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断罪劇の夜会で給仕をしていた私だけが、真犯人のグラスの位置を覚えています

掲載日:2026/10/13

大広間で今、ひとりのご令嬢が罪人にされようとしている。

それが間違いだと知っているのは、たぶん、私だけだ。


「セラフィーナ・アルヴェーン! リリアンのグラスに薬を入れたのは、貴様だな!」


第二王子レオポルト殿下の声が、楽団の演奏を断ち切った。


殿下の腕の中では、男爵家のリリアン・ハート嬢がぐったりともたれている。

珊瑚色の口紅。桃色の羽根扇。顔色は少し青いけれど、殿下の袖をつかむ指には、しっかり力が入っていた。


「皆も見ただろう! この女が、リリアンにグラスを手渡すところを!」


ざわめきが、大広間を一周した。


「見ましたわ。たしかに、セラフィーナ様が……」

「リリアン嬢は、それを飲んですぐに倒れたのだろう?」

「まさか、公爵令嬢ともあろう方が」

「ハート男爵家といえば、近ごろ食器の商いで急に羽振りが良くなった家だろう。公爵家としては、面白くなかったのでは」

「殿下のお心が、あちらに移っておられたのは、皆知っていたものね」


視線の真ん中に立つセラフィーナ様は、何も言わなかった。

銀糸のドレスの背筋をまっすぐ伸ばし、紫の瞳で、ただ殿下を見返している。


私は、壁際で銀盆を持ったまま、息を止めていた。


給仕は、客の会話に加わらない。

それが王宮の規則だ。私たちは壁の一部で、燭台と同じだ。目に入っても、誰も気に留めない。


だから――私は、全部見ていた。


この広間に並ぶ二十四の小卓。三本の柱。壁際の給仕は、私を入れて十二人。

今夜の客は、およそ三百。酒は白の発泡酒が一種類だけ。


それだけの数を、四年間、毎晩のように数えてきた。

目をつぶっても、どの卓に誰のグラスが残っているか、たいてい言える。


◇


王宮配膳部、給仕係。ノーラ。十九歳。勤めて四年目。


来月、四年目の給仕のうち一人だけが、「銀盆」を授かる。夜会の主卓を任される、熟練給仕の証だ。

給仕長のマルタ夫人は、今夜の働きぶりで決めると言っていた。


一度も粗相をせず、一度も客と口をきかず、今夜を終える。

それが、私の今夜の目標だった。


ついさっきまでは。


「宮廷医、結果を」


殿下が振り返る。白髭の宮廷医ボルド先生が、一つのグラスを掲げて進み出た。


「リリアン嬢がお倒れになった際に、手にしておられたグラスです。底に残った酒から、眠り薬の類が少量出ました。お命に障るほどではございませんが」


「聞いたか!」


殿下の声が、さらに大きくなる。


「セラフィーナが渡したグラスを、リリアンが飲んだ。そのグラスに薬が入っていた。これ以上、何の証が要る!」


筋は通っている。

渡すところは皆が見た。倒れるところも皆が見た。グラスから薬も出た。


ただ一つ。

その二つのグラスが、同じものだという点を除いては。


◇


給仕は、グラスを覚える。


誰に何を渡したか。誰がどこに置いたか。何口飲んで、どこに口紅の跡が残ったか。

覚えていないと、空のグラスを下げ損ねる。飲みかけのグラスを下げて、お客様に睨まれる。四年もやれば、嫌でも頭に入る。


だから、今夜のことも覚えている。


八時四十分。

二度目の巡回で、柱の陰の小卓に、グラスが一つ置き忘れられているのを見つけた。


下げようとして指を伸ばしたとき、指先が、少しだけ引っかかった。

今夜の酒は、氷室で冷やした白の発泡酒だ。グラスごと冷やしてあって、持つと指先がひやりとする。

なのにそのグラスは、ぬるかった。注がれている量も、私たちの注ぎ方より指一本ぶん少なかった。

