第37話 あのあとの緋羽莉ちゃん
夕焼けに染まる道を進むその姿は、遠目にもすぐわかるほど、すらりと伸びていた。
背すじは自然とまっすぐで、歩幅は大きいのに乱れがなく、長い脚がリズムよく前へと運ばれていく。
ミニスカートの裾が揺れるたび、鍛えられた太ももが一瞬だけ夕陽を受けて、健康的なつやを帯びた。
力強さとやわらかさが同居したその歩き方は、見ているだけで気持ちが明るくなる。
名前のとおり、緋色のポニーテールを羽のようになびかせ、ジャスミンを思わせる香りをまとった女の子――緋羽莉は、夕焼け空の下を歩いていた。
ポニーテールはくせっ毛まじりで、ゆるやかな波を描きながら跳ねている。
結び目の黄色いリボンが、その動きに合わせてちょこんと揺れ、まるで本人の機嫌を映しているみたいだ。
大きな黄色いひとみは閉じられていても、その表情はどこか無防備で、年相応のあどけなさが残っていた。
すん……すん、すんすん……。
目を閉じ、ほほをほんのり染めながら、右手のひらに残るにおいを、うっとりと確かめるように胸いっぱい吸いこむ。
さっきまで、大親友のアリスの左手をにぎっていた手。
そこに残るのは、バニラのような上品でやさしい甘さ。
落ち着いていて、安心できて――まさに、アリスにふさわしい香りだった。
目を閉じたまま歩くのは、本来なら危ない。
けれど、緋羽莉のずば抜けた身体能力と研ぎ澄まされた感覚があれば、だれかやなにかにぶつかる心配はまったくない。
やがて、ゆっくりと目を細めて開き、右手を持ち上げる。
大きく、しっかりとした自分の手のひらを、じいっと見つめた。
その手は同年代の子よりもずっと大きく、指も長い。
けれど、節くれだった感じはなく、指先までなめらかで、きちんと手入れされているのがわかる。
料理や家事、だれかの手を引くために使われてきた手――
力があるのに、やさしさを忘れない、緋羽莉らしい手だった。
――ここに、さっきまでアリスの手があった。
その事実だけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
まだ、にぎっていた感触が残っている気がして、緋羽莉はその余韻に、そっと身をゆだねた。
細くて、小さくて、繊細な手。
ほんの少し力を入れただけで、壊れてしまいそうなほど、かよわくて。
ひんやりとしているのに、ふしぎと心地いい。
そんなアリスの手を、何度も何度も思い出してしまう。
アリスとのつきあいは長い。
その手も、もう何度もにぎり慣れているはずなのに、緋羽莉は毎回、初めて触れたときのような気持ちになる。
とくに、高学年になったばかりの最近は、その想いがいっそう強くなっていた。
(……また、いちだんと、きれいになったなあ……)
胸の中で、ぽつりとつぶやく。
それは、手だけの話じゃない。
髪も、顔立ちも、声も、しぐさも――アリスのすべてだ。
ほぼ毎日会っているはずなのに、それでも日ごとに、アリスは少しずつ大人びて、かわいくなっている。
そんなふうに感じてしまう自分に、緋羽莉は小さく笑った。
そのことを友だちに話すと、「ひいき目だよ」とか、「気のせいだって」と言われる。
それでも、緋羽莉は信じていた。
この胸にめばえる感覚は、きっとまちがっていないのだと。
そう思った瞬間、緋羽莉は自分の姿も、ほんの少しだけ意識していた。
トレーニングを重ねた体は引き締まっていて、服の上からでもわかるほど、姿勢がいい。
動くたびに自然と整う体のラインは、本人が気にする以前に、周囲の目を引いてしまう。
最後に、指先にちゅ、とやわらかなくちびるを触れさせてから、緋羽莉は右手を下ろす。
顔を少し伏せ、「ふう」と小さく息を吐いた。
肺活量が多いせいか、吐息は思ったよりも深く、静かな音を立ててこぼれる。
夕陽に照らされ、顔に落ちる影が揺れる。
それはまるで、胸にたまった想いを、そのまま映し出しているかのようだった。
横顔をなぞる光が、つやのある肌をやさしく照らす。
少し日に焼けたようなその色は、運動と鍛錬の積み重ねを思わせ、どこか誇らしげだ。
静かな時間の中でも、緋羽莉の存在は、まるで陽だまりのようにあたたかかった。
(……さみしいな)
自然と、そんな言葉が心に浮かぶ。
べつに、緋羽莉が孤独というわけじゃない。
スマートウォッチの中には、アカネをはじめとしたパートナーのワンダーたちがいる。
家に帰れば、あたたかな家族も待っている。
それでも――。
