断罪劇の夜会で給仕をしていた私だけが、真犯人のグラスの位置を覚えています
大広間で今、ひとりのご令嬢が罪人にされようとしている。
それが間違いだと知っているのは、たぶん、私だけだ。
「セラフィーナ・アルヴェーン! リリアンのグラスに薬を入れたのは、貴様だな!」
第二王子レオポルト殿下の声が、楽団の演奏を断ち切った。
殿下の腕の中では、男爵家のリリアン・ハート嬢がぐったりともたれている。
珊瑚色の口紅。桃色の羽根扇。顔色は少し青いけれど、殿下の袖をつかむ指には、しっかり力が入っていた。
「皆も見ただろう! この女が、リリアンにグラスを手渡すところを!」
ざわめきが、大広間を一周した。
「見ましたわ。たしかに、セラフィーナ様が……」
「リリアン嬢は、それを飲んですぐに倒れたのだろう?」
「まさか、公爵令嬢ともあろう方が」
「ハート男爵家といえば、近ごろ食器の商いで急に羽振りが良くなった家だろう。公爵家としては、面白くなかったのでは」
「殿下のお心が、あちらに移っておられたのは、皆知っていたものね」
視線の真ん中に立つセラフィーナ様は、何も言わなかった。
銀糸のドレスの背筋をまっすぐ伸ばし、紫の瞳で、ただ殿下を見返している。
私は、壁際で銀盆を持ったまま、息を止めていた。
給仕は、客の会話に加わらない。
それが王宮の規則だ。私たちは壁の一部で、燭台と同じだ。目に入っても、誰も気に留めない。
だから――私は、全部見ていた。
この広間に並ぶ二十四の小卓。三本の柱。壁際の給仕は、私を入れて十二人。
今夜の客は、およそ三百。酒は白の発泡酒が一種類だけ。
それだけの数を、四年間、毎晩のように数えてきた。
目をつぶっても、どの卓に誰のグラスが残っているか、たいてい言える。
◇
王宮配膳部、給仕係。ノーラ。十九歳。勤めて四年目。
来月、四年目の給仕のうち一人だけが、「銀盆」を授かる。夜会の主卓を任される、熟練給仕の証だ。
給仕長のマルタ夫人は、今夜の働きぶりで決めると言っていた。
一度も粗相をせず、一度も客と口をきかず、今夜を終える。
それが、私の今夜の目標だった。
ついさっきまでは。
「宮廷医、結果を」
殿下が振り返る。白髭の宮廷医ボルド先生が、一つのグラスを掲げて進み出た。
「リリアン嬢がお倒れになった際に、手にしておられたグラスです。底に残った酒から、眠り薬の類が少量出ました。お命に障るほどではございませんが」
「聞いたか!」
殿下の声が、さらに大きくなる。
「セラフィーナが渡したグラスを、リリアンが飲んだ。そのグラスに薬が入っていた。これ以上、何の証が要る!」
筋は通っている。
渡すところは皆が見た。倒れるところも皆が見た。グラスから薬も出た。
ただ一つ。
その二つのグラスが、同じものだという点を除いては。
◇
給仕は、グラスを覚える。
誰に何を渡したか。誰がどこに置いたか。何口飲んで、どこに口紅の跡が残ったか。
覚えていないと、空のグラスを下げ損ねる。飲みかけのグラスを下げて、お客様に睨まれる。四年もやれば、嫌でも頭に入る。
だから、今夜のことも覚えている。
八時四十分。
二度目の巡回で、柱の陰の小卓に、グラスが一つ置き忘れられているのを見つけた。
下げようとして指を伸ばしたとき、指先が、少しだけ引っかかった。
今夜の酒は、氷室で冷やした白の発泡酒だ。グラスごと冷やしてあって、持つと指先がひやりとする。
なのにそのグラスは、ぬるかった。注がれている量も、私たちの注ぎ方より指一本ぶん少なかった。
脚の付け根の花の紋も、いつもより、どこか寂しく見えた。燭台の陰のせいだろうと、そのときは気にしなかった。
