確定してしまった僕と彼女たちの距離
僕が出会った女性たちとの関係に、僕がある判断を下したことでお互いの距離が確定してしまう、連作ショートラブストーリーです。
この本は、
うまくいかなかった恋の話ではない。
正しかったかどうかも、
いまさら確かめない。
ただ、
あのとき確かにあった
僕と彼女たちの距離が、
どう確定していったのかを
後から測り直している。
選ばなかった言葉や、
遅れてしまった沈黙が、
いまの僕をどこに立たせているのか。
そのことだけを、
静かに書き留めた。
この本の出来事には、
いくつかの読みが成立する。
でも、どれも決定打ではない。
『駅まで送る』
大学に入ってすぐの頃だった。
隣の席になった彼女を、部屋に招いた。
誘ったというより、
そういう流れになった、という方が近い。
彼女は、特に迷う様子もなく来てくれた。
部屋で話しているうちに、
彼女の言葉の端に、
少しだけ別の気配が混じることがあった。
一晩、という言葉を、
僕は頭の中で一度だけ思い浮かべた。
でも、そこで止まった。
夕方になり、
近くのレストランで食事をした。
大学のこと。
地元のこと。
どちらでもない話。
店を出たとき、
僕は自然に言った。
「駅まで送るよ」
そのとき、
彼女は一瞬だけ立ち止まり、
僕の顔を見た。
「……がっかりした?」
責める感じではなかった。
確認、
あるいは、
最後の合図のような。
僕は答えなかった。
言葉が見つからなかった、
というより、
言葉を、選ばなかった。
二人で歩き、
改札の前で別れた。
それだけだった。
もし、
あのとき別の言葉を選んでいたら、
という想像はできる。
でも、
それを書き始めると、
この話は別のものになる。
それから何年も経って、
同窓会の知らせの中で、
彼女の名前を見た。
メガバンクの役員。
仕事のできる女性の成功例として、
記事と写真が載っていた。
学生の頃の面影は、
ほとんど残っていなかった。
美しく、
自立していて、
僕とは別の場所にいる人だった。
幸せそうだ、と思った。
あの夜、
駅まで送らずに、
部屋へ戻っていたら、
どうなっていただろうか。
想像はできる。
いくつも。
でも、
ここでは書かない。
現実には、
僕は駅まで送った。
それだけが、
確定している。
その確定の上に、
今の僕がいる。
『電話しなかった』
新人研修の最初の日だった。
グループ分けのとき、
一人の同期の女性が言った。
「私、小林さんの隣がいい!」
一瞬、
部屋がざわついた。
冗談とも、本気ともつかない声。
でも、彼女は僕を見ていて、
目を逸らさなかった。
結局、
隣の席になった。
研修のあいだ、
彼女はよくこちらを見ていた。
何か話すたび、
少し顔が赤くなって、
すぐに視線を落とした。
気づかないふりをするのは、
簡単だった。
研修が終わって、
数人でラーメンを食べに行った。
他愛のない話。
仕事の話。
どうでもいい話。
彼女は終始、
僕の方を向いていた。
それも、
見なかったことにした。
彼女の電話番号は、
僕の手帳にあった。
誘えば、
断られなかったと思う。
その確信があったから、
余計に、
電話しなかった。
その後も、
顔を合わせることはあった。
世間話だけをした。
天気の話。
忙しさの話。
それ以上の言葉は、
どこにも行かなかった。
当時の僕は、
はっきりそう思っていた。
僕と関わると、相手は不幸になる。
根拠はなかった。
でも、疑いもしなかった。
もし、
あのとき電話していたら、
どうなっていただろうか。
想像はできる。
うまくいった可能性も、
途中で別れた可能性も、
どちらも。
でも、その想像は、
今の僕がしているだけだ。
あのときの僕は、
誘わなかった。
それが、
自分にできる
唯一の誠実さだと
思っていた。
その判断の上に、今の僕がいる。
『余裕がない』
津支店に、
同期の女性が配属された。
一緒にいて、
気持ちがほどける相手ではなかった。