脚の付け根の花の紋も、いつもより、どこか寂しく見えた。燭台の陰のせいだろうと、そのときは気にしなかった。


「それは、わたしのよ」


桃色の羽根扇が、横からひらりと私の手を遮った。

珊瑚色の唇が、にこりと笑う。


「あとで飲むの。触らないで」


「失礼いたしました」


私は頭を下げて、その場を離れた。

給仕はお客様に逆らわない。だから、そのことは忘れていた。


八時五十二分。

私の銀盆から、セラフィーナ様がグラスを一つ取った。右から三番目。

それをリリアン様に差し出すところを、私は真横で見ていた。


「お疲れでしょう。冷たいものでもいかが」


セラフィーナ様は、そう言った。

リリアン様は、両手で嬉しそうに受け取った。


そして、口をつけないまま、柱の陰の小卓へ歩いていった。


九時五分。

三度目の巡回で、私はその小卓を片付けた。

置かれていたグラスは、一つだけ。縁から指一本ぶんまで注がれたまま、口紅の跡はどこにもなかった。私の注いだ量と、ぴったり同じだった。


ぬるいグラスは、もうそこになかった。


リリアン様が倒れたのは、九時十分。

手にしていたのは、珊瑚色の跡がくっきり付いた、半分ほど空いたグラスだった。


◇


「……セラフィーナ、何か言うことはないのか」


殿下の問いに、セラフィーナ様は、静かに首を振った。


「わたくしは、薬など入れておりません。申し上げられるのは、それだけですわ」


「白々しい!」


殿下が一歩踏み出す。

周りの貴族たちも、もう誰もセラフィーナ様の味方をしようとはしない。


「婚約は破棄する。そして父上に申し上げ、貴様を北の修道院へ――」


心臓が、うるさかった。


給仕は、客の会話に加わらない。

口を開けば、銀盆は来ない。それどころか、明日から王宮にいられないかもしれない。


でも。


あのグラスは、私の盆から出たのだ。

右から三番目。私が注いで、私が運んで、私が下げた。

私のグラスで、罪のない人が裁かれようとしている。


それを黙って見ているのは、給仕の仕事ではない。


気づいたら、足が前に出ていた。


「――恐れながら」


自分の声が、大広間にやけに大きく響いた。


何百という目が、一斉に私を見た。

燭台が、急に口をきいたような顔だった。


「ノーラ!」


人垣の向こうで、給仕長のマルタ夫人が、真っ青になって首を振っている。

戻りなさい。唇がそう動いていた。


「なんだ、お前は。給仕ごときが口を挟むな」


殿下が、汚いものを見るように眉をひそめた。


「下がれ。誰か、この娘をつまみ出せ」


そのとき、私の横に、長い影が並んだ。


「お待ちを、殿下」


近衛騎士の制服。黒髪を短く刈った、背の高い青年。

カイル・ヴェルナー様だった。夜会の警備のたびに、私の盆から、いつもいちばん端のグラスを取っていく人だ。


「この娘は、今夜ずっとこの広間で給仕をしておりました。我々近衛より、よほど近くで客を見ております」


カイル様は、殿下にまっすぐ向き直った。


「証言を聞くのに、身分は要りますまい。それとも、聞いては困ることでも?」


殿下の顔が、ぴくりと引きつった。


「……いいだろう。言ってみろ。ただし、くだらんことを言えば、ただでは済まさん」


カイル様が、ちらりと私を見た。

小さく、うなずいてくれた。


私は銀盆を、両手で胸の前に抱え直した。


◇


「セラフィーナ様がリリアン様にお渡ししたグラスは、八時五十二分、私の盆から取られたものです。右から三番目でした」


「それがどうした。だからその女が――」


「リリアン様は、そのグラスに口をつけておられません」


ざわ、と空気が揺れた。


「受け取ったあと、そのまま、あちらの柱の陰の小卓に置かれました」


私は、柱の方を手で示した。