「それは、わたしのよ」
桃色の羽根扇が、横からひらりと私の手を遮った。
珊瑚色の唇が、にこりと笑う。
「あとで飲むの。触らないで」
「失礼いたしました」
私は頭を下げて、その場を離れた。
給仕はお客様に逆らわない。だから、そのことは忘れていた。
八時五十二分。
私の銀盆から、セラフィーナ様がグラスを一つ取った。右から三番目。
それをリリアン様に差し出すところを、私は真横で見ていた。
「お疲れでしょう。冷たいものでもいかが」
セラフィーナ様は、そう言った。
リリアン様は、両手で嬉しそうに受け取った。
そして、口をつけないまま、柱の陰の小卓へ歩いていった。
九時五分。
三度目の巡回で、私はその小卓を片付けた。
置かれていたグラスは、一つだけ。縁から指一本ぶんまで注がれたまま、口紅の跡はどこにもなかった。私の注いだ量と、ぴったり同じだった。
ぬるいグラスは、もうそこになかった。
リリアン様が倒れたのは、九時十分。
手にしていたのは、珊瑚色の跡がくっきり付いた、半分ほど空いたグラスだった。
◇
「……セラフィーナ、何か言うことはないのか」
殿下の問いに、セラフィーナ様は、静かに首を振った。
「わたくしは、薬など入れておりません。申し上げられるのは、それだけですわ」
「白々しい!」
殿下が一歩踏み出す。
周りの貴族たちも、もう誰もセラフィーナ様の味方をしようとはしない。
「婚約は破棄する。そして父上に申し上げ、貴様を北の修道院へ――」
心臓が、うるさかった。
給仕は、客の会話に加わらない。
口を開けば、銀盆は来ない。それどころか、明日から王宮にいられないかもしれない。
でも。
あのグラスは、私の盆から出たのだ。
右から三番目。私が注いで、私が運んで、私が下げた。
私のグラスで、罪のない人が裁かれようとしている。
それを黙って見ているのは、給仕の仕事ではない。
気づいたら、足が前に出ていた。
「――恐れながら」
自分の声が、大広間にやけに大きく響いた。
何百という目が、一斉に私を見た。
燭台が、急に口をきいたような顔だった。
「ノーラ!」
人垣の向こうで、給仕長のマルタ夫人が、真っ青になって首を振っている。
戻りなさい。唇がそう動いていた。
「なんだ、お前は。給仕ごときが口を挟むな」
殿下が、汚いものを見るように眉をひそめた。
「下がれ。誰か、この娘をつまみ出せ」
そのとき、私の横に、長い影が並んだ。
「お待ちを、殿下」
近衛騎士の制服。黒髪を短く刈った、背の高い青年。
カイル・ヴェルナー様だった。夜会の警備のたびに、私の盆から、いつもいちばん端のグラスを取っていく人だ。
「この娘は、今夜ずっとこの広間で給仕をしておりました。我々近衛より、よほど近くで客を見ております」
カイル様は、殿下にまっすぐ向き直った。
「証言を聞くのに、身分は要りますまい。それとも、聞いては困ることでも?」
殿下の顔が、ぴくりと引きつった。
「……いいだろう。言ってみろ。ただし、くだらんことを言えば、ただでは済まさん」
カイル様が、ちらりと私を見た。
小さく、うなずいてくれた。
私は銀盆を、両手で胸の前に抱え直した。
◇
「セラフィーナ様がリリアン様にお渡ししたグラスは、八時五十二分、私の盆から取られたものです。右から三番目でした」
「それがどうした。だからその女が――」
「リリアン様は、そのグラスに口をつけておられません」
ざわ、と空気が揺れた。
「受け取ったあと、そのまま、あちらの柱の陰の小卓に置かれました」
私は、柱の方を手で示した。
