10
家に帰ると木材の香りが歓迎してくれる。気持ちの落ち着く匂いだ。ソアは帰り道ずっと考えていたことを、台所にいるシャギアに訊ねた。
「シャギアさん、人と魔獣ってなんでそんなに仲悪いの?」
外に比べて中は温かい。
どうやら食事の用意をしているみたいで、かちゃかちゃと皿の音がした。
「んあー、それはだな、なんつーか、昔戦争があってだな」
重要な部分よりもいらない言葉のほうが多くて、理解しにくい。シャギアは説明がほんとうに下手だ。がさつな声質もうまく耳に入ってこない。
されど、ソアは我慢しなければならない。この話が、もしかするとこれからの道を分かつかもしれないのだ。
「たしか、その戦争は引き分けちまう」
「引き分け……」
「そうだ、引き分けだ。人も魔獣もお互いつかれちまってだなぁ」
シャギアは料理の手を休めない。話ながらもせっせと盛り付けをしている。肉の焼けた匂いが鼻をくすぐる。ごくり、と唾を飲み込んだ。
「とりあえず、もう争いは止めようってことになったんだな」
過去形で話されているのは、昔の出来事だからだろう。ここ数年の間に、魔獣と仲違いをしたわけではあるまい。もっとずっと昔。シャギアだって生きてない頃、戦争があったのだ。
「まあ、でも、やっぱお互いを許せない奴ってのはいてな。そいつらが反乱を起こしちまったんだ、たしか」
「反乱?」
「んあー、そうだ。起こしたのは魔獣のエルフ……だったよーな気がする」
「エルフ?」
「たぶんな、たぶん! んで、まあ、その流れでまた戦争になって…………つーのを繰り返していくたびに仲悪くなったっていう感じだな。本だと」
「本だったの!?」
ソアは上体を仰け反らせて驚く。記録を見たとかそういうのじゃなくて、まさか本の知識だとは。
シャギアはぐりんと首だけをこちらに向け、
「当たり前だろ! もうほんとにすっげー前の話なんだぞ。お伽噺ぐらいでしか関わったことねぇんだよ!」
「お、おとぎばなしぃ!?」
がたり、と膝をつく。真剣に聞いていたのに、まさか本の知識でさらにお伽噺だったとは。裏切られた気分である。
暖炉で炎がぱちぱちと燃え上がっていた。
ドン、と。
木製のテーブルに皿が置かれた音がした。顔を上げると、厳つい後見人が無理無理に笑っていた。
「ほ、ほら、食え! つらいときは食うのが一番だ!」
つらくなんかないよ、がっかりしているんだよ――そう思うも体は正直なようで、ぐうと鳴った。
甘味のある香ばしい匂いにまたもや唾を飲む。
とりあえず食べよう。
決意したあとの行動は速かった。
食卓につき、手をあわせる。そしてシャギアと共に一礼。
「「いただきます」」
食べ物への感謝を忘れない。これはグリムの教えだ。ソアはこれまで一度も食前の礼を欠かしたことがなかった。
胡椒がかかった肉を口へ運ぶ。確かな歯応えが頼もしい。じゅわり、と肉汁が滲み頬が自然と緩んでしまう。その美味しさを堪能したあと、肉の側に添えられてある野菜を噛み締めれば、後味もくどくない。シャギアは顔に似つかわしくなく、意外と料理が上手いのだ。
幸せそうなソアを見ながら、彼はおもむろに口を開く。
「なんでまた、人間と魔獣が仲悪いことに興味持ったんだ? 授業で話されたんか?」
ソアは何とも言えず首を振る。初めて話した相手が魔獣でした、なんて言えるはずがない。あのリリアという子が魔獣だとわかってしまったら、恐らく大変なことになる……と思う。
そもそもなんであの場所にいたのだろう。あそこは学校だ。魔獣がいていい所ではないはずである。
しかし、ソアは学校に魔獣がいると伝えることに少し抵抗があった。
あの少女があくまで人間の姿をしていたからか。
初めて話した相手だったからか。
あるいは――、
「んあー、どうした? なんかあったんか?」
そんな彼の葛藤などわかるはずもなく、シャギアは追求する。みるみるうちにソアの顔は曇っていき、しまいには俯いてしまう。厳つい人に迫られても平常心を保てるほどまだ彼は強くないのだった。
そんな様子を見て、シャギアが口から肉を落とす。ぼたり、と肉は皿の上ではなく床に落ちてしまった。もう食べれないだろう。彼もまた、幼子の扱い方をあまり知らないのだった。無念。
ゆっくりとソアは肉を咀嚼する。しかし、それはもはや美味しくなかった。変な粘着感が気持ち悪い。何なのだろうと考えてみたが、すぐに自分の鼻水だと気がついた。涙こそ出なかったものの、鼻水は垂れ流しだったのである。無念。
暖炉の炎が心なしか小さくなっていた。
◆
ぐじゅぐしゅ、と鼻水をすすりながらソアは床に着く。何故か夕食から止まらなかったのだ。
小窓から満天の星空が見える。ちりばめられた星のひとつひとつが煌々と輝く。赤い星、青い星、白い星……ソアは星空が好きであった。飽きることもなく、どんどん吸い込まれていくように見いってしまう。自然と瞼がおりていった。