「九時五分に、私がその小卓を片付けました。グラスは、縁から指一本ぶんまで入ったままでした。私の注いだ量と同じです。口紅の跡も、ありませんでした」


「嘘よ!」


リリアン様が、殿下の腕から顔を上げて叫んだ。


「わたし、ちゃんと飲んだわ! それで、急に目の前が暗くなって……」


「下げたグラスは、まだ洗っておりません」


私は、続けた。


「夜会の途中で下げたグラスは、洗い場の棚に、卓ごとに並べて置きます。洗うのは、夜会が終わってからです。お客様がお忘れ物をなさったとき、すぐお返しできるように」


カイル様が、すっと手を上げた。


「おい、二人来い。洗い場へ行け。給仕長殿、案内を願えますか」


マルタ夫人は、一瞬だけ私を睨んだ。

それから、大きく息を吐いて、スカートの裾をつまんだ。


「……柱の小卓なら、第七卓の列です。こちらへ」


近衛騎士二人を連れて、マルタ夫人が早足で広間を出ていく。


待つあいだ、誰も口をきかなかった。

楽団員たちは楽器を膝に置いたまま固まっている。燭台の蝋が、じじ、と小さく鳴った。


リリアン様の扇が、ぱた、ぱた、と落ち着きなく動いていた。


私は、銀盆を持つ手に力を込めた。

盆の上には、まだ注いだばかりのグラスが六つ残っている。揺らしたら、こぼれる。


「大丈夫か」


隣で、カイル様が、ほとんど唇を動かさずに言った。


「震えております」


「盆は揺れていないぞ」


「盆を揺らさないのは、仕事ですので」


カイル様が、喉の奥で短く笑ったのが聞こえた。

それで、少しだけ、指の力が抜けた。


セラフィーナ様は、さっきから一度も姿勢を崩していない。

ただ、手袋の指先が、ドレスの襞をきつく握りしめていた。銀糸に、細い皺が寄っている。

この人も、怖いのだ。それでも、顔には出さない。


殿下は、落ち着きなく広間の扉と、リリアン様の顔を見比べていた。


やがて、足音が戻ってきた。


騎士の一人が、銀の盆に一つのグラスを載せて運んでくる。

宮廷医のボルド先生が、それを受け取った。燭台の光にかざす。


「……縁まで、ほとんど満ちております。口紅の跡は、ありませんな」


先生は、グラスの酒をほんの少し小皿に移し、持参の小瓶の液を一滴垂らした。

皆が、息を詰めて小皿を覗き込む。


色は、変わらなかった。


「薬は、入っておりません」


大広間が、どっと揺れた。


「では、セラフィーナ様が渡したグラスは……」

「飲まれてもいない、ということか?」


殿下が、青い顔でリリアン様を見下ろした。


「リリアン、これは……」


「ち、違うの、レオポルト様! きっと、その給仕が、グラスをすり替えたのよ! あとから、新しいのを注いで置いたんだわ!」


リリアン様が、私を指さした。


なるほど。

そう来るだろうとは、分かっていた。


◇


「では、リリアン様がお飲みになったグラスについて、申し上げます」


私は、宮廷医の先生が最初に掲げたグラスを見た。

珊瑚色の口紅の跡。半分ほど空いた中身。


「あのグラスは、私たち給仕が運んだものではございません」


「何を、ばかな。王宮の夜会で、王宮のグラス以外のものが出るはずが――」


「八時四十分、柱の小卓に、置き忘れのグラスが一つありました」


私は、殿下の言葉を遮らないように、少しだけ間を置いてから続けた。


「下げようとしたところ、リリアン様が『それはわたしのよ。あとで飲むから触らないで』とおっしゃいました」


リリアン様の扇が、ぴたりと止まった。


「そのグラスは、ぬるかったのです」


「ぬるい……?」


「今夜の発泡酒は、グラスごと氷室で冷やしてから運んでおります。広間に出て十分以上経っても、手で持てば冷たさが分かります。ですが、あのグラスは、手の温度と変わりませんでした」