「九時五分に、私がその小卓を片付けました。グラスは、縁から指一本ぶんまで入ったままでした。私の注いだ量と同じです。口紅の跡も、ありませんでした」
「嘘よ!」
リリアン様が、殿下の腕から顔を上げて叫んだ。
「わたし、ちゃんと飲んだわ! それで、急に目の前が暗くなって……」
「下げたグラスは、まだ洗っておりません」
私は、続けた。
「夜会の途中で下げたグラスは、洗い場の棚に、卓ごとに並べて置きます。洗うのは、夜会が終わってからです。お客様がお忘れ物をなさったとき、すぐお返しできるように」
カイル様が、すっと手を上げた。
「おい、二人来い。洗い場へ行け。給仕長殿、案内を願えますか」
マルタ夫人は、一瞬だけ私を睨んだ。
それから、大きく息を吐いて、スカートの裾をつまんだ。
「……柱の小卓なら、第七卓の列です。こちらへ」
近衛騎士二人を連れて、マルタ夫人が早足で広間を出ていく。
待つあいだ、誰も口をきかなかった。
楽団員たちは楽器を膝に置いたまま固まっている。燭台の蝋が、じじ、と小さく鳴った。
リリアン様の扇が、ぱた、ぱた、と落ち着きなく動いていた。
私は、銀盆を持つ手に力を込めた。
盆の上には、まだ注いだばかりのグラスが六つ残っている。揺らしたら、こぼれる。
「大丈夫か」
隣で、カイル様が、ほとんど唇を動かさずに言った。
「震えております」
「盆は揺れていないぞ」
「盆を揺らさないのは、仕事ですので」
カイル様が、喉の奥で短く笑ったのが聞こえた。
それで、少しだけ、指の力が抜けた。
セラフィーナ様は、さっきから一度も姿勢を崩していない。
ただ、手袋の指先が、ドレスの襞をきつく握りしめていた。銀糸に、細い皺が寄っている。
この人も、怖いのだ。それでも、顔には出さない。
殿下は、落ち着きなく広間の扉と、リリアン様の顔を見比べていた。
やがて、足音が戻ってきた。
騎士の一人が、銀の盆に一つのグラスを載せて運んでくる。
宮廷医のボルド先生が、それを受け取った。燭台の光にかざす。
「……縁まで、ほとんど満ちております。口紅の跡は、ありませんな」
先生は、グラスの酒をほんの少し小皿に移し、持参の小瓶の液を一滴垂らした。
皆が、息を詰めて小皿を覗き込む。
色は、変わらなかった。
「薬は、入っておりません」
大広間が、どっと揺れた。
「では、セラフィーナ様が渡したグラスは……」
「飲まれてもいない、ということか?」
殿下が、青い顔でリリアン様を見下ろした。
「リリアン、これは……」
「ち、違うの、レオポルト様! きっと、その給仕が、グラスをすり替えたのよ! あとから、新しいのを注いで置いたんだわ!」
リリアン様が、私を指さした。
なるほど。
そう来るだろうとは、分かっていた。
◇
「では、リリアン様がお飲みになったグラスについて、申し上げます」
私は、宮廷医の先生が最初に掲げたグラスを見た。
珊瑚色の口紅の跡。半分ほど空いた中身。
「あのグラスは、私たち給仕が運んだものではございません」
「何を、ばかな。王宮の夜会で、王宮のグラス以外のものが出るはずが――」
「八時四十分、柱の小卓に、置き忘れのグラスが一つありました」
私は、殿下の言葉を遮らないように、少しだけ間を置いてから続けた。
「下げようとしたところ、リリアン様が『それはわたしのよ。あとで飲むから触らないで』とおっしゃいました」
リリアン様の扇が、ぴたりと止まった。
「そのグラスは、ぬるかったのです」
「ぬるい……?」
「今夜の発泡酒は、グラスごと氷室で冷やしてから運んでおります。広間に出て十分以上経っても、手で持てば冷たさが分かります。ですが、あのグラスは、手の温度と変わりませんでした」
