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よろしくお願いします。
空が堕ちた。
黒く塗り潰された雲が禍々しく光を喰う。神々しくあった聖地は紅蓮の炎に蹂躙されてしまった。天空に座していた人々が、冷たい死へと呑まれていく。
空が紅い。
少年はただその光景を見ていた。少年の容貌は王子様を連想させる服装で、まだ五つほどの幼さであった。
しかし、その少年の心には何も映っていない。何も無い。零になってしまっていた。
目の前で、父が逆賊と罵られながら十字架にはりつけられ心臓を串刺しにされる。
目の前で、母が腸をひきちぎられて悶絶する。
――が、少年は何も思わない。否、何も思えない。なぜなら、
心が無いから。
感情を奪われたから。
少年は、何も思えぬ。ただ起こる事象をその瞳に焼き付けるのみ。
灼熱の炎があたりを覆った。死神たちが跋扈する最中、少年は多くの死を感じる。そして自分の番が来たと感じた。
銀色の鎖を体に巻きつけ、黒装束に深々とフードを被った死神が、黄金に煌く鎌を持ってやってきた。
はらりとフードがとれる。覗いた顔は一筋の厳しさも見えるが、幼い子供を持っていそうな優しい顔立ちで、瞳は大きかった。エメラルドの瞳は濡れている。その男は少年を見ると破顔した。「シャール……」とぽつりと呟く。
その男の声は震えていた。
恐れるように。
あるいは、思い出さないように。
「これも因果か……」
震える唇は、止まることを知らない。なぜだ、レベッカ……とまたもやぼそりと呟く。それは自分自身に言い聞かせているようでもあった。
少年は言葉を口にする。単なる好奇心だった。普通の好奇心だった。
「なんでおじさんたちはひどいことするの?」
その男はかなり面食ったようで、言葉を失う。少年の質問は続く。無機質な声で。
「おじさんのなまえは?」
長めの間が空いた。周りの喧騒と風が止んだように思える。特殊な静寂が二人の周りを征した。
「おじさんのなまえはなんてゆうの?」
そこでやっと我に帰り、男は慌てて答えた。
「グ、グリム……」
「じゃあグリムさん。なんでこんなことするの? なんでおかあさんをころしたの? なんでおとうさんをころしたの?」
この男に課せられていた命令は、ここに住む人々の抹殺。老若男女問わず殲滅の命令であった。はっきりいって、不要な会話はするべきでない。それも、殺さなければならない相手とは。
しかし、グリムは答えた。
「それが運命だからだよ」
「ならぼくもそのうんめいでころされちゃうんだね」
「……ッ!」
少年は目を瞑った。死を待つように。
グリムは、震える手で鎌を振りかざす。首を狙って一気に……一気に――――目の前に転がるのは少年の首、無表情にこちらを見つめる。幼き命を奪った負い目に、深淵のような憎悪が注がれる。無機質な声が囁く。なんで殺したの。なんで殺さなきゃならないの。なんで死ななきゃならないの。なんで。なんで、なんでなんでなんでなんで……首から下を失い、輝きが褪せた目は無言で訴えてくる。奪ってしまった。幼い子どもの命を。なんの罪も無い子どもを――殺した。
「う……うあ、ああ、あぁ、ぁぁぁあああああッ」
からん、とグリムの腕から黄金の鎌が落ちた。やけに大きく反響する。
幻想だ。今見たものはまやかしだ。少年は依然として目を瞑っているままだ。
「どうしたの、ころさないの?」
「き、君は死ぬのが怖くないのか?」
「うんめいなんでしょ? なら、しかたないよ」
それは衝動的な行動だった。グリムは少年を抱きしめていた。熱い激情が身体を駆け巡る。運命など関係ない。変える。変えてやる。自分にならそれができる。
運命を変えることによって生じるメリットとデメリットなんて、気にしていられなかった。目前にいる儚げな子どもをどうして殺すことができよう。見殺しにすることもできるはずがない。
「……?」
「君は死ななくていい。死んじゃあだめだ」
「でもうんめいなんじゃないの?」
「そんな運命なんてどうだっていい! 僕は君を助けたいんだ!」
このとき感情を持たない少年に何かが生まれた。それがなんなのかはわからない。ただ、温かくて心地よくて、絶対に手放したくないものなのは間違いない。空っぽの器には、なんでも入る。黒にだろうが白にだろうが簡単に染まっていく。零はずっと零のままではない。一つずつでも歩んで行く。
「ありがとう……」
グリムはもう一度強く抱きしめると少年と共に闇の中に消えていった。
――聖歴、四二五年、時の王パール・シェルを筆頭とするシェル一族は『死神』によって滅ぼされた。