アリスが、今この瞬間、そばにいない。
その事実だけが、胸をきゅっと締めつける。
こんな気持ちは、今に始まったことじゃない。
アリスと友だちになってから、ずっと、毎日のように感じてきたことだ。
だからこそ、夜になると決まって通話をつなぐ。
声を聞き、少し安心してからでないと、眠りにつけなくなってしまった。
友だちに会えなくてさみしいと思うのは、きっと普通のことだ。
けれど、自分のそれは、ほかのそれとは少し違う――緋羽莉は、もう気づいている。
この気持ちの正体が、なんなのか。
体の発育に比べて、心はまだ幼くて純真なままの緋羽莉には、その答えをはっきりと言葉にすることはできなかった。
ただひとつ確かなのは――
この想いが、やさしくて、あたたかいものである、ということだけだった。
☆ ☆ ☆
緋羽莉がアリスと友だちになったのは、幼稚園の年少のときだった。
あのころのことは、いまでも驚くほどはっきりとおぼえている。
自分の組に転入してきた、金髪碧眼の異国の美少女。
名前も「アリス」。まるで絵本の中からそのまま抜け出してきたみたいな、とびきりかわいい女の子だった。
一目見た瞬間、幼い緋羽莉の体に、びりっと電流が走った。
後にも先にも、あんな感覚を味わったことはない。
胸の奥が、理由もわからないまま、ぎゅっと強くつかまれたような気がした。
――この子と、友だちになりたい。
そう思った気持ちは、迷いのない、まっすぐなものだった。
けれど、もの珍しさもあって、アリスのまわりにはいつも園児が集まっていた。
体が大きく、人に気をつかう性格の緋羽莉は、自然と一歩引いた場所にいることが多く、なかなか話しかけるきっかけをつかめずにいた。
ようやくその機会が訪れたときには、アリスのまわりから人影は消えていた。
園庭のすみっこで、たったひとり、パートナーのワンダーを胸に抱き、ぽつんとすごしていたのだ。
園児のだれも英語を話せなかったため、最初にちやほやされていたのが嘘のように、アリスは孤立してしまっていた。
けれど、緋羽莉には、そんな事情は関係なかった。
ずっと友だちになりたいと思っていた相手に、やっと話しかけられる。
そのチャンスが来た――ただ、それだけだった。
緋羽莉は、ワンダーの話題なら仲よくなれるかもしれないと考えた。
園で預かってもらっていた自分のパートナー、アカネを抱きしめ、少しだけ背筋を伸ばして、意を決して声をかけた。
「そのワンちゃん、かわいいね! でも、わたしのアカネちゃんも、すっごくかわいいよ!」
そのときのアリスの顔は、いまでも忘れられない。
言葉は通じなかった。
けれど、気持ちは確かに伝わっていた。
ぱっと花が開いたような、あたたかくて、まぶしい笑顔だった。
こうして、緋羽莉は念願だったアリスの友だちになった。
それからふたりは、毎日のようにいっしょに遊んだ。
はじめはおたがいに言葉が通じなかったが、日ごとにアリスの日本語は驚くほどの速さで上達していった。
一ヶ月もすると、ぎこちないながらも、なんとか日常会話ができるようになっていた。
アリスばかりが言葉を覚えるのは不公平だと感じて、緋羽莉も少しずつ英語を覚えはじめた。
さすがに一ヶ月で、というわけにはいかなかったが、7年が経ったいまでは、すっかりぺらぺらだ。
ふたりきりのときには、英語で話すこともあるくらいになった。
ふたりだけの秘密も、自然とたくさん増えていった。
だから緋羽莉は、アリスの家庭の事情も、心の奥の不安も、なにもかも知っている。
それを聞いたとき、緋羽莉は強く思った。
――この子を、ぜったいにひとりにはしない。
幼いころの誓いは、いまも胸の奥で、静かに、でも確かに、燃えつづけている。
☆ ☆ ☆
帰宅した緋羽莉は、夕食をすませ、日課のトレーニングを終えると、そのままお風呂へ向かった。
緋羽莉は、お風呂の時間が大好きだ。
一日の疲れを流し、頭の中をからっぽにできる、大切なひととき。
気分しだいでは、一時間近く湯船につかっていることもある。
湯気に包まれると、健康的に色づいた肌がさらにやわらいで見え、張りのあるほほがほんのり上気する。
大きなひとみを細めて息をつく、そのしぐさは、年相応のあどけなさと落ち着きが同居していて、ふしぎと目を引いてしまうだろう。
「ふんふ~ん♪ ふふっ♪」
湯船の中で、緋羽莉は思わず小さく鼻歌を口ずさんでいた。
とくに理由があるわけじゃない。
ただ、体も心もあたたまって、なんだか楽しくなってしまっただけだ。