ボルド先生が、手にしたグラスの脚に、そっと指を添えた。

眉が、わずかに寄る。


「それに、量が違いました。私たちは必ず、縁から指一本ぶんの高さまで注ぎます。あのグラスは、それより指一本ぶん少なかった」


「そ、そんなもの、覚えているはずがないわ!」


リリアン様の声が、裏返った。


「給仕なんて、ただ盆を持って歩いているだけじゃない! グラスの一つ一つなんて――」


「覚えております」


私は、銀盆を少しだけ持ち上げてみせた。


「今夜、私がこの盆で運んだグラスは、七十八杯です。お一人お一人、どなたに、何時ごろお渡ししたか、申し上げられます」


広間の誰かが、ごくりと喉を鳴らした。


「試しに」


カイル様が、口の端を少しだけ上げた。


「俺が今夜、何杯目を、いつ取ったか言えるか」


「九時二十分、七十一杯目です。いつもと同じ、盆のいちばん左端でした」


カイル様は、一瞬だけ目を丸くして、それから小さく吹き出した。


「……合っている。時刻まで」


「では、わしは」


人垣の前列から、恰幅のいい老紳士が身を乗り出した。たしか、東部の伯爵様だ。


「八時十分、十二杯目。九時十五分、六十八杯目。伯爵様は、二杯とも、半分を残して南の窓辺の卓に置かれました。二杯目は、奥様に見つからないよう、花瓶の陰に」


伯爵様の隣で、奥様が、ゆっくりと夫の顔を見上げた。

伯爵様は、咳払いをして一歩下がった。


どこかで、誰かが噴き出した。

どよめきが、今度ははっきりと、私の方に向いていた。


◇


「でも、それだけじゃ、わたしが何かした証拠にはならないわ!」


リリアン様は、殿下の腕にしがみついたまま叫んだ。


「給仕が、ぬるかったとか、少なかったとか、勝手に言っているだけでしょう!」


それは、そのとおりだった。

私の記憶だけでは、足りない。


だから、数を使う。


「マルタ様」


私は、戻ってきた給仕長を振り返った。


「今夜、氷室から出したグラスは、何個でしょうか」


マルタ夫人は、帳面をめくりもしなかった。


「三百六十個。毎回同じです。王宮の発泡酒杯は、ちょうど三百六十個しかございませんので」


「では、洗い場の棚と、今この広間にあるグラスを、すべて数えていただけますか」


マルタ夫人の目が、すっと細くなった。

四十年、王宮の配膳を仕切ってきた人の目だった。私が何を言いたいのか、もう分かっている。


「給仕、全員!」


マルタ夫人の声が、大広間に響いた。


「手の空いている者は、広間のグラスを一つ残らず集めなさい。お客様のお手元のものは、お声がけして、いったんお預かりするように。洗い場の者は、棚の数を数えなさい!」


壁際から、私と同じ黒い制服の給仕たちが、一斉に動き出した。


燭台が、いっせいに歩き出したようなものだった。

貴族たちは、ぽかんとして、グラスを差し出していく。


「失礼いたします。お預かりいたします」

「お、おう」

「失礼いたします。花瓶の陰のものも、お預かりいたします」

「……うむ」


給仕たちは、誰も無駄口を叩かなかった。

盆にグラスを載せ、数え、運び、また戻ってくる。広間の端から端まで、黒い制服が川のように流れていく。


私も、その流れに加わった。

小卓の下。カーテンの裾。楽団の譜面台の脇。お客様が置き忘れそうな場所は、全部知っている。


十五分後。


マルタ夫人が、洗い場から戻ってきた。

手には、数を書きつけた紙。