ボルド先生が、手にしたグラスの脚に、そっと指を添えた。
眉が、わずかに寄る。
「それに、量が違いました。私たちは必ず、縁から指一本ぶんの高さまで注ぎます。あのグラスは、それより指一本ぶん少なかった」
「そ、そんなもの、覚えているはずがないわ!」
リリアン様の声が、裏返った。
「給仕なんて、ただ盆を持って歩いているだけじゃない! グラスの一つ一つなんて――」
「覚えております」
私は、銀盆を少しだけ持ち上げてみせた。
「今夜、私がこの盆で運んだグラスは、七十八杯です。お一人お一人、どなたに、何時ごろお渡ししたか、申し上げられます」
広間の誰かが、ごくりと喉を鳴らした。
「試しに」
カイル様が、口の端を少しだけ上げた。
「俺が今夜、何杯目を、いつ取ったか言えるか」
「九時二十分、七十一杯目です。いつもと同じ、盆のいちばん左端でした」
カイル様は、一瞬だけ目を丸くして、それから小さく吹き出した。
「……合っている。時刻まで」
「では、わしは」
人垣の前列から、恰幅のいい老紳士が身を乗り出した。たしか、東部の伯爵様だ。
「八時十分、十二杯目。九時十五分、六十八杯目。伯爵様は、二杯とも、半分を残して南の窓辺の卓に置かれました。二杯目は、奥様に見つからないよう、花瓶の陰に」
伯爵様の隣で、奥様が、ゆっくりと夫の顔を見上げた。
伯爵様は、咳払いをして一歩下がった。
どこかで、誰かが噴き出した。
どよめきが、今度ははっきりと、私の方に向いていた。
◇
「でも、それだけじゃ、わたしが何かした証拠にはならないわ!」
リリアン様は、殿下の腕にしがみついたまま叫んだ。
「給仕が、ぬるかったとか、少なかったとか、勝手に言っているだけでしょう!」
それは、そのとおりだった。
私の記憶だけでは、足りない。
だから、数を使う。
「マルタ様」
私は、戻ってきた給仕長を振り返った。
「今夜、氷室から出したグラスは、何個でしょうか」
マルタ夫人は、帳面をめくりもしなかった。
「三百六十個。毎回同じです。王宮の発泡酒杯は、ちょうど三百六十個しかございませんので」
「では、洗い場の棚と、今この広間にあるグラスを、すべて数えていただけますか」
マルタ夫人の目が、すっと細くなった。
四十年、王宮の配膳を仕切ってきた人の目だった。私が何を言いたいのか、もう分かっている。
「給仕、全員!」
マルタ夫人の声が、大広間に響いた。
「手の空いている者は、広間のグラスを一つ残らず集めなさい。お客様のお手元のものは、お声がけして、いったんお預かりするように。洗い場の者は、棚の数を数えなさい!」
壁際から、私と同じ黒い制服の給仕たちが、一斉に動き出した。
燭台が、いっせいに歩き出したようなものだった。
貴族たちは、ぽかんとして、グラスを差し出していく。
「失礼いたします。お預かりいたします」
「お、おう」
「失礼いたします。花瓶の陰のものも、お預かりいたします」
「……うむ」
給仕たちは、誰も無駄口を叩かなかった。
盆にグラスを載せ、数え、運び、また戻ってくる。広間の端から端まで、黒い制服が川のように流れていく。
私も、その流れに加わった。
小卓の下。カーテンの裾。楽団の譜面台の脇。お客様が置き忘れそうな場所は、全部知っている。
十五分後。
マルタ夫人が、洗い場から戻ってきた。
手には、数を書きつけた紙。
「洗い場の棚に、二百九十個。広間から集めたものが、六十九個。宮廷医の先生がお持ちのものが、二個」
マルタ夫人は、紙から顔を上げた。
「合計、三百六十一個です」
