第39話 アリス・イン・ワンダーワールド
この世界は、人間と――ワンダーと呼ばれる、ふしぎな生きものとが共存している。
人間にそれぞれの生活圏があるように、ワンダーにも、彼らが本来暮らすための場所が存在する。
それは、深い森の奥や広い海の底といった自然の中だったり、長いあいだ人の手を離れた遺跡や廃屋だったり、あるいは、現実とは少し位相のずれた、異次元へとつながるゲートの先だったり――。
場所や形はさまざまだが、共通しているのは、そこが現実とは異なる法則をもった、ふしぎな空間だということだった。
そうしたワンダーの生息域は、かつては「領域」「ゾーン」「エリア」など、呼び方が定まっていなかった。
しかしやがて、ワンダー、ウィザードと同じ頭文字を持つ言葉――“ワールド”という呼び名が、自然と使われるようになっていった。
英語圏では、現実世界の“ワールド”と区別するため、“ワンダーワールド”と呼ばれているらしい。
ブルーが暮らしていた、天空の楽園――ドラゴピアも、もちろん、そのワールドのひとつだ。
そして、ワールドへの入口は、アリスたちが暮らす、このふしぎ町にも、いくつも存在している。
ウィザードたちは、そうした場所へ足を踏み入れ、自分のパートナーを鍛えたり、新しいワンダーと出会い、仲間にしたりしているのだ。
――もっとも。
そこは、決して安全な場所ではない。
強力なワンダーとの戦いや、予測不能な環境の変化に巻き込まれ、最悪の場合、命を落とすことさえある。
だからこそ、ワンダーバトルをたしなむ者すべてが、気軽にワールドへもぐるわけではなかった。
「……と、いうことよ。わかった、ブルー?」
アリスは、説明の締めくくりに、すっと人さし指を立てて、目の前の空色ドラゴンを見つめた。
『う、うん……』
ブルーは、こくりとうなずく。
思っていた以上に話のスケールが大きく、胸の奥が、少しざわついていた。
緋羽莉は、そんなふたりのやりとりを、少し後ろに立ち、両手を背中で組んだまま聞いている。
春の光を受けて、緋色のポニーテールがやわらかく揺れた。
黄色いリボンがきらりと瞬き、そのたびに、あかるい気配が周囲にひろがる。
長い脚をそろえて立つ姿は堂々としているのに、表情はどこか無邪気で、年相応のあどけなさが残っていた。
――聞くことに徹する、その姿勢そのものが、彼女のやさしさを物語っている。
今回は――助言禁止。
緋羽莉は、ぐっと背すじを伸ばし、小さく息を整えた。
白いフリルのついた服が、かすかに揺れて止まる。
大きなひとみでアリスの横顔を見つめ、何も言わずにうなずく。
教えてあげたいことは山ほどある。
けれど、アリスとの約束を守るため、緋羽莉はその気持ちを胸の奥にしまいこみ、つややかなくちびるを、きゅっと結んでいた。
アリスとの約束は、緋羽莉にとって、なによりも大切なものなのだ。
『つまり……ドラゴピアみたいな場所が、世界には、たくさんあるってことだね?』
「そういうこと」
ブルーの胸に、驚きと感動がいっせいに広がった。
はじめて地上に落ちてきたときも思ったが、外の世界は、想像していたより、ずっと広い。
そして――その広い世界を、もっと見てみたい。
知らない景色を。知らないワンダーを。
ワールド……早く、行ってみたい!