ちゃぷん、と水面に小さな波を立てながら、つま先を動かしてみたり、指で湯をすくってみたりする。
そんな何気ない動作ひとつひとつが、本人のあずかり知らぬところで、ひどく愛らしかった。
湯船のかたわらには、スマートウォッチがそっと置いてある。
パートナーの出し入れはもちろん、いつでもアリスと通話できるようにするためだ。
今夜も、いつものようにおしゃべりしよう――そう思った。
けれど、きょうのできごとを思い返したとたん、ふと手が止まる。
いまのアリスに、どんな言葉をかければいいのか、思いつかなかった。
いつもなら、こんなふうに迷うことなんてないのに。
考えごとをしているうちに、緋羽莉は無意識にほっぺをふくらませていた。
真剣な顔をしているつもりなのに、どこか幼さが残ってしまうのは、昔からだ。
ワンダーバトルが解禁されてから、アリスの成長は、目に見えて早くなった。
強くなって、たくましくなって、それでも変わらずやさしくて――。
その変化に、うれしさと同時に、言葉にできない戸惑いを覚えていることを、緋羽莉自身はまだ、はっきりとは自覚できていなかった。
いっしょに湯船につかっているパートナーが、そんな緋羽莉の心を見透かしたように、やさしく語りかける。
――自分のやりたいことに、正直になればいいんじゃないかしら。
緋羽莉は、はっとして気づいた。
そうだ。
わたし、アリスの声が聞きたい。
迷っていた気持ちが、すっとほどける。
緋羽莉はパートナーにひとことお礼を言い、ウォッチを手に取って、アリスへコールした。
少しだけおずおずと、「こんばんは」と声をかける。
けれど声はやや大きめで、はつらつとしている。
気をつけておさえているつもりでも、元気のよさがにじみ出てしまうのが、緋羽莉らしい。
そしてすぐに、聞きなれた声が返ってくる。
「こんばんは」
いつもと変わらない、やさしい調子だった。
それだけで、緋羽莉の胸は、ほっとあたたかくなる。
思わず肩の力が抜け、湯の中で足先をぱたぱたと揺らす。
無意識のそのしぐさは、安心しきった心をそのまま映していた。
ああ、いつものアリスだ。
どんなに成長して、どんなに変わっていっても。
わたしたちの距離が、簡単に変わるわけじゃない。
そう確信できたことが、なによりうれしかった。
アリスは、緋羽莉の声の調子が少し違うことに気づき、「どうしたの?」とたずねてくる。
けれど緋羽莉は、笑うように言った。
「だいじょうぶ!」
そのひとことに、余計な説明はいらなかった。
親友同士のおしゃべりは、お風呂からあがってからも続いた。
あれほどコールするのをためらっていたのに、いざ通話が始まると、話は次から次へと弾んでいく。
通話の向こうで聞こえるアリスの声に、緋羽莉の表情は自然とやわらぐ。
気がつけば、いつもより声が弾み、言葉も少し多くなる。
自分でも理由はわからない。
ただ、アリスが相手だと、話したいことが次から次へと浮かんでくるのだ。
――この時間が、ずっと続けばいいのに。
そんな願いが、息をするみたいに自然に胸に生まれていた。
親友って、アリスって、ふしぎで、すばらしい。
緋羽莉は、そんな当たり前で、大切なことを、あらためて実感していた。
名残惜しさを胸に、通話を終え、緋羽莉はふとんの上にごろんと転がる。
倒れこむいきおいは豪快なのに、すぐに満足そうにほほえむ。
そのギャップが、彼女をよりいっそう印象的にしていた。
緋羽莉は、とても感覚が鋭いため、寝るときは一糸まとわぬ状態でないと、なかなか深く眠れない。
だから、かけぶとんも使わず、夜をすごす。
日中の服には、そんな彼女の肌にやさしい特別な素材が使われているほどだ。
それだけ、自分の体のことをよく知り、大切にしているということでもある。
それは、緋羽莉の心のあり方そのものだった。
基礎体温が高い緋羽莉にとって、夜の空気は心地よい。
それに、アリスと話したあとの心は、ぽかぽかとあたたかかった。
お風呂あがりで、よりつややかになった肌に月あかりを受けながら、窓の外のきらめく星空を見上げる。
星の光を映すひとみは大きく、きらきらと輝いている。
その表情は、強さも、やさしさも、かわいらしさも、すべてを持ち合わせた少女そのものだった。
胸の奥には、静かで満ち足りたしあわせがあった。
「……おやすみ」
だれに向けるでもなく、そうつぶやいて。
緋羽莉は、やさしい夢の世界へと、ゆっくり沈んでいくのだった。