「洗い場の棚に、二百九十個。広間から集めたものが、六十九個。宮廷医の先生がお持ちのものが、二個」


マルタ夫人は、紙から顔を上げた。


「合計、三百六十一個です」


一つ、多い。


大広間が、水を打ったように静まり返った。


「三百六十一……?」

「王宮のグラスは、三百六十しかないのでしょう?」

「では、残りの一つは、どこから……」


ささやきが、さざ波のように広がっていく。

いくつもの視線が、宮廷医の先生の手元に吸い寄せられた。珊瑚色の跡の付いた、半分ほど空いたグラスに。


リリアン様が、殿下の腕の中で、半歩だけ後ずさった。


「ボルド先生。リリアン様がお倒れになったときのグラスの、脚の付け根を、ご覧いただけますか」


私が言うと、先生は珊瑚色の跡の付いたグラスをひっくり返した。

燭台の光に、脚の付け根の刻印をかざす。


「王宮の発泡酒杯には、十二枚の花弁の紋が刻んであります」


マルタ夫人が言った。


先生は、指で花弁を一枚ずつ数えた。


一枚。二枚。三枚。


広間じゅうが、先生の指先を見ていた。

私も、見ていた。八時四十分、燭台の陰で寂しく見えた、あの紋を。


八枚。九枚。


先生の指が、そこで止まった。

もう一度、最初から数え直す。九枚。十枚。


その先に、花弁はなかった。


「……十枚、ですな」


「十枚の花弁は、王都のハート商会が卸している杯の紋です」


今度は、人垣の後ろから声がした。

王宮の出納官だった。見覚えがある。王宮の買い付けを取り仕切る人だ。


「王宮では、一度も仕入れたことがございません。品が、少々劣りますので」


ハート商会。

リリアン様のご実家の名前だった。


◇


リリアン様の手から、羽根扇がぽとりと落ちた。


桃色の羽根が、大理石の床に散らばる。

誰も、拾わなかった。


「リリアン」


殿下が、ゆっくりと腕を離した。


「お前、自分で……」


「ち、違うの! わたしはただ、レオポルト様が、セラフィーナ様のことで悩んでいらっしゃるから、少しでもお力に……っ」


言いかけて、リリアン様は自分の口を両手でふさいだ。

もう遅かった。広間の全員が、その言葉を聞いていた。


カイル様が、ほかの近衛騎士に目で合図をする。

二人の騎士が、リリアン様の両脇に静かに立った。


「お部屋へお連れします。ご事情は、明日あらためて伺いましょう」


リリアン様は、何も言わずに連れていかれた。

珊瑚色の唇は、最後まで、震えて結ばれていた。


あとに残された殿下は、床の羽根扇と、セラフィーナ様の顔を、交互に見ていた。


「セ、セラフィーナ……その、私は……」


「殿下」


セラフィーナ様は、静かに言った。


「婚約破棄のお申し出は、たしかに承りました。父には、わたくしから伝えておきます」


「ま、待て、今のは取り消す! 騙されていたのだ、私は!」


「ええ。存じております」


セラフィーナ様は、ほんの少しだけ微笑んだ。


「ですから、取り消さないでくださいませ。騙される方の隣で、生涯、グラスの中身を疑い続けるのは、わたくしには少々、荷が重いのです」


殿下は、口を開けたまま、何も言えなかった。


それから、ふらりと、私の方を見た。


「お前……なぜ、もっと早く言わなかった」


殿下の声は、怒鳴り声ではなかった。

責める相手を探して、うろうろと迷っている声だった。


「給仕は、客の会話に加わらない決まりでございます、殿下」


私は、深く頭を下げた。


「先ほど、殿下も、そうおっしゃいました」