一つ、多い。
大広間が、水を打ったように静まり返った。
「三百六十一……?」
「王宮のグラスは、三百六十しかないのでしょう?」
「では、残りの一つは、どこから……」
ささやきが、さざ波のように広がっていく。
いくつもの視線が、宮廷医の先生の手元に吸い寄せられた。珊瑚色の跡の付いた、半分ほど空いたグラスに。
リリアン様が、殿下の腕の中で、半歩だけ後ずさった。
「ボルド先生。リリアン様がお倒れになったときのグラスの、脚の付け根を、ご覧いただけますか」
私が言うと、先生は珊瑚色の跡の付いたグラスをひっくり返した。
燭台の光に、脚の付け根の刻印をかざす。
「王宮の発泡酒杯には、十二枚の花弁の紋が刻んであります」
マルタ夫人が言った。
先生は、指で花弁を一枚ずつ数えた。
一枚。二枚。三枚。
広間じゅうが、先生の指先を見ていた。
私も、見ていた。八時四十分、燭台の陰で寂しく見えた、あの紋を。
八枚。九枚。
先生の指が、そこで止まった。
もう一度、最初から数え直す。九枚。十枚。
その先に、花弁はなかった。
「……十枚、ですな」
「十枚の花弁は、王都のハート商会が卸している杯の紋です」
今度は、人垣の後ろから声がした。
王宮の出納官だった。見覚えがある。王宮の買い付けを取り仕切る人だ。
「王宮では、一度も仕入れたことがございません。品が、少々劣りますので」
ハート商会。
リリアン様のご実家の名前だった。
◇
リリアン様の手から、羽根扇がぽとりと落ちた。
桃色の羽根が、大理石の床に散らばる。
誰も、拾わなかった。
「リリアン」
殿下が、ゆっくりと腕を離した。
「お前、自分で……」
「ち、違うの! わたしはただ、レオポルト様が、セラフィーナ様のことで悩んでいらっしゃるから、少しでもお力に……っ」
言いかけて、リリアン様は自分の口を両手でふさいだ。
もう遅かった。広間の全員が、その言葉を聞いていた。
カイル様が、ほかの近衛騎士に目で合図をする。
二人の騎士が、リリアン様の両脇に静かに立った。
「お部屋へお連れします。ご事情は、明日あらためて伺いましょう」
リリアン様は、何も言わずに連れていかれた。
珊瑚色の唇は、最後まで、震えて結ばれていた。
あとに残された殿下は、床の羽根扇と、セラフィーナ様の顔を、交互に見ていた。
「セ、セラフィーナ……その、私は……」
「殿下」
セラフィーナ様は、静かに言った。
「婚約破棄のお申し出は、たしかに承りました。父には、わたくしから伝えておきます」
「ま、待て、今のは取り消す! 騙されていたのだ、私は!」
「ええ。存じております」
セラフィーナ様は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「ですから、取り消さないでくださいませ。騙される方の隣で、生涯、グラスの中身を疑い続けるのは、わたくしには少々、荷が重いのです」
殿下は、口を開けたまま、何も言えなかった。
それから、ふらりと、私の方を見た。
「お前……なぜ、もっと早く言わなかった」
殿下の声は、怒鳴り声ではなかった。
責める相手を探して、うろうろと迷っている声だった。
「給仕は、客の会話に加わらない決まりでございます、殿下」
私は、深く頭を下げた。
「先ほど、殿下も、そうおっしゃいました」
殿下は、何か言い返そうとして、やめた。
そのまま、誰とも目を合わせずに、広間の奥の扉から出ていった。
◇
その後のことは、翌日、洗い場で聞いた。
レオポルト殿下は、陛下から三か月の謹慎を命じられた。
婚約破棄はアルヴェーン公爵家の側から正式に受理され、公爵家には王家から詫びの品が届いたそうだ。