そのとき。
「それで、まずは、どのワールドに行くか――もう決めてるの?」
緋羽莉が、こらえきれずに、ぷはっと声をもらした。
つま先が、わずかに前へ出る。
肩からかけた小さなポーチが、動きに合わせて、こつんと音を立てた。
肺活量には自信がある。それ以上に、アリスと話したいという気持ちが、あふれてしまったのだ。
これくらいなら、助言にはあたらない。
そう判断したのか、アリスも、とがめることなく答える。
「そうだね。ちょうど今は春まっさかりだし……あそこがいいかな。わたしが、仲間にしたい子も、そこにいるみたいだし」
「春……なるほど。あそこだね!」
緋羽莉は、まゆをきりっと上げ、楽しそうにほほえんだ。
その表情には、場所を知っている者ならではの確信と、なにより、冒険へのわくわくが詰まっている。
「うん、あそこ」
アリスも、同じ笑顔でうなずいた。
『あ、あそこ……って?』
当然、この町にまだ不慣れなブルーは、首をかしげるしかない。
「それは――行ってみてのおたのしみ!」
アリスは、にっと笑って宣言する。
「じゃ、レッツゴー!」
「おー!」
アリスが勢いよく左手を突き上げると、緋羽莉は、さらに元気いっぱいに右手を突き上げた。
ブルーも、それにならうように、おずおずと右手を上げながら、
『お、お~……』
と、小さく声をあげる。
☆ ☆ ☆
アリスたちは住宅街を抜け、市街地へとやってきた。
土曜日――休日ということもあって、ブルーがはじめてこの町をおとずれたときより、通りはさらににぎわっている。
人の流れにうっかり飲みこまれてしまわないように、ブルーはアリスの細長い脚のそばを離れず、ぴったりとついて歩いた。
もしはぐれてしまってもすぐ助けられるようにと、少し後ろから目を光らせていた緋羽莉は、そんなふたりの距離感を見て、どこかほほえましそうに見守っている。
そして自宅から歩くこと約20分。
アリスたちは、ついに目的地へとたどり着いた。
そこは、街の一角にぽっかりと空いた、四角く区切られた空き地だった。
中には、みごとな満開の桜の花を咲かせた木が何本も立っており、ブルーは思わず息をのむ。
やわらかな春の光を受けて、淡い桃色の花びらがきらきらと輝いていた。
しかし足もとの地面に目を向けると、草はボーボーに生い茂っており、ゆっくり座ってお花見、というわけにはいかなさそうだ。
一見すると、ただの手入れされていない空き地。
だが――ただひとつ、どうしても見逃せない、おかしな点があった。
空き地のまわり全体が、ドーム状のオーロラのような、淡く光るモヤに包まれているのだ。
『このふよふよしたモヤモヤは……なに?』
桜の鑑賞を終えたブルーが、困惑したようすでたずねた。
「これはね、空間の境界線なの」
アリスは、空き地を包むオーロラを見上げながら、少し緊張をふくんだ声で説明する。
「このオーロラの向こう――空き地の中は、こことはちがう“別の空間”になってるのよ」
『じゃあ、つまりそれが……“ワールド”ってこと?』
「そういうことだね!」
そう答えたのは、アリスではなく緋羽莉だった。
背の高い彼女が、ずいっとブルーの顔をのぞきこむようにして、にこっと笑う。
近づきすぎたことに気づいたのか、緋羽莉は少しだけ首をかしげて距離を取った。
それでも、笑顔は変わらない。
大きな黄色いひとみがまっすぐで、ウソのない輝きをたたえている。
その笑顔に、ブルーの胸の奥の緊張が、すっとほどけていった。
この先には、ドラゴピアのような、ワンダーたちの暮らす領域がひろがっている。
そう思うと、ブルーはごくりとつばを飲みこんだ。
胸の奥で、期待と不安が入り混じって、どくんと音を立てた気がする。
「ちょっと失礼」『ガアー』
そのときだった。
キャップにジャケット姿の男性が、足もとに紫色のアヒル型ワンダーを連れて、空き地へと近づいてきた。
アリスたちは道をゆずる。
男性とそのパートナーは、ためらうことなくオーロラの中へと足を踏み入れた。
すると――
『えっ……!』
なんということだろう。
男性とアヒルの姿が、バッと音もなく消えてしまったのだ。
空き地の中に入ったようすも見えない。
まるで、最初からそこにいなかったかのように。
そうしているあいだにも、ほかのウィザードたちとパートナーのワンダーが、次々とオーロラをくぐっていく。
そして、全員が同じように、その姿を消していった。
ぼうぜんと立ち尽くすブルーに、アリスがくすくすと笑いながら声をかける。
「びっくりした? 言ったでしょ、あの中は、別の空間になってるって」
たしかに、そう聞いてはいた。
けれど、言葉で理解するのと、目の前で見るのとでは、まるでちがう。
理由を知りたい。ほんとうのことを、この目で確かめたい。
そう思った、そのとき――
「気になるなら、中に入ってみようよ!」
緋羽莉が、あかるく背中を押すように言った。
「そうすれば、ぜーんぶ、わかるから!」
その言葉に、ブルーの覚悟は決まった。
「それじゃ……行くよ!」
アリスはキリッとした表情で、壁のように立ちはだかるオーロラへ、左手をさし出す。
とぷん。
水の中に指を入れたような、やわらかい感触。
次の瞬間、アリスの左手は、オーロラの中へと溶けるように消えた。
ブルーは思わず目を見開く。
そしてアリスは、「ええい、ままよ」とでも言いたげに一歩踏みだし、オーロラの中へと体を預けた。
その姿が完全に消えたのを見て、ブルーはもう一度驚きながらも、すぐにあとを追って飛びこむ。
緋羽莉はそんなふたりを見て、どこか頼もしそうにほほえむと、軽快な足取りで続いた。
オーロラを前にしても、緋羽莉の歩みは迷わない。
けれど、アリスの背中に向ける視線だけは、ほんの少しやわらいだ。
――そして。
アリスとブルーの目の前にひろがっていたのは……
一面の大草原と、無数の桜の木が咲き誇る、まったく別の世界だった。




