいじょうぶ、だから」
ようやく痛みが引いてきたのか、リリアがすっくと立ち上がる。まだ瞳は潤んでいた。続いてソアも彼女の横に立ち上がる。
「で、どうしたの? 急に目の前に来てさ」
そうだ。何故こんなことになったのかといえば、リリアがいきなり目の前にいたからだ。そこから事態は展開されていった。
多くの痛みを乗り越えて、やっと本題に入る。
彼女は俯きがちにこう告げた。
「……家、きて……」
宵闇はすぐ側まで来ていた。