殿下は、何か言い返そうとして、やめた。

そのまま、誰とも目を合わせずに、広間の奥の扉から出ていった。


◇


その後のことは、翌日、洗い場で聞いた。


レオポルト殿下は、陛下から三か月の謹慎を命じられた。

婚約破棄はアルヴェーン公爵家の側から正式に受理され、公爵家には王家から詫びの品が届いたそうだ。

ハート商会は、王宮への出入りを差し止められた。


リリアン様が、その後どうなったのかは知らない。

給仕の耳に入るのは、だいたいそこまでだ。


◇


夜会が終わったのは、真夜中を少し過ぎたころだった。


客が引けた大広間で、私は最後のグラスを盆に集めていた。

三百六十個。今度は、ちゃんと揃っている。


「ノーラ」


背中から呼ばれて、私は振り返った。


マルタ夫人だった。

腕を組んで、私を見下ろしている。


「給仕は、客の会話に加わらない。私は、そう教えましたね」


「……はい」


「あなたは今夜、王子殿下の前で口を開いた。それも、何百というお客様の前で」


「はい」


私は、頭を下げた。

銀盆は、もう来ない。分かっていて、前に出たのだ。


マルタ夫人は、しばらく黙っていた。


「グラスを数えさせたのは、見事でした」


顔を上げると、マルタ夫人は、エプロンのポケットから何かを取り出していた。


小さな、銀の盆の形をした胸章だった。


「来月の授与式まで待つつもりでしたが、気が変わりました」


マルタ夫人は、それを私の制服の胸に、きっちりとまっすぐ留めた。


「規則を守る給仕は、たくさんいます。規則が何のためにあるのかを分かっている給仕は、少ない。――主卓は、あなたに任せます」


「……マルタ様」


「泣くのは、仕事が全部終わってからになさい」


マルタ夫人は、私の胸の銀の盆を、指先でとんと叩いた。


「三十年前、私も一度だけ、夜会で口を開いたことがあります。お客様の取り違えたグラスを、黙って見ていられなくて」


「……それで、どうなったのですか」


「三か月、洗い場から出してもらえませんでした」


マルタ夫人は、真顔のまま言った。


「あなたは運が良い。今夜は、正しいことを言った給仕が、ちゃんと報われる夜にしておきたかったのです。私のときの、ついでに」


マルタ夫人は、くるりと背を向けて、洗い場の方へ歩いていった。

その背中が、少しだけ笑っているように見えた。


私は、胸の銀の重さを、指先で一度だけ確かめた。

それから、盆を持ち直した。泣くのは、仕事が終わってからだ。


◇


洗い場への廊下で、もう一人に呼び止められた。


「ノーラ、と言いましたわね」


燭台の灯りの下に、セラフィーナ様が立っていた。

侍女も連れず、銀糸のドレスのまま。


私は慌てて盆を下ろし、深く礼をした。


「お顔をお上げなさい。礼を言うのは、わたくしの方です」


セラフィーナ様は、私の前まで歩いてきた。


「あの場で、わたくしの言葉を信じた者は、一人もいなかった。父でさえ、きっと半分は疑ったでしょう」


セラフィーナ様は、少しだけ首をかしげた。


「ひとつ、教えてちょうだい。七十八杯も、どうやって覚えていられるの」


「グラスは、持ち主のお顔より正直なのです」


私は、盆の上の空のグラスを一つ、灯りにかざしてみせた。


「お顔は、笑っていても、怒っていても、取り繕えます。でもグラスは、どれだけ飲んだか、どこに置いたか、どなたの唇が触れたか、全部そのまま残します。私は、それを順番に並べて覚えているだけです」