ハート商会は、王宮への出入りを差し止められた。
リリアン様が、その後どうなったのかは知らない。
給仕の耳に入るのは、だいたいそこまでだ。
◇
夜会が終わったのは、真夜中を少し過ぎたころだった。
客が引けた大広間で、私は最後のグラスを盆に集めていた。
三百六十個。今度は、ちゃんと揃っている。
「ノーラ」
背中から呼ばれて、私は振り返った。
マルタ夫人だった。
腕を組んで、私を見下ろしている。
「給仕は、客の会話に加わらない。私は、そう教えましたね」
「……はい」
「あなたは今夜、王子殿下の前で口を開いた。それも、何百というお客様の前で」
「はい」
私は、頭を下げた。
銀盆は、もう来ない。分かっていて、前に出たのだ。
マルタ夫人は、しばらく黙っていた。
「グラスを数えさせたのは、見事でした」
顔を上げると、マルタ夫人は、エプロンのポケットから何かを取り出していた。
小さな、銀の盆の形をした胸章だった。
「来月の授与式まで待つつもりでしたが、気が変わりました」
マルタ夫人は、それを私の制服の胸に、きっちりとまっすぐ留めた。
「規則を守る給仕は、たくさんいます。規則が何のためにあるのかを分かっている給仕は、少ない。――主卓は、あなたに任せます」
「……マルタ様」
「泣くのは、仕事が全部終わってからになさい」
マルタ夫人は、私の胸の銀の盆を、指先でとんと叩いた。
「三十年前、私も一度だけ、夜会で口を開いたことがあります。お客様の取り違えたグラスを、黙って見ていられなくて」
「……それで、どうなったのですか」
「三か月、洗い場から出してもらえませんでした」
マルタ夫人は、真顔のまま言った。
「あなたは運が良い。今夜は、正しいことを言った給仕が、ちゃんと報われる夜にしておきたかったのです。私のときの、ついでに」
マルタ夫人は、くるりと背を向けて、洗い場の方へ歩いていった。
その背中が、少しだけ笑っているように見えた。
私は、胸の銀の重さを、指先で一度だけ確かめた。
それから、盆を持ち直した。泣くのは、仕事が終わってからだ。
◇
洗い場への廊下で、もう一人に呼び止められた。
「ノーラ、と言いましたわね」
燭台の灯りの下に、セラフィーナ様が立っていた。
侍女も連れず、銀糸のドレスのまま。
私は慌てて盆を下ろし、深く礼をした。
「お顔をお上げなさい。礼を言うのは、わたくしの方です」
セラフィーナ様は、私の前まで歩いてきた。
「あの場で、わたくしの言葉を信じた者は、一人もいなかった。父でさえ、きっと半分は疑ったでしょう」
セラフィーナ様は、少しだけ首をかしげた。
「ひとつ、教えてちょうだい。七十八杯も、どうやって覚えていられるの」
「グラスは、持ち主のお顔より正直なのです」
私は、盆の上の空のグラスを一つ、灯りにかざしてみせた。
「お顔は、笑っていても、怒っていても、取り繕えます。でもグラスは、どれだけ飲んだか、どこに置いたか、どなたの唇が触れたか、全部そのまま残します。私は、それを順番に並べて覚えているだけです」
「……では、わたくしのグラスは、何と言っていたのかしら」
「九時五分、小卓の上で、一口も減らずに冷えておりました」
私は答えた。
「セラフィーナ様が、本当に冷たいものを差し上げようとなさった、と」
セラフィーナ様は、しばらく、何も言わなかった。
手袋の指先が、そっと目元に触れて、すぐに離れた。
紫の瞳が、まっすぐ私を見る。
「なぜ、声を上げたのです。黙っていれば、あなたは何も失わなかったのに」
私は少し考えて、正直に答えた。