――記憶が、瞬く。
思い出すのは、一面の黄金。この世の光景とは思えないほど綺麗で神々しい景色。金の宮殿や色とりどりの生花は、まるで神の住まい。流れる滝には砂金が混ざり、光を受けてきらきらと輝く。
真上には、湖畔のように青い空が広がる。遥か遠くに見える一本の線は、雲との境界線。ここは、雲よりも高い位置にあるのだった。
――脳が、痛む。
刹那の間を置いて、景色が一瞬で変わる。虚構のような暗闇に、禍々しい紅蓮の炎が踊る。金の建物は崩され、ただの塊と化していた。生花は焼かれ黒い灰が宙を舞う。徹底的な破壊の光景。
場面は移る。
見えるのは懐かしい天井。いつも寝起きしていた場所だ。体を起こし、下へ向かう。おはよう、と迎えてくれる二つの人影。お父さんとシャールだ。温かな家族の記憶。
お父さんが立ち上がり、こちらに歩いてくる。優しげに頭を撫でられたあと、抱き上げられ目線が同じ位置になる。変わらない緑の瞳に安堵する。生きている。目の前で、お父さんが動いている。笑っている。抱いてくれている。やっぱり、お父さんは……お父さんは――――
ふいにお父さんの唇が動いた。
その動きから放たれるであろう言葉を予測し、全力で抗う。やめて。いやだ。そんなこと言わないでよ……。しかし、残酷にもその言葉はソアの耳に届いてしまう。
――ごめんな、と。
眠りに着くソアの瞼に、一筋の光が流れた。
それはまるで、夜空に煌めく流れ星のようだった。
◆
翌朝、いつもより少し早い時間に家を出たソアは、朝日を受けながら『空動車』を運転していた。朝の風が心地よい。眠気を飛ばす寒さが、頭を冴えさす。
もう一度あの子と話したい。
そう思った彼の気持ちは、昨日よりも軽かった。自然と鼻歌まで歌ってしまう。
しかしメロディも何もないので、本人以外にはただ鼻をすすっただけに聞こえてしまうかもしれないが。
――きっと仲良くなれるはず。
人と話すというのは、それだけで楽しいことである。またそれを想像することも楽しい。あの子は何が好きなんだろう。家はどこら辺にあるのかな。幾らでも話題はある。
心は知らず知らず弾んでいた。
学校についたソアは、級友――になるであろう子――を見かけると歩み寄った。昨日と同じワンピースを着ているが、紫の髪は結っておらず肩までおろしていた。翡翠の瞳が自分を捉える。
「……ッ」
やはり少女は、驚いたように身体を強張らせた。ソアはやや固い笑顔で挨拶する。鼓動が速まり、頬が熱い。出した声も少し掠れていた。
「お、おはよ」
そして、俯く。呼吸が苦しい。空気が鉛を含んでいるかのように重い。数秒にも満たない時間。しかし体感ではずっと長く感じた。
「…………おはよ」
甘い囁くような声が頭上から聞こえた。何故か許しを得たみたいな気持ちになり、勢いよく顔を上げてしまう。目線が、絡んだ。深海のような蒼と、宝石のような翠。両方とも綺麗な色だった。
彼女が魔獣など、もうどうでもよかった。
「……なんで、大人にいわなかったの?」
甘い声がためらいがちに耳を叩く。
ソアは目をぱちくりさせ、
「そういえば、なんでだろうかな」
言われて気づく。確かにシャギアに言いたくなかったが、その理由については考えていなかった。
「え……」
「い、いや……なんとなく言わなかったけど、理由はわかんないっていうか、なんというか……」
語尾がだんだんひ弱になっていく。彼の目も、あっちやこっちにいったりと焦点があわない。
そんな様子にリリアは思わず笑ってしまう。
可愛らしい笑みだ。
「なまえ、何ていうの?」
笑みを崩さないままでそう問われる。
答えようとして、止まった。シャギアからはみだりに本名を名乗るな、と強く言われている。しかしこの少女は、初めて出来た友達だ。嘘はつきたくない。果たして言うのか否か、どうすればいいのか――。
「…………ソア……」
結局、言わないことにした。シェルは焔を壊した一族だ。魔獣と同じく嫌われているだろう。いや、焔は魔獣にとっても神のような存在であったはずだ。もしかすると嫌われているかもしれない。
後ろめたさを残しつつも、ソアは無理矢理話題を変える。
「そ、それよりさ! どこらへんに住んでるの?」
今度はリリアが黙りこむ番だった。目を伏せ、桜色の唇をぷるぷると震わせる。やっと口が開いたかと思えばすぐに閉じ、その繰り返しを何度かする。ソアは悟った。この質問はしちゃダメだった、と。
慌てて話題変換。
「ね、ねぇ! 好きな食べ物は?」
しかし、リリアはまたもや黙ってしまう。理由は少し考えると明白だった。彼女は魔獣だ。人間とは食生活も違うのだろう。
「………………」
「………………」
沈黙だけがこの場を征する。
だが、巨乳のリーベが登場し授業が始まる。助かった。
――話すのって、難しいなあ。