「……では、わたくしのグラスは、何と言っていたのかしら」


「九時五分、小卓の上で、一口も減らずに冷えておりました」


私は答えた。


「セラフィーナ様が、本当に冷たいものを差し上げようとなさった、と」


セラフィーナ様は、しばらく、何も言わなかった。

手袋の指先が、そっと目元に触れて、すぐに離れた。


紫の瞳が、まっすぐ私を見る。


「なぜ、声を上げたのです。黙っていれば、あなたは何も失わなかったのに」


私は少し考えて、正直に答えた。


「あのグラスは、私の盆から出たものでしたので」


「……それだけ?」


「はい。私のグラスで、誰かが間違って裁かれるのは、困ります」


セラフィーナ様は、しばらく黙っていた。

それから、ふっと、今夜はじめて声に出して笑った。


「あなたのような方が、壁際に立っていたなんて。わたくし、今まで何を見て夜会に出ていたのかしら」


「給仕は、見られないのが仕事ですので」


「では、これからはわたくしが見ることにします」


セラフィーナ様は、一歩近づいた。


「ノーラ。公爵家に来ませんか。わたくし付きの侍女として。給金は、今の三倍は出しますわ」


三倍。

一瞬、頭の中で、実家の屋根の修繕費を計算してしまった。


でも、私は首を振った。


「ありがたいお話ですが、お断りいたします」


「……理由を聞いても?」


「グラスを運ぶのが、好きなのです」


自分でも、少し間の抜けた答えだと思った。

でも、ほかに言い方が見つからなかった。


「冷えたグラスを、いちばんおいしい温度のうちに、お客様の手に届ける。空いたグラスを、気づかれないうちに下げる。それが、うまくいった夜が、好きなのです」


セラフィーナ様は、目を丸くした。

それから、扇で口元を隠して、肩を震わせた。


「振られてしまいましたわ。今夜、二度目」


セラフィーナ様の目が、私の胸の銀の盆に留まった。


「次の夜会では、主卓にいるのでしょう? わたくしのグラスは、あなたが運んでちょうだい。それ以外の方の手からは、もう受け取らないことにしますわ」


そう言って、セラフィーナ様は、銀糸の裾を揺らして廊下の奥へ去っていった。


◇


洗い場は、もう誰もいなかった。


三百六十個のグラスが、棚にずらりと並んでいる。明日の朝、みんなで洗う。

私は最後の盆を棚に置き、ふう、と息を吐いた。


「お疲れ」


振り向くと、戸口にカイル様が寄りかかっていた。

近衛の上着を脱いで、片手に、グラスを一つ持っている。


「それは」


「一つ、返し忘れた。今夜の、俺の分だ」


差し出されたグラスを、私は受け取った。

縁に口の跡はない。中身は、最初に注いだ高さから、ほとんど減っていなかった。


「……一口も、飲んでいらっしゃいませんね」


「勤務中だからな」


「では、どうして毎回、お取りになるんですか」


カイル様は、少しだけ視線を逸らした。


「盆の左端から取ると、お前が、ほんの少しだけ盆を傾けてくれるんだ。取りやすいように」


「……それは、給仕として当然の」


「知っている。ほかの客には、しないことも」


私は、言葉に詰まった。

してない、はずだ。たぶん。……いや、している。いつも、左端だけ。


「七十一杯目、九時二十分」


カイル様が、さっきの答えを繰り返した。


「俺が取った時刻まで覚えている給仕は、お前だけだ。全員の分を覚えているにしても、だ」


「全員の分を、覚えておりますので」


「そうか」


カイル様は、少し残念そうに笑った。

それから、戸口から体を起こした。


「次の夜会、主卓だそうだな。警備も主卓の後ろに付くよう、団長に頼んでおく」


「……それは、規則上、問題ないのですか」


「確認済みだ。規則が何のためにあるかは、俺も少しは分かっている」


カイル様は、片手を上げて廊下の暗がりへ消えていった。


私は、手の中のグラスを見下ろした。

冷たさはもう抜けていた。でも、ぬるいのとは、少し違う気がした。


棚の、いちばん端。

左の端に、そのグラスをそっと置いた。


次の夜会でも、私はたぶん、盆の左端を、ほんの少しだけ傾けるのだと思う。


三百六十個のグラスの中で、その一つの位置だけは、たぶん一生忘れない。


(完)


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