最初から、
距離を取っていたと思う。
入行して五年が経った頃、
彼女から電話があった。
梅を見に行かないか、
という誘いだった。
他の同期の女性二人も一緒だと聞いて、
少し安心した。
四人で梅を見に行った。
天気はよかった。
花も、きちんと咲いていた。
彼女は、
銀行を辞めて公務員になることになった、
と言った。
特に驚きはしなかった。
そういう選択をしそうな人だと思った。
帰りの車の中で、
彼女は後部座席から言った。
「小林くん、私と付き合ってみない?」
軽い調子だった。
計算も、含まれていたと思う。
少し間があって、
僕は答えた。
「仕事が大変で、
女性と付き合う余裕なんかないよ」
言い訳だったかもしれない。
でも、嘘ではなかった。
彼女は、
それ以上何も言わなかった。
車の中に、
変な空気も残らなかった。
彼女の提案は、打算的だった。
僕は、最初から彼女に好意を
持っていなかった。
その二つを、当時の僕は
きちんと分けて考えていた。
彼女を傷つけたかもしれない。
でも、
罪悪感はなかった。
選ばなかった、
というより、
最初から選択肢に入れていなかった。
今も、あの答えを
言い直したいとは思わない。
あれは、
その時点の僕にとって
いちばん正確な返事だった。
その判断の上に、
今の僕がいる。
『合宿に行った理由』
会社を辞めて、時間が余った。
何かをしようと思って、
ジョギングを始めた。
ホームページで
地元のランニングサークルを見つけて、
入会した。
十歳年下の女性と、
たまたま並んで走るようになった。
走りながら話すと、
不思議と会話が続いた。
呼吸の合う速度で、
言葉も続いた。
いつの間にか、
他の人と話していると、
彼女が露骨に不機嫌になることに
気づいた。
サークルの合宿の案内が出たとき、
僕は行かない、と言った。
すると彼女は、少し俯いて言った。
「行かれないんですね?楽しみにしてたのに」
その顔を見て、
僕は途中から予定を変え、
合宿に合流した。
彼女は、目を見開いて驚いていた。
夜のバーベキューで、
僕は彼女に話しかけられなかった。
周りは騒がしく、
理由はいくらでもあった。
次の日の朝、
僕は、何のために来たんだろう、
と思って俯いていた。
そのとき、彼女が声をかけてくれた。
昼食の時間になって、
僕は聞いた。
「隣に座ってもいいですか?」
彼女は笑って、
「いいですよ。一緒に食べましょう」
と言った。
何を食べたのかは、
覚えていない。
ただ、彼女がずっと僕を見ていて、
僕も彼女を見つめ返していた。
周囲のメンバーが、
顔を赤くしたり、
目を逸らしたり、
手で顔を覆ったり、
驚いたまま固まっていたこと。
それだけは、
はっきり覚えている。
次の練習で会ったとき、
彼女はなぜか、
そっけなかった。
練習後、
勇気を出して誘った。
彼女は驚いて、
「今から用事あります!」
と言い、逃げるように帰った。
次の練習で、
僕はあえて彼女に声をかけず、
別の女性と話した。
楽しく話した。笑った。
彼女も、それを見ていたと思う。
その次の練習で、
彼女に声をかけた。
返事はなかった。
それから、
一言も話していない。
その後、
僕は膝を怪我して、
走れなくなった。
ランニングクラブもやめた。
彼女との接点は、
完全に失われた。
あのとき、
彼女を誘わなければ、
どうなっていただろう。
ランニングクラブの仲間として、
今も普通に話していたかもしれない。
それとも、
いずれ同じところに辿り着いたのかもしれない。
わからない。
ただ一つ、
確かなことがある。
彼女は、
この人生でたった一人、
僕に「心が通い合う」という感覚を
はっきり残した人だった。
今も、どうすればよかったのかは
わからない。
そのわからなさの上に、
今の僕がいる。
僕は サヨナラを 何度言えば いいのだろう?
僕には まだ見ていない 景色がある。
サヨナラしか言えなかった僕から彼女たちへの伝言