「あのグラスは、私の盆から出たものでしたので」
「……それだけ?」
「はい。私のグラスで、誰かが間違って裁かれるのは、困ります」
セラフィーナ様は、しばらく黙っていた。
それから、ふっと、今夜はじめて声に出して笑った。
「あなたのような方が、壁際に立っていたなんて。わたくし、今まで何を見て夜会に出ていたのかしら」
「給仕は、見られないのが仕事ですので」
「では、これからはわたくしが見ることにします」
セラフィーナ様は、一歩近づいた。
「ノーラ。公爵家に来ませんか。わたくし付きの侍女として。給金は、今の三倍は出しますわ」
三倍。
一瞬、頭の中で、実家の屋根の修繕費を計算してしまった。
でも、私は首を振った。
「ありがたいお話ですが、お断りいたします」
「……理由を聞いても?」
「グラスを運ぶのが、好きなのです」
自分でも、少し間の抜けた答えだと思った。
でも、ほかに言い方が見つからなかった。
「冷えたグラスを、いちばんおいしい温度のうちに、お客様の手に届ける。空いたグラスを、気づかれないうちに下げる。それが、うまくいった夜が、好きなのです」
セラフィーナ様は、目を丸くした。
それから、扇で口元を隠して、肩を震わせた。
「振られてしまいましたわ。今夜、二度目」
セラフィーナ様の目が、私の胸の銀の盆に留まった。
「次の夜会では、主卓にいるのでしょう? わたくしのグラスは、あなたが運んでちょうだい。それ以外の方の手からは、もう受け取らないことにしますわ」
そう言って、セラフィーナ様は、銀糸の裾を揺らして廊下の奥へ去っていった。
◇
洗い場は、もう誰もいなかった。
三百六十個のグラスが、棚にずらりと並んでいる。明日の朝、みんなで洗う。
私は最後の盆を棚に置き、ふう、と息を吐いた。
「お疲れ」
振り向くと、戸口にカイル様が寄りかかっていた。
近衛の上着を脱いで、片手に、グラスを一つ持っている。
「それは」
「一つ、返し忘れた。今夜の、俺の分だ」
差し出されたグラスを、私は受け取った。
縁に口の跡はない。中身は、最初に注いだ高さから、ほとんど減っていなかった。
「……一口も、飲んでいらっしゃいませんね」
「勤務中だからな」
「では、どうして毎回、お取りになるんですか」
カイル様は、少しだけ視線を逸らした。
「盆の左端から取ると、お前が、ほんの少しだけ盆を傾けてくれるんだ。取りやすいように」
「……それは、給仕として当然の」
「知っている。ほかの客には、しないことも」
私は、言葉に詰まった。
してない、はずだ。たぶん。……いや、している。いつも、左端だけ。
「七十一杯目、九時二十分」
カイル様が、さっきの答えを繰り返した。
「俺が取った時刻まで覚えている給仕は、お前だけだ。全員の分を覚えているにしても、だ」
「全員の分を、覚えておりますので」
「そうか」
カイル様は、少し残念そうに笑った。
それから、戸口から体を起こした。
「次の夜会、主卓だそうだな。警備も主卓の後ろに付くよう、団長に頼んでおく」
「……それは、規則上、問題ないのですか」
「確認済みだ。規則が何のためにあるかは、俺も少しは分かっている」
カイル様は、片手を上げて廊下の暗がりへ消えていった。
私は、手の中のグラスを見下ろした。
冷たさはもう抜けていた。でも、ぬるいのとは、少し違う気がした。
棚の、いちばん端。
左の端に、そのグラスをそっと置いた。
次の夜会でも、私はたぶん、盆の左端を、ほんの少しだけ傾けるのだと思う。
三百六十個のグラスの中で、その一つの位置だけは、たぶん一生忘れない。
(完)




